Part 7 of the Sacred Mother's Ring - A Path to the Light

第2章 たどり来た小道(4)




 季節は再び巡った。秋から冬へ、そして春から夏へと。再び秋が巡り来て、その短い秋の日々も、冬の装いの中に移り変わろうとしていた。その間に子供たちはまた少しずつ大きくなり、穏やかな日常の中に日々は流れていった。昨年の秋、プレイガーデンを止めるのを非常に残念がったアリストルとアディルアの双子も、今は四歳半になり、家にいる生活に慣れているようだった。彼らはどんな環境でも、飽きることはないように見えた。兄姉たちと遊ぶ時も、お互いで遊ぶ時も、またシェリーの家を訪ねて、赤ん坊のロリィの相手をしている時も、一人で何かに没頭している時も、いつも満足し、楽しそうに見えた。エマラインは時おり一緒に遊んだり、本を読んでやったりしながら、いつも二人に目を注いでいた。この一年二ヶ月の間、しかし彼女を驚かせるような事件は何も起こらなかった。不意に目の前からいなくなることもなかったし、かつてのミルトのように手の届かないところにあるものを見えない力で引き寄せたりすることもなく、未来を言い当てたり、人の気持ちを言い当てたり、遠くの見えないものについて何か言ったりすることもなかった。
「偶然だったのかもしれないわね。あの時のことは」
 その冬初めての雪が舞い降りた晩、エマラインは夫に向かって言った。
「偶然だとは思わないな」だがアレイルはかすかに苦笑して、首を振っていた。
「アディルアは空間移動能力なんて持っていなくて、たまたま一人で君に見つからず、無事川を渡りきって、あそこまで行った、とはどうしても思えないから。一年以上もの間、何もなかったからといって、油断は出来ないと思うよ」
「なかなか厳しいわね、あなたは」エマラインは肩をすくめた。
「厳しいことは言いたくないんだけれどね。今まで……世界連邦が解放されてから十五年間、本当に穏やかに過ごしてきたから。みんなが幸福で。でも……」
 アレイルは窓辺に歩み寄り、半分ほど開けると、空を見上げた。
「これから何かが動き出す……そんな気がするんだ」
 その言葉に、エマラインも寒さが身体を駆け抜けるのを感じた。それは入ってきた外気のせいばかりでもなかった。夫の言葉の意味はわからないが、その奥にある畏怖の念にも似た恐れを、共感したからだ。

 都市の内部では一定以上に気温が下がると、透明なドームが閉じる。ここグリーンズデイル市では、冬の外気温は零度以下に下がることも珍しくないので、十二月から二月までは、ほとんど終日閉じたドーム内で、適度に調整された気温になっていた。一般家庭の空調は外気温より十度ほど高めに設定されていたが、スウィート家ではさらに二度ほど高めにしていた。冬の乾いた空気も、都市内では適度に加湿されるが、ジャックとヘレナはさらに、小型家庭用加湿器も用意している。
 リビングのソファで、ジャックは放送プログラムを見ていた。彼はスポーツ番組がお気に入りで、スポーツのルールを解説するもの、ゲームのようにシミュレーションをするもの、そして仕事の傍らのアトラクションとしての競技会などを良く見ていたし、彼自身も時々参加していた。ヘレナはリビングの隅に置いた、彼女用端末の画面に見入っている。アーサーは肘掛け椅子に座り、テーブルの上で子供用組み立てブロックを積み上げていた。それは様々な色合いの、プラスティックで出来た小さなスティックで、お互い組み合うようになっていて、それで好きな形が作れるのだ。アーサーは今、それでビルを作ろうと夢中になっていた。七歳になる彼は、四歳の時の誕生祝いにローゼンスタイナー夫妻から贈られたこの玩具が大好きで、今でもよく遊んでいたのだ。赤いウールの上衣に濃いグレーのズボン、黒い髪の毛を少し長めに切りそろえた少年は、普段は青白い肌だが、この時には少し上気して見えた。
