そして、ひと粒のひかり

 日曜日、同じ職場で働くペルーの日系2世、Jさんと「そして、ひと粒のひかり」というコロンビアとアメリカの合作映画を観に行った。全編スペイン語のためJさんは字幕なしで楽しめる。あいにく、朝からどんよりと曇っていて寒い日だった。僕は折り畳み傘をデイパックに入れ、待ち合わせの喫茶店まで行った。

 Jさんはいつものように10分くらい遅れてやってきた。いつも遅れるので、そのことをちくりというと、「Hさんだからまだ早く来ている」ということらしく、同じペルーの人たちと出掛けるときはもっとルーズなのだという。日本でも沖縄は同じような傾向にあるらしく、彼女のルーツも沖縄なのだから、仕方ないのかもしれない。

 電車に乗り渋谷に着いたのは2時前で、まだ14時35分からの回に間に合いそうだったけど、Jさんは朝から何も食べていないというので、何処かで食事を取り、16時55分からのを観ることにした。

 駅近くの地下にあるパスタとピザの店に入り、僕はトマトソースのナスとベーコンのパスタ、Jさんはキノコのスープパスタを注文した。食後にコーヒーを頼み、しゃべっていると2時間はあったいう間に過ぎ、僕たちは映画館に行くため席を立った。

 階段を上り、外に出るとまだ4時だというのに真っ暗で、雨が落ちていた。Jさんは傘を持って来ていなかったため、僕の折り畳みにふたりで入った。ちょっとだけ、雨がうれしかった。

 混んでいると想像したのだけど、以外と映画館は空いていて、僕の整理番号は4、Jさんのは5だった。
 「もっとゆっくりでも大丈夫だったね」と今度はJさんが日本的体質が身に付いている僕をちくりと攻めるのだった。

 それほど大きくはなかったけど、映画館はやはりいい。よく、‘ビデオがそのうち出るのだから高いお金を出してまで映画館に行かなくてもいい’という人がいるけど、僕には理解できない。1800円はちょっと高いように思うけど、それでも映画館のあの独特の雰囲気はそれだけのものはあると思うし、お金を払うことによってその映画から多くを吸収しようとするし、受ける感動も大きくなると思う。

 いい映画だった。コロンビアの片田舎に住むマリアは家族とも、そして職場でもうまくいっていない。父親がなく、またシングルマザーの姉が同居する女ばかりの家の家計は彼女の肩に圧し掛かる。仕事のあまりない村で、唯一の…といってもいいほどの花工場で彼女はバラの棘を取る作業をして家を支えている。

 しかし、それほど愛してもいない男の子供を妊娠してしいたマリアは体調を崩し、そのことで職場の上司と言い争いになって仕事を辞めてしまう。家族からは非難の言葉をあび、また子供の父親である男とも別れ、新しい仕事と環境を求め彼女はコロンビアの首都であるボコダに行こうとバス停でバスを待っている時、ダンスパーティで知り合った男に声をかけられる。そして、彼のバイクの後に乗って、ボコダに向う途中、彼に麻薬の運び屋をやらないかと誘われるのだ。

 マリアは運び屋の元締めのところに連れて行かれ、そこでルーシーという若い女性と出会う。そして彼女から、麻薬の運び方のレクチャーを受ける。親指大の白いゴムの袋に入れられたヘロインを飲み込んで行く姿には戦慄させられる。ニューヨークまで旅立つとき、マリアはそこに親友のブランカがいるのを発見して口論になる。彼女も麻薬の運び屋になっていたのである。

 ルーシーとブランカともうひとりの女性と4人でニューヨークに向う飛行機の中、マリアはいくつかのヘロインの包みを排泄してしまい、ルーシーも体調が悪くなる。ヘロインを入れた袋が胃の中で破れたのだ。それでも何とか空港に降り立つが、今度は税関に捕まってしまう。

 マリアが麻薬の運び屋と確信している取締官は、レントゲン写真を撮影することを彼女に承知させる。やはり税関に呼び止められたもうひとりの運び屋は、レントゲン写真によって胃の中にあるヘロインの袋を見つかり捕まってしまうが、マリアは妊娠していたためレントゲン撮影が出来ず、何とか逮捕を免れることができる。

 マリア、ブランカ、ルーシーは空港で待っていた売人に車でモーテルまで連れて行かれ、そこで飲み込んだヘロインの袋を全て排泄するまで監禁される。ルーシーの体調はさらに悪化するが、売人たちは犯罪が発覚してしまうため、医者にも連れていかない。そして、ある朝、マリアが目を覚ますと売人たちに抱えられ、部屋の外に運ばれていくルーシーの姿を見る。バスルームをのぞくと、そこは血塗れになっている。売人たちは、ヘロインの包みが胃の中で破れ、死んでしまったルーシーの体を切り開き、ヘロインを取り出したのだ。それを知ったマリアはブランカを連れて、麻薬を全て持ち出しホテルを逃げ出す…。

 原題の副題に‘Based on 1000true stories’とあるように、ひとりの少女が麻薬の運び屋に落ちていくさまや、麻薬を体内に入れ運び、そして取り出す描写はリアルである。緊張感が全編を包んで退屈することはない。不況の経済状態と麻薬がまん延するコロンビアの社会的背景の中に、ひとりの少女の精神的成長が自然に描かれていく。
 「コロンビアには帰りたいと思っていた。だけど、アメリカに来て働き始めて、初めて祖国にいる家族に送金した時の気持ちが忘れられない。子供はチャンスのある国で育てたい」というルーシーの姉カルラの言葉が胸に迫る。

 何より素晴らしいのはラストシーンである。何気ないシーンによってマリアが新しく力強い一歩を踏出すことを伝える。タイトルバックに流れるこの映画のために書き下ろしたというフリエタ・ベネガスの歌も心に迫る。‘もう、私は何も恐れない…’

 映画館の外に出ると、雨はさらに降っていた。Jさんはドンキホーテに入って150円のビニール傘を買った。しかし、人ごみの中で、ふたつの傘で歩くのは困難だ。
「Hさんの中に入れて」Jさんは150円のビニール傘をたたんだ。僕たちはふたり寄り添って渋谷の雑踏の中を歩いた。映画のタイトルバックに流れた歌の詩と、BlurのAmbulanceという曲の詩がだぶった。

I ain’t got Nothing to be scared of,
No I ain’t got Nothing to be scared of,
No I ain’t got Nothing to be scared of,
No I ain’t got Anything to be scared of,
Cos I love you.(2005.11.12)




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