Part 7 of the Sacred Mother's Ring - A Path to the Light

第3章 流れの出会う時(1)




 季節は巡り、再び春がやってきた。三つの家庭では、それぞれ変わらない日常が流れていた。リンツとシェリーの間に生まれたロレンツ坊やは二歳になり、起きている時には、旺盛な好奇心で活発に動き回って、一家の活力と笑いの源となっていた。「本当に、ロリィは昔のミルトそっくりだな」と、リンツはよく肩をすくめ、しかし感嘆しているような口調で言ったものだ。姉夫婦の家に同居するミルトはもう十九歳の背の高い青年になり、新しく新設された芸術娯楽科の専門課程を学んでいる。芸術娯楽科は放送部門に属していて、人々を楽しませる音楽やドラマなどを制作、放送、管理する部門だ。ミルトは過去のファイルから発見された音楽ファイルが放送プログラムで配信され始めてから、音楽に強い興味を示していたのだ。
 ジャックとヘレナは一年前の六月以降、仲間たちの集まりには顔を出さなくなった。
「いつか、感情的なわだかまりが完全になくなったら、また以前のように付き合えたら良いな……」アレイルはそう言った。しかしまだ彼らの間に出来た感情的なしこりを流し去るには、あまりに犠牲が大きすぎ、まだ時も短すぎたのだ。
 あの夜、後から話を聞かされたスタインバーク家の三人も、最初の反応は否定的なものだった。
「そりゃ、ねえだろう、おい!!」リンツは即座にそう叫び
「そんなの、ひどいわ」と、シェリーは目に涙をためていた。
「もっと他に、やりようがなかったのかな」
 ミルトは深いため息をつき、首を振っていた。
 ヘレナの気持ちは、わからないでもない。スウィート夫妻の立場には、同情する。だがそのために無辜の命を犠牲にしても良いのか――やりきれない思いが、三人の間にも残っていた。
「あたし、思うのよ」その秋、シェリーはリンツとミルトに向かって言った。
「あたしがもし、ヘレナの立場だったら、どうだったかしらって……もしロリィがひどい病気で、治すためには、アディルやアリストの命を遠からず奪うことになってしまうとしたら……いいえ、元々彼女も、あの二人を犠牲にするつもりじゃなかったのよね。あまりに短くなっちゃって、かわいそうだから。でも、それにしても……最初に意図したとおり、セルスだったとしても……それはそれで、悩むわ。自分の子供の一番のお友達を、だもの。本当に、すっごい悩むと思うの。できるかできないか……わからない。もちろん、そんなことは、しちゃいけないと思うわ、絶対。でも実際、自分がその立場になったら……わからないのよ。あたしはたぶん、やらないと思う。でも……子供を亡くしたら、あたしも死ぬほど辛いと思うの。ことに、その子がだんだん弱っていくのを、じっと見ていかなければならないとしたら」
「そうだなぁ……」リンツは頭をかき、首を傾げた。
「わからないではないぜ、たぶん、おれも……でもなあ、逆におまえがエマラインの立場だったら、どうするよ。アーサーの薬を作るために、そんなことはたとえ仮定でも言いたくねえが……ロリィがあと数年の命になっちまったら」
「そうなのよね……」シェリーはぶるっと震え、テーブルに目を落とした。
「そんなことになったら、本当にたまらないわ。考えるだけで恐ろしい。そう……あたしがおねえちゃんの立場だったら、絶対許せないと思うのよ。自分の子さえ良ければどうでも良いのかって言われたら、本当にその通りだもの。どうでも良いわけじゃない。気にしたんだ。悩んだんだって言っても、結果的には、同じことだし」
「他の方法って、なかったんだろうか」
 ミルトはため息をつきながら、そう繰り返した。
「調べた限りじゃ、なかったんだろう? そうでなければ、ヘレナだってこんな苦しい選択はしないだろうしな」リンツが首を振った。
「ああ。アレイルにいさんが説明してくれた範囲では、そうだったけれど……でも、ヘレナさんは頭が良いはずだし、文献は全部調べつくしたとは言い切れないかもしれない。発病のメカニズムがわかっているなら、それこそ万人にきく治療薬が作れたんじゃないかな」
「ウィルスの知識が降りた時、LASの特効薬は万人に効くが、あと二百年先にならないと作れないって、アレイルが予言してたぜ。しかもたしか……その薬って奴が、元はその問題のウィルスが二百年たって突然変異したから、とか言ってたからな」
「ああ、そうだ……ということは遅延薬が出来て二百年たたないと、特効薬はできないということなんだね」ミルトはふうっとため息をついた。
「でも……本当に、他に方法ってなかったんだろうか。他の方法で作る緩和剤とか……本当にできないんだろうか」
「わからねえなあ。でもきっと、ないんだろうぜ。アレイルがそう言うからには、真実なんだと思う。本当に、不運だな。なんて生易しいもんじゃないが……ジャックとヘレナにとっても、アレイルとエマラインにとっても」リンツも深くため息をつく。
「本当に、なぜこんなことになっちゃったのかしら」シェリーは涙を拭った。
「悲しいわ、凄く。あれから十六年たって……今までずっと、家族と同じに仲良く暮らしていたのに、あたしたち七人」
「時間がたつのを、待つしかないんだろうね」ミルトは天井を仰いで、深く吐息をついた。
「時間がたって……でも、あの子たち……」シェリーは言葉を途切らせた。
「ああ……」リンツは頭を抱え込んだ。
「時間ったって、かなりの時間がかかるだろうなあ。すべてが元に戻るには」
「元にはもう、完全には戻らないと思うわ」シェリーは悲しげに呟いていた。

