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≪純粋な人≫

 純粋な人ってどんな人を指すんだろう。以前の日記で「純粋な心を無理なく持ち続けられる世の中こそが理想」と書いては見たものの、何かが引っかかっていた。理屈系情操教育サイト(笑)の管理人として、現実味のない理想論など唱えたくはない。しかし感覚的にではあるが、あの言葉が間違っているとは思えない。そこで考えてみたところ、やっぱり正しいんじゃないかな? という結論に達した。
 ややこしい話で申し訳ないのだが、禁煙推進サイトらしい例をあげて私の考えを書いてみたい。

 問い:次のうち、もっとも理想的と思われるのはどれですか。

 1.喫煙は一種の文化であり、タバコはいつなんどきでも自由に吸えるようにする。
 2.喫煙は吸わない人にも大きな害を与えるため、麻薬に指定して禁止する。
 3.吸う人と吸わない人が共存できる世の中を目指す。

 普通に考えると、正しいのは「3」だろう。でも本当にそうだろうか。
 共存を目指すならば全ての人が平等でなければならないが、そのためには喫煙者は、喫煙のせいで出した損失を補わなければならない。しかし喫煙の害はあまりにも大きいため、損失を補おうとすると、喫煙者は生活ができなくなってしまう。つまり共存を目指すと矛盾が生じてしまうのだ。(注)

 このように、「良さそうなこと」が「良いこと」であるとは限らない。そしてそれを見分けるためには、真実を知る必要がある。
 さて、純粋というのはどんなことだろう。さきほどの問いに「3」と答えることだろうか。いや、それには単純という言葉が相応しい。むしろ「2」と答えることではないだろうか。正しいことを正しいと言う。間違っていることを間違っていると言う。そしてそのために、きちんと物事を考える。それが純粋ということではないだろうか。

 例え世の中が善人ばかりで、人をだまそうとする人がいなかったとしても、間違うことはある。だから私はこう考える。
 だまそうとする人はいない。でも人の言うことを鵜呑みにする人もいない。それが理想。
 理想の世の中を作ることは不可能だが、それに近づけることは可能。だから、そのために生きている人が報われる社会こそが、現実的な理想。
 そう信じて生きる人を、純粋な人というのではないだろうか。

 ・・・辞書に載ってることと違うけどね。

注:タバコの害について詳しく知りたい方は、このサイトのエセコラム、またはリンク集(生活関連)に掲載しているサイトをご覧下さい。

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≪生きる意味≫

 タバコ恐怖症を抱えて暮らしていると、「もうダメかもしれない」と思うことがある。それが原因でうつ病になったときには、「もう生きていけないんじゃないか」「死んでしまった方が楽になるんじゃないか」「このまま眠ったら、もう2度と目を覚まさないんじゃないか」と何度も考えた。それも10回や20回ではない。
 実際にはうつ病は、そこまで酷い病気ではない。直接命にかかわることはないし、辛さそのものも普通の発熱と同等か、ややマシなくらいだろう。それなのにこんなことを本気で考えてしまうところに、うつ病の真の怖さがある。そして本当に死を選んでしまう人もいる。

 現在の私は、うつ病自体は完全に治っている。しかしタバコ恐怖症ゆえに、人と同じように生きることは難しい。それでも働かなければならないから無理をするようになり、時として激しく落ち込むこともある。
 先日も仕事中に、「もうダメかもしれない」と本気で考えた。生きる、死ぬといった大仰なことではないが、「もう働けない」「会社を辞めたら、この先どうなるんだろう」と。
 このようなことを考え始めると、落ち込みが加速して悪循環を引き起こす。そしていつかはうつ病などにつながるだろう。今のうちに、迷いを断ち切らなければならない。せめて空元気でもだして、気持ちを切り替えなければ・・・。

 そう思ったとき、私は吹き出しそうになった。高校時代のことを思い出して・・・

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

 私は高校生のとき、軟式テニス部に所属していた。
 先輩が引退し、私の学年が最上級になったとき、当然ながら新しいキャプテンが選ばれることになる。しかし私たちの年は、おそらく類を見ないであろう決められ方をした。
 キャプテンに最も相応しいと思われる人はいた。テニスがうまく、お調子者で誰からも好かれ、勉強もまずまず。しかし問題なのがサボリ癖。たいした理由もないのに練習を休むことは珍しくなかった。
 監督はきっと悩んでいたのだろう。だからこそこんな決断を下したのだろう。監督は部員全員の前で、その人にこう言った。

 「おい、キャプテンになるか退部するか、どっちか選べ。」

 こうして彼は、私たちのキャプテンになった。
 しかし私たちの部は、普段は陽気でも練習は黙々とする人が多く、はたから見ると活気が感じられなかったのだろう。ある日、練習後のミーティングで、監督に空元気でもいいから出せと言われた。正論だ。スポーツは修行ではない。好きでやっていることだから、楽しくやった方がいいに決まっている。そして楽しいと感じられるからこそ、無理なく真剣になることができるのだから。
 そして監督の言葉の後は、キャプテンの言葉で解散となるはずだった。しかしお調子者のキャプテンは、意図的かどうかは分からないが、彼らしいメイ台詞をはいた。

