Part 7 of the Sacred Mother's Ring - A Path to the Light

第2章 たどり来た小道(6)




 エアロカーは最高速、時速百五十キロほどで、一時間以上飛び続けた。アリストルが指示した先に行きつくと、そこは見覚えのある湖だった。
「ここは……」アレイルは湖畔に立ち、妻と顔を見合わせた。
「マリア・ローゼンスタイナーが入水自殺した……」
 エマラインは呟くように言い、あわや倒れそうになっていた。アレイルは妻を抱き止めた。妻を捕らえている不吉な連想が、彼にも感じ取れた。――そんなはずはない。そんな予感はしなかった。アレイルは唇をかみ、湖面を見つめた。
「アリスト、アディルは……」
「あそこ」息子がさした先は、岸から遠く離れていた。
 どうしたものだろう――自分は泳ぎを知らない。エマラインも同様だ。飛び込んで助けに行くわけにはいかない――アレイルはしばらく考えた末、車に戻った。再びエマラインとアリストルを乗せ、出来るだけ湖面ぎりぎりに低空飛行する。息子に方向を指示してもらい、湖の中央近くに来た時、午後の傾きかけた日光を反射して、淡い金色の輝きが見えた。そしてその回りに白とピンクが――アディルアはいなくなった時、白いブラウスにピンクのスカート姿だった。アレイルは荷物スペースに積んだ道具箱からロープを取り出し、自分の胴回りにまきつけた。そして反対の端を、車の手すりに縛った。ぎりぎりまでエアロカーを湖面に近づけ、エマラインに声をかける。
「もぐって見てくる。このままの高度と位置を保っていてくれ。アディルを引き上げられたら、戻るから」
 エマラインは無言で頷いた。その顔は唇まで真っ青だ。アリストルも神妙な顔で見ている。アレイルは湖に飛びこんだ。五月とはいえ、水はまだ冷たい。泳ぎは何も知らなかったが、水の中で息を止めることだけは知っていた。どのくらいもつかわからないが――下に漂う人影に向かって、手を伸ばした。それはたしかに娘だった。その手をつかみ、引っ張り寄せ、上に向かおうとする。
 泳ぎは知らないが、その知識が無意識のうちに、彼に降りたのだろう。アレイルは水面に向かって上昇することが出来た。そして水面に顔を出し、アディルアの頭も水面から出して、手を伸ばし、彼女を車の中に入れた。エアロカーは水面から約五十センチの場所で止まっていたので、なんとか自分も中に戻ることが出来た。エマラインが娘に駆け寄っているのが、身体を引き上げている時に見えた。
「アディル! アディルーー!!」
 エマラインは娘の小さな身体を揺さぶっていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい! わたしが気をつけていなかったばっかりに……」
「とにかく岸に行こう」
 アレイルは車を発進させ、再び湖畔に止めた。そして娘の状態を確かめた。アリストルが言っていたように、もし飛んだ先が水の上で、そのまま水中に落ちたのなら、この子はそれから一時間半、湖の中を漂ったことになる。アディルアは泳ぎを知らない。仮に出来たとしても、来月やっと五歳になる女の子が、一時間半もこの水温の中を泳ぎ続けられたとは思えない。それを考えれば、エマラインの絶望や悲しみは、無理もないことだろう。だが、なぜかアレイルには、娘が死の危険にさらされているとは、感じられなかった。なぜだろう。危険は、どんな形であれ、警報として感じられたものだが。力が失せたのだろうか。それとも――。
 アレイルは娘の小さな手をとり、そっと脈に触れてみた。その手は長い間水中にいたことを物語るように冷たかったが、指先にはかすかな鼓動が感じられた。
「脈が触れる!」
 アレイルは娘の胸に手を当ててみた。そして口元に指をかざした。
