第六章 「 星の巫女 」
第二節 【守護】

陶然と漆黒の剣を胸に抱きしめ続けるフェリスを、クオンとファルが互いに目を見合わせて互いの内にその答えが無い事を確認する。古神流二剣術の宝剣とはいえ、それほどまでにフェリスの興味を引く理由が思いつかない。人々の安寧を願い念覚導師は魔術にこそ注意を払うが、人を殺傷する武器に対して排斥はするにせよ興味を引かれることなどはない筈だった。フェリスを良く知るファルにしても、抱きしめるほどに漆黒の剣に対して思い入れがあるという記憶はない。二人の疑問をまるで知らぬげに、フェリスはその引き込まれそうに魅惑的な瞳を開くと、小さな光の文字を躍らせる。

(誰かが近づいてくる。そう、弱い魔力だけど…知っている人みたい)

二人はフェリスの文字に気づき、同時に彼女の視線のほうを向く。彼女達が居る中庭へと出る校舎のドアが開いて小柄な女性が姿を見せた所だった。続いて、遠めからでもそれと知れる禿頭の用務員が女性に何か語りかけてこちらを指し示す。その二十代ぐらいの女性は短い栗色の髪と紺色のシンプルなドレスを乱し揺らせながら、ひどく慌てる様子で駆け寄ってきた。

「…治療院の受付のおねえさん?」

クオンは彼女をイノームの治療院で受付をしているメリルと気づく。どうしてこの場所に現れたのかという疑問に首を捻った。太ってはいても、治療の腕には定評のあるイノームの治療院には毎日のように患者が押し寄せている。平日昼頃の時間帯は特にその混雑が激しいはず。その混雑を一手に引き受け、不可能とも思われる整理をこなすはずの受付嬢が息を切らせて目の前に立ったメリルだった。

「クオン君…大変なのよ、すぐに治療院に来て欲しいの。」

上気に喘ぎながらも、ややずり下がった眼鏡ごしに灰色の瞳がクオンに懇願している。恐らく治療院から全力で走ってきたのだろうドレスの乱れようと、説明をまるで省いた言葉にクオンは困惑していた。

「いったい何が…?」

傍らのフェリスとファルは黙って二人の遣り取りを見守っている。イノームの養女であったフェリスは彼女を知っていたが、その慌てように挨拶を控えている様子だ。

「今朝、急患が運ばれてきたのよ。貴族街のはずれで酒場を経営しているグラムズさんとかいう人なんだけど、昨日の夜、誰かに襲われたらしくて…瀕死の状態なのよ。イノーム先生がずっと治療に当たっているんだけど…人手が足りなくて思うように治療できないの。」

説明を聞いても、それほどの緊急時にメリルがクオンを尋ねなければならなかつた理由は判然としなかった。

「大変そうな話だけど、でも僕が治療院に行って何か役に立つのかなぁ」

メリルはスカートのすそを持ち上げていた手を放し、両手でクオンの肩を掴む。美人というまでには至らないものの可愛いとは形容できそうな顔が間近に迫る。

「そんなのんきな事を言ってる場合!?」

フェリスは接近し過ぎたメリルとクオンの様子に優美な眉を一瞬吊り上げる。無表情だったが胸の漆黒の剣をさらにきつく抱きしめた。

「あの女…シアナが何処かに消えちゃったのよっ、だから先生はひとりで治療しているの。もう先生の精気も少ないわっ! 早く来て、先生があなたの魔力を借りれば助けられるだろうって言っているのよっ!!」

肩を押さえられ目の前で絶叫されるクオンは顔を顰めたが、メリルの言葉の内容に気づいて目を丸くした。

「え? 詠唱者のシアナさんがいなくなった?」

名も知らぬ重症患者より、多少なりとも知っている人の方が気にかかる。自分の詠唱者としてシアナを紹介した時の照れくさそうなイノームの顔が浮かび、彼に信頼と尊敬を寄せる彼女の端正な容姿が浮かぶ。仲の良さそうだった二人に何かあったのだろうか。

