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≪“基本” の真相≫

 なんにでも「基本」というものがあります。特にスポーツでは初めに基本のフォームを教わることが多いのですが、これには裏(?)があります。この基本というもの、実は理想ではないのです。バドミントンを例にして、うまくなるための考え方を大雑把に書いてみます。

 1.シャトル(羽根)がどんな動きをすれば相手が取り難いのか。
 2.そのためには、ラケットをどんな風に動かせばいいのか。
 3.そのためには、どんなフォームを身に付ければいいのか。
 4.そのためには、どんな練習をすればいいのか。

 つまり「1」が最も重要なのであり、基本のフォームという「3」は、そのための手段でしかないことになります。しかも人間の筋力や関節の動きには限界があり、理想的なフォームというのは、普通の人には不可能なフォームであることもあるはずです。そこで大抵の人なら可能なフォームのうち、もっとも結果が出やすいフォームというのを基本としているのにすぎないのです。ですから並外れた筋力や柔軟性を持っている人ならば、基本とはかけ離れた、より良いフォームを身に付けることが可能かもしれません。逆に何らかの欠点があり基本通りでは無理な人は、自分に可能なフォームを探したり、体を鍛えたりする必要があるわけです。

 分からない人も多そうな話になりますが、「オレ流」という言葉で表現されることが多い落合博満さん(プロ野球)は、現役時代、タブーとされている打ち方で素晴らしい成績を残しました。でも落合さんのフォームは「基本」とはかけ離れていても、「理想」とかけ離れてはいませんでした。解説者をされていた時にも「一般論」とはかけ離れた意見が目立ちましたが、それは「常識」よりも「真実」を重視しているからだと私は感じました。「オレ流」という表現は、そういった本質を見極められない人が言い出したんじゃないかと思うのです。落合さんは他の人とは違う考え方をしているのではなく、他の人よりも上の考え方をしている。でもそれが分からない人にとっては、わがままを通して大成した特殊な人にしか思えないのだろうってね。

 ついでなので自分のことも書いておきます。
 野球をしている人の中には、右でも左でも打てるスイッチヒッターという有利な人が存在します。しかし私は右目の視野が狭く、右から来るボールを普通に見ることができません。ですからスイッチヒッターを目指して左利きの人と同じように打とうとしたら、かなりのハンデを背負うことになります。私は左でもボールを投げられるくらいの器用さを持っていますが、それよりも簡単なはずの左打ちを練習することは、私にとっては時間の無駄になるわけです。モノにならないことを練習をするくらいなら、普通に右で打つ練習をしていた方が有利なのは明白ですから。

 高校時代にやっていた軟式テニスでは、いくつか特殊なことをやっていました。その1つが、普通の人が普通に打つ膝の高さくらいのボールを、腰を無理やりおとすことで上から叩くように打ち、ずっと力強い打球を放つというものです。友人は呆れていましたが、これは私の柔軟性と手首の強さがあって初めて可能になる、「より良いフォーム」だったわけです。

 「基本が理想とは限らない。本当に大切なのは基本の裏に隠された真実を知り、自分にとっての理想を探すことである。」

 スポーツに限らず、これを知ることが大切なのではないかと思います。優れた指導者というのは、こういったことを知っている、あるいは感覚的に理解しているのかもしれないですね。

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≪過剰品質≫

 突然ですが問題です。仕事に大きく関係する次の3つの要素を、優先順位の高いものから並べてください。

 【品質】【生産数(納期)】【安全】

 答えは【1:安全,2:品質,3:生産数】です。
 (白色で書いていますので、ドラッグ(クリックしたままマウスの移動)して反転させてお読みください)

 もちろんどれも重要なので、通常は全てを同時に満たせるやり方が求められるのですが、それが無理な場合(仕事に慣れていない時など)、一般にはこの順番で考えるのが最も大きな利益を生む(あるいは損失を抑えられる)といわれています。つまり仕事に関しては、「理想論っぽい考え方」が「実際に理想」だと考えられているのです。