 二一時を知らせるチャイムの音に、ヘレナは顔を上げた。いつもこの時間に鳴るように、時計を設定していたのだ。彼女は息子を見、声をかけた。
「もう寝る時間よ、アーサー」
「もうちょっとだけ、だめ?」
 アーサーは名残惜しそうに目の前の作品を見、次いで母親に視線を移した。
「もうお休みの時間だからね。続きは明日、おやりなさい。明日は学校がない日でしょう? 学課を済ませたら、やると良いわ」
「じゃあ、それまでこのままにしておいてくれる?」
「良いわよ」
「じゃあ、ぼく寝るね」
 アーサーは手に持っていたブロックを箱にしまい、作りかけの作品を満足げに眺めたあと、椅子から降りた。そして母親が見守る中、寝支度を整えると、子供部屋に入っていった。ヘレナは息子が眠ってしまうまでそばについていてやってから、リビングに戻った。
「今度は何を作ろうとしているんだ、うちの坊主は?」
 ジャックが顔を上げ、テーブルに置かれた息子の作品を眺めながら、笑った。
「市庁舎ビルを作るんですって」
 へレナは端末の前に置かれた椅子に腰掛けながら答えた。
「ほう。そういえば円形だな。まだ七歳で、あの根気と造詣は、たいしたもんだ」
「ええ。本当にね」
 へレナは作品をいとおしげに見つめてから、再びディスプレイに視線を落とした。
「相変わらず君は、RAYのデータベース探索に勤しんでいるのかい?」
 ジャックがからかうような口調で声をかけ、
「あなたのスポーツセンター通いと一緒でね。もうこれは私たちの性みたいなものね」
 ヘレナは肩をすくめていた。

 翌日も、いつもの日常と同じように始まった。六時三十分に起床し、家族三人の朝食を準備し、その日は週三回の洗濯日だったので、衣類洗浄器に洗濯物と洗剤を入れてセットした。夜間勤務日の前後以外、ジャックは六時五十分に起きてきて、アーサーは七時十五分頃起きてくる。でもその日、息子は時間になっても起きてこなかった。七時二十分を過ぎると、ヘレナは子供部屋に行った。アーサーは五歳くらいから自分でアラームをセットして、決まった時間に起きてくる。その時間に来ない時には、体調不良のサインだった。また熱を出したか、気分が悪いのか、どちらかだろう。一ヶ月に一、二回くらいはそういう事態が起きていたので、ヘレナは心配しながらも、半ば諦め、もう少しこの回数が減ってくれたらと半ば祈る気持ちだった。
 子供部屋に入ってみると、ベッドとドアの間の床の上に、アーサーがパジャマのまま、うつ伏せになって倒れていた。ヘレナは悲鳴を上げ、息子に駆け寄って抱き起こした。
「どうしたの、アーサー! しっかりしてちょうだい!」
 ヘレナは動転しながらも、かつての医療班プログラマーだった頃の自分を思い起こそうとした。脈を測り、心臓の鼓動を確かめ、額に触れる。熱が出ているようだ。それも、かなり高い。三九度以上出ているかもしれない。呼吸はさほど乱れていない。脈は速い。でもこの発熱なら、無理からぬことだ。不整脈は見られない――。
 そうしているうちに、アーサーが目を開けた。明るいはしばみ色の瞳は、潤んで見えた。
「おかあさん。ぼく、起きようとしたら……くらくらしたの」
「ええ、ええ。熱があるのよ。大丈夫。ベッドに寝ていなさい。今冷却枕を取ってくるわ」
 ヘレナは息子を抱きかかえてベッドに寝かせ、冷蔵庫に常備してあった冷却枕とシートを持ってきた。枕をあてがい、冷却シートを額に張る。そして改めて体温を測った。
「三九.二℃ね。また風邪をひいたのかも知れないわ。学校でもらってきたのでしょうね。もう冬の間は登校を免除してもらって、家で勉強した方が良いのかもしれないわ」
「ぼくは、学校行きたいよ」
 アーサーは頭をめぐらせて、抗議した。
「そう。どうして?」
「お友達がいるんだ。ビリー・テンプルズっていうんだよ」
「そうなの? それなら、今度うちに連れていらっしゃいな」
「うん。今度遊ぶ約束して良い?」
「良いわよ。歓迎するわ」
「よかったぁ」アーサーはほっとしたように息をついた。