「知らないけど、今朝気づくと姿がなかったの。先生はひどく心配して探しに行きたいみたいなんだけど、急患が来てそれどころではなくなったわ。さぁ、急ぎましょうクオン君!」

メリルがそのままクオンの手を引いてその場から連れ出そうとした時、フェリスがその行く手を遮るかのように立っていた。その漆黒の瞳が何か固い決意を浮べているかのよう。

(治療に必要なのは、クオンじゃなくて魔力なのでしょう。ならばわたしが行きます。)

急に立ちふさがった黒髪の少女に剣呑な視線を向けたメリルだったが、フェリスの顔を見て驚きの声をあげた。

「お、お嬢様!? どうしてここに…」

驚いていたのはメリルだけではない。ファルも突然のフェリスの行動に慌てた。

「フェリス様っ! いまここを離れるのは使命に背きますっ!」

血相まで変えたファルがフェリスに詰め寄る。例え人命救護の為とはいえ、せっかく潜入を果たしたこの場所を簡単に離れる訳にはいかない。ここにたどり着くまでどれほどの苦労があったことか。

(分かっています、けれどクオンに魔力を使わせる訳にはいかないのです。それはお父様もご存知のはずなのに。)

メリルは二人のやりとりを聞いて念覚導師となったフェリスがこの場に居る理由をなんとなく推察したらしい。

「お嬢様、心配はいらないと思います。先生はクオン君に現れた生命の魔神の従神盟約の証を思い出し、その魔力を借りようと言っていました。彼の精気には手をつけずに先生は魔術を使えるのだと。逆に彼の魔力を消費することは彼の為にもなると…」

彼女は内容も理解せず伝えているようだったが、フェリスは思慮深げに頷き同意を示した。

(お父様がクオンの詠唱者代わりとなって治癒魔術を施すおつもりなのね。その方法なら彼の精気を使わずお父様だけの精気で施術が可能だわ。でも、お父様も大分精気を消耗されているのではないかしら。)

心配げにメリルの灰色の瞳を覗き込んだフェリスは思案に暮れるよう小首をかしげた。ふとファルに視線を向ける。

(ファル、クオンと一緒に治療院に向かってください。あなたならきっと精気を必要以上に失う恐れのある父を助けられると思う。)

端正な容姿の眉間に皺を寄せたファルはひとり残る事になるフェリスへの不安を口にしようとしたが、思い直して不承不承といった態で力なく返事を返す。

「ご命令なら従わざるおえません。ですが、わたしはフェリス様が心配です、くれぐれも危険な行動は控えてわたしが戻るのを待っていてください。」

フェリスは緋色の瞳をまっすぐ見つめてゆっくりと頷いた。その艶やかなくちびるには穏やかな微笑が浮かぶ。

(たったひとりの人を救えない者が、どうして世界を救えるのでしょう。今回の命にはそむくことなのかも知れませんが、わたしはそれが魔鏡導師院に集う者の何より大切な使命だと思います。どうかわたしの代わりに、クオンを守り、父を助けてやってください。わたしも慎重に調査を進めていますから。)

フェリスの言葉を見て意を決したファルは、メリルを促し颯爽とその場を離れてゆく。ひとり中庭の丘に佇むフェリスは何故か寂しそうな色を湛えた漆黒の瞳で、いつまでもクオンの背を追っていた。彼らの姿が校舎のドアに消えてからしばらく過ぎた後、漆黒の剣を持ち続けている事に気づく。慌ててあとを追おうとしたが、ファルが一緒についていったことを思い起こして動きを止める。彼女ならきっと必要以上にクオンを守ってくれる確信があった。フェリスはもういちどクオンの剣を抱きしめ直して、彼の思念の残滓をそれに感じる。彼女の意識に柔らかに広がる彼の意識が心地よい。いつか必ず本当の彼の意識に触れられる時が来るようにと、強い願いは祈りに変って彼女のくちびるを僅かに振るわせる。心の声をいくら強くした所で、当然実際の声となるはずもなかったが身体は無意識に声を出そうと反応していた。

