Part 7 of the Sacred Mother's Ring - A Path to the Light

終章  つながりゆく環(1)




 その人は草原の道を歩いていた。草原の向こうには、小さな町並みが見える。まだ太陽は顔を出さないが、空は薄い紫の色調を帯び、少しずつ明るくなっていく。草は柔らかい緑色で、折から吹いてきた風に揺れている。その男の人は、黒っぽい色の長い上着とズボンを身にまとい、小脇に紙でできた本を抱えていた。首からさげた銀色の鎖の先端に、二本の棒がプラスの字より少し上の方で交差した物がついている。
 男の人は目を上げて、夜明けの空を眺め、深いため息を吐き出した。次の瞬間、歩みが止まった。緑色の目が、少し驚いたように見開かれる。空から一筋の光が降り注ぎ、行く手に一本だけある木の梢に落ちたように見えたからだ。
 その光は数秒で消えた。男の人は空を見上げ、地平線から昇ろうとしている太陽に目を移した。そして少し戸惑ったような表情を浮かべると、その場に立ち止まったまま、両手を組んで頭を垂れる。その後、彼は再びふっとため息をつき、軽く首を振ると、再び歩を運んだ。
 その草原には、木は一本しかなかった。まだ樹齢数十年の若木だったが、美しい木で、幹はかすかに黄金色がかっているように見え、丸みを帯びた葉っぱは、輝きのある緑色だった。その木のそば(といっても、道から二十メートルほどの距離があるが)を通り過ぎようとして、男の人は足を止めた。何か泣き声のようなものが聞こえる。
 木の根元に、何か小さな白いかたまりが動いているのが見えた。草原に踏み出し、近づくと、それは小さな赤ん坊だった。白いベビー服を着、金髪の巻き毛が頭を覆っている。男の人を見上げる大きな目は、紫がかった灰色に見えた。まだやっとはいはいが出来るか出来ないかというくらいの月齢で、必死に前に進もうとしながら、訴えるように泣いている。男の人は本を小脇に挟んだまま、その赤ん坊を抱き上げた。赤ん坊は泣き止み、大きな目を見張って、探るように見つめている。男性は赤ん坊を軽く揺すりながら、自らに問いかけるように小さく呟いた。
「誰かが捨てたんだろうか……困っていたんだろうが、ひどいことをする」
 そして優しい口調で、赤ん坊に言う。
「もう大丈夫だよ」
 赤ん坊はなおも目を見開いて見ていたが、やがて再び泣き出した。小さな手を差し出して、しゃくりあげるような泣き方だ。きっと少し安心したのだろう。
「おお、よしよし」その人はなだめるように赤ん坊の背中を優しくさすりながら、再び自分に問いかけるように呟いた。
「だが、この子はいつから、ここにいたのだろう。来る時に通った時には、気がつかなかった。暗かったからだろうか。この子は眠っていたんだろうか……」

 場面が転換した。どこかの部屋の中のようだ。壁も床も、薄く削った木の板でできているようだ。部屋の真ん中においてあるテーブルと四客の椅子も、木製だった。今の時代では木のものは貴重で、上級階級しか使われないが、今見ている時代は明らかに別で、むしろその家の様子は質素な感じがした。窓には入り組んだ草花模様の、薄い緑色のカーテンがかけてあるが、その色彩は日にさらされて、少し退色したような感じだった。窓は開けられていて、その布が風に揺れているのが見える。
 天井から、小さな丸い照明がぽつんと下がっていた。この部屋全体の照明には少々暗いようだ。椅子に腰掛けている人物は、先ほど草原を歩いていた人のようだった。服装も変わっていない。ただ、先ほどのシーンから軽く四半世紀は経過しているらしく、五十歳を越えた中年期に差し掛かっているようだった。
 男の人の向かいに、テーブルをはさむような形で、別の人間が立っていた。その人はまだ若く、二十代後半のようだった。前をボタンで留める方式の、襟のついた白いシャツを着、硬そうな布で出来た、濃紺のズボンをはいている。シャツの襟元は少し開いていて、首から提げた金色の装飾品の先端――中年男性がつけている、少し重心のずれたプラス記号のような形の装飾品の、もっと小さなもの――がのぞいている。その青年は金色の巻き毛を肩にたらし、目はすみれ色がかった深い灰色をしていた。この人はさっきの赤ん坊――それから二十数年の間に、成長した姿のようだ。