 製造業に勤めていると、生産数第一で行動する人が目立ちます。しかし不良品が発生してしまうと、良くても社内で見直し、出荷してしまうとリコールやブランドイメージの低下となり、納期遅れなど比較にならないような損害に繋がることもあります。だからこそ先ほどのような優先順位で働かなくてはなりません。
 もっともこんな理屈を考えなくても、少し視野を広げて想像力を働かせれば、これが当たり前ということに気付くはずです。なにせ工場で作った商品を買うのは一般市民、つまり私やあなたなのですからね。不良品をつかまされるのが嫌ならば、作る側になったときには良いものを作りましょうということです。

 このようにとても大切なことでありながら、作り手には軽視されがちな品質ですが、製造員の中には逆に神経質になりすぎる人も少なくないようです。確かにお客さんのことを思うと、品質は「完璧であるべき」「少しでも良くすべき」と考えてしまいがちです。でも品質を極めようとすればどうなるでしょうか。例えばパソコンや携帯電話の見た目を良くするために、カバーの内側を磨き上げる。食品のパック詰めでは0.1gの誤差もでないように、ピンセットと高性能のはかりを使って1つ1つ作業する。雑巾をクリーンルーム内で縫い、出荷前にはルーペを使ってゴミが付いていないか検査する・・・

 どう考えてもやりすぎですよね。膨大な時間とお金が必要になるにも関わらず、そこまでの超高品質を求める人はまずいないわけですし、「そこまでしなくていいから安くしてくれ」と思うのが普通でしょうから。
 このような無駄な品質を、過剰品質といいます。もちろん今の例は無理やり考えたものなので過剰すぎますが。
 でも「品質にも許容範囲はある」ということを知らずに完璧を目指して、余計な苦労をしている人は珍しくありません。またこのことを作業者に教えない(教えられない)作業指導者も少なくないようです。余計な作業は無駄な残業と疲労を増やし、結果として会社と社員双方に不利益をもたらすというのにです。

 高品質と過剰品質の違い。それは品質の向上に意味があるのかどうかであり、言い換えれば会社等の利益に繋がるかどうかでもあります。
 実際のところ、この境目を見極めるのは困難で、一般作業者が勝手に判断すべきではないのですが、それでも「品質にも許容範囲はある」ということだけは、覚えておくといいのではないかと思います。もちろん作業指導を行っている人は、もう少し細かく理解しておかなければなりませんけどね。

 ただ、小説やゲーム、漫画やイラストのような著作物の場合、どこまでこだわるべきかは難しい問題だと思います。なにしろ通常の商品以上に、品質と利益の関わりが希薄ですから。個人的には、こだわりが利益に反映されなくても、違いが分かる人のことまで考慮すべきだとは思っているのですが。なにしろこの手の商品というのは、品質で人を喜ばせるために存在するものですからね。



≪生涯楽しく≫

 「無人島で1人暮らしをすることになりました。でもその無人島へは、何か1つしか持ち込むことができません。あなたなら、その1つに何を選びますか。」

 ・・・念のために書いておきますが、これは私がそういった状況になったわけではないですよ。注意書きをしておかないと、常連さんが誤解しそうで(そんな自分の人生が)怖いのですが。

 これの正体は、私が中学生の時に担任教師から聞いた話です。哲学とかサバイバルとかの問題ではないので、細かいことを考える必要はなく、単に「(自然の豊かさだけが取り得の)無人島で一生ヒマを潰すためにはどうするか」という話です。
 さて、あなたなら何を持っていきますか?

 電気がないからテレビはダメですよ。ラジオやノートパソコンは電池やバッテリーの問題があります。漫画だって「何か1つ(一冊)」ではすぐに飽きるでしょう。朝から晩までヒマな日が何十年も続くのですから、よほど長く楽しめるものでなければなりません。
 さあ、何を選びますか? さあ、あなたなら何を選びますか? さあ! さあ! さあ!

