2004.09.23

のと鉄道漫遊(其の壱)   路線図を表示

 あれは2004年の5月、ゴールデンウイークの九州漫遊から帰った時のことだっただろうか。 休み明けでボケっと仕事をしていた綾小路さんを、ひとつの衝撃的なニュースが襲ったのである。 『のと鉄道能登線廃止決定』、しかも翌年の3月である。 綾小路さんはこのニュースを耳にするまで、のと鉄道がこのような危機に瀕していることを知らなかったのである。 そうでなければ2003年4月に、和倉温泉まで行きながら、引返すことはなかったであろう。 (北信越・北陸漫遊(北陸本線・七尾線・越美北線)参照) ところがこのニュースにJR・第3セクターの鉄道完乗を目指す綾小路さんはニヤリとした。 なにしろこれに乗車しなくても、目標の総延長は減る訳である。 よし、よし、これで目標達成まで近くなるぞ・・・。 ここで『天の声』が綾小路さんの耳元に聞こえてきた。 『のう、綾小路よ、それで本当にいいのか!』 『おぬし、それで鉄道ファンといえるのか!』 この声で綾小路さんは我にかえった。 これは急いで計画を練らねば! 残された時間は1年もないのだから。

 そうは言ってもすぐに行けるはずもない。 なにしろ大型旅行から帰ったばかりである。 しばしの充電期間が必要だった。 そのあとはすぐに梅雨時期に入るだろう。 そして夏休み期間中は混雑しそうなので、できれば避けたい。 おそらくは一生に一度きりの能登線乗車になるのである。 そうこうしているうちに、またも衝撃的なニュースが流れた。 『福井豪雨で越美北線の鉄橋が流出!』 7月18日に足羽川に架かる、越美北線の5つの鉄橋が流出したのである。 さらに、この年は台風の当たり年で、日本列島には毎週のように台風が襲ってきた。 もし今、災害で能登線が不通になればアウトだな。 鉄橋が流出にでもなれば、その時点で復旧はなされず、事実上の廃線となるだろう。 そして綾小路さんにとって永遠とも思える4ヶ月半が過ぎた。 幸いにも、この地方への台風直撃はなく、無事出発の日を迎えたのであった。 ほっ。


 新千歳空港から小松空港までの往復はANAの『スカイホリデー金沢』を利用した。 これは往復の航空券に金沢のホテル一泊がセットで、この期間の料金は38800円である。 おお、安い! 札幌から小松空港の直行便の片道料金でも31300円かかる。 しかも乗継便の利用も可能なのである。 もちろん、綾小路さんは1日に1往復の直行便は使わない。 それだと小松空港着が14時45分で、帰りの離陸は10時45分となる。 それが羽田での乗継便を利用すると、昼間1日分の時間ぐらいの差がでてくるのである。 とにかく新千歳空港7時50分発−羽田空港9時20分着から、羽田空港10時00分発に乗り継ぎ、小松空港には11時00分に到着した。 小松空港のターミナルビルを出ると、待っていたのは大型のリムジンバス・・・、と思いきや『小松バス』のマイクロバスだった。(写真は小松駅到着時に撮影)


 バスは10分少々で小松駅前に到着した。 小松駅は近代的な高架駅で、巨大なものだった。 これだけ離れてもホームの端部は写っていない。(左) ホームは2面3線でここを始発、終着とする列車も多いようである。(右) 尚、駅の裏側には工作機械メーカーの『KOMATSU』の小松工場が建っていた。 この会社はこの地、『小松』から起業したのだろうか。



 さあ、いざ能登半島へ・・・。 と言いたいところだったが、どの道今日は金沢泊りである。 ここは12時14分発、北陸本線の上り列車に乗車した。 金沢や能登半島とは逆方向である。 隣の粟津駅を過ぎると、右手には古そうな建物が見えた。 すわっ、明治・大正期の学校か? 残念、あとで調べると『片山津温泉ソサエティ』という温泉・宿泊施設だった。 明治・大正期の建物とすると、ちょっと立派過ぎたか。


 列車は次の動橋駅に停車し、綾小路さんはここで下車した。 なかなかの駅舎に綾小路さんは満足。(左) ホームは2面3線で、駅舎脇には切欠きのホームに車庫もある。(右) かつては動橋駅から北陸鉄道の路線が、加賀温泉郷の各温泉まで結ばれていたという。 写真の右手からは河南まで山代線が通じ、その途中には山代温泉がある。 途中の宇和野で粟津線に乗換えれば粟津温泉にも行けた。 また河南からは山中線で山中温泉まで至ったのである。 左手からは片山津線が通じて、終点の片山津は片山津温泉の最寄り駅だったのである。 それら北陸鉄道の各線は、現在ではすべて廃止され、今ではひっそりとした駅となっている。


