Part 7 of the Sacred Mother's Ring - A Path to the Light

第3章 流れの出会う時(5)




 夜半、エマラインは眠りから覚めた。声にはならない感情が、彼女の眠りの中に飛び込んできたのだ。半身を起こし、周りを見、すぐに彼女は眠りを破った感情の出所を知った。はじかれるように起き上がり、ベビーベッドに駆け寄る。
 声にはならない、泣くことすら出来ない状態で、クローディア・ロゼッタは苦しみを訴えていた。小さな喉をせいせいと鳴らし、必死に息を吸おうとしている。その顔は真っ赤に紅潮していた。エマラインは娘の額に手をあて、小さな叫びを上げた。熱い。ベビーベッドから抱き上げ、身体を立てるように抱いて、背中をさすってやる。クローディアは小さな頭をもたせかけてきたが、その苦しみはあまり楽になってはいないようだった。
 どうしたのだろう――エマラインは湧き上がってくる不安と戦いながら、原因を探ろうとした。この子は三日ほど前から風邪気味ではあった。喉も痛がっていたようで、あまりミルクの飲みも良くはない。でも少しずつ根気よく飲ませれば、飲んでくれた。外は雪が降っていて、外気温も低い、この状態で街の病院まで連れて行くのは、かえって風邪を悪化させるかもしれない。家の中で暖かくしていれば――そう思い、家で様子を見ていた。アレイルは出勤前、できるだけ部屋の中を暖かくして、湿度も高くしておくように告げた。エマラインはその通りにしてきた。昨晩眠る時には、いくぶん楽になったように感じ、ほっとしていたのに。
 どうしよう……エマラインは赤ん坊を抱きかかえたまま、部屋の中を歩き回った。こんな時にアレイルがいてくれたら、適切な指示を出してくれただろうに。さもなければ、ヘレナ。彼女には今は複雑な思いを抱いているが、医療の専門家だ。きっとクローディアの状態を判断し、手当てをしてくれるだろう。でも、そのためには彼女のところへ娘を連れて行かなければならない。それなら、病院へ行ったほうが早い。今は深夜で、都市のゲートは閉まっている。でもゲートに備えてある通信機を使って、管轄である治安維持隊本部に連絡し、緊急である旨を伝えれば、入れてくれるだろう。
 ともかく、病院に連れて行こう。エマラインは決心した。クローディアの様子は相変わらず苦しそうで、こうしていても楽にはならない。かえってひどくなっているようで、その小さな顔は紅潮を通り越し、紫色に変わりかけていた。窒息しかけているのかもしれない。その思いに、彼女は凍りついた。赤ん坊の娘の苦痛は、我が身にその苦しみを受けるより、はるかに耐えがたい。ましておや、万が一この子も失うことになったら――。
 冷たい雪の中に押し込まれたような寒気が、身体を走り抜けた。自家用エアロカーは、自分でも運転できる。クローディアが寒くないように、よく包んで――。エマラインはリビングに行き、何かないかと探した後、クロゼットの上に積んであった箱をあけ、中から白いケープを取り出した。去年の夏、クローディア・ロゼッタが生まれた時に、お祝いとしてヘレナがプレゼントしてくれたものだ。今まで使わずにしまいこんでいたが、彼女はそのケープで赤ん坊を包むと、その上からベビーベッドにかかっている毛布で、すっぽりと包み込んだ。もし朝まで帰って来られない場合を考え、一番上の娘エミリアに事情を話して、残った子供たちの面倒を見てもらおうと、再び寝室を出た。
 その時、反対側のドアが開いた。夫婦の寝室の向かいの部屋は、双子たちの部屋になっている。そこからアディルアとアリストルが出てきた。二人とも寝間着を着たまま、上におそろいの白いカーディガンをはおり、少し前に眠りから覚めたような様子だ。
「ああ、ごめんなさいね。起きちゃった?」
 エマラインは赤ん坊を抱えたまま、軽く身をかがめた。
「ローディア、具合が悪いんだね」アリストルが小さな妹を覗き込んで言う。
「ええ。だから、これから病院に行こうと思って。あなたたち、良い子で留守番をしていてね。これからエミリアの所へ行って、あなたたちのことを頼んでおくから」
「待って、ママ」アディルアが小さな妹の額の上に手を当て、母親を見上げた。
「わたしに貸して。ローディアを抱かせて」
