第六章 「 星の巫女 」
第一節 【密命】


フェリスは天秤樹の葉から作られる普通のお茶を優美な口に寄せながら、目の前に座る赤い髪が印象的なファルの話をうわの空で聞いていた。彼女が語るのは、メルカ王国宮殿に向かって最近の王都内に起きた事件を調査したエルダとクーノの報告。特に、騒がれている貴族の連続惨殺事件についての王都警護院の見解を伝えている様子。宝珠を持ち身を隠しているだろうオルデリスに繋がる足取りを掴むための、地道だが大切な仕事。フェリスにしてもそれを軽んじる気持ちは微塵もなかったが、それ以上に彼女の心を占有してしまう別の気持ちで頭がいっぱいだった。

午前中の講義が終わり、昼休みにフェリスは予定通りに調査報告を受けるためファルと緑に溢れる学院の中庭で落ち合っていた。ファルは貴族クローリス家の主人に昼食を届ける侍女役で、女性らしさを強調した緋色のドレス姿。魔闘士を誇りに思うファルにとっては不本意なのだろうが、端正ながら何処か女性らしい曲線を感じさせる容姿にはとても良く似合う。ファルの一途な純真と高い処理能力は、将来愛する人と連れそう事になってもその真価を発揮して、きっと素敵な伴侶となれるに違いない。念覚導師として異性との交わりを許されないフェリスは羨ましく思う。例えいくら好きになっても、触れ合うことが叶わない事は彼女が念覚導師であり続ける限り続く。肌を重ねることは出来なくとも、心でなら繋がり合えるフェリスだったが、いま彼女が想いを寄せる彼とはそれすら出来ない事情があった。

今にして思えば、フェンレード学院に潜入する使命なら学院生の年頃らしい彼と出会うことは自然なのだろう。魔術は使えないながらも強い魔力を感じた彼なら魔術教学院の生徒であることも不思議ではなかった。この学院の結界で初めて彼に会った時に、再び会う事に思い当たらなかった方が不自然なのかも知れない。フェリスがこの学院を訪れた時に感じた、強い輝きながらどこか穏やかなクオンの魔力。治療院で別れてから二日も過ぎていないのに、それは彼女をずいぶんと永い間逢っていなかったような気にさせる。視界では捉えられないが、その気になればすぐにでも会える距離に、可憐な胸が高鳴りの鼓動を響かせていた。

彼女の心の中に住み続ける心像ではなく肉体を持った本当のクオン。たとえ心を通じ合わせることが叶わなくとも、全てを投げ出してひとめ彼に逢いたいという気持ちを抑え切れなくなる。けれど、敵の中枢近くに潜入せんとするこの大切な時に身勝手な動きをとる訳にはいかない。密命とはいえ、この作戦の成否にはファル達やアマルザ聖導師をはじめとする魔鏡導師院の命運がかかっていたから。それでも、感情を押し殺して任務に集中しようとするほどに、念覚で捉えられるクオンの動きが気になった。彼はこの学院でどのように日々を過ごしているのだろう。仲の良い友達に囲まれているのだろうか。真面目に勉学と魔術に打ち込みながら何を感じているのだろう。もしクオンが同い年で、自分に念覚の力が現れていなければ、今頃彼とこの学院で机を並べいっしょに時を過ごすことが出来たのかも知れない。

本当ならクオンの命を救うはずの宝珠を奪え返してから会うべきだった。不用意に近づいて、心の会話を繰り返していたら…いつかは胸のうちに秘めた彼の運命を読み取られるかも知れない。それ以上に、身近に彼の存在を感じながら心を合わせることが出来ない悲しみに自分が耐えられないような気がする。けれど、彼女の姿を偶然であれ見かけたクオンが、学園内を探し回ったり、講堂で会った時にフェリスの名を呼びかけてくれた事に感激して、知らぬふりを押し通すことは難しかった。

あの講堂の場所で、二人は壇上と聴講席の一角に遠く離れながらも心の声で伝え合っていた。クオンが結界で彼を助けた理由を問い質した時、フェリスは自分が言葉にしようとは決して思わなかった気持ちを彼に伝えてしまったことに呆然とする。

