2003.12.29-12.30

紀勢本線漫遊(亀山−和歌山市)   路線図を表示

 2003年の年末の帰省、綾小路さんはとうとう念願の・・・。 いや、念願という訳ではなかったようだ。 聞くも笑い、語るも呆れの訳あって、高山本線の完乗を果たした。 その後、東海道本線で名古屋駅まで行き(くだらない名古屋弁をしゃべり)、 関西本線に乗継ぎ、紀勢本線の始発駅である亀山駅に到着した。
 すでに夕闇は迫っていたが、さっそく駅舎を撮影。 またしても車が邪魔だが、止むをえない。(左) 建物資産標では大正2年12月の建築となっていた。 車寄せの柱はローマ建築を意識して作られているのか。(右)


 再び改札を通り、ホームに出た。 紀勢本線が発着するのは5番ホームかららしく、跨線橋を渡った。 ホームの脇には紀勢本線の起点である事を示す、0キロポストが立っていた。(左) 線路はここから遥か384.2キロ先の和歌山市まで続いている。 紀勢本線の和歌山市方面は右側の線路であり、左側の線路は関西本線で名古屋方面。(右)


 16時55分に亀山駅を発車した列車は2つ目の駅に停車した。 ここにも名駅舎があった。 純和風建築の一身田(いしんでん)駅である。 ここで下車すれば次の列車は1時間後だったが、綾小路さんはこの駅舎を撮影するために、あえて途中下車したのである。 しかし出来はやっぱりいまいち。(左) もう少し小さな駅ならフラッシュが効くが中途半端な大きさであった。
 何枚か撮影している内に乗車してきた列車がまだホームに止まっている事に気付いた。 えっ、交換列車でも遅れているのか? とにかくこのまま1時間いても、さらによさそうな写真は撮れそうもなかったので、急いでその列車に飛び乗った。 実は一身田駅で交換列車待ちのため、5分間ほど停車する事を見逃していたのだ。 ここでは満足な写真は撮れなかった。 しかしこれで今後の行程に少しだけ余裕が出来た。
 列車は次に津駅に停車、もちろん日本一短い駅名の駅である。 しかしローマ字で書くと”TSU”となり、指宿枕崎線の頴娃駅、 ローマ字で書くと”E I”や加古川線の粟生駅、同じく”AO”らの2文字より長い3文字となるため、 ”TU”へのローマ字表記の変更を検討しているとか。いやはや。
 列車は松阪駅のひとつ手前の小さな駅に停車した。 その六軒駅はホームに待合室の駅のようだった。(右)


 そして綾小路さんは17時46分に松阪駅に到着した。 ここで一旦下車して、予約してあった駅弁を購入した。 さあて、これからどうする? 実はここからさらに多気駅まで足を運び、参宮線に乗換えて終点の鳥羽駅まで乗車する予定だった。 その後、松阪駅に戻ってきて宿泊予定である。 しかしそれでは駅弁屋の営業が終了するので、一時下車して駅弁を購入したのであった。 次ぎの列車は40分後に発車だった。 荷物や弁当はコインロッカーに入れてから行くか? 待てよ、さっき駅に到着する前に車窓から宿泊予定のホテルが見えたな。 よーし、それならいっそチェックインしてから行くか。
 と言うわけで、チェックインを済ませ18時35分発の列車に乗車した綾小路さんであった。 7分後に多気駅に到着。 この列車は紀勢本線から参宮線への直通列車だったので乗換え不要で参宮線に乗り入れた。 さて、綾小路さんが何故、こんな夜に鳥羽駅まで行くかと言うと、実は深ーい?訳があった。

 話しは10年以上前に溯る。 実は何年前かも思い出せない。 当時、夏季休暇で丸亀に帰省していた綾小路さんは、東京までの帰りに鳥羽水族館に寄ったのである。 その時に参宮線か近鉄線かの、どちらかに乗車したのはまず間違い無いだろう。 しかしここからが問題。 本当にどちらに乗車したのかまったく記憶がないのである。 おそらく、名古屋からは新幹線に乗車するのでJR線の参宮線に乗車したとは思う。 しかしこのままうやむやにしておくのも嫌なので、今回は参宮線で鳥羽駅まで行った記憶がほしかったのである。

