Part 7 of the Sacred Mother's Ring - A Path to the Light

第2章 たどり来た小道(5)




「あなたの言っていた場所はここ? アレイル」
 ヘレナはキーボードを操作しながら、端末のスクリーンを指差した。勤務日の昼休みに三人で話をしてから、一週間がたっていた。この日、アレイルは出勤日ではなかったので、午後からスウィート夫妻に呼ばれて、彼らの自宅を訪ねていたのだ。アーサーは免疫注射と薬が効いている時だったので、彼が退屈しないようにと、登校日ではなかったアレンとセルスが一緒に来ていた。エマラインは一緒ではなかった。あまり大勢での訪問は負担がかかるかもしれないというのと、双子たちからも目が離せない状態だったからだ。アーサーは大喜びでアレンとセルスと遊び、その間に大人たちは、隅に置かれたヘレナの端末の場所に集まっていた。ジャックも夜からの勤務だったので、その場に居合わせていた。
「あれからずっと探したのよ。あなたが言っていたという、アジアとヨーロッパの境の、大きな湖を。該当するものは、四つあったわ。あなたが見たという風景は、そのうちのどれ? 教えてほしいのよ」
「……この場所じゃないな」アレイルはスクリーンを見つめ、首を振った。
「ここは平原の中の湖のようだから。僕が見たのは、もう少し森や山がまわりにあった気がするんだ」
「じゃあ、ここかしら」へレナは別の映像を出した。
「いや……違うと思う。少し風景が違う。水の色や、湖の大きさも」
「じゃあ、ここは?」
「どうだろう……近い気がする。別アングルの写真はないかな?」
「いろいろ出してみるわ」へレナはキーを叩いた。
 スクリーンに現われる何枚かの写真に見入っていたアレイルは、ある一枚が来たところで、手で示して声を上げた。
「あっ、ここだ! たぶん、この近くだ!」
「ここなのね!」へレナは頬を紅潮させ、両手を合わせて、小さく叫んでいた。
「ありがとう、アレイル。場所はわかったわ。これで探せるわ!」
「でも、実際捜しに行くのは、どうするんだい、ヘレナ。PAXに依頼するのかい?」
「そんな、まどろっこしいことは出来ないわ。私が探しに行くつもりよ」
「ええ!」その言葉に、ジャックまでが驚きの声を上げた。
「こんなところまで行くのか? 君が?」
「ええ。そうしなければ」
「一人では危ないぞ。こんな遠くまで。俺も一緒に……」
「あなたが一緒に来たら、アーサーが困るじゃないの」
「だったら、俺がかわりに行って取ってくる。アーサーも君がそばにいてくれた方が安心だろう」
「あなたはサンプルのとり方を知っているの? ジャック」
「いや。だが、やり方を教えてもらえれば出来る。そのくらいは俺がやる」
「お仕事は?」
「休みをとれば良いさ。俺は映像つき無線機を持っていく。君に現地の様子を送るから、君が指示を出してくれれば良い」
「……そうね。それが最善かもしれないわね」
 へレナは唇をきっと引き結んで、頷いた。
「アレイル、もう一つ確認しておきたいの。このそばに洞窟があると言ったわね。地点は今映っているこの場所に近いとして、洞窟はどのあたりにあるの? 向かって右? 左? それとも正面に近い?」
「右手にあった。大きな樹が三本あって、その奥だ」
「ありがとう。もう一つ、その洞窟の中に氷の塊があって、その中にウィルスが保存されているって、あなたは言っていたわね。その氷の塊は、洞窟から入ってすぐにあるの? どこにあるの? 天井? 壁? 床?」
「すぐではないと思う。かなり入ったところだよ。だから灯りを持っていったほうが良いと思う。道は途中で何回か枝分かれしている。最初と二番目は左に、次は右に進む。最後はどっちを進んでも、行き着けると思う。それと帰りに迷わないように、一定間隔で壁に印を書いていった方がいいかもしれないな。そうすると、ちょうどこの部屋くらいの、広い空間に出るんだ。真ん中に大きな自然石の柱が立っている。その柱のくぼみにできた氷の塊の中に、あるはずだ」
「ありがとう! 本当に感謝するわ!」ヘレナは立ち上がった。