「心臓も動いている。息は、まだ……でも、そうだ、水を吐かせれば」
 知らなかったことだが、その他多くのことと同じように、そのやり方はまた、適切な形で降りてきた。水を吐き出すと、アディルアの呼吸も再開した。娘の頬に、ほんのかすかな赤みが差した。
「エマライン、まだアディルは生きてる! 大丈夫だ! これ以上身体が冷えないように、毛布をくれないか」
 エマラインははじけるように立ち上がり、後部座席に積んであった毛布を夫に渡した。アレイルはそれで娘をしっかりと包み込み、エマラインに預けると、車を発進させた。
「生きているの? アディル……本当に、大丈夫なのね?!」
 エマラインは咽ぶような声を出し、毛布ごと娘を抱きしめた。そしてゆっくりとした動作で、喉元に手をやった。鼓動を確かめるように。
「良かった……」
 彼女は涙に埋もれて、あとは言葉にならないようだ。
「大丈夫……大丈夫だよね。だって君は……」
 アリストルが手を伸ばし、双子の妹の額に触れている。
「もう一人で行かないでよ、アディル。でもここは、ぼくには厳しいけど……」
 その言葉に、アディルアが目を開いた。そして二つ三つ咳き込んだあと、小さく言う。
「寒い……」
「気がついた! ああ、アディル! 本当に良かったわ!」
 エマラインは娘を抱きしめた。そのぬくもりで身体を温めようとしているかのように。
「パパも風邪ひいちゃうよ」
 アリストルは操縦席の父親に向かって、気遣うように言った。
「まあ、僕はいいさ」
 アレイルは髪からまだ雫をたらしながら、苦笑した。
「でも、アディルが無事で、本当に良かった。まだアディルも元気じゃないから、元気になったら聞かせておくれ。どうしてあそこに行ってしまったのか」
「わかんないの……でも、びっくりした……」
 それが娘の答えだった。やがて、またうとうとと眠ってしまったようだ。エマラインは心配の反動と安堵感で、娘を抱いたまま、まだ涙が止まらないようだった。
 アリストルは後部座席に這いこんで、そこにおいてあった大きなタオルを引っ張り出し、伸び上がって父親の肩にかけた。
「パパも風邪ひいちゃうよ」再びそう繰り返し、その隣に座る。
「ありがとう。アリスト」アレイルは手を伸ばし、息子の髪をなでた。
 夕闇が迫ってきていた。あと一時間で我が家に着く。心配しきっている上の子供たちとミルトに、アディルアの無事を伝えなければ。アレイルは通信機に手を伸ばした。

「しかし、無事でよかったな……」
 その夜、ミルトからローゼンスタイナー家での騒ぎの顛末を聞いたリンツは、ほっと安堵の息を吐き出していた。
「本当。一時はどうなることかと思ったわ」
 シェリーも真剣な表情で頷いている。
 遅い夕食が済んで、三人でお茶を飲んでいるところだった。小さなロリィは、リビングの椅子の横に置かれたコットの中で眠っている。
「でも、自分で制御できない力って、厄介だね」と、ミルトは頭を振り、
「そうだよな。おれは自分で何も思わずに、勝手に飛んだことなんて、なかったからなあ。いつもどこそこへ行きたいっていう、おれの意思がなければ発動しなかったし。まあ、今はもうないけどさ」リンツはお茶のおかわりをしながら、首を振る。
「そうよね。あたしもそうだし、ミルトだってそうだったでしょう。あなたは小さかったけれど、それでも力を使う時には、使おうと思って出していたんだし」
「うん。小さい時のことはあまり覚えていないけど、そうだったと思うよ」
 ミルトは首をかしげた。「それに考えてみれば、物理系の力って、そうじゃなければ凄く不都合だと思うんだ。姉さんの力は無意識に出ちゃっても、そんなに関係ないと思うけど、リンツ義兄さんや僕なんかの場合は、ね。勝手に動いちゃったり、勝手に移動しちゃったりしたら、大変なことになると思うよ。まあ、その……大変なことが実際、アディルに起きているんだから、本当に大変だろうなあって思う。エミリアもアレンもセルスも、何がなんだかわからないながら、何か大変なことになったんだってことだけはわかっていて、凄く心配して、でも何も出来なくて、僕もどうしていいかわからなかった」