 (…詠唱は、とどかぬ想いへの祈り。無限の輪廻に流転する想いに、答えし者よ。汝の摂理に創世の神意は共にあり、その行いに祝福よあれ…。)

 唱えるつもりもなく、言葉になった『祝福』の呪文。その魔術は煌く数え切れない光の粒を生み出し、クオンの剣とフェリスを優しく包み込んでいった。



「賢者オルデリス、期は熟した。わたしの封印を解いて欲しい。」

不気味な研究材料や奇怪な道具らしきものが散乱する殺伐とした部屋に、場違いなほどに端麗な女性がオルデリスの前に立つ。

綺麗にまとめられた栗色の髪に際立つ容姿を見せながら、その蒼く煌く美しい瞳は冷徹な表情を見せ、感情を微塵も感じさせない平板な口調が底知れぬ不気味さを醸し出す。賢者の奇怪な容姿を目の前にしても、同じ年頃の女性が表すだろう嫌悪や怯えを微塵も感じさせないのは、彼女が只者でない証拠。麗しい見た目の容姿に惑わされると、手ひどい痛手を受けるだろう危険な雰囲気を漂わせていた。

「…封印を解けなどと簡単に言ってくれるが、お前にかけた封印は特別手間のかかるものじゃ。そう簡単に解除できるものではない。」

外見的には充分に鑑賞に堪えうる若い女性の肢体を欲情がたぎった視線で舐めまわしたあと、何かに苛立つようにオルデリスはその醜悪な容姿をさらに醜く歪めてぶっきら棒に応える。

「多大なる幸運に恵まれて、今まさに敵を討つ絶好の機会。この期を逃せば次もまた同じ好機が巡るとは考えないことだ。わたくしイルミア・セイレラムは偉大なる『影』の四魔宗師にして宝珠を受けし忠実なるしもべ。何ゆえにわが要請を否定するものか。わが言葉が『影』の命と心得てお聞きなのかが疑わしい。」

イノームの詠唱者シアナになりすまし、まんまと念覚導師フェリスの足取りを掴むことに成功したイルミアは、普通の子女であればその奇怪な容姿だけでも震え上がりそうなオルデリスの冷たい眼光を平然と受け止め毅然と詰問する。

夜を待ち、イノームの治療院を密かに抜け出し、闇に紛れて隠れ家となる神殿廃墟に辿りついた彼女は気が進まないながらも賢者オルデリスを尋ねた。畏怖すべき魔道技術を持つといわれるフェリスを捕らえる為には、どうしても彼に彼女の内に眠る『宝珠』の封印を解いてもらわなければならない。

奇跡とも思える幸運はめぐりイルミアに微笑んでいる。標的の念覚導師に居場所を知らせる呪術虫を取り付かせることができるなど予想にすらしなかった事だ。イルミアはクオンの病室でフェリスの呪術棍に『虫』を取り付かせて、ほぼその居場所を把握していた。

その『虫』はおおよその居場所を知らせるだけで、状況や会話などを伝えるものではないから、イルミアにしてもセアリナがどのような思惑で行動しているのかまで明確には分からない。ただ、相手がこちらの位置を知らずにいる段階で相手の位置を掴んでいる有利は圧倒的価値がある。策を弄して念覚導師一味を拿捕する機会は今において他にない。イルミアはそう判断した。

必要以上に事務的に話す端正な美貌に何を感じているものか。オルデリスは眠らせた少女を目の前に残念そうに首を振る。

「いくら急かされた所で、無理なものは無理じゃ…。」

強い苛立ちに端正な眉間に皺を寄せたイルミアは不満げに鼻を鳴らす。オルデリスの前に傷だらけで横たわる可憐な少女に悲しげな一瞥を与えて、底知れない激情を押し殺したかのような鋭い眼光を向ける。

