Part 7 of the Sacred Mother's Ring - A Path to the Light

第2章 たどり来た小道(7)




「で、どんな影響が出るんだ。その体質がウィルスに感染すると」
「過去に、この新薬が発明された折、その開発者がやっぱりこの特殊体質の持ち主だったの。その人は政府の手で隔離されて、医薬品の研究に従事していた。そしてこの薬を開発する途中で、ウィルスに感染したんだけれど……普通に生活していたらしいのよ。なんでもなかったの。でも八年後に急死してしまったということだった」
「おい、まさか……」
 ジャックはもう一度、詰まったような声で繰り返した。
「研究の結果、わかったことは、BB体質の人がKT−エルヴィオンに感染すると、そのウィルスを吸収した細胞を変成させて、別の酵素を作り出してしまう。元々この体質は、PXLSがなければ受精卵から成長する段階で、人体にならず崩壊してしまう。そのPXLS特有の変性酵素が、その別の酵素によって少しずつ変わっていき、臨界を越えると、身体の機能をすべて止めてしまうらしいわ。そして死んでしまうのよ」
「なんだって……?!」
「開発者が亡くなっておよそ三十年後に、この薬の改良を試みていた同じ体質の人が、やはりその九年後に死んだ。それで、これは何か関連があるのではないかと、別の地区にいた、やはりその体質の人が、自分の身体で実験をした結果、わかったことなの。その人は死を賭して、エルヴィオンウィルスとブルーブラッドとの関連を究明しようとした。定期的な血液検査と身体チェック、症状を記録して。その人は、十年近くたってなくなった。それで、はっきりとわかったことなの。感染してから亡くなるまでの時間は、BBの純度に比例するということも。それで、私はPAXに計算を依頼してみたの。その結果は、セルスだったら約十年で、あの双子ちゃんたちだったら、相当に純度が高いから、余命二年あまりになってしまうということだったわ」
「おい!!」
 ジャックはそこまで聞いて、たまらず立ち上がった。その顔も朱に染まっていた。
「それはどっちにしろ、アーサーのかわりに、あの子たちの誰かを、犠牲にしたっていうことか?! 双子ちゃんは論外にしろ、セルスだって、あと十年ってことは十八だぞ!」
「そう言われても、返す言葉はないわ。でも私も、とても苦しんだのよ。良心の呵責なんて、生易しいものではなかったわ。止めようかとも、何度も思った。そこまでしてはいけないって……でも、やっぱりアーサーを見殺しになんて、出来なかった。人でなしと呼ばれてもいい、私はどうしても、アーサーを助けたかったの……」
 ヘレナは顔を手で押さえて泣き崩れた。
 ジャックは半ば呆然とした表情で、そんな妻を見下ろしていた。そして長い時間の後、深いため息と共に、再び椅子に座った。
「なんてことだ……」
 そして泣いている妻を見ながら、両手の拳をぐっと握り締めた。
「今その薬ができているということは、もう感染させちまったということなんだな……もう、とりかえせない。俺たちは、とんでもない罪を犯しちまった……」
「あなたには関係ないわ。罪は私だけのものよ」
 ヘレナは泣きじゃくりながら言う。
「だが、俺も事前に聞かされていたら……反対はするだろう。でも、承知する可能性はあったと思う。アーサーを助けたいのは、俺も同じだ。人の子供を犠牲にしてという考えには、ぞっとするが、それでも……その罪をかぶってでも、我が子を生かしてやりたいと、そう思ってしまうかもしれない。君が苦しんだことも、よくわかる」
「ありがとう……あなたには、愛想をつかされるかもしれないと、思ったわ……」
「アーサーは、俺たちの子だ」ジャックは手を伸ばし、妻の手を握った。
「ただ、出来たらもっと前に……実行してしまう前に、俺に相談してほしかった」
「そうしようとも思ったの。でも、反対されるのが怖くて……あなたは優しいから」
「反対はするだろう。だが、実際に苦しむアーサーを見ていたら……そこまで俺は自分の正義を貫けるかどうか……自信はない。少なくとも、君の苦しみは共有できた」
「ありがとう……」ヘレナは夫を見、そう繰り返した。
 しばらく沈黙が流れた。やがてジャックが再び口を開いた。
「それで、誰に感染させたんだ? 余命の関係からすれば、やっぱりセルスなのか?」
