雲の故郷 1

今から約10年前、僕は勤め始めた会社をわずか3日で辞め、長野に旅立った…

 それまで2年間勤めた会社を辞めた後、東北・北海道を約1ヶ月間旅した。家に戻ってきた僕は正社員ではなく、アルバイトという形態で働こうと思っていた。しかし、それは母親と当時付合っていた女に反対され、しぶしぶ正社員での仕事を探した。さいわいそれまでの経験を生かせる仕事が見つかり、ある中堅の会社で働くことになった。

 しかし、何故か働いているといった実感が全くなかった。周りの人達とも仕事に関する会話以外は一切なかったように思う。また仕事に対する気力もほとんどわかず、朝、会社に行って、ただ指示されたことを黙々とやり、定時のベルが鳴ると帰るという感じだった。

 こうして3日が過ぎ、4日目に僕は体の調子が悪く−風邪のような症状だったが−、それほど酷くないのに会社に電話をして休んだ。しかし、明日は会社に行こうと思っていた。その明日になったが、僕は会社に行けないどころか、休みの連絡もできなかった。無断欠勤をしてしまったのだ。

 自分で自分がわからなかった。数日前に会社をわずか2日で辞めてしまった女友達に僕は「そんなことではだめだよ。最低でも3ヵ月くらいは我慢しないと」などと偉ぶった助言をしていたくらいなのだ。

 その女性がわずか2日で会社を辞めた理由は、エレベータのボタンを率先して押すことを女というだけで強要されたからだそうだ。たまたまいっしょにエレベータに何人かで乗り合わせた時に先輩の男性社員から「こういうときは君がエレベータのボタンの近くに立って、操作してくれよ」と言われたらしい。「私は技術者として入社したのであって、エレベータガールとしてではない」というのが彼女の言い分だった。

 たったそれだけのことで東証一部上場の一流企業を2日で辞めてしまったその女性に僕は呆れる思いを当時は持ったが、今考えてみるとしっかりとした信念があったのだろうと思う。しっかりとした信念もなく、かといってアメーバのように変幻自在に自分を変えることもできない自分よりははるかに人間としてその女性の方が高い位置に存在していたように思う。

 5日目に無断欠勤をしてしまった僕はその日にたまたま発売になっていたアルバイト求人誌を買った。そして長野の高原野菜の出荷や栽培のアルバイトに行こうとかな…と考えていた。実は1ヶ月の旅行から帰った後、アルバイトをやるつもりで求人誌を買った。その時にこういう仕事が以外とたくさんあるといったことを知ったのだった。その時は‘こういう仕事もいいなあ’と憧れてはいたが、現実にやるつもりはなかった。しかし、今は気持ちがかなり傾いていた。

 夜になっても僕はまだ迷っていた。明日会社に行って無断欠勤を謝り、仕事を続けようか、それとも会社を辞め長野に働きに行こうかと…。散歩に出て家の周りを何週もしながら考えた。そして、僕は長野に行くことにした。家に帰り、親にそのことを言った。猛反対を覚悟していたが、意外なほどすんなりと了承されてしまった。

 翌日、僕は会社にお詫びの手紙を書き、退職願とともにポストに投函した。夜になってから、長野のS農園に電話を入れ、アルバイトしたいことを申し込んだ。いくつか質問された後、採用になり、2日後僕は長野に向けて車で出発した。暑さ厳しい、7月の下旬のことだった。

 農家の人とはJR小海線の野辺山駅の駐車場で待ち合わせをした。どんな人が来るのだろうかと胸がドキドキした。まだ時間があるので車のシートを倒してぼんやりとしていると、自分がここにこうしているということが遠い世界の出来事のように思われ、現実感がいまひとつわかず不思議な感覚に囚われた。しかし、その一方では自分は長野まで働きに来てしまったのだなとの意識もあり、ささやかな開放感もあった。

 そんな思いにふけっていたら、トントンと車の窓ガラスを叩かれた。農家のおじさんが迎えに来てくれたのだ。品川ナンバーの車は僕のものしか停められていなかったようで、すぐにわかったらしい。お互いに自己紹介をして、おじさんが運転する車の後について行った。

 おじさんの農家は駅から車で15分くらいの距離だった。そこでおばさん(といっても当時35歳くらいだった)、おじさんの両親であるおじいさんとおばあさん、そして同じバイト仲間のU君を紹介された。

