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≪飲酒の害≫

 1月といえばお正月や新年会があり、社会人はお酒を飲むことが多くなるわけですが、アルコール飲料というのは、一般に思われている以上に問題の多い飲み物です。年齢制限があるのは誰もが知っていることだと思いますが、理屈ですべてを決定するのであれば、大人だって飲んではいけないものです。なにせアルコール飲料というのは、その害の大きさゆえに、「酒類」という特別な分類を作らなければ、食品として扱うことができないのですから。よく食品添加物や残留農薬の害を気にする人がいますが、それらは少しくらい含まれていても、例外処置に頼ることなく食品として扱うことが可能です。つまり例外的な存在であるアルコール飲料は、それらよりもずっと害が大きいというわけです。(注)

 お酒は「百薬の長」などとも言われますが、実際には怪しいもの。お酒を飲むことで本当に幸せになれる人というのは、次の条件をすべて満たしている人だけでしょう。

 * お酒をおいしいと思う。
 * アルコールに強い体質。
 * 自分の限度を正しく理解している。
 * 決して限度を超えて飲まない。
 * そんな飲み方でも満足できる。

 こんな人、一体どれだけいるでしょうね。私の知人にもお酒好きの人は大勢いますが、ムチャな飲み方をされると、こちらの方が心配になってしまいます。

 もちろん、たまに失敗しながらも、楽しくお酒を飲んでいる人は大勢います。料理に使えば、お酒の良さだけを生かすことも可能です。ですからお酒や飲酒そのものを否定するつもりはありません。それでもお酒の害は、もっと多くの人が関心を持たなければならないことだと思います。酔って人に絡んだり、事故を起こしたりするのも問題ですが、気付きにくいところでは、自分が病気になることで他の多くの人に迷惑をかけるというのもあるわけですから。
 だからこそ、世の中のお酒好きの人と、お酒に興味をもっている学生さんに言わせてください。
 ただでさえ忙しい医療関係者の仕事を、さらに増やすのは止めませんか?
 ただでさえ火の車の医療保険制度に、油を注ぐのは止めませんか?

 酔って騒ぎたい気持ちは分かりますが、その影では多くの人が苦しんでいることを知ってください。医療関係者だって、世のため人のためだけに生きているわけじゃないんですよ。彼らだって、ごく普通の人間なんです。休日返上で仕事なんてしたくないはずですよ。中には仕事を忘れて、新年会で酔って騒ぎたい人だっているんですからね!

 ・・・しまった、オチを間違えた。

注:添加物や農薬と、アルコール。どちらが有害かというと、もちろん量次第。ここで書いたのは、あくまでも「一般的な食品」での話。例えばアルコールを含んでいても微量であれば、通常の食品(飲料)として販売することができる。・・・というか、「この量までならOK」という制限があること自体、アルコールが添加物と同様に扱われている証拠だ。

注の注:アルコールの毒性は、添加物や農薬とは比較にならないほど弱い。しかし比較にならないほど大量に摂取することになるから、色々と問題がおこるわけだ。


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≪得な人、損な人≫

 私は滅多にお酒を飲まない。理由は簡単、好きじゃないから。その理由は、お酒には害があるからではなく、おいしいと思わないからだ。
 私はお酒をほとんど飲まない。だから一度として、酔って人に迷惑をかけたことがない。でもそのための努力や苦労は、全くしたことがない。なぜならお酒を飲まないことは、私にとって最も都合のいい選択なのだから。

 さて問題です。お酒に関して、私は立派な人間だといえるでしょうか?

 この答えはどうでもいいのだけれど、似たようなことはよくあるように思う。模範的な行動をしている人と、そうでない人。両者の違いには、今の話のような “たまたま” が大きく関わっているような気がしてならないのだ。

 好き勝手に生きていれば善人として尊敬される、得な人がいる。
 好き勝手に生きていれば悪人として忌み嫌われる、損な人がいる。
 好き勝手に生きているから人に迷惑をかけているのに、同じ事をしている人が大勢いるから非難されることのない、得な人がいる。
 好き勝手に生きていれば人に迷惑をかけてしまうことを自覚しているから、他の人がしないような努力や苦労をしている、損な人がいる。