 ジャックとヘレナはこの年月の間、互いだけに寄り添って暮らしてきた。ジャックはこの一年間、出勤日の昼食を市庁舎ビルの食堂でとるのも避け、妻が用意したランチボックスを自分のデスクで食べていた。ヘレナは夫と息子、そしてコンピュータ文献に没頭する日々だった。ただ仲間たちと完全に没交渉になったわけではなく、週一回くらいのペースで、ローゼンスタイナー家の子供たちの来訪は続いた。彼らの訪問をアーサーは心待ちにしていたため、ジャックとヘレナに断る理由はなかった。あれだけのことをしてしまったにもかかわらず、アレイルとエマラインが子供たちをアーサーから遠ざけなかったことを感謝しながらも、息子を治すために図らずも犠牲にしてしまったアリストルとアディルアの姿をほぼ毎週見ることは、ヘレナに良心の呵責以上の痛みを起こさせた。エミリアは二回に一回くらいしか来なかったが、双子たちはほぼ毎回、二人の兄たちについて、やってきていたのだ。ヘレナはこれも罰の一部なのだと自らに言い聞かせ、息子の前では何もないように、出来るだけ穏やかに優しく振舞った。アーサーは心の底から、彼らを慕っているようだった。彼にとってエミリアは優しいお姉さんだし、アレンとセルスは兄であり、愉快な遊び友達であり、親友で、アリストルとアディルアはかわいい弟と妹だった。実際彼は、何度か母親にそう言った。兄弟のいないアーサーには、ローゼンスタイナー家の子供たちは、兄弟代わりなのだろう。
 息子が眠ってから、ヘレナは幾度も深いため息をついた。かわいがっている双子たちが、突然この世からいなくなってしまったら、この子は悲しむだろう。そして万が一、その真実を知ることになったら――氷よりも冷たいものを背筋に押し当てられたような気がして、ヘレナは飛び上がった。決して、この子には知られてはならない――。

 エマラインは、六人目の子供を身ごもっていた。あの衝撃的な事実を聞かされてから、半年後に宿った命だった。たぶん双子たちが末っ子になるのだろうと、ここ一、二年は無意識に思っていたので、妊娠に気づいた時には、意外な気持ちだった。もちろん、新しい命の芽生えは、喜び以外のなにものでもない。だが同時に、これは代償なのだろうか、とも思えた。あと一年半で逝ってしまうであろう二人のかわりに授かった――二人を失くすことなど、考えることも直面することも恐ろしかったが、それでも――そしてこのことが、ヘレナをして(子供を失っても、また授かったから幸いだ)などと考えられては悔しい、そんな思いも感じざるを得なかった。ヘレナも表立っては、そんなことは思わないだろう。それでも――。
 新しい子供は八月に生まれる予定だった。アレイルはまだ見ぬその子を、女の子と認識しているようだった。エマラインも妊娠三ヶ月を越えた時点で、子供の性別を悟った。この子はアディルアの代わりなのだろうか――ふとよぎったそんな考えを、エマラインは急いで打ち消した。違う、この子はこの子だ。この子として、愛し育むつもりだ。アディルアのかわりではない。アディルはアディルだし、この子はこの子なのだ。誰もかわりにはなれない。
 この一年は、彼女にとっては常に悲しみの暗雲に覆われているように感じられた。上の三人の子供たちには、楽しい未来の夢が描ける。でもアリストルとアディルアには、もう本当に限られた未来しかないのだ。この子たちとこうしていられるのもあと二年で、そしてその日々は過ぎていくにつれ、刻々と短くなっていく。切ない認識だった。その事実を知ってからしばらくの間は、二人の姿を見るだけで涙が出そうになった。