「ジャック、それなら早速明日、現地に行ってくれる? 今日中にサンクトバーグ市までの長距離シャトルと宿泊施設の利用を、申請しておくから。直行はないから、ロンドン市経由ね。早ければ、明日の九時には出発できるわ。向こうへ着いたら個人用エアロカーを一台借りて、行ける状態ならその日のうちに、だめなら次の日にトゥルース湖に向かってね。採取キットの中に、正確な座標をメモしたものも入れておくわ。それと、アレイルが言っていた洞窟の中の道順も、書いておくわね」
「明日の朝か?」
「今日はもう無理でしょ? あなたもこれから夜勤だし」
「ああ、わかった。今日出勤したら、明日からしばらく休みを申請してくる」
「夜勤明けで、すぐ出発するのかい?」
 アレイルは少し驚いたように口を挟んだ。
「まあ、移動のシャトルで眠れるだろう。相当遠いところだから、時間がかかるだろうしな。今は非常事態なんだ、我が家は」
 ジャックは苦笑しながらも、きっぱりとした口調だった。
「……理解は出来るよ。でも今は、とりあえず少し休憩しないか? エマラインがクッキーを焼いたんだ。少し持ってってくれってさ」
「ああ、お茶ね。アーサーはお菓子を喜ぶと思うわ」
 ヘレナはチラッとかごを見やった。気乗りしなさそうな口調だ。
「君たちも一緒にお茶にした方が良いよ。お茶は僕がいれるから」
 アレイルは重ねてそう勧め、
「……まあ、そうね。少しだけ。あまり食欲はないけれど」
「悪いな」ジャックは少しすまなそうに、肩をすくめていた。

「ヘレナたちはどうだった?」
 その夜、エマラインは夫にそう問いかけた。
「ああ。明日ジャックがウィルスを取りに行ってくるって言っていたよ」
 アレイルは簡単にそう答えた。だがエマラインはそれ以上の思いを受け取ったようだ。
「ヘレナの気持ちはわかるわ。余裕がなくなっているなって、あなたが感じているのも、無理ないと思う。でも、あなたもそれはわかっているのよね……」
「ああ」
「あなたの不安の正体がなんなのか、はっきりわかれば良いのだけれど。それは……ごめんなさいね、こんなことを聞いて。失敗するかもしれないということ?」
「いや……失敗はしないだろうと思うんだ。ただ、僕が感じている不安と恐ろしさの正体は何なんだろうって、自分でも時々思うんだけれど、まだわからない。僕は……でも、ヘレナのアーサーへの母性の強さに、畏怖を感じているようなんだ。もちろんそれは理解できるし、とても素晴らしいことだと思う。君が子供たちへ感じている気持ちや、シェリーがロリィに感じている気持ちにも、同じものがある。それに感動していると同時に……どこかで恐れている部分もあるんだ。なぜかは、わからないけれど……」
「あなたを薄情だとは思わないから、安心してね」
 エマラインは肩をすくめて微笑んだ。
「でもヘレナが必死になるのは、無理はないと思うわ、本当に。わたしももし彼女の立場だったら、同じようにすると思うの。わたしはヘレナのように頭は良くないけれど、それでも自分に出来るベストを尽くそうと思うわ。子供を守るために。ことにアーサーはジャックとヘレナにとって、たった一人の子供ですものね」
「ああ」アレイルは頷いた。同時に、再びちりっとした寒気が背筋を走るのを感じた。
「何があなたを不安にさせるの?」
 エマラインもその思いを感じ取ったのだろう。気遣わしげに、再び問いかける。
「わからない……ただ、君が言った言葉の何かに、反応したようなんだ。たった一人の子供? 子供を守るために……?」
 予感の波は、来た時と同様に、急速に引いていった。アレイルはため息をついた。
「わからない。でも、もう追求しない方が良いかもしれない。そんな気がするんだ。アーサーが元気になることを願うよ。それだけだ」
「ええ。わたしもそうよ」エマラインは頷いた。
「ただ……」しばらくの沈黙のあと、アレイルは再び口を開いた。
「アーサーはジャックとヘレナにとって、たった一人の子供だけれど、もし彼らに他に子供たちがいたとしても……やっぱりヘレナはアーサーを治すことに全力を注ぐことに、変わりはないだろうな」
