2004.02.14

北海道ちほく高原鉄道 ふるさと銀河線漫遊(陸別−北見)   路線図を表示

 しばらく鉄道旅行をしていなかった綾小路さんであるが、暮れの帰省では久々に満喫する事となった。 これで、またまた火が付いたが、1月はその漫遊記をまとめていて、それどころではなかった。 2月になり、一段落しそうになったところでやはり虫が疼きだした。 しかしどこに行く?この時期に3連休はなく、行くとしても1泊2日では道内に限られてくる。 流れ流れて札幌にやって来た綾小路さんは結構、北海道を気に入っているが、この面では大きなハンデとなっている。 津軽海峡越えは時間的にも金額的にもきつい。 そろそろ北海道を去る時期か? しかし仕事があるのでそうは言ってられないか。 バカな事を考えてないでさあ旅行の計画だ。
 この時期、外は一面の雪である。 やっぱ比較的雪の少ない道南か日高地方か? いやいや、どうせならこの時期にしか味わえない、多雪地帯か厳冬の地がいいだろう。 そこで綾小路さんの頭の中に、あるひとつの路線が浮かんだのである。 ”北海道ちほく高原鉄道”ふるさと銀河線である。 日本一寒い”しばれ”の町、陸別町を通過する北海道唯一の第3セクター路線である。 綾小路さんは1昨年に1度だけ、全線を乗車した事があったが、その時は9月上旬のいい時期だった。 この厳冬期に漫遊すれば無事生きて帰れるだろうか? しかしご存知のように、今この路線は存続の危機にあった。 経営赤字で、昨年には多額の資金を出資している北海道が地元関係者にバス転換を迫ったのである。 計画がまとまり、いざ漫遊の1週間前には地元関係者が北海道に対して、有力な代替案を提示できなかったとのニュースも流れた。 やはり、今乗車しておいたほうがよさそうだ。 来年は乗車出来ないかもしれない。

漫遊の日程は土日の2日間しか取れない。 しかしそれでは起点の池田駅および終点の北見駅までの往復にも時間がかかり、実質1日程度になってしまう。 そこで現地までの移動手段に浮かび上がったのが夜行バスであった。 札幌バスターミナルを23時40分に出発して、翌日の4時50分に北見バスターミナルに到着するものである。 これだと土曜の朝一番からふるさと銀河線の漫遊が可能となる。 ところで札幌バスバスターミナルって何処? 多分札幌駅の近くだと思ったが、念のためバスの予約時に確認した。 すると札幌テレビ塔の東にあるという。 そう言えば地下鉄でバスセンター前駅があるではないか。 そして綾小路さんは思い出した。 8年前、東京から5ヶ月間の長期出張で札幌に来ていた時に、函館競馬場に行くのに夜行バスを利用した事を。 その時に出発したのがバスセンターからだった。 それなら地下鉄で福住駅から乗車して、大通駅で下車すればそんなに時間はかからないな。 このとき綾小路さんはそう思っていた。

 そして当日・・・。 バスの発車までまだかなりの時間はあったが、いつまでも家にいてもしかたがないので早目に出た。 地下鉄を降りてコンビニで買出し、そしてバスセンターに到着した。 しかし何かおかしい。 階段を降りた地下から発車するようなので行ってみた。 そこで声がかかった。 ”しめまーす。” えっ、予約時の電話では夜間窓口が開くとの話だったのでその事を伝えた。 するとここではないと言う。 綾小路さんは一瞬、目の前が真っ暗になったが、ここから道路を挟んだ北電のビルの向こう側だという。 ほっ、そういえばそこも見たことがあったな。 確かにここはバスセンターで、出発するのはバスターミナルだった。 しかし時間ぎりぎりで来て、閉まっていて、誰もいなかったらパニックになっていたかもしれない。 早めを心がけたのが幸いした。