 より道は終了、13時09分発の下り列車で金沢方面に向かった。 ・・・なんてとんでもない。 これからが本当のより道だったのである。 何回もいうが、今日は金沢泊で、時間はまだたっぷりとある。 動橋駅のためにわざわざ早起きして、東京経由で小松入りしたのではなかった。 実は『のと鉄道』と聞いて、沿線に近い、あるひとつの名駅舎が綾小路さんの頭に浮かんでいたのである。 それはJR西金沢駅で接続する、北陸鉄道石川線の駅だった。 これからそこに向かうことにしていた。 列車は小松駅を過ぎて尚も進み、4つめの美川駅に停車した。 ここで8分間ほどの列車交換時間があった。 大きな駅舎には『美川コミュニティプラザふれ愛』とも書かれている。(左) どうやら美川町との複合施設のようである。 (注:美川町は2005年2月1日の合併により白山市となった。) 今見ると、キャットウォークかスカイウォークといった感じの渡り廊下が写真の左手から延びている。 しかし人が通れるのかどうか、どこにつながっているのかなど、この時は気に留めなかった。 (ああ、気になってきた。) ホームは2面3線で、この駅が実は橋上駅だったことが分かる。(右)


 再び走り出した列車は、さらに3駅目の西金沢駅に到着した。 さあ、北陸鉄道に乗換だ。 ここでの乗換時間は16分間だった。 この時間でJR西金沢駅と、道路を挟んだ北陸鉄道の新西金沢駅の両駅をどこまで撮影できるか。 ホームに降りて、まずはJR西金沢駅の撮影だが、道路向かいの新西金沢駅を確認しなくては。 その位置を確認して、各駅の時間配分を決めなくてはならない。 しかしどうもおかしい。 西金沢駅の南側には北陸鉄道の新西金沢駅があるはずだったが、どうもその雰囲気がない。 これは・・・ しまった、降りる駅をひとつ間違えた。 そう気がついたときには無情にも、乗車してきた列車は走り出していた。 ああ、また失敗してしまった。 しかしこれからどうする。 タクシーで列車を追いかけるか? 間に合ったとしても忙しないか。 ここはおとなしく、30分後の列車を待つことにした。 下車した駅は野々市駅で、線路の南側にある駅舎はコンクリートの平屋だった。(左) ホームは相対式で、左手に見えるのは北口になるのだろうが、先ほどの本屋より大きい。(右) ところが中はガランドウでやはり裏口といった感じだった。 どちら側の窓口にも改札駅員が配置され、結構活気のある駅のようだった。


 さあ、後発列車で今度こそ西金沢駅に到着したぞ。 ホームは島式1面だが通過線も合わせると4線もある。 さらに線路が撤去された跡も残っているではないか。 これは興味深い。(左) しばらく駅構内を堪能して改札を出ると、駅舎はコンクリートで、何もおもしろくもない。(右) しかしこの駅舎前にある線路こそが、北陸鉄道の線路だった。 なにか路面電車っぽい雰囲気がただよっている。


 まだJR西金沢駅の撮影中だったが、北陸鉄道の列車がやって来るようだった。 『JR時刻表』の最後のほうに載っている、地方鉄道の時刻表によると、当初予定していた14時10分発の次は15時10分発のはずだった。 だが早いのに越したことはない。 ここはその列車に乗車することにした。 実は『JR時刻表』に載っている北陸鉄道石川線の発車時刻は、野町−新西金沢−加賀一の宮間を全線運行する列車のものだった。 そしてやって来た列車はというと、その間に野町−新西金沢−鶴来間を運行する区間列車だったのである。 (『JR時刻表』をよく見ると『野町−鶴来間の区間便あり』と載っていた。) この北陸鉄道での目的駅は、終点の加賀一の宮駅だった。 当初の計画では、14時10分発の列車でいきなりそこに至る予定にしていた。 しかしどうせそこまで行けないのならと、綾小路さんは途中下車することにした。 下車したのは馬替(まがえ)駅。 短い片面ホームに、待合室のみの小駅だった。


 『JR時刻表』には北陸鉄道の野町・新西金沢・鶴来・加賀一の宮の主要4駅の発着時刻しか載っていない。 当然、その間にも駅はあるわけだが、その各駅間の距離も分からない。 しかし綾小路さんは地図を見て、隣の額(ぬか)住宅前駅まで1キロもないことを事前に確認していた。 馬替駅での途中下車は、この額住宅前駅まで徒歩で行くことが前提での下車だったのである。 そしてやってきました、額住宅前駅に。 ここには小さいが駅舎があるのだった。(左) もちろん無人駅ではある。 そしてホームは島式で、列車交換も可能。(右) このいずれの写真の奥に写っている建物群が『額住宅』なのだろうか?