 ・・・って読者をいじめていても私の得にはならないので、答えを言っちゃいますが、その担任教師が言った模範解答は、広辞苑(有名な辞書ですね)というものでした。確かに、「何か1つ」で最も長く時間をつぶせそうなのは、こういった分厚い辞書かもしれません。枕にもなりますし。辞書というと堅苦しく小難しいというイメージがあるかもしれませんが、実際には広く浅く膨大な知識が詰まった雑学本でもあるからです。

 適当にページをめくり、知っている単語を探し、それを読んでみる。するとそれに関する別の言葉を思い出し、その言葉を探してページをめくる。その途中で気になる言葉が目にとまり、探していた言葉をそっちのけでそれを読む・・・。
 これは意外に楽しいもので、国語辞典でも英和辞典でも、見ていると1時間や2時間はすぐに経ってしまいます・・・という私は少数派かもしれませんが、辞書だって「避けたくなる先入観」がなければ、おもちゃと大して変わらないんですよね。ちなみに私が使っているのはその広辞苑ですが、こんな分厚くて高い辞書でなくても、同じように楽しめます。
 もちろん辞書は実用品ですから、ムリに楽しもうとする必要なんてありません。でも「知りたいことが載っている本」であることに気付いていれば辞書を引くのが苦になりませんし、「勉強しよう!」なんて思わなくても、他の人がゲームや漫画を楽しむのと同じような感覚で、様々な知識を身に付けることが可能になります。

 このようなことは、なにも辞書に限ったことではありません。どんなことにも何らかの楽しさはあるもので、勉強だろうと、仕事だろうと、クラブ等の活動だろうと、より良くやろうとすればするほど、その奥深さや楽しさが分かってくるものです。逆に「つまらない」「めんどくさい」「やらされている」というような先入観で初めから全てを否定し、サボったり悪ふざけをしたりする人は少なくありませんが、そういった考え方は「自分が楽しく生きる」という意味でも損をしているとしか思えません。
 本当の楽しさとは真面目な生き方の中にあり、それゆえ真面目に生きている人の方が、ずっと人生を楽んでいるのではないでしょうか。逆にいえば、まじめに生きていれば退屈することなんてないのかもしれません。
 っていうか、そう思いたいですね!

 ちなみに冒頭の問題、当時の私は答えを出せませんでした。考える間もなく模範解答を言われてしまったから、というのもあるかもしれませんが。でも今なら、辞書よりももっといい答えがあることを知っています。その答えとは、友達。
 ・・・ん? これでは1人暮らしといえないか。

【マジメな後書き】
 何かをするときに楽しめるかどうかの違いには、実際には本文とは別の要素も大きく関わってきます。なにせ「していることが実は非効率的」、「していることが実はしてはいけないこと」という場合、それに気付いていると楽しめるわけがないのですから。つまり「知らない人の方が幸せ」という現象が起こりうるわけですね。そして悲しいことに今の世の中は、「知らない人の方が幸せ」ということの方がずっと多いようです。
 でも、「知らなかった(気付かなかった)おかげ」の幸せというのは、いずれ大きな不幸をもたらすことが多いのもまた事実。・・・なのですが、ここで問題なのが、不幸の原因が自分の無知であることに気付かない人が多いということ。歴史が繰り返される理由はこれでしょう。だからこそ「楽しい人生を送るために楽しく学ぼう」ということが重要になるわけです。

 1人の人間が自分の人生から学べる量というのは微々たるもの。学んだときには手遅れということも珍しくありません。しかし人間には言葉があり、文字があり、今この文章を読んでくれているあなたにはインターネットがあります。サイトに書かれているのが、マジメな話だろうと趣味の話だろうと愚痴だろうと笑い話だろうと、読者にとっては「自分の知らないこと」。そして私が日記として書いているこの文章だって、読者にとっては1つの情報であり、反面教師という形であったとしても、ここから何かを学ぶことはできるわけです。例え私が意図していないことであっても、そして読者が意識していなかったとしても。ほら、ことわざにもありますよね。「三人寄れば文殊の知恵」って。
 ・・・え、それを言うなら「人のふり見て我がふり直せ」だろうって? ほっとけ!