「ぼくね、子供の中では、セルスとアレンおにいちゃんの次に、ビリーがすきなんだよ」
「そうなの。良かったわね」
「ぼくも、街のお外に住みたいなあ。学校が違うし、冬は街から出られないから、おにいちゃんたちに会えないし」
「もっと丈夫にならなければ、無理ね」
「おかあさん、いつもそう言う。だからせめて、ビリーに会いたいんだ」
「わかった。わかったわ。冬の間も学校へ行って良いわよ。元気になったらね」
「よかったぁ」アーサーはもう一度、ほっとしたように言った。
「ねえ、おかあさん。今日はブロック遊び、出来ないよね。ぼくが元気になるまで、そのままにしておいてよ」
「大丈夫よ。そのままにしておいてあげるから」
「よかったぁ」
「あなた、それで三度目ね」
 へレナは息子と目を見合わせて微笑んだ。
 
 日中は、熱は下がらないながらも、比較的アーサーは元気そうだった。しかし夜になって、さらに熱が上昇し、あまりしゃべりたがらずに、うとうと眠りがちになった息子に、ヘレナの危機感は募った。母親としての本能から、またかつて医療班プログラマーだった経験と知識からも、このまま自宅療養していては、息子が危険になるかもしれないと感じられた。夫は仕事が終わったあと、週三回スポーツセンターに通っているが、今日もそうだった。彼女は夫の携帯通信機に連絡し、ついで市の医療センターに救急診療を要請した。医療センターからのエアロカーが迎えに来ると、ヘレナは息子を毛布に包んで病院に運び込んだ。しばらくのちにはジャックも連絡を受けて、病院に駆けつけてきた。
「肺炎を起こしていましたね。でも、もう大丈夫ですよ」
 担当の医師が、スウィート夫妻にそう告げた。
「危ないところだったな。君がついていてくれて、本当に良かったよ、ヘレナ」
 ジャックは病院の椅子に座り込みながら、ほっと大きなため息をついていた。
「肺炎ですか……たしかに症状はそうだわ。でも……症状が急すぎないですか? あの子は昨日までは元気だったんです。昨夜眠ったあと、様子を見た時も普通でした」
 ヘレナは青ざめながらも、少し納得がいかなかった。
「そうですね……本当に昨日は元気でしたか?」
「ええ。息子は生まれた時から、あまり丈夫でなくて、よく風邪はひいたんですけれど、肺炎まで進行したことはないんです。喘息気味で夜中に時々咳き込んだりするし、あまり呼吸器は丈夫でないような気はしますが、でも普通風邪の炎症から肺炎になるまでには、もう少し時間がかかるのではないでしょうか。よほど抵抗力が落ちていなければ……」
「ご心配でしたら、息子さんの治療と平行して、メディカルチェックをしてみましょうか」
 医師はしばらく考えるように黙った後そう告げ、
「お願いします」スウィート夫妻は少し頭を下げた。
 その後、夫妻は病院をあとにした。医師はアーサーの治療に三日ほどの入院を見込み、その間は深く眠らされるので、夫妻がこれ以上息子にしてやれることはなかったからだ。しかし毎日、二人は病院に通って息子の様子を見守った。治療と平行して様々な検査も行われているようだったが、夫妻が病院にいる時には、アーサーはいつも点滴パックを腕につけて、眠っているだけだった。

 三日目の午後、担当医師が二人を呼んだ。
「明日の朝には治療が完了します。お子さんは、もう熱もほぼ下がっていますし、脈拍、心拍共に安定しています。朝には元気に目が覚めるでしょう」
「ありがとうございます」夫妻は身をかがめ、礼を述べた。
「ただ、ですね……お子さんのメディカルチェックの結果ですが……残念ですが、お子さんはLASという病気にかかっているようです」
「LAS……ですか?」
「ええ。正式には、ラヴァル・オースティン症候群、略してLASですが、発見者二人の名をとってそう呼ばれるようになった、自己免疫疾患病の一つです。この病気は四十代以降に発症することが多いのですが、稀に若年での発症もあるようです。自己免疫疾患ゆえ、何が引き金になるのか、その原因はまだ解明されていません」