「最初はそう思って……あの子はアーサーと一番年も近くて親しいのにって、本当に……辛かったけど。でもまだ五つにもならない双子ちゃんのどちらかを余命二年にしてしまうよりは、十年持てばと思って……でも、実際には、とんでもないことが起こったの」
「それはどういう……?」
「私はセルスのジュースのコップにウィルスを入れて、出したの。本当にごめんなさいと、心の中で謝りながら。でも私はその時、アレンとセルスだけ呼んだつもりだったけれど、子供たち五人全員が来たの。ちょうどエミリアが休みの日で、双子ちゃんも連れて。そうしたら、セルスの隣に座ったアディルアが、まだ彼が飲まないうちに、間違えてそれを飲んでしまったのよ」
「なに?!」
「あの子は『あ、間違えてセルスお兄ちゃんの飲んじゃった。ごめんね。わたしのをかわりに上げる。まだ飲んでないから』と、自分のカップを取り替えて……それでアディルアがそのウィルス入りジュースを半分くらい飲んだところで、もういらない、お水がほしいって言って、それで私はあの子にお水をあげたのだけれど、残ったジュースを捨てようと思ったら、その前にアリストルが、飲み残しのウィルス入りジュースを飲んでしまったのよ。喉が渇いていたからって」
「なんだって?!」
「……まさかこんなことになるなんて、本当に思わなかったわ……」
「なんてこった。最悪だな……」ジャックは絶句した。
「でも、飲んでしまったからには仕方がないと、一週間後、あの子たちみんなにもう一度来てもらって……双子ちゃんはいつも、十四時くらいから一時間くらい、お昼寝するのよ。だから、あえてお昼から呼んだわ。セルスだったら、寝かせるために睡眠薬を使わなければいけなかったけれど、あの子たちはまだ、お昼寝をするから……それで別の部屋に寝かせに行って、眠ってから二人の血液を採取したの。二人ともから、ウィルスが抽出できたわ。二人とも感染していたの」
 ジャックは返事が見つからないように、頭を押さえて、ため息を漏らしただけだった。
「そこから先は、あなたも知ってのとおりよ。私は活性化したウィルスを培養し、封印してニュー・ヴィクトリア市の新薬研究局に送った。それから二週間たって、薬が送られてきた。それは効いているわ。アーサーは助かる。完治はしないまでも、少なくとも人並みには生きられる。でも、そのために払った犠牲は、恐ろしすぎる……それでも、一端手を染めた以上、突き進むしかなかったのよ。ウィルスを感染させてしまった以上、もう取り返しがつかない。途中で止めては、すべてが無駄になるだけだわ。だから……でも、実際に薬が完成して、アーサーが元気になっても、私は手放しでは喜べないの。もちろん、それを一番願っていたのに……」
「そうだな……」ジャックは重いため息をついた。重苦しい沈黙が降りた。
「だから……双子ちゃんの誕生日会なんて、とても行けないわ」
 へレナは顔を覆って、呟いた。
「私は、あの子たちの未来を閉ざしてしまった。あの子たちは、たぶん七歳の誕生日くらいまでしか、生きられないでしょう。本当なら二人とも、とても長生きできたはずなのに。それがわかっていて、どうしてのこのこと誕生会に顔を出せて?! アーサーのことで、みなにお祝いを言われても、どうして純粋な喜びに浸ることが出来て? そしてなにより怖いのは、その気持ちをエマラインに知られてしまうことよ。彼女がこのことを知ったら、きっと私のことを許してくれないでしょう。アレイルにしても、知ってしまう可能性は高いし、そのことで動揺しないはずはないわ。リンツやシェリー、ミルトも、私に愛想を尽かすでしょう。ああ、私は本当に、とんでもない人でなしね。昔、あの暗黒の世界連邦の中で、あなたと死のうとしていた私は、あの子たちに救われたのよ。今回アーサーの薬を探すのにも、アレイルに協力してもらったわけだし……彼がいなければ、とてもウィルスを探すことなんて、できなかったわ。それなのに私のしたことといったら、その恩人で親友で、仲間たちでもある彼らの末っ子たちを、いくら運の悪い偶然だったとはいえ、結果的に自分の子供を救うために、犠牲にしてしまったのよ……」
 再び沈黙が支配した。ジャックはむっつり黙り込み、ヘレナはすすり泣いている。
 やがてジャックが、のろのろとした口調で口を開いた。
「だが……どうするんだ? これから」