 得な人と損な人。この違いはもちろん得か損かであり、良し悪しとは関係ない。しかし得な人ほど良い人だと思われやすいのは間違いない。だから得な人はますます得をする。
 こんなことを考えながら世の中をながめてみると、これまでとは違って見えるのではないだろうか。

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≪障害とは≫

 私が競馬好きだと言ったら驚かれるだろうか。いや、そうでもないかな。このサイトにはゲームコンテンツもあるわけだし。
 競馬好きといっても馬券は買わない。私が興味を持っているのは、スポーツとしての競馬だ。・・・こんなファンばかりじゃ、競馬は成り立たないけれど。

 ところで、馬は何色かご存知だろうか。
 答えは、色々。個体差が大きいのだけど、一般には8つに分けられている。
 その1つに “白毛” というのがある。でも「白い毛の馬=白毛の馬」ではなく、一般的な白い馬というのは、実は “葦毛” の馬。葦毛というのは白い毛が混ざっていて灰色っぽく見えるのだけど、年とともに白い毛の割合が多くなり、馬によっては真っ白になるのだ。白髪みたいなものだろうか?
 では本物の白毛の馬というのは何かというと、それは極まれに生まれる突然変異の馬。つまり先天性の色素異常という、障害を抱えた馬なのだ。

 白馬というと、いいイメージを持っている人が多いのではないかと思う。でもその正体は障害。なのに人間にとって都合がいいから、それを障害と呼ぶことはまずありえない。真っ白なアオダイショウ(ヘビの一種)であるシロヘビなど、神の使いとされているくらいだ。
 人間の障害だって、これと同じではないだろうか。普通とは異なるもののうち、都合が悪いものを障害とよび、都合が悪くなければ障害とは呼ばない。才能と呼ばれることさえある。その違いは、都合の良し悪しだけだろう。

 でも “普通とそれ以外” や、“都合の良し悪し” の境目はどこにあるのだろう。むろん、そんなものはない。人間が勝手に作っているだけだ。だから障害者が、そうでない人よりも劣っているとは限らない。欠点があってもある程度は補うことが可能だし、長所をどれだけ生かせるかも人それぞれなのだから。

 障害には、運も大きく関わっている。障害を補う手段は、その人の能力や努力だけではないのだから。例えば私は生まれつき目が悪いが、コンタクトレンズをすれば普通に見える。だから障害者とは呼ばれない。でも今の日本にメガネもコンタクトも存在しなければ、私は軽度の視覚障害者となっていたはずだ。
 それから私のタバコ恐怖症。認定されているわけではないが、これは後天的な障害のようなものだろう。でももし今の日本にタバコがなかったら、私は余計な苦労をすることなく、普通の生活を送れたはずだ。

 障害というものの正体は、実はこのようなものなのだ。障害者差別というのがあるけれど、それを無くしていくためには、このように障害の正体を知ることから始めなければならないのではないだろうか。

 ということで、予告なしのマジメな話はこれでおしまい。競馬の話に戻るのだけど、私が競馬に興味を持つきっかけになったのは、とある競馬ゲームを、競馬も競馬ゲームも好きな友人から勧められたこと。携帯用も出ているので、ヒマな時にはこれで遊んでいる。
 そのゲームで、ついに白毛の馬が生まれた。このゲームでも、白毛は一種の突然変異だ。でも珍しいから誰もが望む。
 誰もが望む障害を持った馬。それが白毛だ。ほんと、世の中運だよなぁ。

 ちなみにこの馬、能力的にもそこそこ恵まれていた。何度もやり直したとはいえ、G1という最も格の高いレースを6つも勝ったわけだから。でもこの馬が白毛でなかったら、そしてあんな名前を付けなかったら、何度もやり直すことはなかっただろうから、おそらく1つ勝てたかどうかだろう。ほんと、世の中運だよなぁ。

 え、その馬の名前?
 ノースモーキング号さ!