「賢者としての純粋なる理論であれば、反駁する愚などは侵さん。その…残忍なる性向を充たさんが為なら唯では済まさない。『影』御命を果たすこの好機に私欲による怠慢などは断じて許せんぞっ!」

イルミアの鬼気迫る形相にも、骸のような顔の表情ひとつ変えずオルデリスは穏やかに応える。

「お前がいくら『影』への背信と叫んだところで、出来ないものは出来ん。お前に施された結界は念覚導師すらあざむく程に強力なものじゃ。すぐに解除出来るほど単純なものではない。そもそもお前にその封印を施した時でさえ、施術に三日も要したのじゃ。お前の生体に対する危険を冒しても術解に丸一日はかかるじゃろう。」

ゆっくりとイルミアに向き合ったオルデリスは落ち窪んだ眼孔の奥からまるで精気の失せた視線を注ぎ、無知蒙昧を嘲笑するかのように薄い唇の端を歪めた。

「いいか、お前のその胸の奥に潜む宝珠の神経節はすでに全身に広がりお前の肉体を変質化させておる。強大な力を秘めた宝珠の反応ひとつで脆い人間の肉体などいとも簡単に崩壊することを忘れぬことだ。ゆえに結界とはいえ、強固な自己防衛本能によって直接手を触れることさえ叶わぬ宝珠に気づかれぬよう、九重に連なる八十一か所の結界によって何とかその活動源の供給を抑え、いわば宝珠の活動を冬眠させているに過ぎん。それを再び目覚めさせる為には、同じ慎重さでその全ての結界を一つずつ術解してゆく他に方法はない。不自然に急性な術解や、その順番、タイミング一つを違えただけで宝珠は自己に加えられる魔術の存在に気づき過剰な防衛反応を引き起こすのじゃ。それは…宝珠がとりついた肉体の限界を超えた力の本流となって現れ、お前もわしも命を留めるのは難しいじゃろう…。」

オルデリスの嫌なしわがれ声を聞き続ける内にイルミアの脳裏に改造された時の記憶が脈絡もなく断片的に浮かび上がる。それは想像すら適わない苦痛と苦悶の記憶。かつてイルミアであったものが完膚なきまでに破壊しつくされた行為の残滓。知らず美しい柳眉を顰めて歯をくいしばる。恐怖の絶叫をやっとの思いで飲み込み、わずかに身体を震わせながらも平静を装う。その行為を苦もなく成した張本人を目の前にして、自らが感じる苦しみの一部であれ感づかれたくはなかった。

「…時間がかかるものは仕方がない。ならば、直ぐに始めてもらおう。丸一日ならなんとか気づかれずに済むかも知れん。」

いかにも武人らしい即断でイルミアが応えると、オルデリスは未練がましく簡素な寝台に拘束された少女を見つめ続けながらも肩をすくめた。

「貴重な命を賭けてまで成さねばならない程の命令とも思えんが…まあ、おまえがそこまで拘るのなら術解を始めようか…。」

醜い骸の容姿に細く裂かれた傷口のようにも見える唇が歪み、見るものが震え上がりそうな不気味な笑みが浮かんだ。

「かの念覚導師とやらは年若く類稀なる美貌という噂は本当であったのか?」

イルミアはオルデリスがその険悪なる欲望を目の前の少女から見知らぬ念覚導師への期待にすりかえようとしていることに気づいた。

「おそらく、お前が想像する以上だろう。どこの馬の骨とも知れぬその少女に執心するより、これからわたしが捕らえる念覚導師に専念した方が良いと思うがな。」

オルデリスの目の前に眠らされているのがイノームの治療院に居たリアンナだと見た瞬間に気づいていた。彼女が何故こんな場所にいるのかは分からなかったが、シアナとして治療院で働いていた記憶が彼女を助けたがっている。賢者の残虐な研究をそそのかすような言動は不本意だったが、他にリアンナを救う手立ても思いつかない。人体改造が影の命による研究だという大義名分の下に行われている以上、表立って否定することもできなかった。