 額住宅前駅に『普通』加賀一の宮行き列車がやってきた。 今日、綾小路さんは他に『準急』にも乗車できた。 何度も登場、『JR時刻表』によると、急行も運行しているようだ。 この列車はてっきり単行と思いきや、2両編成で運行しているではないか。 しかもディーゼルカーではなく『電車』であった。


 額住宅前駅の発車は15時19分、そこから約20分間の乗車で、石川線終点の加賀一の宮駅に到着した。 ここでさっそく駅舎の撮影にかかろうとしたが、駅舎の左右に車が1台ずつ、停車していた。 右側の1台は待っていてもどきそうな雰囲気はまったくない。 しかし、左側の1台は少し待てば去りそうな雰囲気があった。 ここからは折返しの列車(4分後に発車)には乗車せず、徒歩で2駅戻る予定にしていた。 そのため時間もあるし、駅舎の他にも目的があったので、そちらを先に済ますことにした。
 他の目的は行き止まりの線路の先にあった。 それは北陸鉄道金名線の路線跡だった。 草が生えすぎて分かりづらいが、左にゆるくカーブして白い建物の向こう側が加賀一の宮駅になる。(左) 金名線とは金沢と名古屋を結ぶという、壮大な意図から付けられた名称だった。 加賀一の宮から18.9キロ先の白山下(はくさんした)までは昭和2(1927)年に開通したが、名古屋と結ぶ夢はついに実らなかったのである。 そればかりか、利用者が減り続けたのに加え、途中の橋梁が崩壊・復旧、さらに別の橋梁も危険なことが判明したため、昭和62(1987)年に廃止されたという。 ここから白山下まで、たどりたい気は山々だったが、時間と足がなく、ここは断念した。 ところが思わぬおまけが待っていた。 帰り際に古そうな建築物を発見したのである。(右) 看板には『神主町公民館』と書かれている。 ずばり大正時代の建築物とみたが結果やいかに?


 さて、駅に帰ってもまだ左側の車は停車したままだった。 しかし隣で井戸端会議(男性ですが)をしている人の車らしかった。 そこで申し訳ないが(本音は違うで!○×△)一旦、移動していただき撮影した。 迫力の木造駅舎、本には唐破風と書いてあったが意味が分からない。(左) しかし、見事。 入母屋風の屋根に瓦の配置が個性的である。 屋根の端のほうには化粧瓦(名前は分かりません)が配置されている。 カーブした車寄せの上にも鬼瓦が乗っているではないか。 振返れば多くの和風建築駅舎を撮影して来たが、めったにない。 旧大社線の旧大社駅、山陰本線の旧二条駅、現役駅舎では弥彦線の弥彦駅などと同じようなデザインだろうか。 これは白山比刀iしらやまひめ)神社の参拝駅として建てられたからと言う。 ホームが片面なのは、元々は終端駅ではなかった名残だろうか。(右) かつてはこの線路が白山下まで続いていた訳である。


 加賀一の宮駅に到着してから、ここまでまだ20分少々だった。 次の列車が到着して、折返すまでにはまだ50分以上あった。 そこで、鶴来駅までの2駅間は徒歩で移動することにしていた。 この時間は野々市駅で下車せず、まっすぐ西金沢駅に至っていたとしても変わらなかっただろう。 その2駅間の合計で2.1キロ、これは当初から予定の行動だった。 まずは中鶴来駅までが遠く、1.5キロといったところだろうか。 片面ホームに待合室の駅であっという間に撮影終了、次の鶴来駅に向かった。


 ところが鶴来駅に行くまでにも、まだより道があった。 北陸鉄道はかつて石川県の全域に鉄道網が張巡らされていたのである。 鶴来駅からはJR寺井駅に隣接する新寺井駅まで、能美線16.7キロが運行していた。 ここにも鉄道遺構が多く残されているらしく、ゆっくり見て周りたかったが、これも叶わないものだった。 その内、鶴来駅付近をちょっとだけ探索することにした。 まずは7ヶ用水を渡っていた橋梁を発見した。(左) もちろん廃線本の地図は携帯していた。 手前は現役の石川線の橋梁である。 そして能美線の橋梁の左手に進むと、石川線からは離れていき、手取川を渡る位置に橋台の土台の一部が残っている。(右) ちょっとこれは分かりづらい。 ところが、この川を渡った対岸の橋台はほぼ完全に残されていて、コンクリートで塞がれてはいるものの、トンネルの入口が残されていると言う。 残念なことに、川沿いに渡河できる橋まで行き、往復すると1時間ではすまないだろう。 これはちょっと悔しかった。