「珍しいな、アリステア。おまえは七月にならないと、帰ってこないと思っていたが」
 年配の男性の方が青年を見上げ、口を開いた。
「そのつもりでした。でも、どうしてだが、今来なければならないような気がしたのです」
若い男は笑みを浮かべ、小さく肩をすくめた。
「今、来なければならないような気がした、か。それが、おまえが急に帰ってきた理由なのかい? まだ撮影の途中だろう?」
「そうですね。直接的には、昨日見た夢のせいです。いや、正確には夢を見たと言うより、声だけなんですが。その声が、信じられないような知識の断片を語ったんです。神父さんと僕が、定められた運命を持つパートナーだと。目が覚めて、どうしてもそのことを神父さんと話してみなくては、と思ったんです。それで監督に話して、三日ほどお休みをもらって、ここに来ました」
「監督はすんなりと許可してくれたのか、そんな急な頼みを」
「喜んで、とは言いがたいですが。撮影スケジュールを狂わせますから。『アリステアも、ついにわがままを言いだすようになったな』なんていう声も聞きました」
 青年は苦笑いを浮かべ、再び肩をすくめた。
「おまえの人気を持ってすれば、そのくらいの我がままは通るのだろうな」
「でもシスターは、さっきちょっと苦い顔をしていましたよ。人気があるからと言って、あまり人様に迷惑をかけてはならないって仰いました。僕もそう思います。奢っているわけではないんですよ。普段なら、スタッフに迷惑はかけたくないです。ただ、今度の場合だけは、どうしても、落ち着かなかったんです。どうしても、神父さんに会って話さなければならない。そんな気が強くして、それを済まさなければ、撮影に身が入りそうにない気がして……」
「ああ、おまえの言いたいことは、よくわかる。私もおまえに会いたかったんだ」
 年配の男性は、目の前の青年をじっと見つめた。
「私も昨夜、夢を見たんだ。おまえと同じ、声だけの夢を。その声が、知識の断片を語ってくれた。目が覚めて、胸が騒いだ。もしそれが本当ならば、恐ろしい……恐ろしいことだ。しかしそれが神の意志なら……私の信じる神より、より真実で、全能の神の意志であるなら、もしくは秩序であるなら、それに従うより他はない。神の裁きが我々の期待どおりでなくても、致し方ないことなのだろう。人間は元々、罪深い生き物なのだから」
「それは少し違うらしいですよ、神父さん。それは裁きではなく、祝福なのだそうです。選ばれた進化の道なのだと。僕たちは選民なのだと、あの不思議な声は言っていました。それは、そのための試練だ。だから僕たちは勇気を持たなくては、と」
「ああ、そうだったな。アリステア……」
 年配の男は頷いた。青年も頷き、言葉を継いでいる。
「今から二十年後に、起源の子が来ると言っていましたね。誰なのか、どういう意味を持つのか、それはわからないけれど、でも一つだけわかっているのは、その子が生まれて四半世紀で、世界は最大の試練に出会うそうです。それは聞きましたか?」
「ああ、私も聞いた。恐ろしいことだ。あと四五年で、世界は終わりを迎えるとは……」
「いったい何の話をしているのですか、あなた方は?」
 軽いノックの音とともに扉が開いて、部屋に一人の女性が入ってきた。その扉の開き方は今のようにすっと横に開くのではなく、かつてネイチャー・コロニーの跡地で見たような、取っ手を回して手動で外側に開く形だった。
 入ってきた女性は、奇妙な衣装を着ていた。胸元に白い切り替えの入った、灰色の長い上着をすっぽりと着込み、頭からも灰色の丈の長い帽子のようなものを、すっぽりとかぶっている。そのせいで髪の毛はまったく見えず、顔だけが出ていた。女性は年配の男性よりは何歳か若いだろうという年頃で、目元に少ししわがあったが、顔立ちは整っていて穏やかだ。薄い唇には、まだ消せない赤い色が残っていた。