「あたし思うんだけど……」シェリーが考えこんでいるような口調で、言い出した。
「もしかしたら、おにいちゃんやおねえちゃんの持っていた精神的な力って言うのが、影響しているのかしら。ほら、おにいちゃんの危険予知とか、おねえちゃんのテレパシーなんかは、本人の意思とは関係なく力が来るじゃない。今なんて、特にアレイルおにいちゃんの予知は、ほとんどそうでしょう。外から力が降りてくる……アディルも二人の子供なんだから、その精神的な力の、なんていうのかなぁ……外から発動する、そういうのが受け継がれているんだとしたら……でも実際に発動している力っていうのが、精神的なものじゃなくて、昔のリンツが持っていた能力で……」
「だとしたら、それ超危険じゃないか? おれの持ってた力はなぁ、自分でコントロールできなきゃ、どうにもなんないくらい、やばいぜ。それこそ今回みたいに水の上とか、さもなきゃ高い空の上とか、崖の途中とか……そんなことになったら、アウトだぜ。今回、よく助かったよなあ」
「アディル、戻ってきてから病院につれていって、診てもらったんだけど、どこも悪いところはなかったみたいだ。助かったのは、お医者さんの話によれば、たぶん水の中で体温が下がりすぎて、仮死状態になったのが、幸いしたんじゃないかって」
 ミルトがそう説明した。
「そうか。まあ今回は不幸中の幸いだったんだろうけど……これじゃエマ、気が休まらないだろうな」リンツが頭を振って、ため息をつく。
「そうよね。おねえちゃん、大変よね……」
 シェリーも同情に満ちた表情で頷き、しばらく間を置いて、両手を組み合わせ、続けた。
「ジャックとヘレナのところも、アーサーが大変だし。みんな大変で、なんとかしてあげたいのに、何も出来ることがなくて。あたしたちのところは問題なくやれているのが、なんだか悪い気もしてきたりして……もどかしいわ」
「これで、おれたちの所までトラブってたら、もうどうにもなんないぜ。別に気が引けるような話じゃないだろ。おれたちに出来ることを、やればいいんじゃないのか?」
 リンツはきっぱりとした口調で言うとカップの残りを飲み干し、
「義兄さんのそういうところ、好きだよ。本当にそうだと思うな」
 ミルトも頷いて、小さく笑っていた。
「そうね、たしかに」シェリーは夫と弟を見、かすかに微笑んだ。

「ねえ、ママ……聞いていい?」
 双子たちの部屋にいたエマラインのところに、エミリアが真剣な顔でそう言ってきた。
「なあに?」
 エマラインは娘を振り返った。エミリアの後ろには、アレンとセルスもいて、心配そうに、遠慮がちに覗き込んでいる。
「どうしたの? みんな入ってらっしゃい」
 声をかけられると、三人の子供たちは部屋に入ってきた。双子たちは一つのベッドを共有して、すっかり眠っている。そのまわりに上の三人が見下ろすように囲み、立った。
「アディルはどうして突然消えたの? どうして遠くの湖に落ちたの?」
 エミリアの問いに、エマラインは一瞬考え、そして子供たちに向き直った。
「昔、この子たちが生まれる前、リンツおにいちゃんとシェリーおねえちゃんの結婚のお祝いの後、その二人とミルトおにいちゃんが、魔法の力を見せてくれたことを覚えている? 今は三人とも、その力をなくしたけれど、でもそういう力は存在するのよ。アレンやセルスは、はっきり覚えているかどうかわからないけれど、その中でもリンツおにいちゃんは、離れた所に一瞬で移動できた。どうやらアディルも、同じ力を持っているらしいの」