 アディルアの顔には、非常な熱意が表れていた。彼女は両手を広げ、訴えるように母親の顔を見続けている。
「落っことしちゃうわよ。それに……」言いかけて、エマラインは言葉を飲み込んだ。娘の表情の中には、何か従わざるを得ない強いものが宿っているように感じた。
「いいわ。でも立ったままだと、本当に落っことしてしまうかもしれないから、こっちへ来てちょうだい」
 エマラインは双子を伴い、再び夫婦の寝室にとって返した。アディルアにベッドの端に腰掛けるように言い、その小さな腕の中にクローディアを託した。アリステルも手を伸ばし、赤ん坊にそっと触れて言う。
「喉が腫れちゃったんだね。だから、息が苦しいんだ」
「かわいそう。でも、ローディア、大丈夫。すぐ良くなるからね、待ってて」
 アディルアは赤ん坊を包み込んでいた毛布を外し、小さな妹を包み込むように抱きかかえると、左手でゆっくりと頭から喉、胸にかけて何度もなでていった。
 この光景は、以前見た――エマラインは思った。シェリーが傷ついた仲間たちを治療してくれた時に、今のアディルアと同じような仕草をしていた。この子は、治療者でもあるのだろうか――。エマラインは目の前の子供たちの様子を見ながら、息をのんだ。アディルアの指先からは、淡い銀色の光が感じられる。その手が動くに連れ、クローディアの苦しさが少しずつ薄れていくのが、エマラインにも感じられた。
 十分ほどたった後、クローディア・ロゼッタは、すやすやと寝息を立て始めた。
「もう大丈夫だよ」そばで見ていたアリストルも、ニコッと笑った。
「うん。ローディア、元気になったわ。寝かせてあげて、ママ」
 アディルアも母親を見上げ、微笑を浮かべる。
「え……ええ、ありがとう」
 エマラインは半ばあっけにとられながら、娘の腕から赤ん坊を抱きとった。今ではすっかり苦しみが除かれ、熱も下がったことを、その腕に感じるぬくもりと重みから、彼女の力で知ることが出来た。
 治してしまったのだ、本当に――アディルアは瞬間移動能力者であるうえに、治療者でもあったのだ。ちょうどリンツとシェリーの消えた能力を、この子が受け継いだかのように。そういえば、リンツ、シェリー、ミルトの力が消えたのは、アディルアとアリストルが生まれた頃だった。同時にアレイルとエマラインの能力もかなり減衰した。その力は、この子たちに移されたのだとしたら――リンツとシェリーの力はアディルアに、アレイルとエマラインの力の一部はアリストルに。それならミルトの力も、どちらかに移っているのだろうか。物理系であるから、アディルアの方に移っている可能性が高いが、今のところは、彼女に念動力はない。見せていないだけかもしれないが――いや、それはきっと偶然に違いない。エマラインは軽く頭を振った。それにシェリーが持っていた力は、怪我は治せるが内部疾患は治せなかった。だがアディルアは病気も治せるようだ。
「ありがとう……アディル、アリスト」エマラインは改めて、繰り返した。
「ううん。ローディア、元気になってよかったね」
 アディルアはニコっと笑って、ベッドから立ち上がりかけた。が、すぐに力が抜けたようになって、すとんと座り込む。
「どうしたの?」エマラインは急いで娘に駆け寄った。
「ううん、大丈夫。ちょっとふらふらしただけ」
 アディルアは立ち上がりながら言う。その身体を起こそうと触れた時、エマラインは娘の身体が少し熱っぽいのに気づいた。
「アディル、あなたも具合が悪いの?」
「ううん、大丈夫」アディルアは首を振り、笑ってみせようとしていた。
「ローディアの熱を吸い取ったからだよ」アリストルは、そう付け加えている。
「でも寝たら、朝には治るわ」
 アディルアは片手で頭を押さえ、努めて元気そうに振舞おうとしているようだった。だが彼女は微熱に加え、少し頭痛と喉の痛みも感じているようだ。エマラインに残された力で、それがわかった。ここに来た時にはまったく健やかな状態だったのだから、赤ん坊のクローディア・ロゼッタを癒した時、その病をかなり軽減した状態ではあるが、自らの身体に取り込んでしまったかのようだ。
「ありがとう。でも、無理をして治さなくて良いのよ、アディル」
 エマラインは娘の肩に両手をかけ、その顔を優しく見た。
「うん。でもローディアは治さないと、死んじゃったかもしれないもの」