(自分からあんなことをクオンに伝えるなんて…)

今思い出しても、羞恥に白い頬が赤らむよう。彼もまたフェリスを求めるかのような様子だけれど、直接にそういった気持ちを伝えられた訳ではない。もしかすれば、自分が一方的に思い込んでいるだけで、彼にとってはまったく違った理由で会いたがっているだけなのかも知れない。決して軽い気持ちではなかった。フェリスが心の底から想っている大切な気持ち。だから余計に、つい彼に伝えてしまったことが気にかかる。結界の中で心を通じ合わせたとき、恐らくは自分の存在の一部は感じ取ったに違いないけれど、彼の意識があるうちでは二回しか会っていない。名前さえ知らなかった他人に大切な人だと、突然告白されたクオンはいったいどう感じたのだろう。強い感情を一方的に押し付けられるのは迷惑なことに違いない。あの瞬間、彼は心の言葉も返さずにただ目を見張っていた。

講堂はそれほど魔力の密度が高い場所ではなかったから、結界の中のようにクオンの気持ちをフェリスに伝えることがなかった。漠然と驚きの感情は伝わるが、その言葉に彼がどう感じたのかを知ることは叶わない。嬉しかったのだろうか、それとも戸惑っていたのだろうか。あのあと、ライエルの声を聞かなければ…彼からその返事を伝えられたかもしれない。それはいったいどんな返事になっていたのだろう。同意、それとも拒絶…。答えの出るはずもない問いかけに、なおフェリスは想いを巡らせる気持ちを抑えることが出来なかった。



クオンへの想いに捕らわれたフェリスと、敵中での緊張に高まるファルだったが、可憐な貴族令嬢と美しい侍女が優雅に昼食を摂る姿は、まるで一枚の名画のように平凡な緑の丘を飾って学院生達の憧憬の視線を集めていた。

 「どうして…わたしが?」

 貴族の侍女に扮している護衛士のファルが、食事の後片付けをしながら茜色にきらめく瞳を丸くする。彼女の目の先には、普通の女子学院生の制服を身にまとったフェリスが艶やかな黒髪の背を向けて立っていた。

 (他に…頼める人が居ないから。お願いだからファル、クオンを護衛して欲しいの。)

 「しかし…フェリス様の警護が最優先だと考えます。ここは、敵地にあって最も敵に近いと予想される場所。わたしはこれ以上ないぐらいに神経を尖らせて警護しているのです。エルダとクーノにも情報収集の任を与えて、警護の任から外している事さえも危険だと思っています。このうえ、わたしが別な者への警護に意識を裂かねばならないのだとすれば…フェリス様に万が一の事態が起きたときの対応が遅れる危険が大きすぎます。」

 フェリスの小さな光の文字を、手のひらの上で読んだファルの口調が硬くなった。警護隊長としての責任もあるが、何よりフェリスの安全を気に病む気持ちが納得しない。例え当人から懇願されても、誰とも知れぬ男の警護の為に大切な人の命を危険に晒す事など論外だった。

 (それは分かっているわ。でも、ファルが考えるほどの危険はないと思う。わたしも一応念覚導師だから、害意を持った魔力に危害を加えられるほど近寄られる事はないの。まして、魔力も魔道技術も貧困な訳ではないのですから…そう簡単に敵に打ちのめされはしません。)

 ファルが必要以上に危険に気を配っている様子は告げられなくとも知っていた。時に窮屈なほど心配を寄せる。それが、何も言わずに彼女の前から姿を消した自分の責任だとも感じていた。クオンのことがなければ、決して彼女に伝えはしなかったろう。

 「けれど、敵の正体が分からぬ以上はどのような危険がふりかかるかも知れません。もしも、フェリス様に何かが起きてしまってからでは遅すぎるのです!」

 ファルがクオンを知らないのは当然だった。フェリスが彼を失うことに耐えられない程に想いを寄せているとは想像もつかないだろう。出来ることならファルにも自分と同じように感じて欲しいと願う自分に気づく。そうなったら、心を通わせることも出来ず、念覚導師の掟に縛られる自分より彼女の方が自由にクオンと親しくなれるのだと思い当たって切ない気持ちが込み上げる。クオンを死なせないために、どれほど試練も厭わないけれど、助けられたとしても念覚導師である限り、彼の心以外のものとは決して結ばれることが出来ないことにさえ深い悲しみを覚えた。

