2003.12.28

北陸本線アゲイン(直江津−富山)   路線図を表示

 2003年の年末の帰省、綾小路さんは札幌駅を12月26日22時00分発の急行はまなすで出発。 寝ている間の東室蘭−伊達紋別間で日付が変わり、そこから柏崎駅まで延々870キロ。 札幌駅から起算すると何と1000キロ以上に及ぶ大移動となった。 疲れもあるが羽越本線の完乗を果たし、すごぶる上機嫌である。
 そして一夜明けた3日目の朝。今日は柏崎駅から富山駅までの150キロ余り、 昨日のロングランに比べるとかなり短い行程ではあるが中身は濃いものである。 北陸本線の直江津−浦本間も複線・電化時に路線変更がなされている。 4月に立ち寄った駅にも旧線の探索も兼ね、再度探索することにしている。
 毎度の事ながら朝早く、6時起床で準備してホテルをチェックアウトした。 天気予報でも報じられていたがどうやら今日は雨らしい。 昨日も感じたが北海道のみならず本州も暖冬のようである。 雨よりは雪が降るほうが全然楽だし絵にもなるのだが、こればかりはどうにもならない。 ともかく柏崎駅には徒歩1分もかからずに到着。乗車する7時ちょうどの列車は4月に来た時と同じダイアである。 その時は列車を乗り間違え、あやうく新潟方面に行きそうになったので、今回はしっかり確認して直江津方面行きの列車に乗車した。
 列車は柏崎駅から3駅目の笠島駅に到着した。到着する少し前には北陸本線の旧線トンネルが見えた。 ここで下車してそのトンネルなどを探索したかったが、今回は犀潟駅で下車する計画としていた。 後ろ髪をひかれながらさらに20分あまり、列車は犀潟駅に到着した。(左) ここは北越急行”ほくほく線”の分岐駅となっている。 ほくほく線は上越線の六日町駅から飯山線の十日町駅を経由して、犀潟駅までの延長59.5kmの鉄道である。 昭和43年に国鉄の新線として着工したが、昭和55年に国鉄の赤字により工事は中止となった。 しかし新潟県と関係市町村などによる第3セクター”北越急行”が設立されて工事が再開、 平成9年に着工以来29年の歳月で開業にこぎつけた路線である。 その六日町方面からの北越急行の列車がここ犀潟駅に到着した。(右)


 JRの時刻表で信越本線のページを見ると、次に犀潟駅を発車する直江津方面の列車は8時ちょうどとなっていた。 それでは直江津駅での乗換え時間が7分間しかなかった。列車でも遅れようものなら乗換えだけで終わってしまう。 これはまずい。一大事である。何が一大事かと言えば、実は駅弁を買う時間がとれない事である。 綾小路さんは過去に2度、直江津駅で駅弁を買いそびれていた。 そして今回こそはどうしても直江津駅で駅弁を買いたかったのである。 犀潟駅で下車しなければ時間はとれた。しかしそれは出来なかった。 悩んでいると何と北陸本線のページに思いがけないダイアが載っていた。 北越急行の列車が上越線の越後湯沢駅始発で十日町駅から”ほくほく線”に直通運転。 その列車は”ほくほく線”終点の犀潟駅から再度JR線に乗入れ、直江津駅まで直通運転していたのである。 そう、目の前に到着した北越急行の列車が犀潟駅を7時51分発で直江津駅まで運行していたのだ。 ラッキー。これで直江津駅で17分間の時間が取れそうだった。 駅弁を購入出来るのはもちろん駅舎も撮影出来そうだ。 実は先ほどの北越急行車両の写真は直江津駅到着時に撮影したものだった。


 直江津駅に到着、さあ急げ!17分と言っても、うかうかしてはいられない。 今日は4月に立ち寄った時に見かけた、ホームでの駅弁立売りは居なかった。 しかしその立売りが綾小路さんの求める駅弁屋かどうかも分からない。 直江津駅には2軒の駅弁屋(と言ってもどちらも製造元はホテルである。)が販売しているのだ。 とりあえず改札口に向かおう。 直江津駅は橋上駅化したために、跨線橋を上った2階に改札口がある。 と、その改札口を出る前に駅弁の立売りが居た。 求める駅弁業者でないと少し気まずいので恐る恐る販売している駅弁を覗いた。 あった、ここだ。ここで先に駅舎を撮影する旨を伝えて、予約してから改札を出た。 改札を出ているうちに売り切れにでもなれば、それこそ後悔しきれない。
 直江津駅は信越本線から北陸本線が接続する鉄道の要衝であり、かつては三角屋根の立派な駅舎があったと言う。 しかし時代の流れか、ごらんの様な橋上駅に建替えられている。