 なにはともあれ札幌バスターミナルに到着。 どれ、ここは駅ではないが今回の漫遊の起点なので撮影するか。 綾小路さんはバッグの奥からカメラケースを取り出した。 そしてケースからカメラを出した。 そのときの事である。 デジタルカメラの替えの電池が地面にぽとりと落ちた。 しまったあー、充電器を忘れた。 その落とした電池を見て、綾小路さんは充電器を忘れたのに気付いたのである。 だいたい綾小路さんは1日に電池を1セット使い切り、交換して3分の1といったところで1日を終える。 まあ充電式のニッケル水素電池でなく、アルカリ電池だと1日もつのであろうが。 今回は替えの電池は一式しか持参していなかった。 1泊2日の漫遊予定なので、1日を終えた時点で、宿で充電すれば十分だった。 しかしこういう時のために予備の電池を用意していた。 1昨年の暮れに新しいデジカメを購入した時に付いていたリチウム電池である。 しかし1年以上経っていてだいじょうぶだろうか? まあそのときはコンビニでアルカリ電池を買えばいいか。 問題は電池が切れた時にコンビニがあるかどうかだ。 町中だといいが、路線は山中や無人地帯も多いのである。

 札幌バスターミナル(左)の横には創成川(右)が流れている。 豊平川の分流である鴨々川から発して、旧石狩川に注ぐ、全長約10キロの人口の水路である。 さかのぼると慶応2(1866)年に幕吏・大友亀太郎が開削したという。 以後、開拓者の飲用水、田畑の用水、運河の役目も果たしたのである。 現在はそれらの役目は終えたが、札幌市の東西の基点として知れわたっている。


 バスは道央自動車道に乗り、旭川からは国道39号線を通って(たぶん)、ほぼ定刻に北見駅隣の北見バスターミナルに到着した。 ふるさと銀河線の始発列車の発車までは時間があったので、綾小路さんは市内の地図を調べていた。 そこで駅から700mぐらいの位置にピアソン記念館があるのを発見したのである。 今まで話には聞いていたがそんな所にあったのだ。 しかしまだ暗いのと寒いのであっさり断念。 JRの駅である北見駅に直行した。(左) ふるさと銀河線の駅舎はなく、JR駅を使用させてもらっているようだ。 ちなみに切符売り場も自動券売機があるだけでJR駅員の改札である。 ただし本社ビルは駅の隣に建っているようだ。(右)


 待合室で約1時間、ようやく改札となった。 ふるさと銀河線の駅名標は洒落ている。(左) この駅名標のように星座占いが載っているものもある。 ホームにはすでに単行のディーゼルカーが入線していた。(左)


 その始発列車は6時02分に発車した。 さあ、いよいよ厳冬期のふるさと銀河線の漫遊が始まったのである。 果たして、綾小路さんは無事生きて帰れるのか?(いつもながら大げさな綾小路さんであった。) 列車は発車後すぐに石北本線から分岐して、左方向に進路を取った。 まっすぐ行く石北本線はすぐに地下に潜るようである。 この付近でふるさと銀河線の車庫を発見した。 こんな所にあったのか。 今度、車で来て撮影するか。 そしてワンマンカーの列車は前面展望が出来るタイプのようだ。 これはいい、立っていなければならず疲れるが、なるべく前面展望するとしよう。 せっかくふるさと銀河線を漫遊するのだから。
 列車は6時19分に北見駅から5つ目の穂波駅に停車した。 綾小路さんはまずはここで下車した。 ローカル線によく見られる片面ホームに待合室のみの駅である。(左) 写真では分かり辛いが看板には稲穂が描かれている。 しかしこの待合室から直接ホームには行けない。 ホーム側の出入り口はホームによって上下に分断されているのだ。(右) まあ根性ある人なら、ここから出入りする事も可能ではあるが・・・。 もちろん綾小路さんは謹んで辞退させてもらった。