(この学院に来てから念覚の力がわたしに色々なことを教えてくれる。圧倒的な悪意的魔力は感じないからここには敵の巣窟はないのでしょう。けれど、巧妙にそれを隠した存在を感じるわ。数は少ない、恐らくひとりかふたり。そのうちの一人はだいたい察しが付いています、担任の教師セルベルト。彼の不自然な魔力の見え方は何らかの方法で本来の魔力を隠蔽したものです。きっと名前も偽名でしょう。)

 「…その先生が宝珠を盗んだオルデリスと何か関係しているのですね。」

 フェリスは護衛士のファル達にアマルザ聖導師からの密命を知らせていた。本来警護に徹するべき彼女らに教えられる事ではないが、一刻も早く宝珠を取り戻すためには必要な独断。それはもちろん魔鏡導師院の規定に反するもので、発覚すれば罰を受けかねない。クオンと出会う以前のフェリスならそれを破る勇気を持てなかっただろう。けれど宝珠を見つけ出すことに大切な彼の命が賭けられている今、躊躇する間も惜しまれた。

 (確証はありません。けれど、オルデリスがオルアス国で起こした事件と酷似する貴族の惨殺事件が、この学院を中心として起きている事はエルダの調査からも明白です。オルデリスが仮にこの事件に関連しているなら、かつての事件の際もそうであったように研究材料たる人体を得るがために殺害を請け負うという行為を繰り返している可能性は高いでしょう。事実、この学院の学院生が殺害事件と同じ数、時期で失踪しています。)

 「では、セルベルトという男がオルデリスの手先となって事件を起こしているとお考えなのですね。」

 フェリスは艶やかな黒髪を揺らせて頷く。光の文字でファルには伝えなかったが、セルベルト先生とオルデリスが同一人物ではないかとも疑っていた。それは魔鏡導師院の伝道書院で見た彼の肖像画によるもの。出典も明らかでない程度の代物なので明確な根拠にはならないが特異な風貌はまさに見間違いようもない。追っ手にどれほど追われても決して捕まる事のなかった彼なら、一番足の付きやすい他人との接点を誰かに任せることがないのも頷ける。天位ほどの魔力をもつ賢者なれば、僅かな兆候も見落とさず逃走するに違いない。

 (もう、わたし達は敵の一端をつかみ、それを辿って目的の宝珠にたどり着こうとしているわ。だからファルが心配するほどの危険は、この場所にない。もし敵がわたし達に気づいているのなら、決して学院への潜入を許したりはしないでしょう。なんら抵抗もなく、隠蔽の行為さえ見られない事がなによりの証拠です。こちら側から仕掛けない限り敵の攻撃に晒されることはないでしょう。)

 フェリスはファルと視線を合わせないようにして偽りを告げる。セルベルトが懸命に追い求めるオルデリス本人なら、極めて危険な状況だった。彼は狂気に支配されているとはいえ魔道技術に秀でた一流の賢者。身分を偽って近づいてもフェリスが念覚導師であることに気づかないはずはない。それでも何の反応も見せないとすれば、フェリス達に自分達の正体が露呈していることを知られたくないと考えるしかなかった。恐らくは想像もできない巧妙な罠を仕掛けて彼女達を一気に殺害するつもりなのだろう。

 クオンを助けるためなら、どんな危険や罠にも怯むことはないが、護衛とはいえファル達をそれに巻き込みたくはなかった。自分の勝手な理由のために彼女達を傷付ける訳にはいかないと思う。本来なら、オルデリスと思しき者を見つけた段階で魔鏡導師院に報告し、応援を呼ぶべきだった。それをしないのは、その間に再び逃げられる可能性が大きすぎるから。なにより一刻も早く宝珠を奪還しなければクオンの命が危うい。危険は計り知れないが、自分達を罠に嵌めようとするらしいオルデリスの思惑を逆手にとって彼の懐深くに侵入する以外、宝珠のありかを突き止めるチャンスはない。生きて帰れるかどうかも知れないが、悪戯に時を過ごしクオンの死に直面するよりはましに思えた。