 そして綾小路さんは念願の直江津駅弁を手にした。 直江津駅名物として名高い”鱈めし”1020円である。 中身は昆布飯に棒鱈煮、鱈の親子漬、焼きたら子に数の子の山海漬などである。 雑誌やホームページ等で見ていたのと比べて焼きたら子はかなり小さく、少しがっかりしたが味はなかなか。 しかしそれより絶品だったのが棒鱈煮である。 小骨があったら嫌だなと思っていたらなんと背骨までいっしょに煮ていた。 しっかりと煮込んであり、柔らかく、一口かじった時は骨があるとは分からなかったぐらいである。 あれっ、やっぱり骨があるのかなと思って残った鱈を見ると丸い背骨の断面がはっきり見えたのである。 味も絶品、いやこれが直江津駅の名物駅弁だと納得した。 鱈めしを食べている間の8時15分に列車は直江津駅を発車した。


 さあ、直江津駅からしばらくはトンネルのオンパレードである。 かつては現在線より海沿いを走っていたが、複線化を機に山側にトンネルを掘り、新線としたのである。 綾小路さんはまず2駅目の有間川駅で下車した。古い木造の駅舎が日本海に面して建っていた。 しかし駅の玄関正面から5mも歩かないうちにちょっとした崖となっている。 そしてその下を通る国道から駅舎までの直接のアクセス道はなかった。(左) 国道からは100m程、直江津駅寄りから、だらだらと坂を登ってのものとなっているのだ。 しかし無人駅であり、ホームまでは様々なルートが設けられていて、列車への乗降にさほどの支障はなさそうである。 駅舎の玄関から外を覗くと崖の向こうに日本海が見え、実に奇妙な駅である。(右) 古い駅舎の建設年度を知りたかったが、財産区分標は見当たらなかった。


 おおそうだ。今日は競馬の大一番、GT有馬記念が行われる日ではないか。 漢字は違うが読みは同じ、今日ここ有間川駅にいる事は何かの縁。 これは大当たりの予感がしてきた。ここは電話投票する指にも力が入った。 ああしかし、やはり漢字が違ったのが悪かったのか、あえなく沈没した綾小路さんであった。 そして予想が外れたものがもうひとつ、いやそれは綾小路さんの予想ではない。 天気予報である。一日雨との予報だったがこのころにはすでに止み、以後降って来る事はなかったのである。 それはそれで良かったが、どうせなら天気予報は当たっていて一日雨でも、競馬の予想が当たっていてほしかったとは決して言うまい!(泣き)

 そして有間川駅からいったん直江津方面に戻り、中間の谷浜駅で下車した。 そこにも古い駅舎が残されていた。(写真) 建物財産標を見ると明治42年8月の建築とあった。 あっ、その証拠の写真を載せようと思ったがあまりにピンボケ、残念! しかし直江津駅や北陸本線の直江津−名立間の開業が確か明治44年7月1日。 どう言う事?谷浜駅舎は開業に先立つこと2年前に完成していたと言う事か? 待てよ、とすると先ほどの有間川駅も多分同じ時期に違いない。 そう思い調べると、どうもそちらは昭和22年開業らしい。 綾小路さん、相変わらず見る目がないのう。


 谷浜駅をあとにしてここからは4月に探索した駅に再度足を運んだ。 まずはトンネル駅の筒石駅である。現筒石駅については北信越・北陸漫遊(北陸本線・大糸線)を見て頂きたい。 今回は山上の現駅舎から坂道を降りること約1キロ、北陸本線の旧線が走っていたポイントを探索する。 現在はサイクリングロードとして整備されている海沿いの道はかつての北陸本線が走っていた路線跡である。(左) ここで地元の年配の方に旧筒石駅の事を聞いてみたが何も残ってないという。 時間的にぎりぎりなので行っても駅跡の場所の特定も困難だろうと断念した。 ところが実際は記念碑が建てられていて、行けば場所は分かったと思う。 しかし思ったより遠くて、往復すると列車に間に合わなかったとも思われる。 坂を降りた現筒石市街と当時の駅があった旧筒石市街は意外に離れていたのである。 ともあれここでは筒石川を渡河していた橋梁の橋脚を撮影出来た。 路線変更後にかなりの歳月が経ち、すでに線路跡には家屋が建設されていた。(右)
 筒石駅の駅員には現トンネル駅の解説、旧橋梁の橋脚や旧線の位置が記載された地図を頂き、丁寧に説明までして頂いた。