 穂波駅からは2.1キロ、北見寄りの日ノ出駅まで徒歩である。 途中、ふるさと銀河線の看板も発見した。 車で通るだけでは気が付かなかった事だ。 そして30分かからずに日ノ出駅に到着した。 トイレを併設したきれいな待合室である。(左) 今日はすでになかったが、昨年に車で立ち寄った時には、待合室内に昔の駅舎の写真が貼ってあった。(右:H15-9-20撮影) 出来ればこの駅舎が建っているときに立ち寄りたかった。



 7時16分発の北見行きの列車がやってきた。 先ほどの北見発の列車の乗客は5人ぐらいだったが、この列車は盛況である。 どうやら北見市内に向かう高校生が多いようだ。 いかん、いかんぞ、こんなに乗客が多いのに廃止は絶対に駄目だ!
と、綾小路さんはこの時はそう思った。


 北見駅まであとひと区間、列車はまさに北光社駅に到着しようとしていた。 綾小路さんはここで思った。 ああ、このまま北見駅まで行きたい。 そうすればこの時間ならもう駅弁も購入できるだろう。 石北本線に乗車した時に、北見駅で購入したホタテ丼を食べたなあ。(左:H15-1-14撮影) そうだ、駅そばもあった。 これは邪道ではあるが、車で立ち寄った時にニシンそばを食べたものだった。(右:H15-7-8撮影) しかしこのまま北見駅まで行けば、恐らく2駅は探索する駅が減るだろう。 辛いがここはじっと我慢の子であった。 ふるさと銀河線では途中駅では駅弁の販売はない。 あとは最後の池田駅に到着した時しかチャンスはないのである。


 駅弁や駅そばの誘惑を振り切った綾小路さんは北光社駅で下車した。 まさにホームのみの駅で待合室さえない。 駅名は明治30年ごろに北光社移民団がこの付近に農場を創設した事に由来するそうである。


 ここでは41分間もの時間があった。 探索なんてあっと言う間に終了するのは誰の目にも明らかであろう。 待合室もなく、残りの時間をどうする? ところが近くにいい所があった。 徒歩10分弱の跨線橋である。(左) これは北光社駅の写真にも写っているものである。 ふるさと銀河線が廃止されても、後々まで残るのだろうと思いながら跨線橋の上に立った。 橋の欄干には未だ国鉄時代のプレートが付いていた。(右)



 8時11分発の置戸行きの列車に乗車した綾小路さんは驚いた。 乗客は綾小路さんを含めて、わずかに3人。 それも全員、北光社駅からの乗車であった。 という事は北見駅からのひと駅は乗客はゼロ。 運転手ひとりで運行した事になる。 うーん、やはりこれでは廃止もやむなしか。



 途中、訓子府駅で列車交換となった。 列車交換が行われるという事は結構、運行本数が多いという事か。
なるほど、ふるさと銀河線の池田−北見間のうち置戸−北見間は1日に12往復である。 当駅には後ほどやってきて、下車する予定であるが、ここは引続き乗車して一路、置戸駅を目指す事としている。



 列車は西富駅を過ぎ、西訓子府駅に向かっているところである。 今日はいい天気となった。 吹雪の日でも冬の旅という感じがして、結構悪い気は感じない綾小路さんではあるが、やはり雪がどっと降った後の天気のいい日は最高だ。 列車の先頭から見る雪の中の線路は実に美しい。 これだから冬の列車の旅はやめられない。


  列車は8時56分に置戸駅に到着した。 ホームの脇には記念碑が雪に埋もれていた。(左) ”管内最初明治4・・・” ここまでしか読めない。 しかし昨年に車で来たときの写真があった。(右:H15-9-20撮影) 正面には”管内最初 明治44年開駅之碑”と刻まれている。 側面には”網走本線は明治42年陸別置戸間、翌年置戸北見間が完成し明治44年9月営業開始す”と刻まれている。


