昔日への想い

 土曜の午後、何故そのような気持ちになったのかわからないのだけど、高校の時1年だけ暮したアパートが見たくなり出掛けた。昔住んでいたアパートは今暮しているところから徒歩で2〜30分くらいのところにある。天気はいいと天気予報ではいっていたが、花曇といった感じでまだまだ弱い初春の日差しはさらに弱々しかった。道々にはすでに白や淡いピンクの梅の花が可憐に咲いていて、弱い日差しと儚さのハーモニーを奏でていた。

 僕は、いきなり直線的に高校のとき住んでいたアパートに向うのではなく、一旦駅前の商店街に行き、そこから当時の通学の道順をなぞることにした。その道だけが1年だけ暮した街の唯一想い出の場所だった。

 駅前の商店街は変わっているのか、昔のままなのかよくわからなかった。その時からの時間の経過を考えれば、たぶん大きく変わっているはずなのだけど、何処がどう変わったのかと訊かれても僕はほとんど答えられない。ただ、商店街の角にある炭火の焼肉屋は当時なかったような気がするといえるくらいだ。

 商店街を離れ、住宅街に入ると懐かしい感じが込み上げて来た。この辺りは当時とほとんど変わっていないような気がした。立派な旧家の内科の医院や誰も遊んでいない小さな公園、そしてお稲荷さんの祠。

 道は高台にあるため、歩いているだけで遠くの街並みを眼下に見ることができる。高校の時の帰りなどその街並みに夕陽が差して橙色に輝き、とても美しかった。それは今日の弱い日差しでも変わらなかった。だけど、いくつもの重機が入って工事している一画があり、たぶん高層マンションでも建つのだろうけど、そうなるとこの景色を愉しむことができなくなるかもしれないと思われ、何か大切なものが失われてしまうような寂しさを感じた。この高台の道をさらに歩いて行くと酒屋があり、その横には都内ではあまり見かけない駐在署があるのだけど、ここでお巡りさんの姿を見かけた記憶が僕にはない。

 高校のとき、僕は友人をこのアパートに連れてきたことはなかった。それには僕なりの理由があった。当時、僕の家庭は両親が離婚して、僕は母と暮らすようになった。父の家はそれほど立派ではなかったが、一軒家で友人達を家に連れて来ても十分にくつろげる場所があった。

 しかし、離婚後、母についていった僕は狭いアパートで暮すことになった。その暮しを友達に見られるのがいやだった。離婚後、母はスナックを始めた。はじめはなかなか客がつかず、うまくいかなかったようだけど、だんだんと店は軌道に乗りだし安定した生活ができるようになっていった。そして、母の通勤のこともあり、それまでよりちょっとだけ広いアパートに引っ越した。それが今日、僕が向っているアパートだった。

 しかし、1回だけ友人が勝手に僕についてきてしまったことがあった。たしか、夏休み前の終業式の日で、通信簿をもらい半日で上がったときだったと思う。僕は何回か断ったのだが、強引について来てしまったのだ。

 僕達は暑い盛りということもあり、酒屋でコカ・コーラの500mlのビンをそれぞれ買った。それを飲みながら歩いたのだけど、友人はあっという間に全部飲み干してしまった。僕は半分も飲めず、それを手に持ってぶらぶらと歩いた。

 お昼ちょっと前にアパートに帰ると、案の定母はまだ寝ていた。スナックはだいたい夜中の2時くらいまでやっているため、お昼前は母は寝ているのが普通だった。友人は陽が高いというのにまだ寝ている僕の母に驚いたようだった。さらに当時飼っていた犬が猛然と吠えかかった。友人はばつの悪そうな顔をして、結局一歩も部屋には上がらず帰っていった。僕は犬を抱きながら、飲みかけのコーラを冷蔵庫に入れていたら母が「誰か来たの?」と寝ぼけた声で言った。僕は「誰も」と言った。今日はシャッターが閉まったその酒屋の前を歩きながら、そんなことが思い出された。

 アパートの周辺は夫婦坂とか、稲荷坂とか坂が多い。久しぶりに行ったため、左に曲がらなければいけないところを行き過ぎてしまい一本先まで行ってしまった。そこは鸛巣坂という坂らしい。当時はなかったと思うのだけど、そんな道標があった。

 僕はまた道を戻り、いつも曲がっていた曲がり角を曲がった。懐かしい風景がそこにはあり、当時の記憶が心を満たした。その道も急な下り坂につながっていて、そこを下りきり、またちょっと登り右の折れると当時住んでいたアパートがある。隣の坂には名前がついていたけど、その坂は名無しだった。

 アパートの周辺は大きく変化していた。当時はなかったファミリーレストランや大手百貨店の配送センターが出来ていたりして、なかなかアパートを見つけることができなかった。あるいは取壊されてしまったのかと思ったが、奥の方に見つけることができた。

 当時、アパートの前にはちいさな喫茶店があったのだけど、それがなくなりカギの119番の店舗になっていたのでわからなかったようだ。その昔住んでいたアパートをぼんやりと見ていると何で自分がここに来たくなったのかが、何となくわかったような気がした。(2004.2.28)




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