 アディルアの言葉に、エマラインは改めて冷水を浴びたような寒気を覚えた。
「本当に……そんなに悪かったの?」
「だって、もうちょっとしたら、のど完全に塞いじゃったもの。ママがお医者さんに行くの、間に合わないかもしれないと思って。だから来たんだ」
 アリストルがまじめな顔で言う。
 エマラインはしばらく立ちすくみ、次の瞬間腕を広げて、二人を抱きしめた。
「ああ! 本当にね、ありがとう、あなたたち!!」

「そんなことがあったんだね」
 その夜、市庁舎内にある勤務先から二日ぶりに我が家に戻ってきたアレイルは、遅い夕食を取りながら頷いた。もう二二時になっていたので、子供たちはみな寝室に引き取っていた。クローディア・ロゼッタは、リビングに置いたコットの中で眠っている。エマラインは夫の正面に腰を下ろし、留守中の一部始終を語っていた。
「今は元気そうだね、ローディアは」
 アレイルはコットに眠る赤ん坊の娘を見やった。
「ええ。夜中にアディルに抱っこしてもらってから、すっかり元気になっているわ。もう風邪気味ですらないし」
「アディルは?」
「今朝はまだ少し熱が下がりきらなくて、起きてくるのがちょっと遅かったけれど、午後からは元気になっていたわ」
「そうか」アレイルはコーヒーカップを手に取りながら、頷いた。
「アディルはヒーラー(治癒者)でもあったんだな」
 彼は少し沈黙した後、言葉を継いだ。
「アリストの言った事が本当なら、危ないところだったんだ」
「そうよ。本当に後から考えたら、ぞっとしたわ」エマラインは首を振った。
「でも僕は、昨日の朝出勤する時には、何も感じなかったんだ」
 アレイルはカップを下に置き、テーブルクロスに目線を落とした後、妻の顔を見た。
「子供の一人が危険にさらされるなら、わかっていても良さそうだったのに……そう思ったけれど、ちょうどそれは昔アディルが瞬間移動して、湖の中に落ちた時に感じた状態と、同じだったのかもしれないな。結果的に大丈夫だったから、危険警報は感じなかったのかと思うんだ」
「そうなんでしょうね」
 エマラインは頷き、小さく肩をすくめたあと、聞いた。
「あなたはどう思う? アリストの言っていたことは、本当だと思う?」
「きっとね」アレイルは頷いた。
「アリストは僕より、ある意味大きな知識につながっているところがあるようだ。あの子の言うことを侮っちゃいけない。それにアディルも、ローディアが危ないことはわかっていた。アリストが知らせたのか、あの子自身で知ったのかはわからないけれど」
「そうなの……」
 改めてこみ上げてきた寒気にすくみながら、エマラインは頷いた。
「もしアディルも知識につながっているなら、あの娘はオールマイティだね」
 アレイルは肩をすくめた。
「物理系プラス精神系ね。そういえば赤ちゃんの性別も様子も、生まれる前からわかっていたようだしね。アリストは今のところ、精神系だけだけれど」
 エマラインはため息をつきながら、肩をすくめた。
「そうだ。でも、あの子たちも……」
 言いかけて、アレイルは言葉を飲み込んだ。しかしエマラインは、その続きを知った。今の時代には、特殊能力の使用は慎重になるべきだ。二人は自らの力のコントロールを、もっと覚えなくてはならないだろう、と考えかけたところで、冷酷な事実の壁にぶつかったのだ。アディルアもアリストルも、七歳を越えるか越えないかくらい――今からあと数ヶ月しか、生きていないだろうということに。能力のコントロールを覚える必要は、あの子たちにはないのだろう。
 その考えを共感したとたん、エマラインの胸は再びふさがれた。
「わたしには、信じられないわ」エマラインは両手を組み、かすれた声で呟いた。
「アディルもアリストも、今まで本当に元気に過ごしているわ。もちろん時々風邪をひいたり熱を出したりすることはあるけれど、それでも普通の子供たちと同じように……」
「過去にKTエルヴィオンに感染した特殊体質者についてのデータを、PAXで見たんだ」
 アレイルはテーブルクロスに目線を落とし、続けた。
「純度にもよるから一概には言えないらしいけれど、臨界を越えるまでは何もない。つまり、感染期間の九五パーセント以上は、通常と変わりなく過ごしているらしいよ」
「九五パーセント以上は? それって、感染してからその……ダメになるまでの期間の、ということ?」