≪発想力の源≫

 A : “けなげ” って、どんな漢字だったっけ?
 B : 健康の健に、気合の気。

 健気な管理人、ヨシヒトです。こんばんは。

 という冗談から始まるこの日記ですが、とってもマジメな内容です。
 でもお願いだから、ここで帰らないでね!

 ご存知ですか?
 健気という言葉には、「弱いけれど頑張る」という一般的な意味のほかにも、健康とか勇ましいという意味があることを。
 このことを知らなければ冒頭の文章を読んだとき、「ああ、健気の意味にそぐわない言葉で漢字を教えるというジョークだな。つまらないけど。」と思うかもしれません。でも全ての意味を知っていればジョークだと気付かず、「ここの管理人は、一体何が言いたいんだ?」と思うかもしれません。

 というように、どんな発想や行動を行えるかは、その人の教養が大きく関係してきます。一般には「まじめで教養のある人は、自由な発想力に欠ける」と思われているようですが、知らないことは考えようがないのですから、その逆だってあるわけです。だからこそ「まじめで理論家=頭が固い」と考えている人を見ると、「おいおい、そんな風にしか物事を考えられないのか? 頭固いなぁ。」と思ってしまうのです。

 豊富な知識と十分な理解力があれば、たしかに「ちゃらんぽらんな事は考えつかない」という、発想の制限ができてしまいがちです。でも「結果に繋がる発想」というのは、その制限された中にしか存在しないのですから、発想の幅を狭めることは必ずしも悪いことではなく、むしろ効率よく優れた結論を出せるという利点があるはずです。
 もちろん必要以上に発想の幅を狭めてしまうことは良いことではありませんが、それを防ぐために役立つのも教養です。例えば冒頭の文章だって、「これを書いた人は、健気の本来の意味を知らないんだな」ということまで考えることができれば、それがジョークだと気付くことができるのですから。

 というわけで、教養というのは幸せの妨げになるものではなく、あればあるほど良いものだと考えています。私がこのサイトで、「もっと学ぼう」「もっと考えよう」と自信たっぷりに書いているのも、こういった裏付けがあるからなのです。
 ほんの少しでいい。誰もが学び考えることに関心を持つようになれば、世の中はずっと幸せになるはず。そう信じて自分の自由時間を削り、こうしてテキストを書いている私って、なんて健気なんでしょう。

 A : あ、もう一回教えて。“けなげ” って、どんな漢字だったっけ?
 B : 健忘症の健に、気がかりの気。

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≪宝くじの確率≫

 当らないと思いながらも買い続け、莫大な賞金に夢を見る宝くじ。でも実際にどれくらい当るものなのか、きちんと分かっている人はほとんどいないのではないでしょうか。
 ということで、知りたい人が多そうなことを計算してみました。ちなみに元になるデータは、宝くじの公式サイト(2005年の年末ジャンボ)に書いてあったものを使っていますが、くじにも同じことが書いてあるはずです。
 参考のために表を掲載しておきますが、それ自体は重要ではないので、読み飛ばすことをお薦めします。

1ユニット(1000万枚)あたりのデータ・・・通常は74ユニットあたりで表示されています。
本数 賞金額(円) 本数×賞金額(円)
1等 1 200,000,000 200,000,000
前後賞 2 50,000,000 100,000,000
組み違い賞 99 100,000 9,900,000
2等 3 100,000,000 300,000,000
3等 10 5,000,000 50,000,000
4等 10,000 10,000 100,000,000
5等 100,000 3,000 300,000,000
6等 1,000,000 300 300,000,000
特別賞 100 600,000 60,000,000
外れ 8,889,785 0 0
合計 10,000,000   14億1990万

 注目してほしいのが、太字で書いている約14億円という数字です。これは購入者に支払われる賞金の総額です。宝くじ1ユニットを買い占めるために必要な金額は、「1000万枚×300円」ですから30億円。つまり売上の半分も還元されないことになります。ギャンブルである競馬の場合で7〜8割くらいの還元がありますので、宝くじはギャンブルよりも割に合わないということになるのです。