「…まあ、お前とわしの美的感覚にさほど相違の無いことを祈るが、いずれにしろ明日になれば実物を検分できるはずじゃ。おぬしの解術を一時中断せねばならぬが、致し方なかろう。当の念覚導師がアイルナ・クローリスという名の転入生と偽って入学するのを案内せねばならん。実物を確かめるいい機会じゃ、勤めて協力するとしよう。わしを探し出すために教学院に目を付けたのは敵ながら天晴れだが、たかが念覚導師の風情でこのわしを出し抜こうとするなど愚かに過ぎる。…イルミアよ、失敗は許さんぞ。わしの術の限りを尽くして術解を行う以上、その美しい念覚導師を見事捕らえてわしの目の前に連れてくるのじゃ。」

オルデリスが欲望を滾らせる相手、念覚導師フェリスのゆく末は悲惨なものとなるだろう。しかし、同じ境遇のクオンに対する彼女の行動を思い出して同情しかけた自分を戒める。念覚導師などにクオンを奪わせる訳にはいかない。彼女が知る限りクオンはオルデリスの改造を受けてなお正気を留めている唯一の存在だった。

「…当然だ、それが影の命。この命に賭けても果たして見せる。」

イルミアの真摯な瞳を見て、オルデリスが満足げに頷く。影の忠実な僕としてなら文句のない態度。けれど、例えようのない不安が彼女の心の中でざわめいていた。再び身体の中に秘められた宝珠を目覚めさせてしまったら…もう二度と人には戻れない。そんな理由のない不安だった。



意識の覚醒は、いつもの変わらぬ朝のように自然だった。見慣れた自室の必要以上に豪奢な天蓋付ベットに居るつもりになって起き上がろうとする。昨日は宮廷卿のリドリッチ・ラーロス公爵に振り回されて散々な一日。まだ数年後の話だというのに、ブライティア銀河帝国皇帝在位百周年記念行事に向けての準備と称して各種公共施設を連れまわされた。姉が二人とも先のジュマダン壊滅事件に端を発した一連の騒動の際に負った怪我で入院しているため、現在唯一の元気な帝国守護女神としては無碍に断るわけにもいかない。おかげで姉達の見舞いに病院を訪れることも叶わず、何より大切なユリーディーン皇帝に一目会う事さえ出来なかった。

ふと、起き上がるはずの身体が動かないことに気づく。このところ数十年は体験しなかったが、小さい頃にはよく煩った生体機構の異常に良く似た症状。自分の身体が自分の思うように動かない恐怖は何度経験しても慣れることはない。普段は意識しない生体機構の管理中枢にアクセスする。幾つかのパスワードと精神派解析による本人照合の後に、現在の身体の状態を示す膨大な数値データの海に潜り込む。

固体認識ナンバー、ファネス・リアメライル=ノジアシリーズΦ(ファイ)3013/アスティア・フレイ。ルイミスター(虚空変換機)可動異常なし、変換率0.02%、生体代謝可動率0.98%、スフィア(球)状態にて緊急退避モード継続中…。

大半は身体状況を示す数値の塊の中から、意味のある部分だけを抜き出してゆく。自分の機能異常程度に軽く考えていたアスティアの意識が緊張に強張りはじめる。機能的な異常など何処にも見当たらない。むしろその状態が尋常ならざる事態を彼女に突きつける。

生体管理中枢に浮遊する数値の混沌とした渦が意味するところは、すでに人形すら留められずに球状に変化して、何かしらの危険から身を守る為に時間と空間を停滞化させたシールドの中に存在しているということ。

