あの日、突然私の世界は壊れた。私を優しく包有していた穏やかな日常は崩れ去った。
私はあの日のことを決して忘れない。忘れられない。
数日前から両親の様子が何だか変だったのは覚えている。二人で怖い顔をしてずうっと難しい話をしている姿も覚えている。幾ら声をかけてもあっちに行きなさいと追い払われたから、よく覚えている。
それまで、両親は自分にとっても優しかった。お隣の家の子供のように沢山のものを買って貰える訳ではなかったけれど、それでもとってもとっても優しかった。
だから、邪魔者扱いされたあの日のことは脳裏に焼きついてしまっていて、忘れようと思っても忘れられなくなっていた。
あの日、運命のあの日。
私はそれまで自分の周りにある総てのことが簡単に壊れてしまうなんて思ってもいなかった。明日も明後日も、何時までも同じように時間は流れていくって思ってた。
それが私の単なる思いこみでしかなかったことを、運命のあの日が証明してくれた。
私はあの日まで、今はぼろぼろに壊れてしまっていて昔の面影なんか微塵も残っていないけれど、ミッドガルという街に住んでいた。両親と一緒に、ミッドガルのプレート上部に住んでいた。父は神羅という会社で働いていて、だから私たちはこの場所に住んでいられるのだと、母に言われたことがあった。
何時もと変わらない、平凡な、でもとても穏やかな毎日をそこで過ごしていた。
でも、あの日の朝は違っていた。
父も母も慌ただしく旅行鞄を引っ張り出してきて、色々鞄に詰め込み始めた。
どうしたの?何処か行くの?と幾ら尋ねても、二人とも満足には応えてくれなかった。ただ、私にも必要な物を何でも良いから詰め込んできなさいとあしらわれただけだった。
変なお父さん、変なお母さん。
私はそう思いながらも、両親に言われたとおり部屋に戻って荷造りを始めることにした。ここ数日の二人のただならぬ様子に背中を押されるようにして、慣れないながらも必要だと思うものを選んでいった。
持っている鞄はどれも小さい物ばかりだったから、すぐにそれは一杯になってしまい、私は困った。旅行に行くときも必ず一緒に持っていくぬいぐるみが、この年になってもぬいぐるみが大事なんて恥ずかしいけれど何でも気軽に話せるのはこの子しかいない、鞄に入れ損ねてしまったのだ。
仕方ない、母の鞄に入れて貰おうと思って、ぬいぐるみ片手に両親の寝室へ行こうと階段を下り始めた時だった。
運命の時が訪れたのだ。
突然、家の窓総てがびりびり振動し始めた。
慌てて階段を駆け下り、居間の窓から外を見れば、青かった空が今は真っ暗に変わってしまっていた。そしてその暗黒の空めがけて無数の渦巻きが地面から沢山伸びているのが見て取れた。
何が起こっているのか判らず、私はその場に竦んでしまった。
外を吹き荒れる暴風がどこからともなく大きな鉄の塊を窓めがけて放り投げる。
大きな音をたてて窓ガラスが割れ、私はその破片を全身に浴びることになった。思わず唇から鋭い悲鳴が洩れる。
それに気づいた両親が慌てて居間に現れ、ガラス塗れになった私を見て、母が悲鳴をあげ、父は、反射的だったのだろうけど、破片で自分の身体が傷つくのを顧みず、私の身体をその場から抱き上げてくれた。
結局、その時私は運良くガラスでけがをしていなかった。上手い具合に破片が降りかかってくれていたのだ。その代わりといっては何だが、父が細かい切り傷を作ってしまっていた。
後でその時のことを思い出したとき、父と私は二人して笑ってしまった。あんなに慌てなくても良かったんだなと、父は頭をかきつつ笑っていた。
でも、当時はそれどころではなかった。この世の終わりとでも言うべき事態が目の前で起こっていたのだから、そんな余裕などあるはずもなかった。
結論から言えば、私たち家族は、運良く、本当に運良く、生活の場としていたプレートが崩れ落ちる前に街から出ることができたのだ。
あれは、父が前もって根回ししていたお陰なのだと、後で母が教えてくれた。父が無理を言って準備していたから、あっさり街から出られたのだと、母は少し誇らしげに話してくれた。
ミッドガルから見て北の方角、少しばかり北上した場所に小さな町があり、私たちは当座の避難場所としてその町に留まることになった。
ミッドガルに生まれ暮らしてきた私の目には少し寂しい町並みだったが、それでも其処には大勢の人々が暮らしている。機械化の進んだミッドガルでは触れることの出来なかった自然がすぐ隣りに在る、そんな町だった。
私はすぐにこの町が気に入り、此処で暮らしていくのも悪くない、そう思うようになった。そんな私を、父も母も何だか嬉しそうに見つめていた。
町での暮らしに馴染み始めた頃、それは起こった。
母が倒れたのだ。今まで病気らしい病気をしたことがなかった人だけに、私は思いきり不安に駆られた。
母は高熱を出しており、それから数日の間ベットに横たわったきりとなった。当人はそれほどつらくないらしく、少しだけ疲れた顔をしながらも、明るく笑って心配しないでと照れくさそうにそう話していた。