 彼女はお盆の上に、たぶん温かい紅茶であろう液体の入ったベージュ色のカップを二つのせ、一つずつテーブルの上に置きながら、青年に声をかけた。
「あなたも立っていないで、お座りなさい、アリステア」
「そうですね。ありがとうございます、シスター」
 青年は頷いて、年配の男性の正面に席を占めた。
「いつまで、ここにはいられるの?」女性はそう問いかける。
「そうですね。明日の昼ごろには帰ります」
「良かった。それでは、アグレイアに会う時間はあるわね。今日はもう寝てしまったから」
「そうですね。あの娘は元気ですか?」
「元気よ。最近かなり言葉も増えてきて、よくおしゃべりするようになったのよ。でも、あの子も驚くと思うわ。朝目が覚めたら、パパが帰ってきていると知ったら」
「僕ももう少し、あの娘に父親らしいことをしたいんですがね」
 カップを口に運ぶ青年のまなざしに、小さなかげりがよぎった。
「ちゃんとした休暇になったら、埋め合わせをしておあげなさい」
 女性は慈愛のこもったまなざしを青年に注いだ。
「あなたの部屋を整えておくわね、アリステア」
「ありがとうございます」
 女性は再びドアを手で開け、部屋を出て行った。
 年配の男性はカップを口に運びながら、ふっと息をついた。
「アンネには、どこまで話がわかるだろうな……」
「漠然と理解して、詳しいことは探らないんじゃないでしょうか。聡明な人ですから」
「そうだろうな」年配の男性はしばらく黙ってカップの中身を飲んでいたが、やがて目を上げ、相手を見た。
「ただ、ひとつだけ気になるのだ、アリステア」
「なんですか?」
「あの声が言うには、知識が授けられるのは、生の終わりに際してだという。私はそれでも構わない。それが私の定めなら、抗うつもりはないし、たいして心を乱されずに受け入れられるとも思う。だがおまえも、もしそうだとしたら……おまえはまだ若い。今俳優として、まさに絶頂期を迎えようとしている、おまえなのに……それに、私はアグレイアが不憫だ。あの娘はまだ二才だ。おまけに、生まれてまもなく母親をなくしているのに」
「心配してもらって、ありがとうございます。でも、僕は例外らしいですよ、神父さん」
 青年はかすかに笑顔を見せた。「あの声がそう言っていましたから。僕はあと、もう八、九年は生きるそうです。今僕に知識が知らされたのは、神父さんと同じ知識を共有して話す機会を持つためだと、そう言っていました。僕らがこの同じ知識を共有し、ともに語り合える機会は、二回しかないそうです。一番初めのこの時と、そして最後と」
「最後?」
「ええ。僕もその意味は、よくわからないんですが、でもたしかにそう言っていました。最後と……何が最後なんでしょうか、と問いかけたら、声は答えました。四つの流れが出会い、最後の答えが明かされる時。新たな光の路が開かれる時、と」
「どういう意味なんだ?」
「僕もはっきりとは、よくわからないです。でも、この時には、知識を知らされるのは、人生の終わりではない。それは最後の答えが明かされる時だから。そしてそれ以降、もう知識を得ることはない……そこに至る道が自然に開けるようになるまでの、一億年以上の間は、と」
「一億年以上とはまた、途方もない長さだな。ほぼ、永遠と言ってもいいだろう」
 年配の男性は苦笑し、カップを取り上げて中身を一口飲んだ。
「そうですね。そしてあの声が言うには、人生は一度きりではないらしい。いや、その人格にとっては、人生は常に一度きりだけれど、魂にとってはそうではない。神父さんと僕はこれからも、違う人生で交差を続けていくはずだと言うんです」
「異端な考えだな。非常に東洋的だ」
 年配の男性は再び苦笑し、カップを置いて、頬をかいた。
「そうでしょうね。我々はキリスト教徒ですから。特に神父さんはそうでしょう」
 青年も肩をすくめる。
「そうだ。だが、私にもあの声は同じことを言っていた。本当かどうか、神父としての自分では、とても信じる気にはなれないが。だが、私はあの声を通して真の神をかいま見たのだろうか、そんな気も拭えないのだ……」