特定の強化生体を支援し守る為に、人間を遥かに凌駕する身体能力を与えられて人工的に生み出されたアスティアが、通常の形態である若い女性の姿を留められなかったということは、普通に考えれば驚異的な何らかの力が加えられたと想定される。そのパワーを算出すれば背筋が寒くなるほどの数値を導き出すだろう。おそらくは、彼女がその時に居たはずの巨大な帝国首都を再起不能なまでに破壊しつくせるほどの力…。

不思議なことに、アスティアは我が身よりも彼女の身近に居た好々爺気取りの宮廷卿のリドリッチや今年仕官し始めたばかりの明るい女官のエルラ・ノーティアス、宮廷に働く沢山の人々、帝都に住み彼女を慕って止まない帝国民達の安否を思うと気が狂いそうになる。彼女が帝国守護女神としてあるのは、その強大な力で帝国の人々の安寧な暮らしを守るため。皇帝ユリーディーンという名の今は一人しか居ない強化生体の為に生み出された身だが、彼と共にある以上、彼の帝国であるこの国を守ることがアスティアの存在している理由だった。

就寝前には何事も感知していない。例え、就寝中でも帝都の防衛機構とリンクする彼女の人工知能中枢が何ら警報を発令することもなく沈黙しているのは納得できない。仮に敵が予想以上の謀略と力を発揮して彼女を攻撃したとしても、数え切れない帝都防衛探知網の全てを掻い潜り帝都の中心部近くに居た彼女を攻撃できる確立は天文学的に低い数値となるだろう。いずれにしても自分の現状の情報だけでは推論の立てようも無い。幸いにも、緊急退避モードが異常なく稼動している様子。その可動記録を調べればあるていどの状況が判別できるかも知れない。アスティアの意識は自らの人工頭脳の迷路を駆け巡りながら、さらに複雑な数値とパルスの海の中へと潜り込んでゆく。

緊急退避モードを可動させている人工知能は意識を有する本体に比べれば泣きたくなるほどに貧弱なものだが、完全に独立稼動していることを考えると、それはもしかしたら別種の人工生命かもしれないと奇妙な感慨にとらわれる。もちろん、アスティアの意志で好きなように動かすことも出来ない。彼女に出来ることは面倒な認証手続きを飽きるほど繰り返し、単調で無味乾燥なログを閲覧する程度。自己と異質な存在がそこにあるというのは気味の悪い心持だが、彼女の身体を守る為の最終的な防衛手段と考えて無理やり自分を納得させる。アスティアの存在が守る者である以上、いかなる事態があってもその力を失うわけにはいかない。彼女は彼女の意識である以前に強化生体や彼の帝国を守るための存在だった。

なんの感情もこもらないログは単調に続いていた。昨日の今日の筈なのに、妙にログデータの容量が膨大な事に気をとられながらも、解析を進める。開始行はもちろん星還紀元暦三千百十一年四月十六日…のはずだったが、意外にも約一年も先の星還紀元暦三千百十二年四月十六日六月十三日だった。空白の一年がすでにそこにある。ログが開始していないということは、そのあいだ彼女の身体が異常事態ではなかったことを意味した。混乱が意識を揺さぶり始める。大切な記憶が無い。もちろん日課のように日々データクリスタルに一日の記憶は保存している。けれど自分の意識の内からそれが見いだせない事はひどく彼女を動揺させた。生まれてから九八年を数えるが、未だにデータクリスタルを霊廟院に登録したことさえない。皇帝や九人の母たちは、長い時を生き幾つかのデータクリスタルを安置したと聞くが実感はなかった。アスティアの人工知能の容量はまだ余裕があり、あと数十年は今の記憶を携えたまま生きてゆけるという話。膨大に長い時間を活動できる人工生体にとって記憶データは特別な意味合いを持っている。ある意味、その記憶データそのものが一つの生命体だといえるのかも知れない。記憶を失うということは、その間の生命が失われるのと同じこと。だから、人工知能の容量限界まで蓄えられたデータをデータクリスタルに保存して安置するとき、それまでの自分が死に、新しく生まれ変わるのだと教えられた。

