失われた信頼

 同じ部署で働いていたパートのTさんが突如、会社を辞めることになった。火曜日に社員のMさんからそのことを聞き、経緯を尋ねると先週の水曜日にTさんから「会社を辞めたい」と申し出があり、待遇改善(具体的は時給アップ)を約束して残るよう説得したが「男が一度口にした以上、気持ちは変わりません」と言われたという。すでに次の会社も決まっていて、10月からはそちらで働くとのことだった。

 Tさんは現在、週6日の勤務であり、時給の発生しない時刻から会社に出社して、始業の準備をやり、仕事が終わり、機械を落とすまで会社に残っている。そこまでTさんが頑張っていたのも、何とか社員になりたいと思っていたからで、そんなTさんの気持ちを聞いていたMさんは常に「頑張れば、悪いようにはしない。そのうち社員にするから」と言っていた。

 しかし、時間だけが過ぎていき、その間にTさんは社員に昇格するどころか、時給さえ上がらなかった。「社員にしてやるって言っていたのに、しびれを切らせたかな。それにしても、そこまで言ってやっているのに、普通、他の会社を受けて内定もらうか?」とMさんは語気を荒げた。

 予兆のようなものはあった。Tさんは入社当時から常にMさんのいうことを利いてきた。言葉は悪いが、まるでイエスマンのようだった。Mさんは元上司のAさんと仲が悪いとみると、Aさんのあらを探し、ご注進というようなことまでしていた。

 しかし、半月くらい前、いっしょの終業の後片付けをしているときに「繁忙期になっても時給は上がりそうにないですね。この前もそのことを訊いたらトンチンカンなことを言われましたからね」とTさんが言うのを聞いて、僕は少し驚いた。この‘トンチンカンなこと’な発言をしたのは、Mさんだったからだ。TさんがMさんのことを批判的に言うのを初めて聞いた。

 この‘トンチンカンなこと’を僕も聞いている。仕事をしながらTさんがちょっと離れたところにいるMさんに「繁忙期だけでも時給あがりませんかね?せめて1000円にならないですかね?」と訊いたのに対して、Mさんは「時給を上げたら、ボーナスがなくなるよ」と言った。Tさんが時給のことをやや冗談めかして言ったため、Mさんも冗談半分で応えたように僕には感じられた。

 「今月末で辞めちゃうんだ?」
 「そうですね。でも26日くらいまでにしたいと思っているんです」
 「次はもう決まっているんでしょ?」
 「ええ、薬品を作っている工場なんです。前も工場勤めしていたから慣れているし」
 「ここよりは待遇いいんでしょ?」
 「ええ、だけど夜勤があるから体はきついと思います。でも、ここにいても時給は全く上がらないし」
 「いつ頃、辞めようって決めたの?」
 「僕がMさんに‘繁忙期だけでも時給上がりませんかね?’って訊いて、全くトンチンカンなことを言われて、あの時にもうダメだと思いましたね」
 「ああ、覚えている。でも、辞めるって言ったら時給上げるって言ったんでしょ?」
 「そうですけど、もうそういう問題じゃなくなっていましたから」

 MさんはTさんがいつまで経っても変わらない待遇にしびれをきらせて、他の会社を受けたものと思っているが、実情は少し違った。口では耳触りのいいことを言いながら、実際は全く動かないMさんへの信頼がなくなったためだった。

 いままで付いてきた人が信頼できないと思った時、もういっしょに仕事をすることはできなかったのだろう。Mさんにも何とかしてあげたいという気持ちはあったと思う。しかし、その表現の仕方があるときは過剰であり、またある時は軽薄だった。そして、そのちょっとした一言が背中を押すことになってしまった。(2008.9.13)




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