「それは、どういう病気なのですか?」ジャックが詰まったような声で聞いた。
「症状は白血病に酷似します。造血細胞を壊すので、赤血球、白血球、血小板が減少します。特に白血球がやられやすい特徴があります。しかし悪性新生物の一種である白血病と、自己免疫疾患病のLASは病気のメカニズムが違います。白血病の特効薬は五年前から再生産されるようになりましたが、LASの特効薬はまだ作られていません」
「それでは……ということは……」
「そうですね。特効薬が開発されなければ、厳しい状態でしょうね。免疫力が極端に下がりますので、普通人の数倍風邪を引きやすいでしょうし、風邪を引いたらすぐに今回のように、肺炎に進行してしまうでしょう。ただ、薬で普通の人並みに免疫力を上げることは出来ます。二十日ほどしか効果は持続しませんが。しかも継続すると効果が出なくなりますので、十日ほどお休みして、また次に投薬、というサイクルをとることになります。つまり一ヶ月のうち二十日ほどは薬で免疫力が上げられるので、その間は外出が可能です。学校にも通えるでしょう。でも十日間は注意が必要です」
「そうですか……」
「ただ、それだけではすまないのが、LASの難しいところです。この疾患は進行性です。お子さんは小さい頃から風邪を引きやすかった、ということは、免疫力が弱かった可能性がありますので、生まれつき発病しやすい素因があったのかも知れません。十歳に満たない子供の発症例は非常に稀だが、起こる場合には先天性の原因が強くある、という記述が、昔のデータベースにありました。ですからたぶん、お子さんの場合もそうなのでしょう。それが何なのかは、わかりませんが。若年期の発病は成長期なだけに、進行が早いそうです。自己免疫によって破壊されるのが造血細胞のみなら、とりあえず免疫力を上げる先ほどの薬と輸血によって、なんとか生きていくことが可能ですが、やがて全身に広がっていくと、もう手の施しようがありません」
「それなら……それだったら、息子は……」
 ジャックの声は、詰まったようにかすれていた。
「余命は、二年ほどというところでしょうか」
 その言葉を聞いたとたん、ヘレナはいきなり気を失って倒れた。ジャックも唇まで真っ青になり、全身が震えている。
「そんなこと……そんなことって、あるのか?! 許されるのか!!」
 ジャックは妻を抱きかかえながら、吐き出すように叫んだ。
「残念なお知らせで、まことにお気の毒に思います」
 医師はいくぶん心を動かされたように視線を泳がせたあと、夫妻を再び見た。
「明日お子さんが目を覚ます前に、最初の免疫注射をしましょう。その後、お渡しする錠剤を毎朝一日一粒ずつ、二十日間連続で飲んでください。これでその間は、学校に通えます。ですから明日、ひとまず退院してけっこうですよ」

 その夜、夫妻は無言で自室のリビングに座っていた。丸いテーブルの上には、子供用ブロックのビルディングが、アーサーが作りかけていたまま置いてある。ヘレナは戻ってきてから、声を上げて泣き始めた。ジャックは何度も自分の太ももを拳で叩き、搾り出すように間歇的に叫んだ。
「くそったれ! ありえない! そんなことは嘘だ!!」
 そうして時間だけが過ぎていった。
 二一時のチャイムが鳴った。いつもアーサーの就寝時間を知らせるためにセットしていたものだ。ヘレナははっとして頭を上げた。再び感情の波に襲われ、泣こうとしたが、もはや涙は出てこなかった。その代わり、別の強い思いが湧きあがってきた。
「理不尽よ。なぜ、うちの子だけなの? 他の子たちは元気なのに! あの子は私たちの、たった一人の子供よ。かけがえのない宝物なのよ。なのに、どうして! どうして、こんなことになってしまうの? 私たちが何か、悪いことをしたの?!」
「俺も……同じ思いだ。否定はしない」ジャックは妻の手を握り締めた。