 そして能美線の橋梁の右手方向に進むと、石川線と合流して複線のごときようすだったという。 鶴来駅までわずか0.3キロの位置には本鶴来駅があったらしい。 この駐車場の位置が本鶴来駅跡だという。(左) ははは、これは跡形もないか。 ではこれはどうだ。 その駅の反対側を見ると、手前側石川線の線路の向こう側にはバラストの範囲ががやけに広く、線路が撤去されたのが分かるだろう。(右) 能美線は大正14(1925)年の部分開通から、昭和7(1932)年に全線が開通し、廃止は昭和55(1980)年のことだった。


 綾小路さんは能美線跡探索を終え、鶴来(つるぎ)駅に向かった。 加賀一の宮駅とは比べようもないが、ここにも見事な駅舎があった。(左) 鶴来駅は北陸鉄道の本社でもある。 なんでも駅舎の本によると、昭和2年の建築らしい。 ファサードの車寄せの上には『鶴』が飛翔する際のエンブレムが飾られている。(右) これはひょっとして鶴来町の町章なのだろうか?



 答えはすぐに出た。 50m程度の駅前通りの突当たりに鶴来町役場があった。 この建物のエンブレムは先ほどの鶴来駅のものとは違っていた。 とすると、先ほどのものは鶴来駅のエンブレムなのだろうか。 後で調べると、どうやらそれは北陸鉄道の社紋だった。 鶴来町に鶴が飛翔する社紋の会社があるとは思わなかった。 さて、鶴来町役場の幟には平成17年2月1日『白山市』誕生と書かれてもいる。 これが鶴来町役場としての最期の雄姿?となった。


 鶴来駅に戻ったが、列車の発車間際にならないと改札してくれないようだった。 そこで駅舎脇から構内を撮影した。 まず、ホームは2面3線のようだった。(左) 鶴来発着の区間列車が折返すにはこの構造が理想だろうか。 駅舎脇ホームには綾小路さん乗車予定の『準急』野町行きもすでに入線しているようである。 その駅舎脇ホームから島式ホームには跨線橋で渡るのでなく、構内踏切を通行するようだ。 この反対方向(野町方面)を見渡すと、幾本もの引込線に大きな車庫が見えた。(右) 車庫の右側奥にはラッセル車が停車している。 そして今気が付いたのであるが、その右側にはレトロな車両が停車していた。 今日乗車した車両は左の写真の車両ばかりだっただろうか。 このレトロな車両にも乗車してみたいものであった。


 綾小路さんは先ほどの写真に写っていた、17時15分発の準急に乗車した。 この列車で新西金沢駅まで戻る・・・、いやせっかくだ。 2駅足を伸ばして野町駅まで行き、石川線の完乗を果たそう。 毎度ながら朝早いのと、本日の大目標は果たしたことで、車内ではまったりとした時間をすごした。 そして、およそ25分後に列車は野町駅に到着した。 ここは駅前のカーブに合わせて駅舎や雨避けが配置されていた。(左) ホームは相対式であるが、改札は別々の位置にある。(右) ところが左側のホームの改札にはチェーンが張られて、進入不可となっていたのである。 ラッシュ時のみ使用するのかとも思ったが、乗客の減少に伴い列車の運行本数が減ったため、使用されなくなったそうである。


 ここでJRに乗車するため、折返しの列車で新西金沢駅に戻った。 さきほどは急いで列車に乗車したため、よく見れなかったが、なかなかの駅舎が建っていた。(左) ああ、下車駅を間違えたために日中での撮影が叶わなかったことになる。 ホームは島式で、本日最期の登場『JR時刻表』によると、列車交換も行われているようである。(右)


 18時21分発の列車に乗車、ひと区間で金沢駅に到着した。 ここで駅弁を購入して、ホテルにチェックインした。 以前にも購入した越前かにめし¥1000を再度チョイスすることとした。 本当は越前かにめしの『焼きがにバージョン』があるので、そちらにしたかったが、季節限定で現在は販売されていなかったのである。 こんなことなら前回に『焼きがにバージョン』を買っとけばよかったか。



 長ーい『より道』は終了した。 さあ、明日はいよいよ『のと鉄道』に乗車する。 綾小路さんはこの時点で明日の予定変更を決意した。 金沢5時51分発の列車に乗車予定だったが、5時24分発の始発列車に繰り上げることにした。 綾小路さんの漫遊はのと鉄道漫遊(其の弐)に続く。


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