「ええ。それは、もちろんそうだと思うわ。子供は何人いても、どの子もみな、親にとっては同じくらい愛おしい、大切な存在だから。親の愛情はあらかじめ大きさが決まっていて、それを子供の数で分け合うのではないと、わたしは信じているわ。一人っ子だろうと、半ダースも子供がいようと、子供一人一人にかける愛情は同じくらい大きいと思えるのよ」
「ああ、そうだね。本当に」

 その時、寝室の扉を小さく叩く音がした。エマラインは立ち上がり、ドアを開けた。外には毛布と枕を抱えたアディルアとアリストルが立っている。
「ねえ、パパ、ママ。一緒に寝ていい?」
 アディルアが両親を見上げ、大きな目を見開いて言う。その娘の瞳の色にかすかな不安の影を見て取ったエマラインは屈みこんで、その頭をなでた。
「どうしたの、アディル?」
「夢を見て、なんだか怖くて、寂しくなったの」
「そうなの? アリストは?」
「アディルがこっち来ちゃうって言うから。ぼく一人じゃ、いやなんだ」
「わかったわ。いらっしゃい」
 エマラインは笑顔になり、二人同時に抱きしめた。二人はベッドに上がり、寝支度を整えた両親の間にもぐりこむと、安心したようにため息をついた。
「どんな夢を見たの、アディル?」
 エマラインは娘の傍らに横たわりながら、その髪をなで、そっと聞いた。
「真っ暗で、お星さまがいっぱいあって……」
 アディルアはそれだけ答えると、小さなあくびをし、まもなく寝入ってしまった。
「夜中に一人で外へ出た夢でも見たのかしら」
 エマラインは小さく苦笑した。
「違うよ」アリストルが言う。でも彼もまた、すぐに眠ってしまったようだ。
 エマラインは少し考え、ついでアレイルに視線を送った。彼は少し肩をすくめた。
「この子たちは、どこかで意志がつながっているみたいだね」
「そうね……」
 エマラインも頷いた。そして傍らで眠っている子供たちの息遣いを聞き、その身体の温もりがもたらす暖かい思いに浸っているうちに、彼女もいつの間にか眠ってしまった。この幸福を、他の人たちもまた感じられるように願いながら。

 ヘレナは送られてきた小さな包みを見やった。それは二週間前、夫がはるばるトゥルース湖から採取してきたウィルスを氷塊ごと真空状態で保存パックに封印し、ニュー・ヴィクトリア市、かつての第二連邦第一都市にある、医学研究科新薬開発部研究室に送付したものだった。新薬開発の申請に関して、ウィルスのサンプルが手に入ったとPAXに通信した時、そこに送るよう指示されたものだった。ヘレナは言われたとおり厳重封印をして、申請番号とメモをつけ、送付した。その包みが、送り返されてきたのだ。
 包みを開くと、彼女が送ったものの上に、簡単なメモが添付されていた。
〔メッセージ175−3205番を参照してください。コードNoは15839です〕
 端末の前に座り、通信ボックスを開いて、メッセージ番号とコードNOを入力すると、PAXからのメッセージがあった。
【このウィルスはたしかにKT−エルヴィオンですが、推定千八百年ほど冷凍保存されていた状態であったためか、解凍しても、完全に不活性でした。抗LAS薬を生み出すためには、ウィルスを活性化させる必要があります。しかし世界連邦各首都にある現行のラボ内にはどこも、活性化できる装置を持っていません。もし抗LAS薬の生産を希望するのでしたら、ウィルス活性化の手段を講じて、活性化したものを封印して送付ください。活性化の方法については、RAYのデータベースで検索できます】
「活性化……?」
 へレナは呟いた。たしかに納得できることではある。抗LAS薬は、KT−エルヴィオンが取り付くことによってのっとられ、変成された大腸菌の一種が、いくつかのたんぱく質や酵素を吸収して作り出すものなのだから、ウィルスが活性化していなければ意味はないだろう。
 検索の結果、やはり一度不活性になったウィルスは、どんな細菌にも取り付かないことがわかった。他の生物の身体に入れても、反応しない。ただ――ヘレナの目が見開かれた。彼女は必要とする情報を手に入れた。だが、さらに深く検索していくにつれ、絶望感に似た気持ちが広がっていくのを感じた。こんなことが――果たして自分にできるのだろうか。本当に――?