 あの夜から二週間がたった初夏の朝、いつものように夫と上の子供たちを送り出したあと、エマラインはアディルアの髪を結んでいた。窓から差し込む太陽の光を浴びて輝く淡い黄金のような髪の中に、両翼に一房ずつ青い髪が混じっている。初めてこの色の髪を見つけたのは、この子が無意識に瞬間移動して、湖の中に落ち、救出された夜だった。その時には一センチほどの幅だった青い髪は、一か月ほどの間に数センチに広がり、ちょうど耳の上から頭頂部にかけて、左右対称に、青い翼のように広がっていた。その髪をすくい、両脇にピンクのリボンで束ねてやりながら、エマラインは胸がいっぱいになっていた。ほんの小さな頃から、『この子は大きくなったら、ものすごい美人になるだろうね!!』というのが、他の仲間たちの一致した見解だった。エマラインも美しく育った娘の未来を、何度も想像したものだ。しかし、この子はそこまで成長できないのだ――。
 涙がこぼれそうになった時、アディルアが振り向いた。
「ママも知ってるの? だから、悲しいの?」
 エマラインは驚きとともに、急いで涙を飲み込んだ。子供たちには気取られないように、精一杯努力していたけれど、伝わってしまったのだろうか――。
 答える前に、隣の椅子に座っていたアリストルがエマラインを見上げ、ついで双子の妹を見て、その小さな手に自分の小さな手を重ねた。
「うん。ママも知っているんだよ。ぼくたち七才までしか、ここにいられないって」
 アディルアは双子の兄を見、母に視線を移した後、再びアリストルを見た。
「知らない方が良かったのに。ママもパパも悲しんじゃうから。ヘレナおばちゃんが話しちゃったのね」
「うん。でもおばちゃんとしては、黙っていられなかったんだろうね」
「あなたたちは……なぜ、それを知っているの?」
 エマラインは驚きに打たれ、思わすそう問いかけてしまった。
「うーん、なんでかわからないけれど、なんとなく知ってたの」
「うん」
「いつから……?」エマラインは掠れた声で問いかけた。
「ヘレナおばちゃんが、あの日セルスおにいちゃんに、あのジュースを出したとき」
 アディルアは小さく頭を振り、母親を見た。
「あ、これわたしが飲まなきゃって、そう思えたの。わたしの命はあと二年になっちゃうけど、でもそうしなきゃいけないって」
「なぜ……わかっていて……?」
「そうしなきゃいけないんだって、思えて」娘はそう繰り返した。
「でもジュース、少し苦くて、だから半分も飲めなかったけど」
「だからぼくも残りを飲んだんだ。ぼくたちはいつも一緒だから」
 アリストルはニコッと笑い、妹に頷きかけている。
「でも、そうしなきゃいけないのはわかってるけど、残念。っていうより、さみしくて、かなしいなあ。もうちょっとここにいたかった。この家も、パパママお姉ちゃんお兄ちゃんたち、みんな……わたし大好きだから」
 アディルアは少し上を向き、頬に伝ってきた涙を拭っていた。
「そんなこと言うと、ママが余計悲しくなるよ、アディル。ぼくもそうだけど……でも、しかたないんだ」アリストルも目をこすっている。
 この子たちは――エマラインは押し寄せる悲しみに溺れそうになりながらも、心の底でかすかな感嘆も覚えていた。五歳の子供の反応らしいと言えば、そうかもしれない。死というものの重大さがまだわからないだろう幼い二人には、『自分の命があと二年になる』ということの本当の意味や重さを自覚できないのかもしれない。しかし二人の口調の中には、年齢に似合わぬ達観も感じさせた。
 それもしても、二人はどうして、あのジュースを飲んだら、自分たちに残された命が、あと二年になるということを知ったのだろう。それを知りながら、アディルアは『そうしなければならない』という思いに動かされて、セルスが飲むはずだったウィルス入りジュースを飲んだという。そして全部飲みきることは出来ずに半分残したそれを、アリストルがあえて飲んだ。この子は普段からお行儀のいい子で、たとえ双子の妹が残したものとはいえ、それをとって飲んだりはしない。それをあえてその場でしたのは、やはり『そうしなければならない』という、漠然とした思いだったのだろうか。二人は同じ運命を歩む――まるで見えない手に、背中を押されたように。
 しかし、それもヘレナがセルスのコップに、ウィルスを入れたからだ。アディルアは兄を助けようとしたのかもしれない。アリストルは、彼女だけにその運命を受け入れさせたくない、自分も一緒だ、という思いに動かされて、同じジュースをあえて飲んだのだろう。その結果、本来ならとても長いはずの命を、わずか二年に縮められてしまって、それでもその事実を受け入れるしかないことを、幼い二人ながらに理解し、悲しんでいることに、エマラインは胸を突き刺されるような痛みを感じた。
 やっぱり許すことは出来そうにない――そんな思いが湧きあがってきた。この子たちの人生を断ち切る権利が、いったいどこの誰にあるのか。誰にもありはしない――。
「ヘレナ小母ちゃんを責めないで、ママ」
 アリストルが緑色の瞳を見開いて、エマラインの方を振り向いた。エマラインはぎくっとして、息子を見た。息子の明るい栗色の髪の中に、その目と同じ緑の髪の房が、ちょうどアディルアの青い髪と同じような形に広がっているのに、エマラインはその時初めて気づいた。アディルアほどコントラストが鮮やかでないから、気づかなかったのだろうか。いや、それともごく最近、色が変わったのだろうか。同時に、エマラインは驚きに打たれていた。この子は人の気持ちがわかるようだ。かつての自分と同じに――エマラインは確信に似た思いを抱いた。アリストルはたしかに、精神的な力を受け継いでいるのだろうと。

