≪きまぐれ月記:2010年5月≫
先日ネットサーフィンをしていたら、ある意味で面白いサイトに出会いました。そのサイトの管理人さんは直感は常に正しいと思っており、理論は怪しいから大嫌いなのだそうです。そんな話が理屈っぽく、でももちろんヘリクツで長々と書かれていました。
ネットサーフィンをしていると、理性とか理屈とか理論とかいうものを軽視している人を良く見かけます。嫌悪している人だって珍しくありません。でもそんな人は決まってそれらを扱うのが苦手であり、単に嫌いだから否定しているだけのような気がしてなりません。
人間というものは何が普通かを基準に物事の是非を判断する生き物であり、正しいかどうかは二の次という人が大半です。そして普通だと感じるものを好む結果、人間の感性は、好きなことは正しい、嫌いなことは間違っていると判断してしまいやすいものです。
そんなゆがんだ感性など捨ててしまえ!
感性や直感と言うものは、その人の経験や感情から生まれるものです。よく野生の勘と言う表現が使われますが、野生動物の行動だって、そのほとんどが学習によって身につけたものであることは、現在では常識になっています。野生動物でさえそうなのですから、人間が生まれ持った勘などあてになるわけがありません。
ただし正しい学習によって身につけた直感ならば・・・時と場合によっては役に立つこともあります。例えばスポーツのように同じようなことを繰り返す分野であれば直感の信ぴょう性は増してきますし、のんびり考えている暇はありませんので、直感を磨くことが重要になってくるのは確かです。またあまりにも緻密な理論になってくると、言葉にすることが困難な場合もあります。そんな場合でも充分な実力を身につけていれば、直感で正しい判断を下すことができる場合もあるでしょう。
しかし大抵の分野では、直感を磨けるほど同じ状況が繰り返されることは稀です。似て非なることは頻繁に起こるとしてもです。そして同じことと似て非なること、それらを区別して直感を磨いていけるほど、人間の頭は都合良くはできていません。そのため人間の直感が当たる可能性は、個人差や分野による違いが大きいとはいえ、山勘が当たる可能性と大して変わりはしないのです。
人に何かを伝えたいとき、あるいは何かを深く理解したいとき、人間は大抵言葉を使います。そうすることが最も手軽で確実だからです。そして言葉で何かを伝えたり分析したりしようとするならば、相手や自分が納得できるように喋ったり書いたりまとめたりする必要があります。
そうやって工夫した結果生まれるものが理論であり、理論とはまっとうな思考や想いによって生まれた重要なものであるといえます。それを否定するのは、他人との意思疎通を否定するのと同じことです。
ようするに理論や理屈を否定するのは、「自分はこれ以上成長する気がないから他人の話に耳を傾ける気がない」と言っているようなものです。「自分は愚かです。」そう言っているのと同じです。理屈を怪しく感じるのは、理屈とヘリクツの区別がついていないだけでしかありません。
・・・もっとも今の世の中には理屈よりもヘリクツの方がはるかに多いと思われますので、仕方がないことなのかもしれませんけれど。
ですから理屈とヘリクツの見極めができないのは仕方がありません。高度な理論についていけないのも仕方がありません。理屈が嫌いなのはその人の勝手です。でも否定することだけはやめてください。どちらが正しいのかははっきりしていることなのですから。
明らかに間違っている人が普通の人として扱われる(否定されない)のは、現代社会がゆがんでいるからでしかありません。ゆがんだ社会に甘えて生きるのは、即刻やめてほしいものです。そんな甘えが社会のゆがみを生みだし、“誤った普通”
を作り出し、誤った子どもを育ててしまうのですから。
もっとも感性だけで生きているような人は、こんな文章を読まないでしょうけどね。
事業仕分けにより、宝くじの販売がしばらく中止されることになるかもしれません。宝くじに関してはこのサイトでもコラムを書いたことがあるように、中止の理由が天下りがらみだということを抜きにしても私は否定的でして、このまま廃止してもいいのにと思っているくらいです。
私は娯楽というものは利益のためにすることではなく、なにかがかかっていないと楽しめないようなものは娯楽として三流だとさえ思っています。ゲームやスポーツ、読書などのように純粋にそれを楽しめるものこそが、娯楽の本来のあり方ではないかと思います。そして純粋に楽しめる人の方が、そうでない人よりもずっと人生を楽しんでいるのではないかと思うのです。
宝くじが買えなくなると「夢がなくなる」と言うような意見もあるようですが、他力本願の濡れ手に泡に夢を見るような人生と言うのは、とてもさびしい話です。今回のことをきっかけにして、人生の楽しみ方を考えてみるのもいいのではないでしょうか。
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