「どうするって?」
「俺たちがとる道は、二つしかないような気がする。一つは、何かの口実をつけて、あいつらとの付き合いを絶って、どこか別の街に引越し親子三人で、新しい暮らしを始めることだ。本当の理由は、アレイルはたぶん察するだろうが、エマラインや他の三人との感情的な対決は、避けて通れる。だが……これは、罪の上塗りに他ならない」
「……そうね」
「もう一つは、すべてをみなに話すことだ。そして俺たちに出来る限り、許しをこうことだ。もちろん、あいつらは許しちゃくれないだろう。結果的には、初めの選択肢と同じように、俺たちはあいつらとの付き合いを絶って、どこか別の場所で親子三人、やり直すことになるだろう。結果的には変わりはないが、俺はそうすべきだと思う。俺たちがやっちまったことを、知らぬ存ぜぬで逃げちまうよりな。そりゃ、辛いだろう。だが、それだけのことはやっちまったんだ。それ相応の罰を受けるべきじゃないか?」
「……そうね」ヘレナは涙を飲みこみ、頷いた。
「ありがとう、ジャック……あなたの言う通りよ。ごめんなさい。私のために、あなたにまでいやな思いをさせてしまって。あなたは知らなかったことなのに……」
「前にも言っただろう。アーサーは俺たちの子だ。それに、君がどんなことをしたにせよ、そのために他の仲間たちを失うことになっても……俺は君のそばにいるつもりだ」
「本当にありがとう……」
 へレナはそれ以上言葉を失ったように、夫の胸の中で泣き崩れた。

 ジャックとヘレナは、双子の誕生会には行かなかった。ただ、プレゼントだけは贈った。アーサーは残念がったが、まだ体調が完全には回復していないからと両親に言われ、渋々従った。アレイルとエマラインにも、その旨を伝え、彼らからはプレゼントのお礼と、「アーサーが完全に元気になったら、いつでも遊びに来て」との返信をもらった。
 それから一週間後、夫妻は恐れていたことを実行に移そうと決意した。ただ、決して息子には知られたくない。どんな感情的対決になるかわからず、アーサーだけでなく、ローゼンスタイナー家の子供たちにも、聞かれたくはなかった。
 六月も下旬に入ったばかりの、晴れた日だった。ジャックとヘレナはアレイルとエマラインと一緒に、リンツとミルトに家に来てもらい、二人にアーサーをローゼンスタイナー家へ連れていってもらえないかと頼んだ。そこには先に、シェリーが子供を連れて行っているはずだった。
「アレイルとエマラインに話があるんだ。それが終わったら、俺たちも後から行く」
 ジャックは、リンツとミルトにそう告げた。
「お父さんとお母さんも、後から来るんだよね」
 アーサーは両親を振り返り、問いかける。
「ああ。一時間か二時間くらいしたら、迎えに行くよ」
「迎えに来たら、帰るの? 向こうにはいないの?」
「ああ……無理だな」ジャックは隠しきれない苦渋の色をにじませて答えた。
「じゃあ、お迎えはゆっくりでも良いよ」アーサーは無邪気に言う。
「向こうで一緒に飯でも食べれば良いのに。なんか作るのが大変なら、出来たものを配達してもらえば良いんだし」リンツは不思議そうな表情だった。
「そう出来れば良いんだけれどな……無理だろう」
「なんか用事があるのか?」
「そういうわけじゃないんだが……まあ、話はあとでアレイルたちから聞いてくれ。本当はみんなに話せたらと思ったんだが、子供たちがいる手前、全員には無理なんだ。理由を聞けば、おまえたちも納得してくれるだろう」
「何か、それって良くないことなの?」ミルトが怪訝そうに、そう聞いてきた。
「今は言えない。特にアーサーの前では。あとで聞いてくれ」
 ジャックはそう繰り返した。リンツとミルトはやや不思議そうに顔を見合わせていたが、頷いて、アーサーの手を引き、自家用エアロカーに乗り込んでいった。
 
 エマラインは玄関に入ったとたん、何か非常に重苦しい感情を感じた。それを出来るだけ表に出すまいと押し殺しているようだが、それが余計に悲壮感のようなものを感じさせている。もう二メートルくらいの範囲でしか思いを感じられなくなっている今のエマラインにもわかるほど、それは強い思いだった。彼女はスウィート夫妻への手土産に持ってきたピンクのスィートピーの花束を、我知らずぎゅっと胸に押し付けていた。新薬が効いて、アーサーは生きられるはずではなかったか? 二人は喜びに満ちていると思ったのに――エマラインは、しかしそれ以上知ろうとする思いを押さえつけた。たぶん二人はそれをこれから話すために、自分たちを呼んだに違いないのだ。それもアーサーも遠ざけ、四人だけで話そうとしているからには、かなり深刻なものなのだろう。ここの空気が、それを証明している。それを先取りしてはいけない。それは人の心に土足で踏み入るに等しい行為だ――彼女はそう知っていた。