 すでに車窓は真っ暗、停車した駅がどういった駅舎なのかを見る気も起きなかった。 しかし途中の伊勢市駅では列車の乗り継ぎのため時間があり、一時下車した。(左)
 そして乗り継ぎ列車に乗車して終点の鳥羽駅を目指した。 終点間際の事、闇夜に海が見えたと思ったらすぐ下にはホームが流れていった。 臨時駅の池の浦シーサイド駅だろう。 時刻表を見ても停車する列車は1本もない。 おそらく夏季限定の停車駅だろう。 そこから程なくして終点の鳥羽駅に到着した。(右)
 万ざーい!鳥羽駅まで参宮線を完乗したぞ。今度は間違いない! あー、すっきり・・・しないのだ。 ではその時、多気駅まではどの路線で行ったのか? 近鉄か?それとも関西本線か?と言う問題がまだ残っていた。 そこまでの記憶もさっぱりなかったのである。


 その後松阪駅に戻り、ホテルに帰ってのお楽しみは駅弁である。 松阪駅弁”元祖特撰牛肉弁当”1260円である。 なんでもさめても柔らかいとか。 まあ駅弁なので加熱式でなければ、冷めてめもおいしくないと売れない。 そしてこの駅弁は昭和34年に紀勢本線が全通したのを記念して発売されたと言う。 松阪牛のステーキが2枚。 少し量は少ないが、味は間違いなかった。 ロングラン&人気駅弁である事に納得。



 うー眠い、あと10分。 が命取り、乗り遅れると大変だ。 綿密に練った計画がパーになるばかりか特急を使わざるを得なくなり、お金がもったいない。 もとい、つまらない特急での漫遊を強いられる。 しかたなくベッドを出て支度する。 今日も6時前である。 今日はこの3日間で駅までの距離が一番遠い。 遠いと言っても2分とかからない。 やはり駅前はいいね。 かつて敦賀駅からのビジネスホテルや、越後湯沢駅からの健康ランドでは大変な思いをした。 それを考えると、今後は多少高くても楽なほうに走りそうだ。 今日はまず6時51分発の多気駅行き列車に乗車する予定である。 この列車に乗車するために松阪駅前に宿泊したのであった。 その列車は亀山駅始発ではあるが、それでは6時11分発。 松阪駅でちょうどいいくらいの時間だろう。(それでも早いか?) まだ薄暗いが、昨夜撮影したものよりは少しはましな写真がこれ。


 松阪駅から9分、7時ちょうどに終点の多気駅に到着。 急げ!乗換え時間は12分間しかない。 この時間だと少しはましな写真となったか?


 7時12分に新宮駅行きの列車は発車した。 さて、ここからは3時間14分間のロングランとなる。 果たしてどれだけの駅舎を撮影出来るか。 まずは車内から相可駅(左)と佐奈駅(右)を撮影、ともにホームに簡易待合室のようだ。


 しばらくして7時47分頃に三瀬谷駅で上り(亀山方面)特急の列車待ちで、約10分間の停車となった。


 続いて滝原駅(左)に伊勢柏崎駅(右)の撮影に成功。 列車は空いているので車内からでも停車位置が駅舎に近いとうまく撮影出来る。


 梅ヶ谷駅を過ぎると荷阪峠越えである。 トンネルが多くなり、そこを抜けΩカーブを曲がると、程なくして紀伊長島駅に到着した。(左) ただし、Ωカーブは意識していなかったのと、下り勾配だったためか体感出来なかった。 上り列車がΩカーブで登り勾配を克服しているのだろう。 その次ぎが三野瀬駅。(右)