 二人はそれからも、それまでと変わらない日常を送っていた。アレンやセルスがアーサーの所に遊びに行く時にも、一緒についていった。二人はヘレナがやったことの意味をわかっている。五才の子供に死の重大さが、本当にわかっているのだろうかという疑問はあるにせよ。それでもアリストルが言ったように、彼女に責めを負わせる気は、まったくないようだった。この子たちくらい素直に割り切れたら、とエマラインはいく度となく思ったが、圧倒的な悲しみの底に渦巻く怒り――なぜこんなことになったのかという元凶を考えると、湧いてくる憤りを完全に消すことは、どうしてもできなかった。
 アディルアの特殊能力の方は、湖の上に飛んでしまってみなを驚かせてから二回ほど、前触れなしにどこかへ行ってしまったが、まもなく自力で帰ってきた。それから彼女の能力は、落ち着きを見せ始めていた。新しい年に切り替わる頃には、どうやらやっと自分で力をコントロールすることを覚えたようだと、確信できた。夫妻の心配は一つ減ったが、しかし子供たちの運命が変わるわけでもない。そのため、純粋な喜びに浸ることは出来なかった。エマラインの中に新しい命が宿った時も。

 五月終わりの今、エマラインは妊娠八ヶ月になり、かなりお腹が目立つようになって来た。その夜、その腹部に触れながら、アディルアがにこっと笑って言った。
「赤ちゃん、今日も元気ね」
 以前、ロリィがシェリーのお腹にいた時も、まだ三歳だったアディルアは同じことを言ったと、エマラインは思い出した。あの時には、この子はお腹の中の子の性別を当てた。今もわかっているだろうか。 
「アディル、お腹の赤ちゃん、どっちだかわかる?」
 エマラインはそう聞いてみた。
「言って良いの?」
 アディルアは母を見上げてそう聞いた。三年前、自分がシェリーのお腹の子供の性別を言った時、大人たちがちょっと妙な顔をしたのを覚えていたようだ。
「良いわよ。ママもパパも知っているから」エマラインは微笑んだ。
「知ってるなら、言わなくても良いのに」
 アディルアはませた口調で言ってから、無邪気に笑い、言葉を継いだ。
「女の子よね。妹」
「えっ、そうなの? 妹? 嬉しいな!」エミリアが声を上げた。
「あ、もちろん男の子だって嬉しいわよ。久々の赤ちゃんだものね。楽しみだわ。でもねえ、アディル、もしこの子が女の子だったら、これであたしたち女も三人になるじゃない。男の子たちに対抗できるわ」
 しかしエミリアが何気なく発した言葉は、エマラインの心に、また小さなとげが突き刺さったような痛みを負わせた。女の子三人――男の子も三人。これで同じ数――エミリアはそう言ったが、まもなくどちらも二人だけになってしまう。あれから――ヘレナから残酷な事実を聞かされてからの毎日は、いつどこから飛んでくる針に傷つけられるかわからない日々だったように思えた。ほんの言葉の端々や、しぐさから、なにより今は元気な二人の姿を見るだけで、エマラインの心は針に刺されるような思いがしたのだ。そしてその痛みは、アディルアが漏らした言葉によって、いっそう鋭くなった。
「わたし、遊べるかな、この子と。遊びたいな。それに、わたしのこと、覚えててくれるかな? ちっちゃいから、無理かな……」
 幸い、アレンとセルスがその直前、エミリアにいたずらを仕掛けたので、それに気をとられて上の三人は気づいていないようだった。アディルアは言ってしまってから、「あっ、しまった」というような顔をして口元に手をあて、姉たちを振り返ってから、ちょっとほっとしたような顔をしている。その横でアリステルが「だめだよぉ、そんなこと言っちゃ」と、軽く腕をつつきながら諫めていた。
「わかってるもん。お姉ちゃんたちには内緒だって。もう言わない」
 アディルアは、ちょっとすねたように兄を見ていた。
 上の三人がこの場に居合わせなかったら、エマラインは泣き出して、二人を抱きしめただろう。アディルアは寂しさから、つい思いを正直に口にしてしまったのだということがわかっているだけに。まだ六歳にもならない二人が、運命を受け入れて、しかも上の兄弟たちを動揺させないように、気を使っている――そんな運命を彼らに強いるものは、いったいなんなのだろうかと、恨めしく思わずにはいられなかった。