「入ってくれ……」
 ジャックは夫妻をリビングへ招きいれた。テーブルの前に、ヘレナが青白い顔で座っている。彼女は普段玄関へ迎えに出るのに、そういえば姿が見えなかったと、エマラインは思い起こした。本当に、どうしたのだろうか――こみ上げる心配を押しのけるように、エマラインは出来るだけ快活に二人に祝いを述べ、花束を差し出した。
「ありがとう」へレナは答えたが、その声は硬かった。
「花瓶ある、ヘレナ? どこかに飾るわ」
 エマラインは努めて明るい調子で問いかけ、
「ああ。たしか戸棚の上に……」と、ジャックがかわりに持ってきた。エマラインはその茶色の花瓶にスイートピーを入れ、テーブルの真ん中に飾った。
「悪いな」ジャックは目をあげて、微笑もうとしたようだが、失敗したらしい。
「……どうしたの?」
 ここにおよんで、エマラインはついにそう聞かずにはいられなかった。
「アーサーは元気になったんでしょう? 完治はしないにしても、少なくとも五十年くらいは生きられるはずだって聞いたわ。それなのに、何か二人ともとても……悲しそう」
「何か……悪い知らせなんだね」アレイルがそこで口を開いた。
「おまえさんにはもう、わかっているか……?」
 ジャックが目を上げて問いかける。
「いや、具体的には。ただ、そんな感じだけがするんだ」
「そうか。知識は降りていないのか……それなら説明する手間が省けると思ったんだが、そうだな。そんなに都合よくは行かないな。やはり俺たちが言えということなんだな。それが罰なんだ。すべてを自分たちの口から話せと……」
「どういうこと?」エマラインは問いかける。
「ごめんなさい!」
 へレナが叫ぶように声を上げ、テーブルの上に身を投げた。
「私はアーサーを治すために、あなたたちの双子ちゃんを犠牲にしちゃったのよ!」
 言葉はそれだけだったが、二人がすべての真実を知るには十分だった。ヘレナの言葉を聞いた直後に、アレイルの中にこれまでの経緯が知識となって降り、エマラインは強烈に揺さぶられた感情の共振によって、夫の知識を共有したのだった。
「……なんてこと!」
エマラインは言葉を失った。全身の血が引いていくような気がし、気が遠くなりかけるような気分の悪さを感じた。身体が木の葉のように震え出した。どうしてもその震えを止めることは出来なかった。感情さえも失われたように思えた。ジャックとヘレナがこれまでの経緯を語っているようだったが、その言葉はエマラインの耳を掠めていくだけで、内容は入って来ない。しかし、それはすでに知った知識だ。
「なぜなの……?」彼女はかすれた声で、それだけ問いかけた。
「どうして、そんなことができるの?」
「私だって、双子ちゃんを犠牲にするつもりはなかったわ。本当に、運の悪い偶然だったのよ」
「それでも、あなたはセルスを犠牲にしようとしたのよね、初めは……偶然そのコップを、アディルが飲んでしまったけれど……なぜなの? あなたが最初からそんなものをセルスに出さなければ、間違ってアディルが飲んで、感染してしまうことはなかったのに……どうしてなの?」
「アーサーを助けたかったの。それだけよ」
 ヘレナは詰まったような声で、そう答えた。
「そのために、どんな犠牲を払っても良いの? うちの子たちを犠牲にしても? もし運悪くアディルとアリストが飲まなかったとしても、そうなったらセルスが感染して、あの子は十八で、人生まだこれからっていうところで、死ななければならなかったのよ。どうして?!」
「他の手段があったら、私もそうしていたわ。でも他になかったの」
「だからって……ひどいわ! ひどすぎる。それに、今あなた、ちらりと思ったわね。うちには他にも子供がいるからって……数じゃないのよ! あの子たちのかわりはいないの。どの子たちも、かけがえのない子たちだわ!」
「でも、ゼロには、ならないわけよね」