 そしてしばらくはシャッターチャンスが訪れず、列車は賀田駅に到着した。(左) ここは9時35分発であったが発車の7分前に到着、再び上り特急を待つ事となった。
 永らく、ローカル線らしい旅を楽しんでいた綾小路さんであったが、次の二木島駅でどっと乗客が増え、周辺が騒がしくなった。 熊野市や新宮へ行く地元客だろう。 そろそろ街へ繰り出すのにいい時間となっていた。
 熊野市駅では駅うどん屋が営業していて実にうまそう。 綾小路さんはもう何日も麺類を食べてないなー、と一瞬思った。 ところがよく考えると3日前に青森駅の駅そばを食べていたのだ。 その後に駅弁ばかり食べてたので勘違いした。 しかし食べる時間なんてなかった。 いや待て、今日丸亀に帰れば明日からは讃岐うどんを腹一杯食べれる。 もう少しの辛抱だ。 そして驚いた事に、なんと駅弁も販売しているみたいだった。 時刻表には駅弁販売駅の印は付いていないのだが・・・。
 多気駅を出発して2時間45分、熊野市駅を過ぎるとあと30分で新宮駅に到着する。 神志山駅(右)は少し列車の停車位置が近すぎたか。


 気が付けば、いままで山間部を縫うように走っていた列車は、市街地の真っ只中を走っていた。 そして10時26分に列車は終点の新宮駅に到着した。 駅前には南国ムードただよう木が植えられている。(左) JR東海とJR西日本の管轄が切替わる鉄道の要衝駅らしく、駅構内は広く、車両基地にもなっているようだ。(右)


 そしてここでも駅うどん屋が営業していたが、やはり優先するのは駅弁である。 このあたりは昔から捕鯨が盛んなところ、予約してはいなかったが運良く、南紀くじら弁当1300円を購入できた。 少し値は張ったが内容は豪華。 鯨肉のステーキに竜田揚げ、つくだ煮、そのどれもが美味。綾小路さん、大満足。 余談だが根拠も薄いのに絶滅の恐れがあるとかで、この日本の文化である捕鯨を禁止しようとしている他国や環境保護団体に対して、綾小路さんは憤りを感じている。


 そしてもうひとつ、新宮駅の名物駅弁と言えば、めはり寿し630円である。 その昔、南紀地方の農家では農作業に出かけるときに、高菜の葉で握った寿しを弁当にしたという。 なにぶん忙しいので酢飯などは使わずに、2つ3つでお腹がいっぱいになるように大きく握ったそうな。 このため、食べる時に大きく口を開け、目を見張って食べた事が名前の由来だとか。 残念ながら?この駅弁は食べやすく、一口大の大きさにアレンジされたそうである。
 さて、駅弁を購入して乗り換えた列車はなんとロングシートだった。 通勤列車でもあるまいし、旅の風情もあったものでない。 列車が発車してからでは駅弁も食べづらいので、列車が空いている時にくじら弁当をいただいた。 一度にそんなに沢山食べられないので、めはり寿しは後ほど堪能する事にした。


 列車は11時10分に新宮駅を発車。 そういえば綾小路さんは和歌山県に行ったことも、通過した事もなかった。 どこからだったんだろう?そう思い調べると、新宮駅からだった。 よく考えると、JRの分岐点と同じになっている訳だ。 今年は4月に石川県と福井県、昨日に岐阜県、そして今日は和歌山県に足跡を残し、 これで日本でまだ行ったことがないのは沖縄県だけとなった。



 新宮駅を発車すると太平洋が見えだした。 4つ目の那智駅は社殿造りの立派な駅舎だが今回は見送りとなる。 ここで下車すると今後の行程に支障が出るため諦めた。
 そして新宮駅から20分ほどで紀伊勝浦駅に到着した。 ホームには高野・熊野を世界遺産にとの看板がでている。どこも同じか。 先日、知床が政府の推薦地として決定したらしく、札幌のテレビ番組では何度も取り上げられていた。