 その夜、エマラインは子供たちの寝室を一通り見て回った後、ベッドに戻って深いため息をついた。
「疲れたんじゃないかい? もう八ヶ月だしね」
 アレイルがそう声をかけた。
「疲れたのもあるけれどね……わかっているでしょうに」
「わかってはいるよ、そのことは。でも、君の身体のことも心配だよ」
「この前は妊娠中毒を起こして、安静にしていなければならなかったり、大変だったから、ってあなたは言いかったんでしょう。でも、この前の時は、あの子たちのお産だった。双子だったから、余計にしんどかったのだと思うわ。それに、あなたがそれを言おうとして止めた理由も、わかっているわ。だから、余計辛いの」
 エマラインはもう一度、ため息をつく。そしてしばらく黙ってから、言葉を継いだ。
「ねえ、アレイル。わたし、一つだけ疑問に思っているのよ。あなたには、わからなかったの? いえ、責めているわけではないから、誤解しないでね。でもあなたの力は、もし未来が悲しいものだった場合、漠然とではあるけれど、わかっているのが普通だと、わたしは思っていたの。特に生死にかかわるような場合には、警報として感じられるはずだと。ああ、でもヘレナが薬を開発するつもりだと言っていた時、あなたは漠然とだけれど、怖さを感じると言っていたわよね。あれが警報だったのでしょうけれど……もう少し具体的だったらと……ああ、ごめんなさいね、わたし何が言いたかったのか、自分でもよくわからないわ。これが回避できたら、アーサーは助からないかもしれないのだし、それで良かったとは、わたしは決して思えない。かといって、セルスにも絶対、犠牲になんてなって欲しくないわ。ああ、もしみんなが幸せになれる手段があったとしたら、わたしは自分の命を縮めてでも過去に戻って、そうしたいのに」
「現実の時渡りは、出来ないよ。どんな特殊能力を使っても」
 アレイルは首を振った。
「それに、他の回避策があったとも思えないんだ。前にミルトが言っていたけれど……他の方法はなかったのかって。ヘレナの能力なら、他の方法で作る緩和剤が出来なかったのだろうかって。僕は考えてみたけれど、でも僕に降りてくる知識の答えは、ノーだった。研究に費やす時間分だけは遅れるだろうけれど、結果的に彼女は同じ決断を下すだろうと」
「そう……でも、少しでも時期が遅れるなら、また別の未来になったかもしれないわ」
「そうだね、それでどういう結果になったのかは、わからないけれど……でも、ほんの数か月の差異でしかないと思うんだ。そうだ……LASの遅延薬は、アーサーの進行度だと、現に投薬開始したタイミングより三か月遅れると、効くリミットを超えてしまうんだ。ヘレナはそれを知らない。RAYの文献でも、そこまで明らかにはされていなかったから。それより前に彼女がウィルスを活性化させて――その時の犠牲が誰になるのかはわからないけれど、遅延薬が間に合えば、今より最大限でも三か月遅れでの、セルスかアディルかアリストかはわからないけれど、同じ運命になる。でもそれより遅れたら、アーサーも助からない最悪の結末になるんだ」
「まあ……」