 ヘレナはこらえきれなくなったように声を上げたあと、長いため息をついた。
「ごめんなさい。私が怒る理由なんて、百万に一つもないわ。ただ謝るしか出来ないし、許してもらえないとも思う。でも、私たちも苦しんだのよ。出来れば回避したかった、最終手段だった。エマライン、考えてみて……私たちのしたことは許されることではないけれど、もしあなたが私の立場だったら、どうしていた? あなたのたった一人の子供が病におかされて、あと二年しか生きられないとわかったら……でもその子を救う手段がたった一つだけあって、それが大切な仲間の子供の命を奪うことだったとしたら……」
「わたしには……わからない」
 エマラインは首を振り、しばらく言葉を止めて、両手で顔を覆った。
「あなたの立場だったらということは、今は考えられない。でも、あなたのしたことは、わたしは許せない。そうよ。わたしだったら、絶対にやらない。そんな権利は、誰にもないことだもの」
「そうよね……あなたはきっとそう言うと思っていたわ」ヘレナは深く息をついた。
「私たちは、謝ることしか出来ないわ。本当に、とんでもないことをしたと思っているの。出来ることなら、そんなことはしたくなかった。私たちも苦しんだの。でも、私はアーサーを助けたかった。どんな犠牲を払っても、どんな罪を犯しても……」
 ヘレナのアーサーへの母性の強さに畏怖に似た思いを感じると、以前アレイルが言っていたことを、エマラインは思い出した。彼の能力は、漠然とこの危機を悟っていたのかもしれない。しかし、まさか具体的にこんな形で起きてくるとは、彼は思っていなかっただろうし、自分もそうだ。そんな思いがぼんやりと掠めていった。
「アーサーが大人になってから、もしこのことを知ったら、どう思うかしら」
 考えるまもなく、そんな言葉が飛び出してきた。
「お願いだから、あの子には言わないで!」
 ヘレナは顔色を変え、訴えるように叫んだ。
 エマラインも自身の言葉を恥じた。アーサーには何の罪もないことなのだ。もちろん彼女自身、そんなことを誰かに他言するつもりはなかった。リンツたちは別だが。ましてや、アーサーに告げようなどとは。そこまで卑劣な人間になるつもりはなかった。だが自分の言葉が、単に誰かからの話が耳に入る可能性を示唆しただけのつもりが、そこにぞっとするような意味を込めてしまったことを、恥じずにはいられなかった。エマラインの胸の奥には、消せぬ怒りがあった。だが、それでも――。
「俺たちに出来る償いがあれば、なんでもする」ジャックがそこで口を開いた。
「……あの子たちを治して。元通りにして」
 言葉が、思わずエマラインの口を突いて出た。彼女の怒りはもはや燃えてはいないが、静かに身体の奥に沈下していくようだった。
「それは……無理だろう」
 絶句してしまったスウィート夫妻にかわって、アレイルが静かに答え、片方の手を妻の肩に置いた。「悲しいのはわかる、エマライン。でも、それは死んだ人を蘇らせてくれって言うのと同じだよ。もう今となっては……遅い」
「あなたはどうして、そう冷静でいられるの?」
 エマラインは思わずそう言ってしまってから、後悔した。彼女は夫の感情を読み取ることができた。彼がスウィート夫妻の言葉と、それから得た知識に衝撃を受けたことも、悲しんでいることも、手に取るようにわかったからだ。ただアレイルの感情には、彼方からの知識からの思いが、かすかに入っているようだった。
(それが運命の成り行きなのだ。あの子たちは、そうなる定めなのだ)と。
 エマラインは反駁したかった。しかし、それは夫の考えではないことがわかっている以上、誰に反論していいかわからない。アレイル自身も、その感情に対して訝しんでいるような感じさえ受けた。
「俺たちは来月、ここから引っ越すつもりだ。俺たちの故郷、第五連邦……いや、今はアジア連邦だな、に行こうと思う」
 ジャックの言葉に、アレイルとエマラインは頭を上げた。
「逃げるの?」エマラインは反射的にそう言っていた。
「いや……」ジャックの顔に濃い赤がさした。
「違う。でもおまえたちはもう、俺たちを許してくれないだろう。ここにいたら、アーサーがおまえたちの子たちに会いたがるだろうし、もう会えない理由をいろいろと考えなければならない。結果的に、あいつに辛い思いをさせるだろう。それに俺も、仕事上アレイルやリンツには会ってしまう可能性がある。もう見たくはないだろう、俺たちの顔など」