「明日には、アーサーが退院する。だが、俺はあいつの顔を見たら泣いてしまいそうだ」
「あの子が変に思うわ。だから、それはやめてちょうだい」
 ヘレナは頭を上げ、きっと前をにらんでから、首を振った。
「あの子には、自分が病気だということを、知らせなければならないわ。一か月に一度の注射と、二十日間薬を毎日飲まなくてはならなくて、残りの十日は家にいなければならないことを納得させるために。でもそれ以外は、何も言ってはだめよ。いえ、きっと治るって、言わなければ」
「それは……そうだが、だがそんな嘘をつくのは、辛いな。いや、そうしなければならないのは、わかっているんだが……」
「嘘にしなければ良いんだわ!」
 へレナはこみ上げる激情にかられて、立ち上がった。
「そうよ。嘘にしなければ良いのよ。あの子の病気を治すの!」
「どうやってだ? 医者は治らないと……」
「特効薬がないって言っただけでしょう」
「なければ治らないだろう?」
「作れば良いのよ」
「無茶言うな。いくら君が元医療班プログラマーだからっていっても……」
「そのために、RAYのデータベースがあるのよ。ラヴァル・オースティン症候群、通称LASなんて、上級職時代には聞いたことがなかったわ。もともとどんな病気にも積極的な治療はされなかった時代だから、病気も代表的なものだけ知っていれば十分だったのよ。悪性新生物、自己免疫病、細菌性疾患、そしてウィルス性疾患、この四つの大まかなくくりで。簡単な投薬や、休養だけで治る患者以外は、ただ病院のベッドに寝かされ、催眠剤を投与されて、弱って死んでいくのを待っているだけだったわ。でも今は違う。治療してもらえるのよ。薬さえあれば。実際、白血病の特効薬は五年前から再生産が開始されたと、あの医師が言っていたでしょう。この十五年間で、いくつもの病気の特効薬が、生産を再開しているのよ。その中に、まだLASが入っていないだけかもしれないわ。私はこの病気を知らなかった。でも今は、医療関係者に認知されている。ということは世界連邦が改悪されるまでは、医療関係者の間では知られている病気だったということではないかしら」
「そう……かもしれないな。だが、それが……?」
「わからない? もしRAYのデータベースに、LASの特効薬が存在したことが確認できたら、それの生産を再開してもらえば良いのよ。私たちには、その要請が出来るわ。解放者IDで」
「おう……そうだな」ジャックの顔に、希望の色がさした。が、再び影が落ちる。
「だが、もし存在しなかったら……?」
「調べてみなければ、わからないわ。それに仮に特効薬がなかったとしても、手がかりはあるはずよ。発病のメカニズムや、研究データがあるはずだわ。他に類似の自己免疫疾患病のデータも、参考になるはずよ。それから私が……作ってみせるわ、絶対に」
 ヘレナの普段は穏やかな茶色の瞳は、今は熱に取りつかれたような光を放っていた。
「あの子は絶対に死なせはしない。そんなことは許さないわ」
「そうだな。奪われてたまるもんか!」ジャックも熱を帯びた口調で、同意した。
「俺に出来ることなら、何でも言ってくれ。何でもするぞ」
「それなら、洗濯と掃除と食事の後片付けを、お願いできる? 食事もこれからは、調理済みのものを、ずっと頼むことにするわ。良いでしょう? 時間が惜しいのよ。それに研究だけでなく、アーサーにも寂しい思いはさせたくないし」
「もちろんだ。そんなことはなんでもない! それに君が忙しい時には、俺が相手をしてやれる。スポーツセンターに通うのも、やめだ。今は我が家の一大事だからな」
「ありがとう」ヘレナは静かな中に激しい感情をこめて、夫を見た。

