マリッジ・ブルー

 憂鬱である。ここのところずっと憂鬱である。胃の辺りに鉛でも飲み込んでいるような感じがずっと続いているし、頭もずっしりと重い。憂鬱の原因ははっきりしている。Jさんとの新生活である。それを考えると、心が沈んでいく。

 このような気持ちはJさんといっしょに暮らすことになり、その具体的な準備を開始した一月の中旬あたりから僕の心に疫病のように広がり始めた。なかなか見つからなかった新居が急転直下で決まり、本契約、そして引越しと新しい生活を考えると不安で堪らなくなるのである。

 これからも彼女のことを愛し続けていけるのだろうか?生活のリズムは合うのだろうか?この少ない収入でそれなりに暮らしていけるのだろうか?彼女の多過ぎる親戚とうまくやっていけるのだろうか?休日の過ごし方は満足できるものになるのだろうか?といろいろな心配が心を埋め尽していく。しかし、僕の一番悲しんでいるのは自由な時間の喪失なのかもしれない。

 今までは気ままな独身生活だった。夜遅くまで起きていたり、一日ゴロゴロしていたり、休みには競馬に行って、気が向けばぶらりと当てのない旅に出たりして…。これからは、そういった時間を持つことは難しくなるだろう。もともと、あまり頑張ることの嫌いな元気のない人間が、ある程度頑張って元気を出さないといけない暮らしをしなければならない。そのことの苦痛が苦悩を生んでいるのだろう。

 男女の供に暮らす前のこのような心理をマリッジ・ブルーというそうである。悩みの深い人になると結婚式前日まで、やっぱり止めた方がいいのではないだろうかと思っていたりするらしい。積極的にそのような考えを持ったことはないが、できるだけ後送りにしたいという気持ちは心の中にあったように思う。情けないと思われるかもしれないが、何か怖いのだ。

 結婚の前だけでなく、例えば職場が変わるとか、昇進するとか環境の変わるときに心理的な不安や抑鬱感はあるものだ。本来なら喜ぶような昇進がうつ病を発症する原因になったりする。人間は環境の変化に弱いものらしい。

 しかし、このような状態になっているのは僕だけではない。Jさんも同じような心理になっているように感じる。いや、そもそも不安定な心持ちになりだしたのは彼女の方が先だった。

 去年の暮れ辺りから僕に対する要求が高まり、すぐに不満を口に出すようになった。もっと頻繁に連絡がほしいと言われ、2月の初旬に生まれて初めて携帯電話を買わされた。それで一時的に機嫌はよくなったのだけど、その後、また連絡する回数が少ない、もっと連絡がほしいと不満は強くなり、さらに「体だけが目当てなのでしょう」などと被害妄想的なことまで口走るようになった。会えば言い争いになり、会わなくても文句を言われ、疲れてしまった。

 一般的に女性は頼りない相手に対する不満や不安であり、男性は環境の変化が重圧になったり、自由への郷愁とか自分自身に関する不安が大きいらしいが、僕たちもその例に当てはまっているような気がする。よく考えてみると、ここのところ新生活の準備に追われて、ほとんどふたりで遊びに行くということがなくなった。

 ちょっと前までは会えば新居の話しになり、あちらこちらといろいろな街を歩き、不動産屋周りばっかりだったし、最近では引越しの段取りばかりで気持ちのはけ口がなくなってしまっているような気がする。

 また、よく考えてみると30代になった頃から、僕は精神的な引き篭もり状態だったのかもしれない。会社に行って仕事をして、家に帰ってご飯を食べて風呂に入って寝る、その繰り返しで、いつしか休日は疲れを取るためだけの時間になっていた。それは体力的な衰えだけではなく、心もいつしか扉をほとんど閉じていた。その扉を今、開けて暗い静かな安定を破壊されるのが怖いのだ。

 しかし、今、開けよう。どうなるかわからないが、扉を開けて外の空気とそして光を心の中に呼び込もうと思う。とにかく一歩踏出さなくては、何も変わらないし、始まらない。

 以前に農業のアルバイトをしたとき、始めて2〜3日目くらいに、あまりのきつさにこれはもうダメかもしれないと思った。それまで椅子に座ってコンピュータばかりをいじっていた人間がいきなり肉体労働をしたのだから当たり前である。そのとき、もう後戻りできないという気持ちから倒れるまでやってみようと思った。逆に言えば倒れたら辞められるだろうと考えたのである。しかし、日毎に作業に体は慣れていき、そのうち仕事が愉しくて仕方なくなった。もし、だめかも…と思ったとき辞めていたら、僕は農作業の愉しさを知らずに、ただ辛いものとだけ記憶していただろう。そう、今回もやれるだけやってみよう。

 それに、こんな気難しくて偏屈な男を受け入れてくれる女性はJさんくらいしかいないだろうから…。(2007.3.30)




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