「ええ、そうなの?!」
 エミリアは驚いた顔で、ベッドに眠っている妹を見やった。
「ただ困ったことにね、リンツおにいちゃんと違って、アディルは自分でその力が、コントロールできないのよ。まだ小さいからかもしれないけれど、でもミルトおにいちゃんは二歳で、もう自分の力をコントロールできていたから、年齢の問題じゃないのかもしれない。力に慣れていないのかもしれないわね」
「だから急に、勝手にどこかへ行ってしまうってこと? アディル自身もよくわからないうちに? だから、湖の上に出ちゃって、中に落ちたの?」
「そうなの」
「それって……なんか、やだね。危ないし」
 セルスがそう感想を述べた。
「そうなのよ。本当に困ったことだし、危険でもあるのよ」
 エマラインはため息をついた。「ただ幸いなことに、アリストが行き先を教えてくれるから、まだ救いね。アリストももしかしたら、力を持っているのかもしれない。それとも、アディルの心にだけ、つながっているのかもしれない。二人は双子だから。そのあたりのことはわからないけれど、ともかくアリストには、アディルのことが自分のことのように、わかっているみたいなの。だから今回も、行き先をはっきり教えてくれたんだわ」
「そうなの」エミリアは再び頷き、もう一度ベッドに目をやった。
「アリストとアディルは、とても仲良しだよね、たしかに」
 アレンが二人を見つめながら言う。
「あなたとセルスとは、また違って意味でね」
 エマラインは息子に向かって微笑した。
「あたしたちは、何をしたらいいの? 何が出来る?」
 エミリアはしばらく考えるように沈黙したあと、訴えるように母を見た。
「今までどおり、普通に接してあげて。あなたもアレンもセルスも。びくびくする必要はないわ。本当に今までどおりでいいのよ。でも、もし急にアディルがいなくなったら、すぐにわたしに教えて。その時にはアリストの言うことも、よく聞いておいてね」
 エマラインは三人の子供たちを見、その手を順に握った。
「うん……」子供たちはいっせいに頷いた。
「でも、本当にそれで危なくないの?」
 アレンが重ねてそう聞いてくる。
「危ないかもしれないわ。でも、本当に危なければ、パパがきっと知っている。わたしはそう信じるから、あなたたちもパパの魔法の力を信じていれば良いと思うわ」
「パパは、本当に危なければ、わかるのよね?」エミリアが訴えるように聞く。
「ええ」
「その力は、リンツおにいちゃんやシェリーおねえちゃん、ミルトおにいちゃんのように消えたりはしないの? わからなくなることは……」
「それはわからないわ。でも、今は信じるしかないわね」エマラインは首を振った。
「だからあなたたちも信じて、今までどおり学校へ行って、遊んで、アディルやアリストにも、これまでどおり面倒をみたり遊んでやったりしてほしいの。必要以上に心配しすぎないで。お願いね」
「わかった」三人は神妙な面持ちで、頷いていた。
「でも、本当に良かった……」
 エミリアは吐息をつくように言い、ベッドに眠る妹の髪に手を伸ばした。その淡い金髪は少し灯りを落としたライトに照らされ、金色がかった光を放っている。エミリアはその髪を一房とって、すくい上げた。彼女はこの美しい髪に憧憬と感嘆に似た気持ちを持っているようで、よく妹の髪に触れていたのだ。だがこの時、エミリアは指の間からさらさらとこぼれる淡い金色の光の中に、異なる色を見つけたようだ。
「あら……?」
「どうしたの?」
「アディルの髪……少し黒くなってる」
「えっ?」
「ううん、黒じゃないかもしれない。ママ、ちょっと明るくしていい?」
「少しだけね」
