自分の言葉

 3月になってこのまえ辞めたA君の後任のアルバイトが入って来た。27歳の男性で、前はTVの製作会社にいたとのことだった。彼が初出社した時、たまたまリーダーが手の離せない仕事をしていたので、僕が仕事の説明することになってしまい、その流れでそれ以降も彼の教育係のようになってしまった。

 本来なら新人の教育は社員が行なうべきで、働き始めてまだ半年にも満たないアルバイトの自分が担当するのはおかしいような気もするのだけど、今いる社員の人はみんな職人気質のところがあって、仕事は教わるより見て覚えろという感じで、始めての人を懇切丁寧に指導するといったところがない。僕も始めの頃はそれでちょっと苦労したことがあったけど、僕と入れ違いのように辞めていった社員の方がよく指導してくれたので何とかなったという感じだった。そのことをリーダーの人も知っているはずで、とりあえず仕事に慣れるまでは僕に任せようと思ったのかもしれない。

 新人のアルバイトはおとなしい人だった。もちろん入社したばかりだからある程度おとなしいのは当然だけど、それだけでもないものが感じられた。協調性もあり、いつもニコニコ笑っているような感じの人で、いっしょに仕事をするにはまあ申し分ないタイプだった。だけど、僕は何か引っかかるものがあった。ことわざで言えば‘暖簾に腕押し’といったような感じだったのだ。

 僕は彼の教育係のような立場だから、自然といっしょにいる時間は長くなり、いろいろなことを話すのだけど手応えが全くなく、彼の姿がさっぱりと見えてこない。それはただ単におとなしいからということでないように思えた。どんなにおとなしい人でも接していくうちに時間はかかるけどその人の輪郭は見えて来る。だけど、今回はいったアルバイトの人にはそれがない。どんな話題にも如才なく話しを合わせて、後はただニコニコしていて、話す内容もそこに個性を感じることができなかった。何故、僕がそのような感じを彼にもったのか、自分でもよくわからなかったが、TBSで放送されたオウム真理教の報道特番を見て、その違和感の原因がわかった。

 この報道特番はオウム真理教の林郁夫と彼を取り調べる刑事とのやりとりを中心に構成されていた。林郁夫を始めて取り調べた刑事は彼にある感想をいだく。彼は自分を失っていて、その中身が空っぽになっているというのだ。取調室の林郁夫は難しい宗教論を繰り広げるが彼の言葉は常に「私達は」とか「教団は」とか「尊師は」とかに終始していて「自分は」という言葉がない。つまり「私達はこう考える」ということは言えるが、「自分はこう考えている」ということが言えないのだ。この特番を見たとき、新人のアルバイトもこれと同じだと思った。彼の言葉に僕が空虚さを感じ、彼の輪郭を掴めなかったのはそこに「自分」というものがなかったからなのだ。

 彼の場合は「教団」とか「尊師」が「TV」になっているだけだった。TVで聞いた話や無気力な世代の雰囲気をただ代弁しているだけで、彼は自分の言葉で話していなかった。自分の言葉がないというのは、自分の考えがないということで、自分の頭でものを考えないということだ。こうなってしまうとそれはもうオウム信者とほとんど変わらないような気さえする。自分の頭で考えることなく、何処からか耳にした他人の言葉をほとんど検証もしないで使っている。第二、第三のオウム真理教が現われる可能性は高いように思われる。

 考えるのは誰かにまかせて、それについていくだけの時代になってしまっているような気がする。だけど、それでは常に他者の軽薄な価値観に踊らされ一喜一憂する薄っぺらな人生になってしまう。場合によっては自分の人生を他人に預け、失ってしまうことにもなりかねない。自分の言葉で話すというのは面倒臭く、周囲と摩擦を生じることもあるかもしれない。しかし、それを探さないと、いつまで経っても個の確立はできないのではないだろうか。(2004.3.7)




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