  そう、ふるさと銀河線は網走線として開業したのである。 まず、明治43(1910)年9月22日に池田−淕別(りくんべつ:現陸別)間が開業した。 明治44(1911)年9月25日には淕別−野付牛(のっけうし:現北見)間が開業した。 翌年に野付牛−網走(後に浜網走:現在は廃止)間が開業して、網走本線と改称されたのである。 このとき宗谷本線はようやく音威子府までが開業したばかり。 根室本線も釧路までしか開業しておらず、しかも滝川−富良野間が開業するのは翌年の事であった。 新旭川−北見間の石北線の開業に至っては、まだまだ後の昭和7年の事である。 つまり網走線の開業時には札幌からは旭川・富良野を経由して、池田から北見・網走方面に向かっていた事になる。 この時は押しも押されぬ幹線だった訳である。
 しかし歴史は残酷だった。 石北線が開業すると北見・網走方面への幹線はそちらとなる。 昭和36(1961)年には北見−網走間は石北線に編入され、石北本線と改称された。 同時に池田−北見間の網走本線は池北線と改称されたのである。 その後、国鉄の第2次廃止対象線となり平成元(1989)年6月3日限りで営業廃止となった。 そして翌日に北海道唯一の第3セクター”北海道ちほく高原鉄道”として今日に至っている。

 ホームにはメモリアルレールが飾られていて、ふるさと銀河線が永遠に残り続けるように応援しているという。(左) このメモリアルレールは他のふるさと銀河線の主要駅でも見ることが出来る。 駅舎はおけとコミュニティホール”ぽっぽ”との合築駅舎である。(右) 第3セクター移行後に改築されたらしい。 もしJR線として存続していたら、まだ古い駅舎だったかもしれない。


 9時17分発の列車でここから北見方面に戻る事にした。 まず、先ほど列車交換が見れた訓子府駅である。 お洒落な駅舎は訓子府町農業交流センター”くる・ネップ”との合築駅舎である。(左) しかし綾小路さんが見たかったのはお洒落な駅舎ではなかった。 このいかにも駅前通りといった通りの奥に立つ古い駅舎だった。(右) しかしもうその願いは叶わない。


 10時55分に1時間以上の訓子府駅滞在を終え、次に向かったのはさらに北見方面となる広郷駅である。 ここもホームに待合室のみの駅であった。 先ほどの穂波駅・北光社駅と同様に、線路と反対側のホームの端に転落防止の柵さえない。


 広郷駅からは徒歩となった。 目指すは2.8キロ北見方面の上常呂駅である。 そういえば綾小路さんは前の会社時代に、上常呂駅近くの某携帯電話会社の無線基地局を設計していたのである。 上常呂駅近くになるとその無線基地局に立つ鉄塔が見えてきた。 そして、その鉄塔を横目に見ながら上常呂駅前に到着した。 ここはいかにも駅前といった木が立っているが駅舎はないようだ。(左) すぐ右手にはコミュニティプラザがあり、上常呂駅の待合室もあるようだが、どう見ても間借りである。 ここは列車交換駅となっていて、日ノ出駅から北光社駅に向かった際にも列車交換風景が見られた。 木の脇の階段を上ってホームに立ち、池田方面を伺うと対抗ホームが見える。(右) そしてその奥には5年ぐらい前に綾小路さんが設計した某携帯電話会社の無線鉄塔が見える。 手前の遮断機左手の雪の下には、すでに廃止されて久しい貨物ホームが眠っている。


 そして12時10分にこんどは池田方面行きの列車に乗車した。 向かったのは置戸駅の手前の豊住駅である。 ホームに待合室はふるさと銀河線のスタンダードのようだ。(左) 北見−置戸間の駅は路線とほぼ並行して走っている道道の北見置戸線沿いに設けられている。 しかし豊住駅は北見置戸線から少し離れていて、畑の中にポツネンと置かれている。 もっとも一面に積もった雪で、下が畑か否かは分からない。(右)