 二段階ほどライトを上げて、エマラインも気づいた。頭頂部、両翼の辺りに、いく筋か色の変わっている髪があったのだ。灯りにかざしてみると、それは鮮やかな青い色だった。その色は、娘のまつげや眉の色でもある。生まれた時には薄い茶色だったそれは、三歳の誕生日くらいから徐々に色が変わり始め、今は鮮やかな青い色になっていた。髪もそうなのだろうか。それとも――。
「ショックで色が少し変わったのかもしれないわね」
 エマラインは肩をすくめた。「ほら、大人の人が、大きな心配があると、白髪が増えてしまうことがあるっていうでしょう。アディルは小さいけれど、うちの庭から、いきなり湖に落ちる経験をしてしまったから、そのせいかもしれないわね」
「白くなるんじゃなくて、黒くなるの?」アレンが不思議そうに聞いた。
「アディルは、もともと金髪だから」
「じゃ、金髪の人は、歳をとったら逆に髪が黒くなるの? ママも? ぼくもそうかなぁ」セルスが首を傾げる。
「違うと思うわ。でも、これはたぶんショックのせいよ」
 エマラインは苦笑した。
 その時、眠っていたアディルアがぱっちりと目を開いた。そして少し驚いたように姉兄たちに目を向け、ついで母親を見た。
「あら、明るくなっちゃったから、起きちゃった? ごめんなさいね」
 エマラインは娘の髪をなで、そっと微笑みかけた。
「今日は驚いたでしょう? でももう大丈夫だから、安心してお休みなさい」
「うん……でもねえ、ママ。さっき、夢を見たの」アディルアは小さく言った。
「どんな?」
「水の中にいたの」
「ああ、それは夢じゃなくて……」
「知ってる。本当に水の中に落ちたのは。でもね、それとは違うの。海の中みたいで、もっと深くて、水が青くて……水の中に、ガラスの泡みたいなのがいっぱい浮かんでて、その中に家があったり、庭があったり、お店があったりしたの」
「あらまあ……でも、きっとそれは、昼間のお水の中の印象が強かったせいでしょうね。でも本当に良かったわ。あなたがこうして今いてくれて、お話をしてくれて」
 エマラインは再びせりあがってきた感情に任せて、小さな娘を抱きしめた。


 六月初めの朝、ヘレナはかすかに手が震えるのを意識しながら、新しい薬の封を切った。それは昨日、旧第一都市、今のニュー・ヴィクトリア市の新薬開発部から送られてきた、抗LAS薬の試作品だった。箱の中には、小さなアンプルが十四本入っている。
〔毎朝、一アンプルずつ皮下注射してください。七単位連続投与後、中央病院に検査においでください。途中で異常が起きたら、連絡願います〕
 皮下注射は慣れている。以前、暗黒の世界連邦下で医療プログラマーとして活躍していた時、数限りなく打ってきた。アンプルは、かすかに青く光る透明な液体で満たされている。注射器にセットし、子供部屋へ行って、眠っている息子の腕にアンプルの中身を流し込む。免疫向上薬は、昨日から止めていた。
〔すぐには効かないと思いますので、三日ほどは安静にして、様子を見てください〕
 そんな但し書きも入っていた。
 二日目までは、免疫薬が切れている間の状態と、ほとんど同じだった。しかし三日目には、少し症状が好転したようで、いつもより根気も食欲もあり、昼寝も短くなった。そして一週間後には、薬で免疫を上げている時の状態とほとんど変わらなくなっていた。
「新薬が効いているようですね」
 中央病院の担当医師が、アーサーの血液サンプルの分析結果を見ながら、そう告げた。
「今までの免疫向上薬は必要ないでしょう。中央薬事局からの薬はあと一週間分あるということですから、それがなくなるまで毎日注射してください。それ以降の投薬は、薬事局の指示に従ってください」
「効いているんですか?!」ジャックが叫ぶように問いかける。
「ええ。免疫向上薬はなくとも、赤血球、白血球、血小板とも、ほとんど正常範囲になっています。目立った奇形もありません。新薬が造血細胞を攻撃するファクターを抑えてくれているようですね。これで経過を見ていきましょう」