 次ぎに再びひと駅戻って名立駅に到着、ここも現駅については北信越・北陸漫遊(北陸本線・大糸線)を見るべし。 今回は旧駅舎が残されていればそれを撮影、取り壊されていてもあった位置を確かめようと思っていた。 そして駅から日本海側に歩く事700m。 しかし駅舎はおろか、それらしき痕跡もさっぱりない。 近くに郵便局が営業していたので中に入り聞いてみると、そこから1.5キロ北に行かなければならないと言う。 ここも当時の名立市街と現名立市街の位置が離れていたのだ。 しかも廃線本には駅舎が旅館の食堂として残されているとも載っていたが、何も残っていないという。 そこまで歩いて往復する時間はなかった。 タクシーがつかまれば間に合うが、何も残っていないのではなあ。 結局は道路に転換された廃線跡を500mぐらい歩き(写真)、現名立駅に戻った。 見事な空振りであった。


 気を取り直して12時10分発の列車で浦本駅に向かった。 古い駅舎は明治の建築・・・ではなく開業の昭和25年建築らしい。(左) 直江津側のホームの先にトンネルの入口が開いているのはこのあたりの駅では珍しい事ではない。 しかしトンネル脇からは路線変更となる前の北陸本線の路線跡が延びている。(右) かつては現在線よりさらに日本海側の断崖絶壁の下を走っていたのである。 ここから直江津駅までの路線は複線・電化時に路線変更され、トンネルまたトンネルの区間となったのである。 筒石駅と名立駅は駅の位置が遠く離れた位置に移動となり、さらに筒石駅のホームはトンネル内に設置される事となったのである。 さらには直江津−谷浜間にあった日本海沿岸の郷津駅に至っては廃止の憂き目にもあったのである。


 そしてこの路線変更区間で最後に残った駅、能生駅に向かった。 ここには大きなコンクリートの駅舎があった。(上左) ホームや線路が地上から5mほど高い高架部分になっているのは名立駅や浦本駅と同じである。(上右) 駅舎寄りの一番線には現在列車は発着していない雰囲気だったが、富山駅寄りには北陸本線の起点駅である米原駅からの営業距離を示すキロポストが立っていた。(下左) そしてここでも旧線跡を探索する計画にしていた。 能生駅から日本海側に500m歩いた能生町役場が旧能生駅のあった場所らしい。 ここに跡地である記念碑と当時の駅に立っていたキロポストが保存されている。(下右) うん?338キロだ。現在の駅には337キロポストが立っている。路線変更で1キロ短くなったのか?


 旧駅跡から戻ってきたが、時間があったのでここで昼食をとる事にした。 それは直江津駅で入手していたもうひとつの駅弁である。 今度は”鮭めし”で値段は同じく1020円。 昨晩に鮭の焼漬弁当を食べたばかりだというのに今日もまた鮭であった。 しかしこれが大当たり。鱈めしと同じく昆布飯に、焼銀鮭といくらがメイン食材である。 焼銀鮭は量もたっぷり。味も昨晩の焼漬と比べても遜色無いものである。 いくらの味付けも良く、大満足の綾小路さんであった。


 13時56分、綾小路さんはこの路線変更がなされた興味深い区間を後にして富山駅に向かった。 糸魚川駅と青海駅親不知駅に市振駅は4月に探索しているからいいか。
 そこからしばらくは未探索区間である。 今日もこの時間ともなると列車は混雑してきて、車内からの撮影も叶わなかった。 ひとつ惜しむらくは4月に来たときに魚津駅の撮影をしなかった事か。 せっかく下車したのに富山地方鉄道への乗換え時間が少なかったので諦めたのだった。 今回も当初は魚津駅で一時下車、じっくり探索する計画を立てていた。 しかし計画を見直しているうちにもっと魅力的な対象を発見していたのである。
 それが富山駅も近くなったところの水橋駅、綾小路さんはここで一時下車した。(上:左右) 財産標によると駅舎は明治41年9月の建築である。(下左) 魚津−富山間の開業が明治41年11月、開業前に完成してそれ以後は修復程度でここまで来たのだろう。 ホームから直江津方面を望むと遠く立山連峰が見えた。(下右)


 さらに富山駅との中間の東富山駅でも一時下車。こちらも同じく明治41年9月の建築である。(左) 役目を終えた貨物線のホームも物悲しい。(右)


 綾小路さんは最後に東富山駅からひと駅乗車、16時31分に富山駅に到着して北陸本線の漫遊を終えた。 さあ、ここからいよいよ今回の漫遊の第1目的である高山本線に乗車だ。

 綾小路さんの漫遊は高山本線漫遊(富山−岐阜)に続く!

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