 ここからはまたまた北見方面に戻る事にした。 13時04分発の列車で西富駅に降り立った。 ホームに・・・、これは待合室なのだろうか? どうやら自転車置き場のようだ。 細田恒美氏の”ふるさとの駅”でも1987年の写生として、同様の小屋が描かれている。 自転車置き場より待合室を作らなかったのだろうか?
 そして探索途中には電池切れとなった。 少し切れるのが早いな。 ここで予備のリチウム電池を先に使用する事にした。 どれだけ電池が持つか分からないからであった。 これが切れたら最後の充電式ニッケル水素電池に交換するといいだろう。 その電池は普段使い慣れているので、電池切れの目安が立てられる。


 待合室もない駅で30分以上の滞在、ようやく13時50分発の列車がやってきた。 いやいや3分程度遅れたので、40分近くの滞在だったか。 この列車に乗車して隣の西訓子府駅で下車した。 綾小路さんはもう何も言うまい。 ごらんの通りの駅です。


 西訓子府駅からは今日3度目の徒歩である。 1.8キロ池田方面の境野駅までてくてく歩く。 天気は絶好! 鼻歌まで出そうだ。 厳冬期にしてこの漫遊は決死の覚悟で望んだものの、少し拍子抜けであった。 そして歩くこと20分少々、境野駅が見えてきた。
 北見−置戸間ではようやく駅舎らしい駅舎にやってきたようだ。(左) 大正11年7月との建物財産標が貼ってあった。 惜しむらくは駅舎が食堂になっている事か。 しかし食堂になっていなければ、取り壊されていたかもしれない。 無人の建物の傷みは早いものである。 ホームは片面のみであるが、元々は列車交換が出来たようだ。 貨物ホームもあったような雰囲気が漂っていた。(右)


 綾小路さんは境野駅15時04分発の列車に乗車して置戸駅に到着した。 さあいよいよ半日余りを費やした北見地方に別れを告げ、峠越えだ。 北見−置戸間はかなりの列車本数があるが、置戸駅からはぐっと本数が減るのだ。 なかでも置戸−陸別間は1日に6往復に過ぎない。 境野駅から乗車していた列車は北見駅から池田駅までの全線直通列車だった。 綾小路さんはすでに確保した前面の特等席で今や遅しと出発を待っていた。 と、ここで列車内から目視にて線路を点検する保線係りの人が乗り込んできた。 幸い、綾小路さんの隣に立ってくれたのでこのまま特等席で峠越え出来そうだ。
 列車はすぐに置戸駅を発車した。 この池北峠はそんなに勾配がきつい峠でもないが、やはりひとしおである。 その昔、札幌から旭川・富良野を経由してさらに帯広・池田を通って北見地方にやってきた人達は感激ものだっただろう。 もっとも今日はその逆方向に進んでいる訳だが・・・。 置戸駅から次の小利別駅まではふるさと銀河線でもっとも長い15.9キロもある。 ディーゼルカーは喘ぎながら徐々に高度をあげていった。(左) はっはっはー、写り悪いぞー、くそー。 列車はやがて峠を越えると軽快に走り出した。 尚もしばらく走り、到着した駅が小利別駅である。(右) ここも元は列車交換駅だったようで、このホーム奥右側から千鳥に配置された対抗ホームを昨年に確認している。 いまは雪の下に埋もれているが。


 しかし綾小路さんはここでは下車しない。 いや、下車出来ないのだ。 次の川上駅で下車するためである。 小利別駅も後ほどやってきて下車する予定であるが、今ここで下車する訳にはいかないのである。 1日に6往復の列車の内、次の川上駅に停車する列車は下りが3本、上りが4本に過ぎない。 そんな駅に降りて、その後どうするの? 心配ご無用。 綾小路さんは現在、上り列車で川上駅に向かっている。 次ぎに川上駅を通過する列車は下り列車で30分後になる。 しかしその列車は川上駅には停車しないのであった。 そして幸運な事に、下車して2時間後にまた上り列車が停車するのである。 綾小路さん涙がでるほどうれしい。 一日に4本しか停車しない上り列車が2時間後に来てくれるのだ。 運がいいとしか言いようがない。ははは・・・