「……あの声は神ではないと思うのですが、あの声の背後には明らかに大きな神がおられる……僕もそんな気がします」
 しばらく沈黙が降りた。やがて年配の男性が口を開いた。
「しかし、それでもあと八、九年なのか……? アグレイアはまだ十一、二歳だな」
「そうですね。あの娘の成長を見届けられないとしたら、残念です。レナの分も見ていきたかったんですが……でも、それが僕の定めなら、やはり神父さんのように、受け入れるしかないのでしょう。それに、生の終焉の先に別の人生があるかもしれない、ということは慰めにもなります。またどこかで会えるかもしれないということですから」
「転生する魂か……本当に、異端な考えだ」
 年配の男性は含み笑いを漏らした。
「現実主義者から見れば、天国も地獄もありそうにないということですけれどね」
 青年は肩をすくめる。
「現実主義者は、真実が見えていない。昨日までの私なら、そう言っただろう。しかし我々も同じく、真実が見えていないのかもしれない。私の人生は最後に近づいてきているかもしれないというこの時に、信仰が揺らぐというのも困ったものだ」
「科学的な見地から言えば、天国も地獄も、輪廻転生も、みなありそうにないことですよ」
「それはそうだ。しかし、科学は必ずしも万能ではない」
「そうですね」青年はカップの中身を飲み干し、からになった底に目を注いだ。その瞳は青い色に変化していた。
「絶対的な真実というものが存在するのなら、それを知ってみたいと思う時があります。でもたぶん人間として生きている限りは、知ることはないのだろうなとも思えるんです」
「そうなのかもしれないな」年配の男性は頷き、窓に目をやった。
――あの声の言うことが真実なら、こうして会うのは、これが最後かもしれない。そんな思いが、双方に湧いてきていた。しかし、さらにあの声が真実を語っているなら、二人が会うのは、これが最後ではない。実際は、これから始まるのだろう。光と影のパートナー。もし自分たち二人がその役目を負って生まれてきたのなら、そしてこれから続く幾多の人生が、もし本当にあるのなら、これからも二人は会い続けていくのだろう。いつかは、あの声の正体にも、その後ろにいる神も、そしてあの声が『起源の子』と呼ぶ存在の意味も、知ることになるのだろう。そんな漠然とした思いが、二人の脳裏を支配していた。
「私は次の生で、起源の子に会うらしい」年配の男性は低く言った。
「僕は次では、生きてその子と会うことはないらしいです」
 青年は首を振った。夢の中の声が言っていたことを思い返しながら。
(次の生で、それから何度か、あなたは『起源の子』の面影を追い続けることになるでしょう。でも実際に生きて交差するのは、最後の時。あなたにとってはまだまだ始まったばかりですが、あの方にとっての最後、私にとっても最後になる、その時に……)
 年配の男性もまた、頭の中で思いを追っていた。夢の中で聞いた声の言うことを。
(あなたの次の生では、多くのことを知る。世界の崩壊と再生の局面にもかかわる。しかし、その時知ったことも、さらにあなたの光のパートナーが次の生で知ることも、その生が終われば、その知識もいったんは永い眠りにつく。でも数千年先の未来に、再び浮上する時が来るでしょう。その時に、すべての答えが明らかになります)
「新しい世界が始まったら、オタワでまた会いましょう、神父さん。それが僕らの定めらしいから……」若い方の男性が、改まった表情で手を伸べた。
「ああ……」年配の男性は頷き、その手を握り返す。
(本当にあの声が真実で、幾多の人生が、この先に待っているのなら――)

 気がつくと、再び朝になっていた。金褐色の生地で出来たカーテンの隙間から、初夏の日差しが部屋に降り注いでいる。アレイルは起き上がり、次いでエマラインもゆっくりと上半身を起こした。
「あの時代は……」アレイルは呟き、妻を見た。
「世界の終わりがどうとか、言っていたわ。もしかしたら……今の世界が始まる前かもしれないわね」エマラインはゆっくりと頭を振りながら、答える。
「そうだね」アレイルは頷き、妻の目を見た