「それに、ヘレナはそこまでにかなりの文献を当たり、治療法を探してきて、たどり着いた結果がこの遅延薬だったから、それを回避して一から作るには膨大な時間がかかりすぎて間に合わないと、無意識のうちにわかっていたんだろう。だから彼女は、その選択肢は選ばなかった。それはもう取り返せない選択でしかない。未来は不確定なものもあるって、僕は思う。でも、過去はもう固定されているから」
「わかっているわよ……」
「でも、僕も確かに不思議に思えたんだ。あの子たちが君の中に宿った時、生まれた時、僕は奇妙な感じを覚えた。アーサーの未来を教えてくれと言われた時も、死の予感はしなかったと同じように、あの子たちに関しても、明確にそんな予感はなかったんだ。名状しがたい何かだったけれど、はっきりとした早世の悲しみではなかった。なぜなんだろう、僕の力が不完全なんだろうか……」
 アレイルは言葉を切り、次いでため息をついて首を振った。
「とりあえず、今日は休んだ方が良いな……」
「そうね」エマラインも物憂げに頷き、横になった。
 アレイルは立ち上がって窓のカーテンを閉め、ベッドの傍らまで戻ってきた時、別の予感に襲われたように、立ち止まった。
「どうしたの?」エマラインは聞いた。
「いや……何年ぶりだろうかな。またあの夢が始まりそうだ」
「どの夢?」エマラインは一瞬いぶかしげに問い返したあと、すぐに悟った。
「ああ……もう三年くらい前になるのかしら。最後の夢を見たのは。あの音楽家たちの。あれがきっかけで、昔の楽曲が音楽プログラムで放送されるようになったのよね」
「ああ」アレイルは頷いた。

 眠りの底から、再び風景が浮かび上がってきた。いろいろなものでごった返した小さな部屋の中で、二人の若者が並んで腰かけ、覗き込むようにデスクの上に置かれたコンピュータ端末の画面を見ている。その二人の若者の顔には、見覚えがあった。以前の夢に出てきた、ジェレミー・ローリングスと呼ばれる歌手と、パトリック・ローリングスというギター奏者のようだ。しかし、夢で見た時より、二人は若かった。まだ十代の終わりくらいの年代だろう。
「創立先導者たちの音楽だって」
 パトリックが、感嘆したようにそう声を上げていた。
 二人はイヤープラグをつけ、音楽を再生しているようだった。もちろん、二人には聞こえているのだろうが、部屋に音は流れていない。放心したような表情の二人しか、アレイルとエマラインの視点では、見えてこなかった。が、やがて吸い込まれるように意識が二人の若者たちに同化した時点で、音楽が聞こえてきた。それは、かつて彼らM‐フォースの音楽を聴いた時に受けた衝撃よりはるかに強い、鮮烈な音像だった。世界が魂と共に激しく震えるような情動を感じた。そして二人は曲を認識した。最後の曲ではないが、かつて彼らがコンサートでやっていた曲の一つだ。かなり大きな印象を残した。でも、音源ファイルには残っていないものだった。これがオリジナル――?!
 音の衝撃波でガラスが砕けるように、風景が砕け、真っ白になった。
 やがてその中から、別の映像が浮かんでくる。