 (今は、わたしよりクオンの方が危険なの。彼はメルカ王国の王子ライエルと諍いを起こして命を狙われている。もしかしたら、ライエルはオルデリスの殺し屋を雇って彼を殺害しようとするかも知れない。わたしはセルベルトを慎重に監視しなければならないから、いつもクオンの近くには居られない…だから彼をあなたに守っていて欲しいの。)

 フェリスの光る文字に茜色の瞳を曇らせ、困惑の表情を見せるファル。念覚導師ほどの位を持つ者がどうして名も知れぬ一介の学院生に拘るのかを理解に苦しむ様子だった。

 「…それほどまでに守りたいといわれる彼は、いったい何者なのですか?」

 ファルの率直な疑問がフェリスの耳に届いたものかどうか。漆黒の神秘的な瞳がファルの赤い髪を通り越して遠くを見つめる。すぐに、ファルの白い手のひらに光の文字が躍った。

(ファル、クオンがこちらに近づいて来るわ。)



フェリスとファルが佇む学院の中庭に姿を現せたクオンは躊躇いもなくまっすぐ近づいて来る。わずかに優しげな容貌が強張っているのは、緊張のためなのだろうか。若さに満ちたしなやかな肉体は息も切らせずに丘を登って来る。あの広い胸に幾度か顔を埋めた記憶が脳裏に浮かぶと、柔らかに息づく胸の鼓動が激しくなった。

(どうしたの、クオン?)

傍らのファルを認めて立ち止まったクオンの前に光の文字が舞う。ファルとフェリスを交互に見やりながら、何かを口にすることを戸惑う様子。心の声はフェリスにファルの事を尋ねていた。一緒に彼の心の呟きが伝わる。

(フェリスには敵わないけど綺麗なひとだな…)

軽い驚きに漆黒の瞳をまるめ、白く透き通るような頬が赤らむ。特に容姿を意識することはなかったが、ファルより自分が素敵だと思われていることに嬉しさを感じてしまう自分が恥ずかしい。フェリスが戸惑うように顔を伏せる仕草にファルが我が目を疑う様子を見せる。

「あなたは、どなた?」

二人の間に会話の進行がないのにじれったさでも感じたようにファルが口にする。上品な声音とは裏腹に、緊張に強張った美しい緋色の瞳は、鋭い視線を遠慮なくクオンに突き立てていた。

「…クオン・ファーラントです、はじめまして。」

不審を露わにする優美な姿の女性に対して儀礼的な返答をクオンが返す。ファルの視線はますます警戒の色に冴え、彼の腰に帯びられた漆黒の剣で止まったまま。

(いいのよ、ファル。彼は敵ではないし、わたしたちの事も知っています。彼が信頼できる同志であることは、念覚導師としてのわたくしが保障しましょう。)

光の文字が突然、クオンを睨みつけるファルの目の前に躍る。それは文字を読ませるというよりは、彼女の冷たい視線からクオンを守ろうとしているかのようだった。

「フェリス様!」

護衛士の視界を塞いだ事にファルが小さく非難の声をあげる。あまりにもその瞳に近すぎた強い光の文字に目を覆う。フェリスも予想外の結果に動揺した。普段、意識もせず光の文字を操るためにそれは感情をも表現する。けれど無意識の感情まで拾って勝手に攻撃的な表示をすることなど今までになかった。

(ごめんなさい。だいじょうぶ?)