 それから半年が過ぎ、再び春が巡りきた。アーサーも初めの頃は、月に十日間はずっと家にいなければならないことに戸惑っていたようだが、徐々に自らが病気であり、そうしなければならないということを、受け入れるようになっていた。そしてその間はブロック遊びをしたり、子供用番組を見たり、絵本を見たりして時間を過ごしていた。免疫が切れる十日間は薬の反動か、しばしば眠くなるようでもあった。ヘレナはほぼ一日中、端末に向かっていることが多かったが、息子にせがまれると作業を中断し、満足するまで相手をしてやった。未来の息子を救うのはもちろん最大級に重要なことだが、今現在の息子をおろそかにしては、本末転倒だと思えたからだ。
 ジャックにとっても、苦しい半年が過ぎた。結婚以来の日課となっていた週三回のスポーツセンター通いを止め、全面的に妻の研究と息子の看病のサポートをしながら、仕事をこなした。軽勤務体制も願えば認められただろうが、妻はそこまで望まなかったし、彼にとっても仕事は、重苦しい日常からの救いに思える部分もあったのだ。

 四月終わりのある日、ジャックは中央行政区内にある食堂で、アレイルとリンツに会った。昼食休憩の時で、同じ日に出勤になっている他の二人に、たまには一緒に昼食をとろうと連絡をしていたからだ。スウィート夫妻はアーサーが病気になってから、他の二家族と会う機会がなくなっていた。病気のことは知らせてあったので、みな心配して連絡し、それぞれで手伝いを申し出てくれていたのだが、ジャックとヘレナは謝絶していた。会いに来るという申し出も、口実を作って断っていた。忙しいからというのが主な理由だが、それ以上に彼らの元気な子供たちを見るのは辛いだろうという、予感の故だ。だが完全にその付き合いを断ってしまうのはためらわれたため、せめて男たちだけで話をしようと。
「ヘレナはともかく今、LASの特効薬を見つけるのに、すべてをかけているんだ」
 ジャックは食堂で、すまなそうな口調で、アレイルとリンツに告げた。
「うん。それはわかるよ。何か僕らにも手伝えることがあったら良いんだけれど」
 アレイルは熱意を込めて頷き、
「で、その特効薬って、昔はあったのか?」
 リンツは単刀直入に聞いていた。
「完全なる特効薬は、なかったということだった」
 ジャックは首を振った。「ただし、進行を劇的に抑える薬はあったらしい。LASは十歳以下での発病の場合は、早くて一年半、遅くても二年半くらいでその……だめになるらしいが、この薬を使えば、五十年くらいはもつということだった」
「そうか。五十年持てば、まあまあじゃないか。こう言っちゃなんだが、まあ……二年より、ずっとましだろ」リンツがほっとしたように言う。
「ああ、俺もそう思う。少なくとも、五十年持たせることが出来ればな。ヘレナも特効薬が見つからないなら、それでも良いと言っていた。その間に特効薬が開発できればそうしたいし、そうでない場合でも、普通の人と変わらずに、今から四十年は過ごせるんだ。それから十年くらいは、免疫補強薬だのなんだのが、少しずつ必要になってくるが」
「特効薬が見つかれば、それが最善だね」アレイルは頷いて言う。
「それは俺も同感だ。進行を遅らせるだけでは、完全な治療にはならない。いずれ煩わしいことになるからな。だがそれでも今は、贅沢は言えない」
「そうだね。それでその薬、生産要請は出したのかい?」
「二月の末に出したよ。だが、困難だという回答だった」
「どうして?」
「材料が一つ足りないらしい。薬を作り出すための。今は手に入らないとPAXに言われたんだ」ジャックは苦渋に満ちた表情だった。
「今は手に入らない材料って、あるのか?」リンツが怪訝そうな顔で問いかける。
「……それは、有機物なんだね」
 アレイルは一瞬考えるように黙ったあと、言った。
「そうだ。材料から薬を生み出すための触媒に、一種の変形ウィルスを使っていたようなんだ。だが今は、そのウィルスは保存されていないそうだ」
「ウィルスって……ばい菌の小さい奴だろ?」リンツが聞く。
「そうか。保存されていない変形ウィルスだと……たしかにね。仮に存在しているにしても、探すのも抽出するのも、難しいだろうね」アレイルは頷いた。