 列車は15時42分に川上駅に到着した。(左) ここで列車からの降り際に運転手から”次の列車は当分来ないよ”と念押しまでされた。 が、元より覚悟の上の下車だと告げて下車した。 辺りは無人地帯である。 なんでこんな所に駅があるのか? ホームから見渡しても廃屋らしき建物が1棟見えるだけである。(右) ここも元は列車交換駅だったようなので、造りから見ると、その廃屋もおそらく鉄道官舎だったのだろう。


 そしてふるさと銀河線に乗車したからには、やはり川上駅ははずせない。 古い駅舎・・・、残念ながら財産標が見当たらず、建設年度は不明である。 聞くところによると大正9年の川上駅開業時の駅舎らしい。 当時は駅前に150人、周辺に1000人程度住んでいたらしい。 しかし森林伐採が終了すると、次々に当地を離れて現在に至ったようである。 その間に川上駅の廃止が何度も検討されたとも聞いている。


 やはりじっくり撮影しても30分はかからない。 もちろん、例の鉄道官舎らしき建物の近くにも足を運んだ。 あとは駅舎内で待つばかりである。 さすがに17時近くなると冷えてきた。 うー、ぶるぶるぶる。 これは体を動かして暖めなくては。 いっちにいさんしー、にいにっさん・・・。 しかし綾小路さんが下車した列車が今日3本目の停車で、おそらく綾小路さんが今日初めての乗降客だろう。 帰りの列車を入れてもあと4本、他に乗降客はいないのではないか。 この辺りは車で何度か通ったが、人家は見かけない。 鉄道ファンが週に数人程度でないだろうか。 それでもホームはちゃんと除雪されていて頭が下がる。

 17時44分、お待ちかねの上り列車がやってきた。 この列車に乗車して隣の分線駅で下車するのである。 このまま今日の宿泊地である陸別駅まで行けばいいものを。 我ながら物好きだと思う。 乗車5分で、その分線駅に到着した。 町の区画の基線の分かれ目であることからこの名前がついたらしいが、区画なんてあるのか? 牧場が3軒あるらしいが、この暗闇では分からなかった。


 分線駅から18時05分発の北見方面行きの列車で先ほどの小利別駅に戻った。 どのみち分線駅で下車した以上、次の上り列車は19時12分に陸別駅着の最終列車しかないのである。 池田駅まで行く列車はというと、先ほど分線駅で下車した列車だった訳である。 まだ日が暮れたばかりで、なにやら寂しい話でもある。
 その小利別駅は第3セクター移行の前後に新しい駅舎に建替えたられたようだ。(左) 昔の写真を見るとこの通りの奥に古い駅舎があったが、新駅舎は道の左側に建てられた。(右)


 小利別駅の探索が終了。 綾小路さんは18時54分発、本日の宿泊地である陸別行きの最終列車に乗車した。 そして何度も言うが綾小路さんの宿泊場所は本当に陸別駅なのである。 いや断っておくが駅寝ではない。そんな事したら寒くて死んでしまう。 町おこしの一環として陸別駅に設けられた”ふるさと交流センターオーロラタウン93”内に”オーロラハウス”という宿泊研修施設がある。 今日はそこに宿泊するのである。 ”ふるさと交流センターオーロラタウン93”は道の駅No.69 オーロラタウン93りくべつでもあり、 綾小路さんにとっては道の駅としてのなじみが深い。 まだ19時過ぎと時間は早いが、夜行バスであまり寝ていないのと、明日の朝も早いので早めに寝る事にしよう。 いや、実は夕食時にお酒を2合飲んだらバタンキューだった。

 綾小路さんの漫遊はふるさと銀河線漫遊(池田−陸別)に続く!

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