光の文字を控えめに躍らせながら、心配そうに息をつめる漆黒の瞳がファルを覗き込む。

「ええ、心配いりません。でも、フェリス様が光の文字を操るのに失敗したのは初めて見ました…。いったい何に動揺されているのです?」

この大切な時に一番冷静で居なければならない筈の自分は、いったい何をしているのだろう。フェリスは二人のやり取りに声もなく佇むクオンを見る。彼を救うためにこの使命を一刻でも早く果たさねばならないのに、彼と会うだけでこれほどに心を乱される自分が情けない。

(たいした事ではないわ。少し驚いただけだから。)

光の文字を読んでもファルの納得しがたい表情は変わらないが、念覚導師を驚かせる程の何があったのかを訊ねることもない。彼女は再びクオンに目を向ける。フェリスの動揺の元凶が彼にあるとすでに気づいているのだろう。

「わたしは、フェリス様の護衛魔闘士であり詠唱者のファル・リンノアス。使命があって、この名を他の者に知られることは許されない。くれぐれもわれわれの事は他言無用にお願いする。ご存知とは思うがわれらの使命には、この世界の命運がかかっているのだ。」

声をひそめてはいても、凛とした声音でクオンに告げる。彼は真摯な瞳を向けて静かに頷き、ファルに同意を示した。優美な緋色のドレス姿からは想像つかない程に無骨な言葉遣いに何を感じたにしても、それを表情には見せていない。

「…あなたは剣が使えるようだが、流派を尋ねてもよろしいか?」

挨拶のあと、ずっと漆黒の剣に興味を引かれていた様子のファルが尋ねる。彼女自身も剣の使い手であれば、同じ道の者の匂いはすぐに分かるのかも知れなかった。

「ええ、古神流二剣術のクランスファード師範に師事しています。この剣は師範から譲り受けた物で…本物かどうかは分かりませんが『漆黒の剣』だと言われました。」

クオンは腰に帯びた剣を鞘ごと革帯から外すとファルに差し出す。彼が剣に手を伸ばした瞬間に身構えようとしたファルだったが、変わって驚きに瞳を見張る。剣士にとっての剣は我が身の命にも等しいもの。軽々しく見知らぬ他人に差し出せるようなものではない。剣技もろくに知らぬ者ならいざ知らず、正統な流派の師範に師事した者なら正気を疑われる。

「どうぞ、検分してください。…できうるなら、信頼の証に。」

手を出すことを躊躇うかのようなファルに、クオンは真剣な眼差しを送る。彼はその行為で彼女の疑いを晴らそうとしているのだろうか。自らの剣を差し出すことは、その相手に命を預けることを意味していた。その言葉にファルの緋色の瞳が揺れる。同じ剣士として彼の誠実さを認めない訳にはいかないようだ。剣を受け取ったファルが、クオンとの間合いを外しスラリと漆黒の剣を抜く。

「これが…魔力を断ち切る漆黒の剣…。これは偽物なんかじゃない、本物よ。そう、聞いた事があるわ。遥か昔、ローエン・ライダル帝国の剣神フィリゴン・エルダイムによって開かれた流派。彼はこの漆黒の剣を持ってケニスの神剣を得たと伝えられている…。」

漆黒に煌く抜身に魅せられながら、ファルの端正なくちびるから呟きが漏れる。フェリスはその剣に結界で触れた感覚を思い起こし、再び触れて見たくなった。クオン本人に触れることは叶わなくとも、彼の剣であれば心が繋がる心配もないだろうと思う。

「フェリス様、いけません。これは…彼の剣です。」

無意識のように手を差し伸べたフェリスに、ファルが優しく制止する。たとえ主人に対しても、剣士としての掟は守らなければならない事は分かっていた。恥ずべき自分のあさましさに傷ついたような瞳が、気弱げに伏せられる。

「フェリス…いえ、導師様になら、かまいません。」

ファルの端正な容姿に笑みが浮かぶ。主人の名を呼び捨てにしかけたクオンに対して怒りより親しみを感じたようだ。フェリスを大切に思う同じ気持ちを彼の中に見出したのかも知れない。

再び鞘に収められた漆黒の剣をファルから丁寧に受け取ったフェリスは、白く繊細な両手で優しく華奢な胸元に抱くと、何かに耳を澄ませるように煌く漆黒の瞳を閉じる。彼の剣は血を望む殺戮の道具ではなく、誰かを傷つける者から守るための確固たる強い意志のよう。肌に触れる感覚は冷たい呪石に違いないが、心に広がる純真な暖かさは間違いなく結界で感じた彼の心が生み出すものだった。