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≪学校教育≫

 今の世の中にはいろいろな問題があるけれど、そのほとんどに大きく関わっているのが教育だ。学校教育という、教育そのもののやり方が問題になっているのだから、教育の成果である「そのほか全て」がうまくいかなくても、何の不思議もないと思う。
 だから学校の教師というのは、よく批判の対象になる。でも私は、教師を批判することには納得できない。
 その理由の1つは、批判している人の多くが、ダメ教師と同じような生き方をしていると感じているからだ。「会社員だって、やってることはメチャクチャじゃないか! なんで教師や医師や警官ばかりが、そんなに非難されるんだ!? 責任の重さは一般の会社員だって同じだぜ! あんたら、それに気付いているか!?」

 理由の2つめ。それは教育問題は、教師よりもむしろ一般の人が足を引っ張っていると考えているからだ。と書いただけでは分からないと思うので、記憶と想像をたよりに、教師の仕事を大雑把に書いてみた。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

【教師の学校での一日】
 8:00  8:30  職員室で朝礼など。
 8:30 17:00   授業関連。教師にとっては、教室での食事も仕事の一部。
 17:00 19:00   部の指導。
 19:00  テストの作成や採点、翌日の授業の準備など。

 忙しい! 時間がない!
 いつ自分を磨けばいいんだ!? いつ上司と協議すればいいんだ!? 生徒一人一人と、いつ触れ合えばいいんだ!? どうすれば、そのための時間を作り出せるんだ!?

 生徒に自習させるか? 授業の準備をほどほどにするか? いや、それでは本末転倒だ。
 休日返上で働くか? いや、休日も部活がある。休日返上なんて、以前からやっている。
 すると、今の自分にできることは・・・

 最低限の授業と部の指導をして、あとは生徒が自主的に学んでくれるのを祈るのみ。
 ・・・ああ、自分はなんてダメな教師なんだ。もっと力があれば、ちゃんとやっていけるのかもしれないのに・・・

【結果】
 うつ病になってカウンセリング通い。教育どころではなくなる。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

 程度はともかくとして、実際にこんなパターンが結構あると言われています。それも多少の自己犠牲はいとわない、教育への情熱を持っている人を中心に。
 どんなに才能があっても、どれほど頑張っても、ムリなものは絶対に無理。つまり初めから能力ややる気に欠ける教師だけでなく、理想の教師を目指して日々努力している人だって、外部の人間から見ればダメ教師に見えてしまうことがあるわけです。

 ところで、理想の教師を目指している教師って、多いと思いますか? 少ないと思いますか? データを全く持っていないので想像でしかないのですが、私は多いと思っています。少なくとも、理想の会社員を目指している一般の会社員よりは、ずっと。
 教師って、ほとんどの人が特別な職業だと思っていますよね? それは教師を目指す人も同じはずです。それでも夢と情熱を持っているから教師になる。だから教師とは、「その仕事がしたい」、「少しくらい自分の幸せを犠牲にしても構わない」と思っている人の割合が多い職業ではないかと思っています。
 でもどんなに情熱があっても、理想的な教育を行うのは、仕事の量的にほぼ不可能。部活動に関わらなければ可能かもしれませんが、それでも残業と休日労働は必須です。

 教育者側でどうにもならない状態ならば、あとは生徒側が協力するしかありません。教師の余計な負担をなくすためには、あまりにも子供じみた行動は避けるべきです。教えてもらえないことは、自分から学ぼうとするべきです。自分に都合の悪いことがあれば、それを不満ではなく疑問としてとらえるべきです。
 でもこういったことは、社会人でもほとんどできていないのが現状です。大人でも考えられないことを、子供に考えさせるのはムリな話です。すると考えることが当たり前となるように、家庭でのしつけから始めなければなりません。そうすると、より良い学校教育を望むのであれば、そして世の中に不満があるのであれば、教育とは無縁と思われる一般の人、つまり、娯楽サイトや友人のサイトしか見ないような人の意識も変えなければならないわけです。

【まとめ】
 批判される側が、何も分かっていないとは限りません。批判している側がそれを知ることも大切なのではないでしょうか。そういった意味でも、こういった娯楽サイトで真面目な話をすることや、掲示板で素人が不毛とも思える議論をすることって、意外に重要なんじゃないかなーと思うわけです。もっともやりすぎると、もともと興味を持っていた人以外はみんな逃げていきますけどね。だからそれを防ぐためには・・・ためには・・・えーっと・・・Zzz・・・

(管理人が力尽きたため執筆終了。めんどくさくなって止めたわけではありません!)

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