 夕方、勤務から帰ってきたジャックは、暗くなってきた部屋に、まだ灯りもつけず、端末の前でうなだれている妻を見つけた。
「どうしたんだ、ヘレナ?」
 その声にヘレナは振り返り、夫を力なく見やった。
「ウィルスが返されてきたわ。凍結状態が長くて、完全に不活性になっているから、薬は作れないって」
 その言葉にジャックはしばらく絶句した。やがて、搾り出すように言葉を継ぐ。
「それじゃあ……無駄ってわけなのか?」
「活性化させなければね」
「向こうでその……活性化は出来ないのか?」
「ラボで? 無理のようよ。PAXがそう言ってきているわ」
「そうなのか。それなら……」
 言葉をのんだジャックの顔が、青ざめていく。
「方法は……あるようなのよ。でも、それが難しいの。とても……」
「方法は、あるのか?!」
「でも、難しいのよ、本当に」
 そういうヘレナの顔は、苦悩に染まっていた。
「どんな方法なんだ。そんなに難しいのか? でも、可能ならやってみなくては。アーサーのためだ」
「わかっているわ。でも、その方法は今、あなたには言えない。たぶん、理解できないと思うから……それに……」
「……そうだな。俺は頭がたいして良くないから、難しいことを聞いても、理解は出来ないな。だが、出来る限りの協力はするぞ」
「ありがとう。そういう意味じゃないのよ。あなたのことは、いつも頼りにしているわ、ジャック。でも私は……怖いのよ。あなたは優しいから……」
「どういう意味だ?」
 その時、子供部屋からコール音が響いた。アーサーは今、薬が効いていない時期で、この間は家にじっとしていなければならない。この日は朝九時ごろに起きてきて朝食をとり、ブロック遊びを始めたが一時間ほどで根気がなくなって中断し、そのあとはお昼までソファに寝転んで子供用プログラムを見ていた。そして昼食を食べ終わると、「眠くなった」と、子供部屋に引き上げていたのだ。免疫向上薬の効いていない十日間は、いつもこんな調子だった。その間は食欲もなくなるようで、普段の半分ほどしか食べず、いつもだるそうにしている。スウィート夫妻は子供部屋にカメラを取り付け、リビングから子供の様子を見られるようにした。そして用があるけれど、リビングまで来るのが辛い時にはすぐに知らせられるようにと、子供部屋からのコールラインも取り付けていたのだ。
 ジャックとヘレナが子供部屋に入ると、アーサーが少し赤い顔で、ベッドの上から二人を見た。
「おかあさん、おとうさん……暑くて、のどが渇いたんだ。お水、ほしい」
「今、持ってくるわね。ジャック、悪いけれど、お水を汲んできて」
 ヘレナは息子に駆け寄り、その額に触れた。熱があるようだ。用心はしているものの、この期間は熱を出してしまうことが時々ある。たぶんジャックが、どんなに気をつけていても外から感染源を持ち込んでくるのだろうが、息子のことを心配しきっている夫に、この十日間息子に一切近づくなとは言えないだろう。簡易消毒設備を家のどこかに取り付けなければ――。
 ヘレナはため息をつき、再び息子が眠ってしまうと、病院を手配した。免疫向上薬が切れている間の発熱は、早く医学的な手当てを施さないと、危険になるのだ。
 アーサーを病院に預け、戻ってくるウォーカーの中で、ジャックはため息をついて口を開いた。
「またか……この期間は、二回に一回はこうなるな。俺の……せいかな」
「あなたのせいとは言わないけれど……バスルームのそばにでも、滅菌シャワー室を作ってもらったほうが良いかも知れないわ。少し費用も時間もかかるけれど」
「外から帰ったら服を着替えて、シャワーを浴びているんだが、それでもだめなのか?」
「かなり功は奏しているようだけれど、完全に無菌にというのは難しいわね。それを言ったら、私もそうだし。期間中、外へは出ないけれど、でも完全に感染源を排除するのは難しいのよ。それこそアーサーの部屋自体を無菌室にして、その間はそこから出さないようにしない限り。でも、それもかわいそうだわ」
「そうだな……」