 ここでBADニュースが飛び込んできた。 阪和線で人身事故が発生、その為紀勢本線の上り列車も大幅に遅れているとの事である。 その影響を受けたのか、この時点で下り特急も10分以上遅れている。 乗車している各駅停車に先立つ3分前に紀伊勝浦駅に到着しているはずだが、遅れて後から到着した。 この接続を取るため、各駅停車の発車時刻は当然のごとく遅れる事となった。
 列車は紀伊勝浦駅を発車すると、2つ目に太地駅に停車した。 太地町は古式捕鯨の発祥地とかで、くじらの町としてアピールしている。 その一貫か、ホームにはザトウクジラやシャチなどの壁画が描かれていた。 おお、なかなかいいではないか、そう思った時には遅かった。 写真を撮ろうと思った時にはすでに列車は発車していた。



 紀伊勝浦駅での列車待ちのあおりを受け、古座駅での3分間の探索時間が消えていく事になった。 その古座駅の手前、紀伊田原駅はまたしても近すぎたか。 ええい、せっかくの紀勢本線漫遊だ、多少・・・もといかなり出来が悪くても、出来るだけ紹介しよう。


 串本駅では8分間の停車時間があり、当然下車して探索となった。(左)
 ここでさらに8分間の足止め、上り特急の遅れである。 どの列車を待っているのかも分からない。 時刻表を見ると、この時間より早く串本駅にやってくる特急は、1本前としても30分遅れであった。 ホームには串本節の看板が立っていた。(右) そんなの知らなかったが、本州最南端との文字には感慨も湧いてきた。


 串本駅の次は紀伊有田駅、ここが有田みかんの産地だろうか。 札幌のテレビCMでもよく宣伝している。 しかし本当だろうか?CMでは”ありだ”と言っているが、ここは”ありた”となっていた。 紀伊有田駅から4つ目は江住駅(左)、その次が見老津駅だ。(右) おお、列車を降りてみたい。 しかしそうすれば本日中に丸亀まで帰るには、特急を使わなければならないだろう。 そうなればローカル線の旅もここで終わってしまう。 もう一泊と言いたいところだが、明日は大晦日だし、やっぱ今日中に帰りたいよなあ。


 次の周参見駅は時間調整なのか4分ほど停車予定だったが、串本駅での遅れを取戻すために、すぐに発車となった。 その次は紀伊日置駅、ここでは9分ほどの停車予定の内、まだ5分以上は残っていた。 急いで駅を出て撮影、うーん逆光だ。(左)
 列車はひと駅置いて、紀伊富田駅に停車した。 何とせっかく遅れを取戻したばかりというのに、またしても交換列車の遅れのためにここで予定外の停車となった。 ダッシュ!撮影!逆光!(右) ここで予定外に停車したために、次の白浜駅での6分間の停車時間はなくなった。


 さらに2駅進んだところで紀伊田辺駅に到着した。 新宮駅から3時間、お疲れー! しかし綾小路さんはまだまだ精力的だ。 御坊駅行き列車の発車まで17分しかないが、改札をでて駅舎を撮影。(左) 駅前に車が多くて大変だったが、立派な駅舎に満足ー。 なんでも合気道の創始者である芝草盛平の生誕の地でもあるようで、立派な記念碑が建っていた。(右) よーし、綾小路さんも建てるぞ、鎌倉に! ただし、宝くじは買わないので、大金を拾ったらだ。 その時に備えて、今から裏面の文章でも考えるておくか。


 御坊行きの乗換え列車は14時28分に発車した。 乗車して2駅目に南部駅に停車、南光梅の発祥の地との看板がでかでかとでている。 ホームにも梅の木が植えてあった。 余市駅にはりんごの木、塩尻駅にはぶどうの木が植えてあったのを思い出した。 南部駅を発車して車窓を見ると梅干し工場がちらほら見えた。
 そして岩代駅(左)、切目駅(右)と列車は進んでいった。


 さらに印南駅(左)、和佐駅(右)と、よだれものの駅舎が続いた。 うーん、やはりこの384.2キロ、一日では余りに時間が足りない。


 列車の行先の牛蒡・・・もとい御坊駅に到着、ここでまた乗換えとなる。 15分間のうちにまずは駅舎を撮影。(左) ホームに戻るとレトロな列車を発見した。(右) 御坊駅は紀州鉄道の分岐駅となっていて2.7キロ先の西御坊駅まで列車が運行している。 こういうのをミニ鉄道というのだろうか、しかし何か乗車したい誘惑に駆られる車両ではある。 ここで下り特急を先に行かせるために発車は4分遅れ。 しかしその特急に至っては先に発車しているはずで15分も遅れている事になる。