 「監督に言われたとおり、空元気を出して頑張りましょう!」

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 記憶の中のこの言葉で、頭の中を渦巻いていた悩みは吹き飛んだ。
 笑えるうちは、まだ頑張れる。そう、まだまだやれる。ここで挫折するわけにはいかない。

 笑えるって素晴らしい。
 最近では笑いの健康効果が注目されており、「健康のためにも笑いましょう」なんて言う人もいる。でも笑うのに理由なんていらない。笑うことは手段じゃない。目的だ。笑いたいから、楽しく暮らしたいから、そのために何かをするのだ。仕事だってそうだ。他の人が楽しく生きるのに必要なことをして、その見返りに自分が楽しく生きるためのお金を貰っているのだ。

 「あなたは何のために生きてるの?」
 笑いたいから生きている。みんなで笑いたいから、これからも生きていく。
 単純なことじゃないか。

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≪血液型と性格≫

 知人「O型ですか?」
 私「O型ってどんな性格なの?」
 知人「ええっと・・・おおらかで、のんびりしていて・・・。」

 実世界の私は、こんな風に見られているらしい。これ、当たっていると思う。でも私は自分の損や他人の失敗は気にしないが、理不尽なことは我慢できない性格なので、実際にはおおらかであると同時に狭量でもある。それに「おおらかでのんびり」は、短気でそそっかしいという欠点を抑えるために、意識して作り上げた部分も大きいので、後天的なものともいえる。私がO型的な性格なのは、単なる偶然にすぎないのだ。

 血液型による性格診断を信じている人は多い。でも血液型と性格の関係を少しでも知っている人はほとんどいない。例えばABO式とRh式(+,−)が有名なのは輸血の時に重要になるからでしかなく、血液型の分け方そのものは何百種類(もっとかも)もあることや、血液型と性格の関係を肯定する説は全て筋が通っていないことなど、血液型性格診断を否定できる根拠は山のようにある。逆に、なぜデタラメな性格診断を多くの人が信じてしまうのかということについては、筋の通った説明をすることができる。
 もし仮にABO式の血液型が性格に影響するとしても、性格を左右する要因は他にいくらでもあるから、影響力がゼロに等しいのは明らかだ。例えば育った環境や人生経験が性格に大きな影響を与えることは、誰もが知っていることだと思う。つまり血液型で性格が分かるのだとすれば、これらの影響を否定しなければならなくなるのだ。

 と書いていると、私の性格が診断通りなのを必死に否定しているように思われるかもしれないが、現実はこうだったりする。

 私「B型なんだけど。」
 知人「えっ!?」

 ・・・なにも、そこまで驚かなくてもねぇ。

【注】
 B型の人は、自己中心的でワガママといわれている。しかしこれが正しいとすると、自己中心的でワガママな人は2割しかいないことになってしまう。そんなわけはないのだが、誰もこのおかしさに気付かないのだろうか。血液型と性格が無関係であることに気付くのに、専門知識なんていらないのだが。


【後日追記】
 血液型と性格の関係については、過去に何度か大規模な統計調査が行われ、いずれも関連性なしという結果が出ているのだそうです。性格というものは本人でもよく分からない部分が多いものですから、本当に信頼できる調査が行えていたかどうかは分かりませんが、少なくともこれが現在の日本における最も信頼できる常識です。ちなみに外国における常識は、「関係があるという話なんて聞いたことがない」と言うものらしいです。

 では日本人の中になぜ関係があると思っている人が多いのかと言うことですが、これは本やテレビの情報を鵜呑みにしてしまう人が多い(これは世界共通)ために、過去に関連性をうたった根拠のない説(ヘリクツ)が広まった結果ではないかと思っています。その結果、関係あると思っている人が大勢いるという世の中で現代人が生まれたため、「関係あるかもしれない」「関係あるはずだ」という価値観を持って育つ人が多いのは自然なことだと言えます。そして人間は先入観をもとにして後の学習を行うため、自分の常識に合うことを捜し(小集団の血液型分布など)、合わないことを例外(あるいは過ち)だと判断してしまいます。自分の常識を正しいと思ってしまう(正しいと思えるように現実をゆがめて解釈する)のが人間と言うものなのです。
 そのうえ人間は、おそらく誰でも二面性を持っています。もしかしたら三面以上あるかもしれません。そのためほとんどの人はどんな血液型にも当てはまる性格といえるし、どんな血液型にも当てはまらない性格ともいえるわけです。そしてほとんどの人は性格診断を少しは信じているわけですから、性格診断本の内容を自分の都合がいいように(関係があるように)解釈し、当たっているように感じてしまうのです。
 ちなみに私も性格診断本を読んだことがありますが、読み手によってどうとでも判断できるいい加減な(良く言えば巧妙な)ものでした。

 血液型と性格の関わりという(おそらく)誤った常識が広まっている結果、血液型だけで他人の性格を判断してしまう(先入観を持ってしまう)人が少なくないという事実があります。その結果、誰だって二面性があるものなのにAB型の人だけが二重人格だと思われたり(二面性と二重人格は実際には全くの別物ですが)、B型であるだけで嫌われたりする人がいたりするわけです。血液型と性格の関係を信じるということは、人の本質を見誤る危険性を高めるだけであり、メリットがあるとは思えません。


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