 そのあと、長い間沈黙が続いた。アーサーは再び、これから三日間入院することになる。その間意識がなく、眠っているとはいえ、その間に時間は無為に過ぎる。そして楽しいはずの子供時代の三分の一を、完全に活力を奪われた状態で過ごさなければならない我が子――しかもその期間は、来月からは半分になる。病気が進行してきたので、免疫注射と薬も十五日しか持たなくなるだろうと、医者が告げていたのだ。さらにこのまま病気が進行していけば、半年先には有効期間は十日から一週間になり、最後の三ヶ月はほぼ免疫向上薬も効かないまま、寝たきりになる。最後の一ヶ月は苦痛緩和のために、ずっと眠っていなければならなくなり、そして――。
「……難しいことだけれど、やってみるわ……」
 へレナは小さくそう呟いた。
 ジャックは少し驚いたように妻を見やったが、やがて意味がわかったようだった。
「ウィルスの活性化か?」
「ええ……」
「そうか。がんばってくれ。俺も出来る限り協力する」
「ありがとう……」
 それがどういうことになるのか、その意味を知っても、夫はそう言ってくれるだろうか――そんな思いが、ヘレナの胸にわいてきた。今、すべてを話して相談するべきか――いや、夫はきっと動転するだろう。反対はしないと思うが、しかし、その確証はない。
 息子の青ざめた顔が、脳裏に大きく映し出されてきた。子供を救うため。そして、同じ病気の他の人たちを救うため――いや、あとの方は大義名分としての言い訳に過ぎない。彼女は同じ病気の他の人たちのことを、それほど大きく考えているわけではない。我が子のことしか。でも、たしかにそれも、貴重なことに違いない。他にも同じ苦しみを持つ人たちを救うことが出来るというのは――。


 五月の終わりの、晴れた日だった。市外区にあるローゼンスタイナー家の花壇も、色とりどりの花が咲き始めていた。五人の子供たちは、それぞれ自分の小さな花壇を持ち、好みの花を植えていた。エミリアの花壇はピンク色のかわいい花が中心で、アレンとセルスはともにひまわり畑だったので、花盛りは夏で、今のところはにょきにょきと延びた緑色の葉っぱと茎だけだ。アリストルはハーブを中心に植え、アディルアはスイートピーやチューリップ、マーガレットとカスミ草を植えていた。エマラインは中央の丸い花壇にバラやゼラニウムを育て、時々咲いた花を切っては、部屋の中に飾っていた。
 その日は登校日ではなかったので、子供たち全員で庭の水撒きをしていた。それぞれに小さなじょうろを持ち、自分の花壇に水をやっていく。そして花を見て、虫がついていないか、病気になっていないかをチェックした。
「今はまだ大丈夫ね。でもそろそろ防虫スプレーをかけておいたほうがいいわ」
 エマラインは蕾をもってきたバラの木を眺め、小さく頭を振った。
「じゃあ、持って来るね」
 アレンとセルスが玄関に戻っていく。
「あたし、リンゴの木を植えたいなぁ。花はきれいだし、あとで実も食べられるもの」
 エミリアは自分の花壇を見ながら言い、
「植えられないことは、ないんじゃないかしら。まあ、実がなるまでには何年かかかるでしょうし、大きくなってしまうと、ちょっと狭いでしょうけれどね」と、エマラインは微笑んで答えた。
「でもそうしたら、今植えてあるお花、どうなっちゃうの?」
 アディルアがちょっと心配そうに、姉の花壇を眺めた。そこには桜草やガーベラ、スイートピー、カーネーションなどが植えてあり、花の咲いているものも、蕾のものもあった。
「植えるとしても、来年ね。その頃にはこのお花たち、枯れちゃうから」
 エミリアが妹の頭を軽くなでながら、答えている。
「まだ元気なのがあったら、わたしの花壇にくれる?」
「いいわよ。アディルの花壇とあたしのは、同じお花も多いからね」
「わあ、よかった! ありがとう、お姉ちゃん」
「防虫スプレー、持って来たよ」
 アレンとセルスが母に、手に持ったものを差し出した。
「ああ、ありがとうね」
 エマラインは受け取り、目を姉妹から、目の前の花壇に移した。アレンとセルスはアリストルのところへ行って、三人で何か始めているようだった。背後で「あっ、蜂がいる!」というアディルアの声が聞こえ、「刺されるから、触っちゃだめよ。見てるだけね」という、エミリアの少し心配そうな声もした。
 二本目のバラに防虫スプレーを噴霧し終えた頃、突然エミリアの叫び声が聞こえた。
「どうしたの?」エマラインは娘を振り返った。
 エミリアは花壇の前に立ち、驚いたように目を見開いて、母親を見た。
「アディルが消えちゃった!!」
「ええ!?」
 エマラインはスプレーを取り落とした。男の子三人も走りよってくる。