「エマラインは許していないようだし、僕も許すとは言えない」
 アレイルは二人に視線を合わせた。そして一息置いて、続けた。
「でも、逃げてはほしくないんだ……エマラインの言うように。僕らは……特にエマラインは、冷静な気持ちであなたたちに会えるとは思えない。少なくとも、今しばらくの間は。でも、アーサーがうちの子たちと会ってはいけない理由は、ないと思う。あの子には、罪はないから。僕らは事実を、うちの子たちに言うつもりはないから、アーサーがうちの子たちと遊びたいなら、止めさせるつもりはないよ。ただ……僕らが冷静になれるまでは、うちではなくて、こっちで遊んでもらうことになるけれど。エミリアか……アレンももう大きくなったから、セルスと一緒にここまで来られるだろう。アディルやアリストも行くかも知れない。あなたたちにとっても、あの子たちに会うのは良心の呵責があるかもしれないけれど……でも、もしあなたたちが僕らに償いをしたいと言うなら、逃げないで、ここに留まってほしい。そして、すべてを見届けてほしい」
 しばらく沈黙が落ちた。ヘレナもエマラインもすすり泣き、ジャックは下を向いている。
 やがてジャックが頭を上げ、頷いて、再び頭を下げた。
「わかった……ここに留まろう。それが俺たちの償いに、少しでもなるなら。本当に、すまなかった……」
 ヘレナも涙をこぼしながら頷き、そして繰り返した。
「本当に、ごめんなさい」と。
「一足先に、帰るよ。あと一時間くらいしたら、うちに来てくれないか。アーサーを迎えに」アレイルが立ち上がりながら、静かな口調で二人に告げた。エマラインも夫に続いて立ち上がり、何も言わずにそのまま玄関へと向かった。

 夫妻が帰ったあと、すすり泣きながら、ヘレナはテーブルに突っ伏した。ジャックは手を伸ばし、その背に触れた。
「仕方がないさ……俺たちは罰を受けよう。最悪の場面は、もう過ぎたようだが……」
 テーブルの上に、エマラインが持ってきたスィートピーの花束が揺れていた。仲間たちとの親密な付き合いと、楽しい思い出を象徴するかのようなそのピンクの花々は、夫妻をして新たな悲しみに突き落とすものだった。もうこれからは、望めない――。
「君は言ったな。どんな犠牲を払っても、アーサーを助けたいと。それなら、その代償も受け入れないとな」
「そうね……」
 へレナは頭を上げ、涙を飲み込んで、夫の手をとった。仲間たちを失った今は、夫と息子だけが、彼女のすべてだと思いながら。

 ここへ来る時に乗ってきた自家用エアロカーは、リンツとミルトがアーサーを連れて行くのに使ったので、二人はウォーカーのステーションまで行き、そこから都市の南ゲートまで行った。そこから歩いて外に出、市外区にある我が家へと向かう。二人とも無言だった。夕方になっていたが、夏至に当たるこの頃は、一番日が長い季節だ。まだ陽は明るく、木立の中のこじんまりした個別住宅の群は、カラフルな小箱が規則正しく緑の中に並んでいるようだ。
 いつもなら、エマラインは都市のゲートから我が家までの散歩を楽しんだ。でもこの時には、何も目に入らなかった。何を考えていいかすらわからず、頭の中は空白のスクリーンのようだった。時おり黒い炎のように、ヘレナへの怒りがこみ上げてくる。彼女が苦しんだこともわかるし、立場にも同情できる。それでもやはり、やり場のない怒りは押さえようがなかった。それだけが、唯一感じる感情のような気がした。
「エマライン」
 木立の中に我が家が見えてきた時、アレイルが立ち止まって、小さく肩を叩いた。
「うちへ帰ったら、冷静にならないと。アーサーや双子たちに、他の子たちにも、変に思われないよう、普通に振舞わないと。大丈夫かい?」
「大丈夫とは思えないけれど……やってみるわ」
 エマラインは少しはっとして目を見開き、ついで頷いた。