「そう。最初から九五パーセントくらいまでの期間、ということだよ」
「じゃ、そのあとは? 苦しんだりしないのかしら? 大丈夫なのかしら?」
「苦痛はないらしい。ただ睡眠時間が長くなる傾向にある……それだけなんだって。そしてある日、眠ったらもう起きなくなる……」
「眠っている間に、死んでしまうということ?」
 妻の問いに、アレイルは黙って頷いた。
「……安らかなのね」
 エマラインは溢れてくる涙を拭いながら、呟いた。
「それが、せめてもの慰めなのかもしれない。でも……」
「悲しいことは、変わらないね」アレイルは深く吐息をつき、首を振ると、エマラインの手を握った。エマラインは言葉に出来ず、頷くだけだった。

 やがて、冬は去り、春が訪れた。市外区を取り巻いていた白い絨毯が消え、やわらかい緑色の地面が顔を覗かせるにつれ、木々は再び色を取り戻していった。春の花が開き始めた五月の初めに、リンツとシェリーのスタインバーグ夫妻に、二人目の子供が生まれた。今度も男の子で、赤褐色の髪に青灰色の目をした、可愛らしい顔立ちの赤ん坊だった。この子も男の子ゆえか、特殊体質ではなかった。夫妻は二番目の息子に、パリスと命名した。シェリーとミルトの故郷、旧第三連邦第五都市、今のパリス市にちなんでの名づけだった。
「ロリィとパリスと、これでおれも晴れて二児の父かぁ。今まで以上にがんばらないとな」
 病院でリンツは照れたように笑い、
「次は女の子が欲しいわね、できたら。カレンってつけたかったの」
 シェリーが満足げに新しい息子を眺めながら言う。
「それ、一番上のお姉さんの名前だね」
 ミルトは新しい甥っ子の頬を軽くつつきながら、聞いた。
「ええ、そうよ。あなたは覚えていないでしょうけど、優しいお姉ちゃんだったの。あたしたち、本当に仲良しで、よく遊んだものだったわ」
「話には聞いているよ。僕たちをかばって、撃たれたんだよね。十四で。シェリー姉さんに良く似ているけれど、黒髪でって。僕も会いたかったな」
「会ってるわよ、あなたは。ただ小さかったから、覚えていないだけでしょ」
「じゃあ訂正。覚えていられるくらい、もう少し早く生まれたかったってこと」
「だったらおれらも、もうちょっと楽だったがな」リンツは笑っていた。
「そんなに僕は、みんなに手を焼かせたのかい?」
「ロリィ見ていると、それが普通なのかなって思うけれど、あの時はそう思ったわね」
 シェリーも笑って、弟を見ていた。その当時を思い出しているように。
「ぼくがなあに?」ロレンツは両親と若い叔父を見上げ、きく。
「いいや。元気が何よりってことさ」
 リンツは上の息子の髪をくしゃくしゃと乱したあと、付け加えた。
「おまえの弟だぜ、おい。仲良くしてやれよ」
「うん」ロレンツは頷いて、珍しそうに赤ん坊を見ている。そうしてそっと手を伸ばし、赤ん坊の小さな手に触れた。
「ローアより、ちっちゃいね」
「ローディアも生まれた時には、こんなもんじゃなかったか? みんな、こうやって赤ん坊から大きくなっていくんだぜ。おまえも生まれた時には、こんなに小さかったさ」
「ふうん」父親の言葉に、ロレンツは不思議そうに首をかしげていた。
「そうそう、明後日退院したら、アレイルとエマライン一家がお祝いに来るってさ」
 リンツは妻に向かって言葉を継いだ。
「そう! 嬉しいわ! あたしも会いたかったから!」
 シェリーはぱっと顔を輝かせた。
「あと、ジャックとヘレナからも、お祝いメッセージが来ているぞ」
「うん」シェリーは頷いた。少し目を伏せたあと、目をあげて続ける。
「会いたい気がするわ。二人にも」
「そうだな。この二年、ずっと会えてないからな」リンツは頷き、
「いつか、昔みたいに会えたらいいね」と、ミルトも熱意のこもった表情で同調していた。
「だが、まだしばらくかかるんだろうが……」リンツが付け加える。
「なんだか、考えたくないわ。アディルとアリスト、時々遊びに来てくれるのよ。元気でかわいくて……あの話なんて、信じられない。何かの間違いだったら、どんなにいいかわからないのに。あたし、信じたくないわ」
「うん……僕も考えたくない」ミルトも強く首を振り、
「おれも信じたくねえな」リンツはため息をついていた。
「なにが?」ロレンツが再び不思議そうに聞く。