 おじさんは比較的小柄だが、がっちりとした体つきをした、ちょっととぼけた雰囲気のある人で、おばさんは体の大きい人で背丈はたぶんおじさんよりも高かった。顔は日本人離れしていて、白人の血が混じっているような感じできれいな人だった。おじいさんとおばあさんは小さく萎びていた。おじいさんはやはり何処かとぼけた感じがあり、おばあさんははきはきとものを言う人だった。アルバイトのU君は定時制の高校に通う19歳の青年で見るからにヤンキーという感じだった。この他にも小学校5年生の女の子と小学校3年生の男の子、それに小学校1年生の双子の男の子がいた。彼らとは夕食の時に始めて顔を合わせることになった。

 動物は昔、牛を飼っていたそうであるが、今の奥さんが嫁いだときに面倒を見るのがあまりに大変という理由で止め、現在はチーという名前の犬が一匹とベニスズメの親子がいるだけだった。この犬はいつも欲求不満であるらしく、年中マスターベーションのようなことをしていた。

 僕が着いた時はみんな昼飯を食べ終え休憩しているところだった。バイト部屋は離れになっていて、母屋とは庭を挟んで反対側にあった。部屋の中は10畳くらいの広さがあり、窓を開けると用水路が流れていた。そこでU君と寝泊りすることになった。バイト部屋で支給された作業着に着替え、午後から仕事をした。

 午後の仕事は爺さん、婆さんといっしょにレタスの苗を植える仕事だった。僕とU君がポットに入った苗を畝に張られたビニールの穴が空いている部分に置いていき、おじいさんとおばあさんがそれを植えていく。3時過ぎに30分くらいの休憩をはさんで、5時ちょっと前まで作業をした。それまではずっとコンピュータを使う仕事だったので、腰が痛くなったが‘これだったら何とか続けられるな’と思った。しかし、これはまだ序の口だったのだ。

 夕飯は子供達も加わって、僕としては久しぶりの大人数での食事になった。TVはただ点いているだけで、周りの話し声で音声はほとんど聞えなかった。話の内容はそのほとんど全てが近所の人や学校の先生や子供達の話だった。何処其処の畑作りはいい加減だとか、あの先生はこの先生が好きだとか、あそこの家の子供は足が速いとか、遅いとか…。東京だとTVが会話の話題として占める率が高いと思われるが、ここではそれは皆無だった。おかずは大皿に盛大に盛り付けられ、みんなで箸でつついて食べた。ひとりひとりの分が皿に取り分けられている食事に慣れている僕は始め戸惑ったが、すぐに慣れた。ご飯はどんぶりに盛られた。そして自家製の果実酒がついた。

 翌朝は6時くらいから朝食だった。今まで東京での会社員生活では朝食を取らない日がほとんどだったので、朝からどんぶりでご飯をかき込むことは苦痛だったが、食べないと体は持たないだろうと思い、どうにか一膳だけお腹に入れた。そして7時30分くらいに軽トラを運転して畑に向った。

 Sさんの畑は5〜6箇所に点在していて、車3台に6人が分乗して行く。僕はU君を乗せてSさんの後についていった。始めてやった収穫はカリフラワーだった。収穫できるものにはおばさんが予め紫のリボンを結んでおく。それをみんなで包丁で切っていき、おじさんとおじいさんが大きさによって選り分け箱詰めをする。

 カリフラワーの茎の根元に包丁の刃を当て切るのだけど、これがなかなか切れない。おばさんは簡単に次々にと切っていく。コツがあるのだろうが、それがなかなかつかめない。さらに太陽の下での肉体労働は予想以上に厳しいと知った。10時くらいに休憩があったが、その時すでにかなりばててしまっていた。

 その後も苦戦が続いた。茎をうまく切るコツは根元に包丁の刃を当て、一気に力を入れて切り落とすということがわかったが、それでもまだあまりうまくいかなった。情けないことに、手の皮がむけてしまい包丁が強く握れなくなり、体力の消耗ともあいまってさらに効率が悪くなった。

 おじさんとおじいさんがカリフラワーを選り分けて入れた箱を、トラクターに積み込むのもアルバイトの仕事で、10Kg前後の箱を次々と運ばないといけない。しかし、体力的に完全にばててしまった僕はのろのろと作業することしかできなくなっていた。おじさんからは「もっとガッツを出せ」と言われたが、体はどうにもいうことをきかなかった。

 昼食もほとんどのどを通らなかった。疲れ切っていて食べることができなかったのだ。午後からは昨日行なった苗植えや草むしりと作業が楽になったので何とか体は持った。これはいつか倒れるだろうなと思った。だけど、不思議と辞めようとは思う気持ちはなかった。辞めたところでどうなるというのだ。東京に戻っても仕方ない。倒れて続けられなくなるまでやろうと心に決めた。つづく…(03.9.15)




皆さんのご意見・ご感想をお待ちしています。joshua@xvb.biglobe.ne.jp

TOP INDEX BACK NEXT