「あの青年は、君と同じ眼をしていたね」
「あなたも、あの男の人と同じ眼をしているのね」
 エマラインは言い、そして付け加えた。
「四十世紀の音楽家の、ギター奏者の人とも」
「君はあの歌手の人と同じ。マリア・ローゼンスタイナーとも。彼女の眼は、色は変わらないけれど。たぶん、僕らは……以前悟ったように、いくつかの時代を生きてきたんだろうね、一緒に」
「ええ……今、こんな関係になっているのが、考えてみれば奇妙なのかもしれないけれど、でも、不思議に違和感はないわ」
「僕もだ。人生はたぶん、僕らにとっては一度限りだからね。魂としては違っても」
「ええ」
「でも……なんとなく、わかってきたような気がする。さっきの夢が始まりの時なら、今が最後の時なんだ。四つの流れが出会い、新たな路が開かれる時」
「四つの流れって……? あなたとわたしと……」
「アディルとアリスト。あの子たちがたぶん、あの子たちになる前に、僕らは以前、会ったのだと思う。別の僕らが、だけれど。そして今、再び出会っていたんだ」
「そうね……あなたの言うことは、正しいのだと思う。そう思えるわ。わたしは以前あの子たちと会ったのがいつだか、思い出せないけれど……でも、そうね。さっきの青年が思っていたことが、かつてのわたしの思いなら……遠い昔に聞いたことなら。そして、それが真実なら、わたしはアディルかアリストか、どちらかとは実際には生きて会っていないのね。面影を追い求めてきたけれど……ただ……」
 エマラインは言葉を止め、せり上がってきた涙を抑えた。
「あなたとわたしの以前の人生が今、現実の人生にはあまり関係がないように、わたしにとってやっぱり、アディルとアリストは子供なのよ。大事な子なんだわ。あの子たちの以前がどうであれ、本質が何であれ……わたしたちの子よ。今日でお別れなんて……とっても我慢できないことだということは、変わらないわ」
「ああ。現実は、変わりはしないよ。知識を知ったって。僕らの魂は納得するかもしれない。でも現実の僕らは、あの二人の親である僕らは……喪失の悲しみが軽くなるわけじゃない」アレイルは首を振り、ゆっくりと服を着替えながら、時計を見た。
「七時か……あの子たちは十三時過ぎには、起きるんだろう」
「何時まで起きているの?」
 エマラインも洋服に手を伸ばし、悲しげに問いかける。
「……五時間から六時間くらいだろうか」
 アレイルはそう答えると、寝室のドアを開けて廊下へ出た。そして真向かいにある双子の部屋のドアを開けた。アディルアとアリステルは一つの寝台で、寄り添って眠っている。少しあとからエマラインも来て、ベッドボードに手をかけ、二人を見下ろした。
「どんな夢を見ているのかしらね……」
 少し詰まった声で言いながら、彼女は両手を伸ばして二人に触れた。
「わたし、触れれば今どんな夢を見ているのか、だいたいわかったけれど……力が減ってからも……でも、この子たちの夢は、本当に漠然としかわからないわ。ただ、楽しそうな、幸せそうな波動だけが伝わってくる。それだけわかるだけでも、ありがたいけれど」
「そうだね……」アレイルも手を伸ばし、子供たちに触れた。
「この子たちも僕たち同様、以前の人生の夢を見ているのかもしれない。それも、幸せだった時だけを……」
「そうかもしれないわね」エマラインは涙を拭った。
「この子たちは、今まで誰になってきたのかしら。どんな人生を……幸せだったら、良いけれど」
「この子たちの歴史は……僕らより、はるかに長いのかもしれない。漠然とだけれど、そんな気がするんだ。……今、一つだけはわかったよ。僕はアリストの目を見ると、誰かを思い出すと、時々思っていた。その誰かが、今まではっきりとはわからなかったけれど、今わかった。アリストは……ニコルだ。彼は夢で僕に言っていた。あの戦いが終わったら、新しい世界で僕自身の人生を歩んでいって欲しい。そうしたら、また会える。新しい命を得て……それが、アリストだったんだ。今、はっきりわかった」