 家に入り、リビングで楽しそうにアレンやセルスと遊んでいるアーサーを見ても、しかし不思議に彼に対する気持ちは以前と変わりがないことに、エマラインは軽い驚きに似た思いを感じた。彼が元気になってよかった――その暖かい思いだけが感じられた。彼女の双子のかわりにこの子が死ねば良いのにとは、決して思えなかった。今までだって――スウィート夫妻から話を聞かされてからも、そんな思いは一瞬たりとも感じなかった。子供には、決して罪はないのだ。だが、無邪気に走りよってくるアリストルとアディルアを見た時には、せりあがってくる涙を抑えるのに、非常な苦労をした。三週間と少し前にアディルアが湖に飛んでしまい、奇跡的に助かった時、言いようのない安堵と喜びを感じた。なのにその時娘はすでに、致死的なウィルスに感染してしまっていたのだ。しかもアディルアだけではなく、アリストルも。なぜ、こんな残酷なことになってしまったのだろう。ヘレナやジャックにとっても、そして自分たちにとっても。いつの間にか怒りは消え、悲しみだけが残った。
 一時間後、スウィート夫妻がアーサーを迎えに来た。アレンとセルスは快活に「じゃあ、またね!」と、手を振り、エミリアも笑って「また来てね!」と告げた。アリストルとアディルアも、この時には玄関までアーサーを送りに行った。アディルアはアーサーの腕に手をかけ、にっこり笑っていた。
「元気になって、ほんとに良かった! また遊びに来てね!」
「うん。また来るよ! 今度、花摘みに行きたいな」
 アーサーは嬉しそうに答える。
「良い場所があるのよ」エミリアが指を振って、ニコッと笑う。
「今度来た時、教えてあげる。でも、六月中に来てね。七月になったら、花が散ってしまうわよ」
「来週……アレンとセルスが学校へ行った帰りに、そっちへ寄って、一緒にここへ来れば良いわ。帰りは……うちの子たちが、そっちへ送っていくから……」
 エマラインはいつもより固い口調ながら、そう言っていた。アディルアの言葉になおさら悲しみをかきたてられたものの、子供たちの付き合いはまた別なのだ。
「良いの?!」アーサーは、ぱっと顔を輝かせた。
「ねえ、ねえ、お父さん、お母さん、良い?!」
 息子に問いかけられ、ジャックとヘレナははっとしたように頭を上げ、そしてジャックが問うような視線で聞いてきた。
「いいのか?」
 エマラインは二人と目を合わせないまま、無言で頷いた。ジャックは感謝するようなまなざしを投げ、息子に言った。
「じゃあ、そっちの都合の良い日にな」
「じゃ、来週の水曜日は?」と、アレンが言い、
「うん!」と、アーサーが頷く。
「ごめんなさいね」へレナは小さな声でそう言った。
 その言葉には、その表面的な意味より大きな感情が込められている。感謝と悲しみと、そしてほっとしたような思いが。それを受け止めながら、しかしエマラインには答える言葉は見つからず、相変わらず下を向いたままだった。
 子供たちと一緒に、帰って行く三人を見送ったアレイルは一瞬だけ夫妻と眼を合わせ、告げた。「ジャック、ヘレナ……また、いつか、そう遠くない時に……また昔のように話が出来る時がくれば良いと思うよ」
「ありがとう。本当にすまないな……」
 ジャックはそう答えながら視線を下に落とし、
「ええ……本当に、ごめんなさい……」
 へレナも頷いて、うつむいていた。

 食事が済んで片付けられたリビングで、子供たちは遊んでいた。一年前に物品センターから買ってきた、子供向けのボードゲームの一つをやっている。エマラインが帰ってきた時には、アーサーも加わっていたが、今は五人だけだ。アリストルとアディルアもルールを理解しているようで、年長の三人と互角に渡り合っていた。
 無邪気な笑い声や歓声が響く中、エマラインは机に片肘をつき、子供たちを眺めていた。アレイルはリンツたちを送っていき、そして今頃スタインバーク家のリビングで、話をしていることだろう。自分では、とても繰り返せそうにない話だった。受け入れがたい事実だった。怒りはもう、完全に静まっていた。ただ、悲しみだけが大波のように押し寄せる。でも今は、それを外に出すことは許されない。子供たちが不審に思う。誰のためにも、事実を知らせる気はなかった。それが最良なのだ。
 涙が一筋、頬を伝って落ちた。アレイルに降りた知識があの時語っていたように、『それが定めなのだ』という達観した気分には、とてもなれそうになかった。失ってしまったものと、これから確実に失うもの――エマラインは子供たちに気づかれぬよう、そっと頬を拭った。だが新たな涙が再び頬を濡らすのを、止めることは出来なかった。




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