「そうなると、特効薬を作り出すしかないんだが……LASと似た自己免疫疾患病に、COSというのがあるらしい。ヘレナの話では、まあ、これも発見者の名前を取った、なんとかシンドロームの略なんだそうだが、好んで攻撃する場所が違うだけで、本当にこの二つの疾患は経過やメカニズムが似ているそうなんだ。これの特効薬は、昔、世界連邦がソーンフィールドにのっとられる前には、存在したらしい。ヘレナもそれを知った時には、これを基にして特効薬が出来るかもと期待を持ったと言っていた。だが……それは万人向けの特効薬じゃなかったらしい」
「というと?」
「体質によっては、効かないんだ。それどころか、進行を早めてしまうらしい。それで、ヘレナは詳しく調べた。その結果わかったことは、アーサーもその効かない体質に入ってしまうらしいということだった」
「そりゃまた! 運が悪いなぁ!」リンツが声を上げ、そして口を押さえた。
「わりぃ……悪気はないんだ、ごめん」
「良いさ。おまえさんが心配してくれているのは、わかっているよ」
 ジャックは寂しげな笑みを浮かべた。
「それは……PXLがらみだね。PXLSがプラスで、でも父方と母方、どちらかしか因子がない場合。PXLSは優性遺伝だから、それでもプラスにはなるんだけれど……そしてPの比率が、三五パーセント以上四七パーセント以下の場合……効かない。それ以外は大丈夫だけれど……」アレイルはしばらく沈黙した後、静かに言った。
 ジャックは一瞬驚いたように目を開いた。
「ああ。そうなんだ。アーサーはSが母方のみプラスで、P比率が三六だった。おまえさんも、調べてくれたのか?」
「ああ。LASに関しては、一通り当たってみたよ。進行を抑える薬があることも。その作り方までは、見ていなかったけれど。でもCOSや、特効薬が効かない体質については……今、知ったんだ。そう……Pがこの比率で、Sが片側だけプラスの体質は、危険なんだ。およそ十パーセントの確率でLASやCOSなどの免疫疾患病が発生し、そしてCOSの特効薬は効かない。だから規定出生が主流だった昔には、その危険性のある夫婦には、この条件にならないよう、受精卵を選別していた。アーサーも生殖センター経由の出生だから、遺伝子選別はできたはずだ。でも……そう、試みたけれど、それはどれも成功しなかったんだね。受精しないか、着床しなかった。ナーサリーで育つ政府の上級職は、DNAチェックを経て、新たな上級職を生み出すために使われる人――提供者も代理母もだけれど――その人たち以外は強い放射線を生殖器に照射されるから、不妊になりやすい。もともとその意図での処置だし……だから二人とも、健康な卵子や精子が、いろいろな薬やホルモン剤を使っても、なかなかうまく育たない。ごめん……そんなプライベートなことまで言ってしまって。それで生殖センターの係員が、この組み合わせになって失敗だから廃棄しようとしていた受精卵を、最後に戻したんだ。これが本当に、最後の希望だって言って……それが、たまたま着床に成功して、アーサーが生まれた。でも、その時点では、彼らにもそれがどういう風に危険なのか、わかっていなかった。世界連邦が改悪される前の知識は、今の半分くらいしか戻っていない頃だったから。そう……それに、四十世紀の音楽家ジェレミー・ローリングスや、その母親シンシアが亡くなったのも、彼らがその比率で、そしてCOSにかかったから……彼らの場合は人生の後半生で、COSには進行遅延薬はないから……特効薬があったから。一部には効かないけれど……逆にLASは特効薬が出来なくて、進行遅延薬が開発された。それは万人に効く薬だから、COSの特効薬が効かない人にも、有効なんだ。」
 ジャックはやにわに身を乗り出し、アレイルの両腕をつかんだ。
「……力が降りてきたんだな!」
 彼は詰まるような声を出しながら、懇願するように言葉を継いだ。
「頼む! もし見えない知識がおまえさんの中に降りてきたのなら、教えてくれ! アーサーにも効くLASの特効薬は作れるのか?! それが無理なら、せめて、KT−エルヴィオンは今存在するのか? 存在するならどこに?! 教えてくれ、頼む!!」