 さっきの二人と同じような年代の男の子が二人、話していた。どうやら二人は仲の良い友人のようだ。でも、アレイルやエマラインには、まったく見覚えのない若者たちだった。やはりどちらかの子の個室のような場所で、同じように机の上にはコンピュータ端末がのっている。部屋の隅に、先ほどのジェレミーとパトリックが音楽を聴いていた場面で出てきた部屋に立てかけてあったような、同じような形の赤いギターが置いてあった。それがギターであることは、それ以前の夢で、ギター奏者であるパトリック・ローリングスが持っていた事から、二人にも認識できた。一人の少年がそれを取り上げ、かき鳴らしていた。
「やっと、ここのリフが弾けるようになったんだ!」
 彼は嬉しそうに、そう言っていた。
「凄いな!」もう一人が感嘆の声を漏らす。
「おまえは出来た?」
 最初の子がギターをおき、もう一人に向き直って問いかけた。
「ある程度は。でも僕はとてもあんなふうには歌えないよ」
「そりゃ、出来なくたって良いさ。守護神(ガーディアン)には、かないっこないから。でも、少なくとも声は出るようになったかよ?」
「うん。ある程度はね」
 そんな会話をしている二人の背後に、キャビネットにはめ込まれたカレンダー時計があった。日付はNA三四二年五月一二日、となっている。
「もう一回聞いてみようぜ!」
 二人はデスクに駆け寄った。一人が端末を操作し、やがて音楽が満ちる。それは、さっきの夢で見たのと同じ曲だった。が、それを認識したとたん、再び風景がかすみ、砕け散った。

 アレイルは正体のわからない衝撃を感じて、飛び起きた。ひどく頭痛がした。傍らでエマラインも驚いたように目を見開き、身体を起こしている。
「なんだか、頭が痛いわ」エマラインは顔をしかめた。
「大丈夫かい?」
「あなたもそうでしょう? 大丈夫?」
 エマラインは頭を押さえながら、かすかな苦笑をもらした。
「ああ……」
 アレイルは頷いた。同時に、身体がひどく汗ばんでいるのに気づいた。なんだろう――夢自体は、それほど劇的でもなんでもない。二つの時代の二人の男の子が、昔の音楽を聴いていた。それだけだ。だが、それがなぜ衝撃をもたらすのだろう。たしかに音楽には、恐ろしいほどのインパクトはあったが――。
「やっとあの時コンサートで聞いた曲の、オリジナルが聞けたのね。ほんの少しだけれど」
 エマラインは呟いた。
「ああ」アレイルは再び頷く。そして、立ち上がった。
「まだ三時だね。もう一度眠ろう。その前に、水を持ってくるよ」
「ええ。少し喉が渇いたわ。あなたも?」
「ああ」
 二人はグラスに注いだ水を飲み、深いため息をついて、再びベッドに横たわった。
「……二番目のシーンは、二五世紀だね」
 アレイルは天井を見ながら呟いた。
「そうね。そうなるわね」エマラインも頷く。
「いきなり四一世紀から千五百年も戻ったんだ。三年のブランクがあったとは言っても、ずいぶん急なジャンプだな。二五世紀といったら、まだ世界人口も十万くらいしか行っていない、本当に初期だよ」
「そうなの……?」
「その先に……」アレイルは言いかけて、黙った。名状しがたい何かが、心の奥底からせりあがってくるようだった。遠い忘却の中に沈んだ記憶の欠片が、少し動いたように。あの音楽自体の衝撃もあるが、それ以上に、何かが付随していて、それゆえに、ものの一分くらいしか、夢の中で再生することができなかった。なぜだろう――。
 
 エマラインも夫の思いを共感したが、それ以上知ることは出来なかった。しかし彼の心の奥に浮かんだ思念を受け止めた時、彼女は身震いを止められなかった。
(何かが近づきつつある。遠い昔の何かが……そう、遠い昔の約束が。それがなんなのかは、わからないけれど……)
 一年半前、アレイルが『これから何かが動き出すような気がする』と言ってから今までの運命の急転が、思い起こされてきた。その帰結が、近づきつつあるのだろうか――?
 エマラインは目をつぶり、もう一度眠ろうと努めた。お腹の中で、大きくなっていく新しい命が、元気よく動いている。彼女は片手を伸ばし、そっとさすった。お願いだから、もうこれ以上何も起こらないでほしいと願いながら。そして双子たちの運命も間違いで、彼らが元気に大きくなってくれたらと、今まで幾度となく願った思いをくりかえして。




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