無言の圧力

 以前、ここでも書いた先月末に新しく入ったアルバイトのTさんだが、いろいろありながらも何とか続いていた。仕事上の小さな失敗もあったけど、そんなことは誰でもあることだし、この繁忙期を乗り切るための重要な戦力になってきていた。ところが、思わぬことから、綻びが生じた。それは、Tさんの体臭からだった。

 それは僕も初日から気づいていた。何となくというより、かなりきつい匂いがした。それは多かれ、少なかれ、誰でも感じていたようだったが、表面化したのは中国人のパートの陳さんからの苦情だった。

 Tさんは陳さんの近くで仕事をする機会が多く、それが陳さんにとっては耐え難くなっていったらしい。また、陳さんと仲のよいペルー国籍の日系2世のJさんも同じような立場でふたりでいろいろと話していたそうである。

 ふたりとも「何故、日本人はそのことを本人に言わないのか」と不思議に思っていたという。こういう場合、ペルーでは誰かが必ず本人に言うらしい。そのうち陳さんは「頭が痛くなり」、Jさんは「もう、大変」という状態になって、社員のNさんに訴えた。そして、社員のNさんがそのことを僕に言い、だんだんとこのことが表面化してきた。

 他のパートの人たちも、堰を切ったようにその話題で盛り上がることが多くなった。みんなが感じていることだけど、何となく言えないこと、それが解かれたときの解放感がみんなを支配した。

 Tさんの匂いは体臭というより、着ているものの不潔さからくる匂いに近いような気がした。だから、洗濯した清潔なものを身につけるようにすれば、すぐにでも解決するように思ったのだけど、そう簡単でもないようだった。

 Tさんは現在2万5千円のトイレ共同のアパートに独り暮しをしている。当然、お風呂はなく、洗濯機をおけるスペースはない。だから風呂と洗濯は銭湯とコインランドリーを利用するしかないのだけど、そうなるとなかなか毎日とは行かなくなる。Tさんウォッチャーとなっている陳さんの話しだと「同じものを3日も4日も着ている」という。

 今週の水曜日、休憩しようとして休憩室に行ったらTさんがいたので、休憩室に入るのを避けたパートさんがいた。そのパートさんは、他の人と休憩を代ってもらおうとして、数人に声をかけたがみんなに断られた。中には仕事が忙しく断った人もいたらしいのだけど、それを目撃したNさんには、みんながTさんを避けていると感じた。

 仕事をしている僕のところにNさんが、やってきて「言ったよ」という。「何を?」と訊くと、Tさんの匂いのことを注意したという。それまで、陳さんからも「イッテ」と何回も頼まれていたNさんは、ついにTさんにそのことを言ったらしい。「仕事ができなくなるから」という。「誰が?」と訊くと「Tくんが」と言った。このまま、みんなに影でいろいろと言われていたら、まずいことになるのではないかと思ったようだ。

 「何て注意したんです?」と訊くと
「みんなが匂うといっているから、風呂に入るように言った」と言った。そしたら本人は
 「そんなに匂いますか?」とあまり気がついていなかったそうだ。よく世間で言われるように、自分の匂いは自分ではあまり気づかないものなのかもしれない。

 しかし、そのことを聞いた時、Tさんが明日から会社に来なくなってしまうのでないかと心配になった。「匂い」のことを注意するのはいいと思うけど、その言い方が悪い。「みんなが…」などと言ったら、Tさんはかなり傷つくのではないかと思った。

 それまでは、誰ひとりとして、それらしいことさえTさんには言っていない。そこにいきなり「みんなが…」では、自分の知らないところで、みんなが散々と自分の陰口を言っていたように感じてしまう(実際、それに近いのだけど…)。自分の意見として「匂う」から、「ちょっと気をつけて」というのがベストのように思う。

 僕の心配は木曜日、現実になってしまった。Tさんは「急用ができたから」と会社を休んでしまった。Nさんは「あんなことぐらいでは辞めないだろう」と初めは強気だったが、だんだんとまずかったかもとの思いが強くなってきたようで、夕方には「明日休んだら、だめかも」と弱気になっていた。

 金曜日、Tさんの姿はなかった。電話連絡もないという。これはいよいよダメだなと思い、胸に痛みが走った。僕もTさんの匂いのことをいろいろと言っていたうちのひとりだ。

 9時を10分過ぎた頃、Tさんから電話が入ったらしい。そして、しばらくリーダーと長々と話しが続いた。10時45分過ぎ、暗室から出てみると、そこに働いているTさんの姿があった。「おはようございます」と声をかけたが何の返事もなかった。

 昼休み、パートのYさんとJさんといつものように昼食をとりに行った。Tさんは10時くらいに出社して、Yさんも「おはよう」と声をかけたのだけど、何の返事もなかったそうだ。その後、しばらくリーダーと缶コーヒーを飲みながら長々と話していたという。

 たぶん、電話でTさんは「もう、会社を辞めたい」と伝えたのだろう。それに対して、忙しい時期ひとりでも人がほしいリーダーが説得して「とりあえず、出て来い」と言ったように思う。そして、出てきたTさんと話し合い、どういう決着になったのかはわからないが、Tさんが働いていたところをみると、仕事を続けるということになった可能性が高い。

 初めは一部の人たちだけが切実で、大半の人は面白おかしくしていた陰口が、ひとりの人間を追い詰めてしまった。大したこともないちょっとしたきっかけから、大事に至ってしまうのは比較的よくあることである。

 それにしても、このような問題をスムースに解決する方法はないものだろうかと考えると、もし初めに陳さんがカタコトの日本語で
「アナタ、クサイヨ。オフロ、ハイッタホウガイイネ。カミモ、キッタホウガイイヨ。1000エンデ、キレルトコロアルヨ。ヤスイネ」
と直接本人に言ったら、案外と素直に聞けて、ショックも少なかったかもしれない。(2005.10.30)




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