 もう1つ重要なのが、元を取れる確率です。今度の表は、じっくり見てください。

購入数 投資額 元を取れる確率
1枚 300円 11%
10枚 3000円 1.1%
100枚 3万円 0.002%
1000枚 30万円 0.001%

 見事なものですね。なぜこれほど悲惨な確率になるかというと、1等、2等、前後賞の合計6本のために、売上総額の20%、賞金総額の42%にあたる6億円もかけているからです。これでは数十万円〜数百万円の “中当り” を増やすことなんてできません。・・・1つ目の表を見直してみるとできそうな気もしますが、きっと経費の問題でできないんでしょう。・・・た、たぶん。
 つまり宝くじとは、大勢の人から資金を集めて極一部の人を億万長者にするという、不可解な存在だといえます。法的に認められているとはいえ・・・何か引っかかりませんか?
 そこでお次は、幸運を手にした場合のお話です。

 一般のサラリーマンが一生の間に稼ぐ金額は、1.5億〜2億程度だと言われています。・・・が、私のように派遣会社の契約社員で、しかも残業や休日出勤が少ない人だと、1億円にもなりません。
 1日8〜10時間、週に5〜6日、それを40年続けてもその程度。そんな仕事だって結構大変なものです。でも宝くじは、運だけで同程度のお金を手にすることができるのです。

 運というものは、それほど価値があるものなのでしょうか。運命というものを信じる人はいますが、それは先入観や誤解が生み出すまやかしのようなものにすぎません。運命など存在しなくても、運命としか思えないような偶然は確率的に起こりうるのです。そしてそんな偶然が多くの恵まれた人を生み出し、多くの恵まれない人を生み出しているのが今の世の中です。これ自体は必然的なことであり、どうにもならないことですが、可能な範囲で格差をなくしていくのが人権を尊重するということであると思います。
 でも宝くじは・・・40年分の労力に相当する偶然を、人為的に作り出しているのです。

 だから私は宝くじを買いません。自分の人生を、運にゆだねたいとは思いませんので。
 でも宝くじを買う人を止めようとまでは思いません。どうせ買ったところで当らないのですから。それに「1億円当ったら何を買おうか。」などと想像して楽しむためにお金を使うことは、プロスポーツやコンサートを見るために入場料を払うのと同じことなのですから。

 非現実的な確率で、非現実的なお金が手に入るからこそ夢を見られる。それが宝くじというものだと思います。だから「宝くじは夢を買うもの」という言葉は、99%正しいと思っています。
 でも宝くじが、毎年何百人もの億万長者を生み出しているということも事実です。もし買ったものが夢ではなく現実だったとしたら・・・。あるいは買いたいものが夢ではなく、初めから現実だったとしたら・・・。
 宝くじに夢を見る人が、現実から逃げたいだけではないと願いたいものです。現実から目を背けて幸運に期待する生き方では、幸運に恵まれてさえ幸せをつかめないかもしれないですし、なによりも現実と向き合って生きている人に、迷惑をかけることだってあるのですからね。

【おまけ1:ギャンブルの仕組み】
 宝くじや競馬などの場合、当ったときにもらえる賞金は、参加者が出した掛け金から支払われる。分かりやすく言えば、胴元(経営者)1人と参加者10人でギャンブルをする場合、参加者10人が出し合ったお金を、胴元を含めた11人で取り合うようなもの。胴元は必ず一定の金額を手にするのだから、ほとんどの人が損をするのは当然といえる。


【おまけ2:宝くじ】
 “よく当たる店” というのが注目されるが、これは実際にはマヤカシだ。宝くじのような運100%のものでも結果に偏りが出るのは当たり前のことであり、そのため偶然よく当たった店と、当たらなかった店ができる。そしてよく当たった店はそれを宣伝するから売上が伸び、大量に売れた分だけ “その店から” 当たることが多くなる。が、くじ1枚あたりの当選率はまったく変わらない。

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