父もそれを見て、大丈夫そうだねと私に笑いかけてくれた。
以前の穏やかな時間の中で何時も見ていた笑顔だったから、私はとても安心できた。幸せな時間が戻ってきている証のように思えて嬉しかった。
母は数日寝込んだだけで元気になった。元気になったように見えた。穏やかな日差しの中、眩しそうに日よけ代わりにかざした右手の甲に、うっすら黒い痣が浮かんでいた。
時々、母が痛みに顔を顰めたり、熱を出して寝込むようになった。
多分、この頃だったと思う。黒い魔物の噂が聞こえてきたのは。
『ミッドガルに今、黒い魔物が蔓延り始めた。黒い魔物に取り憑かれた者は全身から黒い膿を出して死んでしまうか、取り憑かれた苦痛のあまり心臓が止まってしまう。取り憑かれた証は、身体の何処かに醜く黒い痣が浮かび、それは徐々に大きくなっていくのだ。一度取り憑かれれば、それを取り除く術はない』
この話を耳にしたとき、私は心臓が止まってしまうかと思った。そして単なる噂だと笑い飛ばしてやりたい気持ちになった。だって、母の右手の痣は徐々に大きくなっていたから。今ではもう右腕全部が黒くなっていたから。でも、それは上手くいかなかった。顔が強張ってしまって綺麗に笑えなかった。
それから数日後、母が息を引き取った。
母の墓前で、私は泣かなかった。泣いたら負けると思っていた。そんな私の傍らで、父もやっぱり泣かなかった。今にも泣きそうな顔をしながら、それでも下唇をきつく噛んで泣いてやるものかという顔をしていた。
二人して、無理に笑顔を浮かべてみせた。母の分まで生きていこうと誓いあった。
でも、それは、実現されることはなかった。運命は、私にどこまでも冷ややかだった。
それから間もなく、父も倒れたのだ。やっぱり身体に黒い痣が浮かんでいた。そしてあっという間に父は帰らぬ人となり、独り残された私はまだ親の保護を必要とする年齢だったから、その扱いに周囲の大人たちは困惑した。
とりあえず町の皆で私の面倒を見てくれることになった。周囲の大人たちの精一杯の厚意に、私は初めて大声をあげて泣いた。涙を流した。
しばらく平和な時間が流れてくれた。でも、私はよくよく運命の神さまに見捨てられているのだろう。
ある日、黒い痣が浮かんだのだ。両親のように手足の一部にではなく、顔に。おでこから左目にかけてすっと一筋の黒い線が、髪を梳こうと覗き込んだ鏡の中、見慣れた顔の上に引かれていた。
何かの見間違いだと、恐る恐る手を額にもっていく。鏡の中の私も左右対称ながらも同じ仕草をしてその痣に触れる。
私は星痕症候群に、黒い魔物はいつしかそういう名前の病気だと認識されるようになっていた、罹ってしまったという事実を受け入れたくなかった。だから、鏡台の引き出しから別の鏡を取り出し、祈るようにそれを覗き込む。だがそれは無駄なあがきというもので、自分の顔には一筋の刻印が成されていた。
私は絶叫した。叫ぶしかなかった。
後で聞いた話によると、私はこの時錯乱状態にあったそうだ。大人たちがいくら宥めても叫ぶことをやめず、手当たり次第に周囲のものを壊して回っていたそうだ。
何でその時、私は自分で命を絶とうとしなかったのだろうと、今になって思ってしまうことがある。理性のない時にそうしていたならば、今現在、こうして苦しまずに済んだだろうに。
発作が起きる度に、私は生きるための力が身体の中からこぼれ落ちていくのを感じていた。砂時計の砂が時間と共に減っていくように、私のちっぽけな命も徐々に削り取られていく。
大人たちは気をしっかり持てと微笑みながら励ましてくれるけれど、それを聞く度に私がどんな気持ちになるのか、考えてくれない。
私も、両親にそう言ってあげていた。私も、両親を元気づけようと精一杯微笑んでみせた。
でも、駄目だった。でも、無駄だった。
どんな気持ちで大人たちがそう口にするのか、身に沁みてしっているから、私はなるべく発作が起きてもそれを表に出さずに頑張ってきた。そうして初めて、両親がどれだけ私のことを思ってくれていたのか理解できた。
だから、私はできるだけ微笑んでいるよう努力した。穏やかな顔でいられるよう努力した。
何かに呼ばれた気がして窓に視線を遣れば、窓の外に白くちらつくものが見えた。
雪、だ。初雪、だ。この町に来て初めての雪が降り始めたのだ。
私は雪が大好きだった。雪が降ってくると思わず家の外に飛び出してしまうくらい、雪が大好きだった。
この町に来たばかりの頃、ミッドガルよりも雪が沢山降ると父から聞かされた私は嬉しくて仕方なかった。今年こそは雪だるまを作ってみるんだと、両親と一緒に笑っていた。
その雪が降ってきたのだ。あれほど焦がれた雪が、今年最初の雪が降ってきたのだ。
このままおとなしく寝ていることなどできずベットから飛び出し、クローゼットから申し訳程度にとりだしたコートを羽織って外へ出て行った。
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