「おまえには、わからない話さ。でも、おまえもアディルおねえちゃんやアリストおにいちゃん、好きだろ?」リンツは息子に問いかけた。
「うん、だい好き!」
「だったら、なおさら、わからない方が良い話だな。それに信じない方が良い。そのうちにわかるさ。でも、わからない方が良いってことだな、絶対に」
「間違いだったら、本当に良いわね……」
 シェリーは熱望するように繰り返した。

 スタインバーク家に二人目の子供が生まれてから十日後、双子たちに異変が始まった。アリストルとアディルアは三歳ごろからいつも、時計で測ったように七時十五分に目覚め、一人で支度を済ませて、七時半にリビングに下りてきた。でも五月中旬のその日、二人は時間になっても起きてこなかった。エマラインがのぞきにいってみると、まだ眠っていた。起こそうとしても、深く眠っているようで、起きてくれない。八時になってやっと目覚め、「ちょっと遅れちゃったぁ」と声を上げながら、十分過ぎにリビングに駆け下りてきた。
「珍しいわね、あなたたちが寝坊するなんて。二人して具合が悪いのかと思ったわ」
 エミリアが笑いながら二人の朝食を整えてやり、
「急いで食べないと、四十分には出るよ」
 アレンとセルスも、からかうように声をかけていた。今日は登校日なのだ。
 やがて子供たちがみな出ていてしまうと、エマラインはクローディアをコットから抱き上げ、ソファに座って授乳をしながら、不安が湧き上がるのを感じた。その日は出勤日ではなかったアレイルが朝食の片づけを終わるのを待って、エマラインは話しかけた。
「あの子たち……今日は、ただの寝坊だったら良いけれど」
 この冬、赤ん坊のクローディアが病気になり、アディルアが治した翌日、アレイルは言っていた。『PAXの過去データによると、KT−エルヴィオンウィルスに感染した特殊体質者は、その感染期間の九五パーセントはまったく変わりなく過ごし、最後の五パーセントになって症状が出てくるらしい。それはおおむね、睡眠が長くなっていく傾向として現れるそうだ』と。
 もし、今まできっかり七時十五分に起きてきた二人が、今日の目覚めが八時になったというのが、最初の症状だとしたら――感染期間の残り五パーセントになった、ということを意味する。今まで約二年弱が経過し、それが全体の期間の九五パーセントなのだとしたら、残りの時間はせいぜい一ヶ月半足らずになってしまうのだ。
「明日になってみないと、わからないな」
 アレイルはそれだけ答えた。しかしエマラインには、彼が感情に蓋をしようと努めているのを感じた。エマラインに悟られないように、そしてその先の見通しをあえてつけたくないという、恐れのような気持ちで。
 だけど――エマラインは頭を振って、思いなおした。もしかしたら二人は昨夜、夜更かしをしたのかもしれない。以前、星が見たいと言って、二人でこっそり夜中に抜け出したことがある。アディルアの能力を持ってすれば、家族みなが寝静まった夜中に、誰にも知られずに家から出て、また帰ってくることが可能だ。去年の秋、偶然庭に帰ってしまったのを見つけて叱った時にも、もう二度としないようにというアレイルとエマラインに対して、二人は『でも、どうしても止められない』と訴えていた。きっと今までにも、何度か夜に抜け出したことがあるに違いない。それでも朝はちゃんと起きてきたが、たまたま今回は睡眠が足りなくて、寝坊してしまったということは十分にありえる。二人とも来月で七歳の、まだ子供なのだから――。
 そう思い、エマラインは不安で早まる鼓動を鎮めようとした。

 次の日の起床時間も、やはり八時だった。その日は休日だったので、それでも不都合はなかったが、両親の不安は消えなかった。その次の日は、さらに十分遅れた。アリストルとアディルアは「わー、遅刻ぎりぎり!」と叫びながら下りてきて、姉が用意してくれたミルクとパンを大急ぎで食べ、フルーツを二、三切れつまんでから、兄たちにせかされ、学校へ駆けていった。その翌日二日間は自宅学習日だったが、起床は両日とも八時半になり、さらに翌日の登校日には、とうとう九時近くになってしまった。仕方がないので上の三人は先に学校へ出かけ、エマラインはクローディアと一緒に、十時ごろ、自家用エアロカーで二人を学校に送っていった。
「ごめんなさい、ママ」