失われている記憶に動揺しながらも、彼女は解析を進め続ける。身体が正常なら泣き出していたかもしれない。けれどそれ以上に、帝都に暮らす人々の安否が気がかりだった。

解析が進むにつれて、彼女の意識は事態の異常さに震え始める。ログは癪に障るほど単調にそして延々と続いていた。それが終わるのは、星還紀元暦三千三百七年七月四日…ログ開始から百九十五年間も過ぎ去っている。アスティアが目覚めなかった原因は、皮肉なことに独立可動する緊急退避の人工知能だった。何らかの理由で位置が特定できない場所に居るらしい彼女を守るために、その人工知能は刷込まれてある命令を実行し続けている。外的脅威が不確定な場合、同胞の救助もしくは彼女のもう一つの目的である新たな強化生体に相応しい存在が出現しない限り緊急避難モードを継続するというもの。結果、約二百年を経ても大切な皇帝や九人の母、姉達は彼女を見つけ出せずにいるらしい…。

アスティアを永い眠りから目覚めさせてくれたのは、到底ありえないだろうと考えられていた新しい強化生体の候補者だった。彼女が姉達と唯一違う能力を持つが故の幸運。彼女、アステイア・フレイと呼ばれる帝国守護女神は、もう一つの名を『再生者』。彼女を生み出したファネスと呼ばれる九人の母から託されたのは、胸の奥深くに秘められた『ムール・ノヴェム』(希望の種)を使って大切な皇帝ユリーディーンの他にもう一人の強化生体を生み出すこと。

人類が居住する星系文化圏は徐々に拡大し、帝国の図版も広がっている。九つの星系文化圏と三十八の星系、八十七にも及ぶ惑星や居住エリアの生活圏。ブライティア銀河星間帝国でさえその一部であり、皇帝が人間を遥かに凌駕する能力を持つ強化生体とはいえ、その統治能力も限界に近づきつつある。今の治安レベルを落とさず帝国を統治し続けるためには、近い将来、もうひとりの皇帝がどうしても必要とされていた。

ログデータが無感動に明かす状況に眩暈に似た感覚を覚えながらも、間接的にどうやら帝都は無事らしいと推測して少し胸をなでおろした。今から百九十五年前、彼女は見知らぬ地で外的攻撃により緊急退避モードが発動、以来その解除の鍵となる出来事を待ちながら眠り続けていたということになる。記憶が失われたのは、外的攻撃に晒された時らしい。緊急退避モードに移行後に自己修復が行われたが、最新の約一年間の記憶は復旧できずに失われてしまったとログは記録していた。いったいその間に何があったのか。これ以上は自己の内部をいくら調べても答えは出ない。意識が覚醒した段階で、既に退避モードから通常モードへの移行プロセスが進行している。緊急退避の人工頭脳は時間と空間を停滞させていたエネルギーを逆流させアスティアをスフィアから元の姿へと蘇らそうとしていた。

意識の片隅を奇妙なデータが掠める。今の彼女を外から見ると巨大な古木に見えるらしい。本当は可憐な乙女の外見なのに古木はあんまりだわと苦笑したくなる。九十八歳だけれど人間だってまだ若い部類で通るのにとぼやく。薄蒼く透き通った思ったより小さな球体は、蛹から蝶が生まれるごとくに神秘的な変容を続け、優美な肢体を持つ一人の女性を生み出した。動けるようになったら、まずアステイアを覚醒させた強化生体の候補者を探し出さなくてはならない。銀河星間帝国の将来の命運を賭けた使命に、意識せず身体が震える。もう震わすことの出来る身体をアスティアは持っていた。