マテリアが扱えることを悟ったのか、若者の口元が再び歪んだ。暗い歓喜の色がその面に浮かぶ。
今まで一度として従兄のそんな暗い表情を見たことがなかったユフィは、口の中で小さく悲鳴をあげる。目の前にいる人物は確かに従兄の姿をしているが、何かが根本的に変質してしまって別人のようだと思った。もうあの優しかった従兄ではないのだと、本能で理解した。
従兄は、魔法に対する素養がまるでなかった。それなのに、今、マテリアが同調を見せている。精神的に安定を欠いているはずの状態で、マテリアと同調している。
「何で!?」
ユフィの叫びは悲痛に塗れ、クラウドの心を激しく揺さぶった。
マテリアを手にしたまま、若者がゆっくり二人の方へ身体を向ける。実にゆっくりとだが確実に、二人に顔を向けていく。俯いていた顔がゆるゆる上げられる。少し長めの前髪の間から、狂気を宿した黒い瞳が二人を射抜いた。
ユフィが喉の奥で小さな悲鳴をあげ、縋るようにクラウドの左腕をぎゅっと握り締める。
つい数瞬前まで幽鬼のように儚い風情だった若者は最早其処には居らず、細身の身体から恐ろしいくらいの覇気を発して若者はその場にしっかり立っていた。
全身から放出される気の凄さに、クラウドは全身に鳥肌が立つのを感じた。若者の身に何が起こっているのか全く理解できなかったが、それでも若者が異質な者に変質してしまったことだけは判った。
異常な出来事に居竦んでしまったユフィの身体をそっと優しく自分から離したクラウドは、背中の剣を抜いてそのまま右手に下げ持つ。そして若者からユフィを庇うようにしたまま、先程よりは早足で洞窟からの脱出を試みる。
もし万が一若者と闘うようなことになれば、この狭い洞窟では何かと制限がかけられてしまい満足に闘うことができない。相手の手の中にあるのは召喚マテリアなのだ。こんな限られた空間で幻獣が顕れでもしたら一溜まりもないだろう。
やっとの思いで洞窟の出入り口まで辿り着いたクラウドはユフィに走って逃げるよう合図し、自身も背後を気にかけながら一気に滝が正面に見渡せる道まで戻っていった。
二人のそんな様子を若者は冷笑を浮かべて見つめながら、自身はゆったりとした歩調でその後を追う。
その黒い瞳が一瞬翡翠の色に変じたことに、クラウドたちが気づくことはなかった。
震える唇が、微かに言葉を紡ぐ。
「リ・・・・・・ン・・・」
しかしそれはあまりに小さすぎて、流れ落ちる滝の音にかき消されてしまった。
陽の当たる場所で改めて目にした若者の姿は悲惨の一言につきた。星痕症候群の醜い爪痕が、顔といわず腕といわず洋服から出ている箇所全部を黒く染め上げている。その生々しさを太陽の光が情け容赦なく暴き立てていた。
若者が纏う衣服も所々どす黒く変色している。痣から流れ落ちる黒い膿のようなものによってそうなってしまっているのだった。
普通ならば生きているはずのない状態にありながらも、若者は生きて動いていた。
久方ぶりに見る外界の明るさに目が眩んだのか、若者は眩しそうに目を細める。その日差しをさらによけるために上げた右手も黒い痣に覆われていた。
若者の一挙一頭足に全神経を傾けながら、クラウドは油断なく周囲の地形を把握するのに余念がなかった。地理の不案内がすぐさま闘いの勝敗に影響を及ぼすことは多々ある。それを少しでも解消しようと必死だった。
クラウドの思惑など知らぬげに、若者は泰然とした態度で徐々に距離を詰めてくる。それに合わせてクラウドは何時でも動けるよう腰をやや低く落としながらも、相手の速度に合わせて距離を保とうとする。
そんな二人の様子を遠くから、ユフィが今にも泣きそうな顔で見守っていた。
不意に、若者の足がぴたりと止まった。
クラウドもその場に立ち止まり、両足を肩幅より少し広めに開いて腰を落とすと、ゆっくりと剣を正眼の位置に構えた。その全身から静かに闘気が満ち溢れてくる。
若者が目を眇めた。
「何者だ?」
静かにだが力強い声音で、クラウドはそう問いかける。まともな返事が返ってくるとは思えなかったが、それでも言わずにはいられなかった。相変わらず狂気に染まっている黒い瞳に、強い意志の光が宿っているのをクラウドは認めた。
一瞬、若者がきょとんとした表情を浮かべた。何を言われたのか判らないという風に困惑気味な顔になる。それはごく自然な顔つきで、以前の穏やかな性格を窺わせる優しい顔だった。
目にしたユフィがもしかしてと思わずにはいられないくらい、それは優しさを秘めた顔だった。
クラウドの剣先が微妙に揺れる。蒼い瞳に動揺の欠片も見受けられなかったが、一瞬覚えた動揺は如実に身体に表れた。
若者の口元が大きく歪む。動揺を見せたクラウドを嘲るように、醜い笑みを顔に刻みつける。
自分たちの抱いた期待は愚かな希望でしかなかったことを、二人は思い知らされた。
ほぼ全身を黒い痣に覆われた若者が、狂った眼差しのまま哄笑した。その手の中に、ユフィの隠していた赤いマテリアが握られている。
若者の視線がマテリアに注がれる。その途端、マテリアの中心部の光が強く灯り、魔法の詠唱が為されないまま唐突に魔法が発動した。
滝の上部に靄のようなものが湧き起こり、それが徐々にある形を作り出していく。
それが幻獣がこの世界に顕れる前触れであることをよく知っているクラウドの蒼い瞳に剣呑な光が宿った。