「それでは……息子は助かるんですか?」
「この抗LAS薬の、過去の投薬例がデータベースに出てきています。千年近く前のデータですが、人間も病理も薬も変わっていないならば、たぶん今も有効でしょう。その資料と同じ経過になるならば、投薬さえ続けていれば、あと四十年は普通の人と同じように生活できるでしょうし、五十年くらいは生きられると思います。お子さんは最初のモデルケースですが、効果があると認められれば、政府は他の希望者にも適用する予定だそうです。そうすれば、もっと詳しい現代のデータも集められるでしょう」
「おお……ありがとうございます」
 ジャックは咽ぶような声を上げた。

「良かったじゃないか、ヘレナ!」
 家に着き、ささやかな夕食を済ませ、アーサーが子供部屋で眠ってしまうと、ジャックは待っていたように声を上げた。
「君はあれだけ苦労して、努力して……でも、それは報われたんだ! 君も躍り上がって喜ぶと思ったんだがな。どうした?! あまりに感激してしまったのか?」
「嬉しいわ、もちろん」へレナは笑顔を見せた。
「アーサーが助かるのよ。少なくとも、大人になって、悔いがなくなるまでは生きられるの。こんな嬉しいことはないわ」
「そうさ! 今日は俺の人生、最良の日だ!」
「あなたは昔、同じことを言ったわね」
「そうか? いつだ?」
「アーサーが出来たとわかった時。そして生まれた時」
「そうだったな」ジャックは笑った。
「いいじゃないか、人生最良の日がいくつあっても」
「異論はないわ」ヘレナは肩をすくめた。
「早速、あいつらにも報告してやろう」
 ジャックは通信機の前に座り、他の五人に向けて状況を打ち出した。まもなく皆から、安堵と祝いの通信が返ってきた。
「仲間はありがたいな。これもみんな、彼らのおかげだ。それと君のがんばりとな」
「ええ……本当にね」
「そうだ。エマラインが言って来たんだが、来週、双子ちゃんの誕生会だそうだ。久しぶりにみんなに会ってみるか? ここのところ誕生会は、ずっとご無沙汰してきたからな」
「ああ、もうそんな時期なのね……」
 ヘレナは一瞬、びくっとしたような表情をした。
「アーサーはみんなに会いたがるぞ。まあ、あそこの家の子たちは、先月二回くらい遊びに来てくれたそうだが」
「あら、知っていたの? あなたは仕事中だったでしょう?」
「アーサーが嬉しそうに話してたんだ」
「そう。そうなのね……」
「行くだろう? 今は外もきれいな季節だ。久しぶりに市外区に行くのも、アーサーには良い気分転換だろう」
「でも、疲れるかもしれないわ。まだ薬の投薬を初めて一週間で、効き始めてきたばかりだし、急にみなが集まるところへ行ったら、精神的に……」
「まあ、それはあるだろうがな。でも来週だったら、そんなに問題はないんじゃないか?それにお医者様も、今は免疫力に心配はないと言っているんだし」
「それは、そうかもしれないけれど……」
「どうしたんだ、ヘレナ」ジャックは少し不思議そうに、妻を見やった。
「アーサーが病気の間は、あまり他の連中に会いたくないという君の気持ちは、わからなくはない。俺も時々思うことがあったからな。余計な心配をかけさせるという以上に、他の元気な子供たちを見るのが辛いというのは、本当にたしかだ。だが今は、アーサーもこうして元気になりつつある。それも半分以上は、アレイルのおかげだ。それにみんな、心から俺たちのことを心配してくれたんだ。今まで応えられなかった分も、元気な姿を見せて、安心させてやるのが筋じゃないのか? 俺はそう思うぞ」
「わかっているわ」へレナの声は、苛立ったように響いた。
「あなたの言うことは、よくわかっているわよ」
「だったら、いいじゃないか……」
「私は……今、エマラインに会うのが怖いの」
「はあ?」ジャックは一瞬あっけに取られた。