 アディルアはすまなそうな表情で母親を見、
「うん。ごめんね。ちゃんと行けなくて」
 アリストルも少しうなだれながら言う。
「大丈夫よ」エマラインは努めて快活な声を出した。
「あなたたちはお勉強がものすごく進んでいるんだから、少しぐらい遅刻したくらいで、ちょうど良いのかもしれないわ」
 学校のクラスの教育担当者も同じことを言った。
「これだけ学習状況が進んでいれば、この子たちの年齢を考えると、仮に二年や三年休んだって、まったく大丈夫ですよ」と。
 しかし二人を学校へ送り届けて帰る車の中で、エマラインの心は鉛のようだった。

 五月最後の水曜日、アレンとセルスは学校が終わったあと、アーサーの家へ遊びにいった。毎週水曜日は――学校のない日は木曜日になったが、スウィート家を訪ね、そこで夕方までアーサーと一緒に遊ぶのが、ローゼンスタイナー家の子供たちの習慣になっていたのだ。通っている学校が違うので、一緒に来ることは出来ないが、いつもその日になるとアーサーは飛ぶように学校から帰り、友達の訪問を待っていた。
「あれ、今日は二人だけなの?」
 玄関へ出てきたアーサーは、少し驚いたように問いかけた。
「うん。双子たちは眠り病にかかっちゃって」
 アレンが軽く肩をすくめながら答えたが、その中にはかすかな不安の響きがあった。
「眠り病?」
「実は先週ここに来た時もね、二人は午後から学校に来てたんだ。でも最近は夕方にならないと、起きてこないんだよ」セルスも当惑気味に説明している。
「なんで? 病気なの? 二人揃って? 病院には行った?」
 アーサーは二人をリビングに案内しながら、心配そうにきいた。
「ううん。でもパパは、原因はわかってるからって言うんだ」
 アレンは首を振っていた。
「原因? じゃあ、アレイル小父さんには、どんな病気かわかってるんだね」
「そうみたい。でも、じゃあ何?って聞いても、教えてくれないんだ。もうちょっとしたら話すって」セルスは少し不満げだった。
「あら、今日は二人だけなの? 珍しいわね」
 ヘレナが飲み物とお菓子を運んできながら、同じことを口にした。
「アディルとアリストは、眠り病にかかったんだって」
 アーサーが母親を見て、答える。
「あら……」ヘレナは心持ち青ざめた。が、子供たちに何かを気取られてはいけないと、すぐに思ったらしい。思い直したようにコップとトレーをテーブルの上に置きながら、つとめて優しく、子供たちに声をかけていた。
「それは心配ね。でも今日は、二人だけでもよく来てくれたわ、アレン、セルス。ゆっくりしていってね」
「うん」二人は頷き、いつもより賑やかではないながらも、夕方までゲームに興じたり、三人でパズルを組んだりして時を過ごした。

 アレンとセルスが家に帰っていったあと、ゲーム盤を片付けながら、アーサーは言った。
「今日はわりといい勝負だったよ。三人だったから」
「あら、そうなの? 双子ちゃんがいると、手加減しちゃうから?」
 ヘレナは微笑みながら問いかけた。
「違うよ。あの二人、ものすごく強いんだ。いっつも勝っちゃうんだよ。セルスだって結構強いんだけど、それ以上に。いっつもアディルかアリストが最初に上がっちゃう。アディルの方が多いかな、勝つのは……でも本当に、あの二人はとんでもない強さなんだよ。二人がルールを覚えたてのころくらいかな、ちゃんと勝負になったのは。それで、僕はいっつもビリなんだ」
「あら、そうなの!」
「そう。アレンおにいちゃんやセルスに負けるのは仕方ないかな、って思うんだけど、ほんとそれ以上に、アディルとアリストは強いから。でもね……それでも、五人でやった方が楽しいな。エミリアおねえちゃんもいれば、もっと良いけど、おねえちゃんはあまり来ないしね」
 アーサーは伸び上がって、ゲームボードを棚の上に戻しながら、付け加えた。
「変だよね。ぼくはアレンおにいちゃんやセルスと友達で、アディルやアリストは妹と弟みたいな感じがしていたのに……お友達がいれば、弟妹いなくてもって思ったんだけど。今日も楽しかったけど、二人がいないと、なんか変な寂しい感じがするんだ」
「そう……ね」
 へレナは言葉を搾り出すように言い、こわばった笑顔を見せた。




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