幻獣の召喚者であるはずの若者は明らかに正気を喪っている。そのような状態で召喚された幻獣は理に基づいた行動をとることが出来るのか。
答えは否だった。狂気に蝕まれた召喚者の意識に深く同調して召喚された幻獣は、世界に放たれた大いなる凶器でしかなかった。
若者によって召喚された幻獣は、ウータイの土地に強く結びついているリヴァイアサンだった。
だが、体色が違う。本来ならば体色が水色であるはずの水竜の化身は、漆黒に染め抜かれた黒竜と化していた。召喚者たる若者の姿を象徴するように全身を黒く染め上げていた。
二つに分かれていた剣を合体させて持っている剣総てを一本の剣へと統合させたクラウドは、腰をやや低くし、剣を肩に背負うように振りかぶると、目を半眼にして精神を集中させた。
目前の狂った幻獣を正気に返すには、最早一度倒すしか道はなかった。倒して幻獣界に送り返すしか方法はなかった。
漆黒に染め抜かれた黒竜が大きく口を開く。人間など簡単に一口で飲み込める大きな口から咆哮があがり、その背後から大きな津波が、『大海嘯』が押し寄せる。
間髪入れずクラウドの全身から蒼いオーラが立ち昇る。
大きく息を吸い込みながら目を開けたクラウドは、きっと目つきをきつくして裂帛のかけ声と共に剣を振り下ろす。剣先から衝撃波が生じ、それが過たず黒竜へ向けて放たれていく。クラウドの持つリミット技『破晄撃』が炸裂したのだ。
クラウドと黒竜のほぼ中間辺りで『破晄撃』と『大海嘯』がぶつかりあい、相殺された。
黒竜の口から怒りに塗れた咆哮があがり、再び津波を呼び寄せようと大きく口が開かれていく。
幻獣の振るう強大な力は発動までに少々時間がかかる。大きな効果をもたらすがゆえにどうしても行使するのに時間がかかってしまうのだ。
その隙を見逃すクラウドではなく、『破晄撃』を放つと同時に黒竜のいる滝口めがけて跳躍していた。一気に彼我の差を詰め、黒竜の顔めがけて剣を振るう。
剣先が黒竜の片目を潰し、その痛みのあまり黒竜の尻尾が大きく左右上下、所構わず振られた。
運悪くその内の一打がクラウドを急襲し、クラウドはそれを咄嗟に剣で受け止め後退った。
黒竜が再び咆哮を放つ。
クラウドはその場で体勢を立て直すと、一気に勝負を決めるために今度は剣を水平に構え再び精神を集中させていった。
再びクラウドの全身から蒼いオーラが立ち昇る。
両手で剣を捧げ持ったままリヴァイアサンめがけて突っ込んでいき、勢いを利用して全体重を載せた剣先を深々とその体躯に埋め込む。そしてその場で腰を低くして力を溜め、次の瞬間には一気に飛び上がる勢いのまま、幻獣の体躯を下方から上方に向けて切り裂いた。クラウドのリミット技のひとつ『クライムハザード』が炸裂した。
黒竜は痛みと絶望に満ちた咆哮を上げながら、これ以上この世界に存在することはできなかった。その身体は徐々に輪郭を崩していき、最後には何もかも宙へ溶け込み消えていった。
幻獣を倒した途端、若者の全身から黒い膿が吹き出し、若者はその場にどおっと倒れ込んだ。
ユフィが血相を変えて若者の許へ駆け寄っていたが、抱き起こしたときにはすでに絶息していた。
「従兄(にい)さん!」
ユフィの悲痛な鳴き声は滝の音にかき消され、誰の耳にも、ユフィ自身にさえ聞こえなかった。
そんなユフィの傍らでまた一人救えなかったと、クラウドは後悔の念にかられ、その表情が翳りを帯びた。
「星痕だけでは・・・足りないか」
事切れる寸前若者の唇がそんな言葉を紡ぎ出したが、それはあまりにも小さく、クラウドの耳にも届くことはなかった。
◇
星痕症候群と呼ばれる奇病とマテリアの発動との間の因果関係が証明された訳ではなかったが、今回の一件は軽くみるべきではなかった。
魔法に対する素養が全くなかった者が、突如としてマテリアを発動させたのだ。そしてマテリアが発動させられなかった以前と、発動させてしまった今回との差異は、星痕症候群に罹患しているか否かだけだった。
星痕症候群に罹患する人間は日々増えている。そんな時だからこそ、雑多なことに忙殺される毎日を過ごしているユフィには、マテリアをきちんと管理する責任が負えなかった。そして有事の際に冷静に対処できるであろう人物が目の前にいる今、ユフィのとるべき道は一つしかなかった。
「私が受け取りに行くまで、ちゃんと預かっててよ」
泣きはらした顔のまま強張った表情を浮かべ、それでもユフィは下手なウインクと一緒に明るく宣い、自分が所有していたマテリア総ての入った箱をクラウドに差し出した。
マテリアに対する思い入れを十分知っているクラウドはその提案に瞠目し、その目を見返す。ユフィの目に宿る揺らぎのない真剣な光を認め、一時的な感情から口にした言葉ではないことを理解した。
「判った」
短く返答したクラウドは、少女の手には重たい箱を軽々受け取って深々と頷く。
「約束・・・だかんね!」
だめ押しのように腰に手を当て、自分の鼻先に人差し指をつきつけて、ユフィはようやく笑顔を浮かべた。
無理をして笑っているのがありありと判るそんな表情に、クラウドも笑顔で応え、
「待っている」
優しく告げた。
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