「どうしてなんだ? エマラインが何か……? 彼女はずっと心配してくれていたじゃないか。アーサーが元気になったら、喜んでくれるのはわかりきっているはずなのに」
「彼女に私の気持ちを知られてしまうのが、怖いのよ。会ったらきっと、わかってしまうわ」へレナは耐えかねたように、両手で頭を押さえた。
「……何を言っているんだ?」
「あなた……今だから、本当のことを話すわ。今までは言えなかった。あなたはきっと、私のことを、とんでもないと思うかもしれない。ひどい女だと思うかもしれない。でもきっとあなたも、わかってくれるはずだわ。もしあなたが私の立場なら。だって、どうしてアーサーを見殺しに出来て? 私たちの大事な、たった一人の子供を……」
「もちろんだ、もちろんだが……いったい、なんなんだ?」
 ジャックは驚きと当惑の入り混じった顔で、妻を見つめた。
「ウィルスの活性化よ」
「ああ。活性化に成功したんだったな。だから、新薬も出来た。良かったじゃないか」
「その手段が問題だったの」
「どんな手段だったんだ?」
「それを今から話すわ」
 ヘレナは椅子に座りなおし、心持ち青ざめた顔で夫を見た。
「不活性になったKT−エルヴィオンを活性化させる手段、それは特殊なある酵素に出会うこと。それだけなの。そのある酵素は、ある特殊な人にしか存在しない。それも生きている酵素でなければ、だめなの。その特殊な人は普通、生体から細胞を切り離すと、その細胞はアポトーシスを起こして消滅してしまう特徴を持っている。だから活性化させるには、その生体に直接ウィルスを入れるしかないのよ」
「つまり……その誰かにウィルスを感染させるっていうことだな」
 ジャックはしばらく言われた意味を考えているように黙ったあと、頷いた。
「そうなの。その誰かにウィルスを感染させると、ウィルスはしばらく増殖して、十日前後で消滅する。その間にウィルスを抽出できれば、活性化したウィルスが手に入るのよ。そこからの培養は、他の微生物を増やす要領で、簡単に増やせるわ。このウィルスは嫌気性で、空気に触れると数秒で死滅するから、空気感染はしないのだけれど、培養素地の中に抽出したウィルスを入れれば、増えていくの。そのウィルスを空気に触れないよう気をつけながら抽出して、再び培養素地の中でその大腸菌の一種と一緒にさせると、取り付いてその細菌を変成させる事が出来るのよ」
「ああ。まあ、その仕組みはわかったが……人間に感染して、大丈夫なのか?」
「過去の文献では、深刻な影響が出るそうよ」へレナは憔悴した顔で答えた。
「どんな……?」
「それは、その特殊体質と関係があるの。あなた、わからない? エルヴィオンを活性化させる酵素を持つ、ある特殊体質……ぴんと来ない?」
「特殊体質……」ジャックはしばらく訝しげな表情で思いをめぐらせているようだったが、急に思い当たったように、頭を起こした。
「あれか?! まさか、あの……ブルーなんとかという……アレイルたちもリンツたちも、結婚の時警告されたという」
「そう。ブルーブラッド。略称BBと呼ばれる、あの体質なのよ」
「おい……まさか……」
 ジャックの顔も徐々に、心なしか青ざめていくようだった。
「アレイルとエマラインの子供のうち、三人がその特殊体質だったな……」
「ええ……」へレナはうつむいたが、その頬は逆に少し朱を帯びてきた。
「先月、あそこの子供たちが来たのも、そのためか?」
「ええ。私が呼んだのよ。それも、子供たちだけで来てって」
「エマラインが来ると、君の考えていることが、わかってしまうからか?」
「ええ……」
「なんてこった」ジャックは息を吐き出すと、椅子にどさりと寄りかかった。




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