 15時30分過ぎに和歌山駅行きの列車は発車した。 このあたりで、綾小路さんはお疲れモードに入っていた。 そして御坊−和歌山間は列車本数も多く、複線化されているのか、すいすい進んでいった。 という訳でまたしても尻切れトンボ、撮影なしで進んでいった。 途中、車窓にはみかん畑が多く見られたるようになった。 並走する国道の看板が見え、有田まで何キロとか書いてある。 やはり先ほどの紀伊有田駅は有田みかんとは関係なくこの付近が本場なのだろう。 高校野球で有名な箕島であるが箕島駅は有田市にあった。 綾小路さんは今までてっきり箕島市かと思っていた。 いやー、ひとつ勉強になったなあ。 そして列車はほぼ定刻に和歌山駅に到着した。(写真)


 紀勢本線の歴史は古く、私鉄の関西鉄道として、まず1891(明治24)年8月に亀山−津間が開業した。 津から先はこれも私鉄の参宮鉄道として1893(明治26)年12月に津−相可(現多気駅)間が開業した。 そしてこの両私鉄は国有化されさらに延伸、1934(昭和9)年12月に尾鷲駅までが開業、紀勢東線となった。
 一方、和歌山市側からは1924(大正13)年2月に和歌山(現紀和駅)−箕島間が開業した。 1936(昭和11)年12月には串本駅までが開業、こちらは紀勢西線と命名された。
 また1913(大正2)年3月には新宮鉄道として、新宮−勝浦(現紀伊勝浦駅)間が開業していた。 これは国有化後に紀勢中線として熊野市−串本間に延伸が図られた。
 ここからは太平洋戦争による長い中断などもあり、全通するのに時間がかかる。 三木里−新鹿間が開通して尾鷲−熊野市間が開業したのは1959(昭和34)年7月のことである。 これにより紀勢本線は全通した。

 綾小路さんは和歌山駅を探索して、阪和線に乗車した。 駅のホームでは和歌山ラーメンの立食いがあったが、さすがにそこまでの時間はなかった。 代わりにひれかつ弁当730円を購入、込んできそうなので乗車して早速いただいた。 ひれかつがこの値段で味わえるとはかなりお得感がある。 味もなかなかいけたが、欲を言えばからしが欲しかった。


 16時57分、阪和線の大阪行き列車は発車した。 綾小路さんはめでたく紀勢本線に完乗した余韻にひたって・・・と言いたいところだが、実はまだ残っていた。 和歌山駅から和歌山市駅まで2駅の盲腸線に乗車しなければ、紀勢本線に完乗とはならないのである。 後から開業した阪和線が和歌山駅に接続となったためにこの2区間は盲腸線と化したのである。 くー、乗車したかったがもうその時間はなかったのだ。 和歌山駅から丸亀駅まで今日中に行くには、乗車出来なかったのである。 駅弁を食べ終えて落ち着いたので、試しに時刻表で確認してみた。 ん、・・・この区間、意外に本数あるなあ。 どれ、あー行って、こう帰る。 阪和線に東海道本線から山陽本線、そして瀬戸大橋線と・・・。 あれっ、行けたみたい。 ははは、今回は和歌山駅までと思い込んで、それで満足していたみたいだ。 すでに阪和線に乗車していたので、気付くのが遅かったか。 がっくり。 まあ和歌山線の乗車のついでにでも計画してみるか。 いや、今日は断念した那智駅や古い駅舎も多いので、これは早いうちに紀勢本線アゲインがあるかも。 しかし、これで全線制覇への日本地図が、かなり埋まった事は確かである。

 綾小路さんは暮れの忙しない関西路を進み、一路丸亀駅に向かった。


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