「えっ?!」エマラインはベッドの上に眠る子供を見つめた。脳裏に、アレイルの双子の兄弟、ニコルと唯一会った時の、夢の光景が思い起こされてきた。どこかの島で――あの、穏やかな澄みきった緑の瞳――。
「そう……そうかもしれないわね」
 彼女は片手を頬に当て、頷いた。同時に心の中で、微かな動きを感じた。そうかもしれない。だけれども、そうわかった瞬間、心の奥深くで頭を持ち上げてきた感情――アリストルが今の彼になる前、自分もどこかで会っていたかも知れない。今ではない、遠い昔に、別の人生で――。
 二人は長い間沈黙した。やがて、アレイルが娘の髪に手を触れた。慈しむように。
「アディルは……まだ手の届くところに、知識が上がってこない。でも、この子の瞳……この子の笑顔、この子の髪の輝き……僕には、かすかに懐かしさを感じる瞬間があった。この子のまつげや眉の色も。自分の娘としての現実ではない、別の遠いところから……以前、会っていたんだろうと思う。でも、その距離が遠すぎて、まだつかみきれない」
「わたしは……あの夢が本当なら、アディルに生きて会うのは初めてだったわけね」
 エマラインは手を伸ばし、娘の淡い金髪に触れた。
「でも、あなたたちが以前誰であったかなんて、どうでも良いわ。あなたたちは……あなたたちだもの。どうして、もう少しいてくれなかったの……わたしたちのそばに……」
 震えだした彼女の肩を、アレイルはそっと抱いた。
「ああ。でもこの子たちが起きたら……泣くのは止めよう」
 夫の言葉に、エマラインは無言で頷くしかできなかった。

 やがて起きてきた上の三人の子供たち、エミリア、アレン、セルスもその日は登校日だったが、学校へは行かず、双子たちが起きてくるのを待った。十時過ぎには、リンツ、シェリーとミルトが、小さなロレンツとパリスを連れてやってきた。
「リンツ、今日は仕事じゃないの?」
 エマラインは驚いて問いかけたが、リンツは首を振った。
「いや、休みを取ったんだ。ちょっと早いけど、夏期休暇さ。こんな時に、仕事なんかしてられないぜ」
 ローゼンスタイナー家の末娘、生後十ヶ月のクローディア・ロゼッタさえ、その日はいつになく落ち着かないようで、午後からはぱっちりと目を覚ましていた。
 十三時過ぎに、アリストルとアディルアは眠りから覚めた。そして周りに集まった人々を、少し驚いたように見ていた。二人は誕生日会の時に着ていた服に着替え、その宴の続きのように、それからの二時間あまりを過ごした。十五時半を回った頃、アディルアはアリストルと目を見交わし、言い出した。
「パパ、ママ、お願いがあるの。わたしたち、行きたい所があるの」
「どこに行きたいの?」エマラインはきいた。
「光の樹の場所に、行きたいんだ」アリストルが答える。
 アレイルとエマラインは、すぐには意味がわからなかった。次の瞬間、アレイルの心の中に景色が浮かんだ。その風景はエマラインの心にも映し出された。二人は悟った。いつか見た夢――狂ってしまった世界連邦に反旗を翻そうと決心した夜、二人が見た夢。かつてニコル・ウェインが夢に出てきて、言っていた場所。
『この場所を覚えていて欲しいんだ。ここは僕らにとって、特別な場所だ。僕にとっても、君にとっても、エマライン――君の大切な女性にとっても、そして未来に来るはずの、もう一人にとっても――僕ら四人の、神聖な場所なんだ』
「わかった。車を出してくるよ」アレイルは頷いた。
 自家用エアロカーは、ローゼンスタイナー家の家族八人が乗るだけで一杯だった。双子を含めた最後のドライヴに出かける一家を、スタインバーグ家の四人とミルトは、家の前に立って見送った。その前に双子たちは、彼らに別れを告げていた。アディルアは抱擁し、アリストルは硬く握手して、ともに「ありがとう」と。
 アレイルは車を発進させた。眼下にリンツ、シェリー、ミルト、ロレンツが懸命に手を振っているのが見えた。一家は彼らに手を振り返し、飛び去って行った。東へ。海の上へ。RAY本体が眠る海。彼ら四人の『約束の地』へと。





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