「そこにいたのよ! さっきまでそこにいたの! 桜草にミツバチが止まって、蜜を吸っているのを見てたのよ。でも、不意に『あっ』って声を上げて、立ち上がって、両手を上げたと思ったら……」エミリアは言葉を止め、母親を見、そして首を振った。
「どうなっちゃっているの……? アディル、どこへ行ったの? 本当に消えたの?」
 アリストルが花壇の前に走りよってきた。そして空をにらみ、言う。
「また一人で行っちゃった。今度はぼくもつれてってって、言ったのに……」
 上の子供たち三人は、不思議そうにお互いに顔を見合わせている。その表情には驚きと心配と不安がない交ぜになっていた。
 エマラインはかろうじて、混乱した心を立て直した。そして、一年半前のことを思い出した。あれからかなり時間がたって、その間何もなかったから、安心しかけていたのに。本当にアレイルの言ったとおり、油断は禁物だったのだ。でも、もしあの時と同じ状況なら――エマラインは末息子の前に屈みこみ、聞いた。
「アリスト、あなたなら、アディルがどこへ行ったか、わかる?」
「うん」
「教えて。それとも、あの子ここに一人で帰ってこられる?」
「たぶん、無理」
「そう。それなら迎えに行かなければならないわ。あの時のように。教えて。どこ?」
「すごく遠いよ」アリストルは首を振り、南の方を指差した。
「ここからうんと先の……湖の上。でも浮いてられないから、中に落ちちゃったと思う」
「なんですって?!」
 エマラインは自分の声が悲鳴になるのを感じた。考えるまもなく家に飛び込み、アレイルの仕事部屋に飛び込んだ。彼は在宅勤務日だったのだ。エマラインはうわずった声で、事の次第を告げた。
「探しに行かなくては!」
 アレイルは妻から報告を聞くや否や、立ち上がった。
「エアロカーを使おう。アリストは連れて行かないと」
「大丈夫なのかしら!!」
 エマラインは全身から血の気が引くのを感じながら、部屋を歩き回った。
「力のコントロールが効かないって……あなたは言っていたわよね。本当に……ああ、なぜうっかりしていたのかしら。ここのところ、たしかに気が緩んでいたんだわ……どうしましょう。出た先が、水の上……なんてこと……もちろん、そのまま落ちてしまうわよね……そんなことになってしまったら……」
「とりあえず、落ち着こう、エマ」アレイルは妻の肩を軽く叩いた。
「今出来ることの最善を尽くそう。アリストに道案内をしてもらって、アディルが行った先に行くしかない。そして、あの娘の無事を祈るしかない。でも、僕はそんなに危険な感じはしなかったんだ。もしあの娘に何かあるなら、もう少し感じただろうけれど……」
「ああ、それなら、とてもいいんだけれど……」エマラインは落ち着こうと努め、大きく息をつきながら言った。しかし震えは止められなかった。
 一家は一年ほど前に、自家用エアロカーを購入したばかりだった。かなり高額だったので、解放者として付与された特別手当はほとんどなくなってしまったが、一家の行動範囲を広げてくれる恩寵は、お金には換えがたかった。そして今、新たにその買い物に感謝することになった。
 エミリアたち上の三人は一緒に行きたがったが、もしアディルアが自分で戻ってこられた時に誰もいないと困るからと、家にいるよう言い聞かせた。そしてミルトに状況を連絡し、一緒にいて、子供たちの力になってくれるよう頼んだ。ミルトもその日は登校日でなかったので、快く駆けつけてくれた。
「ごめん、ミルト。でも、ありがとう。よろしく頼んだよ」
 アレイルは出発前にそう声をかけ、
「大丈夫。無事に見つかるといいね」
 ミルトは心配げな顔で、答えていた。エミリアもミルトが来てくれたことでいくぶん落ち着いたのか、二人の弟を回りに呼び寄せている。
「行ってらっしゃい。パパ、ママ。絶対、無事に帰ってきてね。アディルを連れて」
「大丈夫だよ。じゃ、頼んだからね」
 アレイルは妻と末息子を乗せて、自家用エアロカーを発進させた。エマラインは相変わらず青い顔で、両手を組み合わせ、無言で座っている。二人の真ん中に座ったアリストルは、南の方を指差した。
「パパ、こっち」
「わかった。方向はおまえが指示してくれ、アリスト」
「うん」




BACK    NEXT    Index    Novel Top