「ジャックのおっさん、気持ちはわかるけど……落ち着けよ。アレイルの力も今は天任せなんだから、そう言われても困るだろうぜ。それにKなんとかって、なんだよ?」
 リンツが慌てたように間に入っている。
「KT−エルヴィオンは、あの薬の足りない材料なんだ。変形ウィルスの名前だ。アレイルの力が今は天任せなのは、俺も知ってる。だが一昨年、言ったよな。おまえさんのところの双子ちゃんの誕生会の時に、アーサーの未来を見てくれと俺が言った時、おまえは危険なものは感じなかったと、そう言っただろう。おまえの予言は外れないはずだ。それとも……俺たちを気遣って、嘘を言ったのか?」
「嘘じゃない。あの時にはたしかに、はっきりした危険は感じなかったんだ」
 アレイルは捕まれた腕の痛みにかすかに顔をしかめながらも、相手を見返した。ジャックは少し我に返ったように手を離し、「すまん」と詫びた後、一瞬押し黙り、搾り出すように言葉を続けた。
「俺も、かなり参っているようだ。袋小路に入ったような気分なんだ。家に帰って、アーサーの顔を見るのが辛い。ことに薬がきいていない間は、本当に生気なく見えるんだ。救ってやりたいんだよ。どんなことをしても……」
 ジャックはこらえきれなくなったように、片手で顔を覆った。その目からは涙がにじみ出ていた。
「ジャック……」
 アレイルはしばらく沈黙したあと、手を伸ばして相手の肩に触れた。
「僕には……アーサーが十歳前に……亡くなってしまうようには感じられないんだ。あの時も今も。もし僕に降りてくる知識を信じるなら、あの子が大人になったヴィジョンが、今見えてきているよ。今の僕と同じ、都市デザイン局で働いていて、結婚して、家庭を築いている……」
「本当か?」ジャックは顔を上げた。
「都市デザイン局か……たしかに適職だろうなあ。あいつはブロックで建物を組むのが、好きなんだ」そして寂しげな笑い声をもらした。
「それが本当なら、あいつは治るんだな。少なくとも……進行は遅らせられるんだ。本当だったら、良いな……」
「おれはアレイルのヴィジョンを信じるぜ。それで十五年前の、あの修羅場を潜り抜けてきたんだもんな」リンツがきっぱりした口調で言った。
「湖が見えた……」アレイルは視線を中空に泳がせながら、言葉を継いだ。
「アジア連邦とヨーロッパとの境にある、大きな湖。その畔に……洞窟がある。そこは氷穴になっていて……その氷の中、KTが閉じ込められている。世界でここだけ……」
 ヴィジョンはそこで途切れ、強い衝撃のような力が降ってきた。アレイルは一瞬びくっと大きく身体を震わせ、現実に戻った。同時に、もう一つの知識が降りてきた。彼は言葉を続けた。
「COSの特効薬もLASの進行遅延薬も、どちらもバイオ変成で作られるもので、化学合成は出来ないから……その二つが作られて、他ができなかったのは、偶然その薬を作ってくれる変成ウィルスを作れたから……他の二つの薬を生み出してくれる有機媒体は見つからなかったし、合成も出来なかった。だから存在しないし、今も作ることが出来ない。でも……LASの特効薬は今から二百年後に、作成されるだろう。偶然その変成ウィルスが発見されて……ただ、今は無理だ。あと二百年たたないと、有効な突然変異が起きない。それはKT−エルヴィオンウィルスが二百年培養され続けて起こる、突然変異だから。この場合は、万人に効く特効薬になる。でも……あと二百年かかる」
「そうか……それでは特効薬は、どのみち無理なんだな、今は」
 ジャックは深い吐息をついた。そして長いこと沈黙したあと、鼻をすすった。
「感謝するぜ。おまえさんの中の、いや、外なのか……力に。必要な時に降りてきてくれて。ありがたいよ」
 そうしてまたしばらく黙った後、顔を上げ、口調を変えて続けた。
「すまなかったな。せっかく久々に、一緒に昼飯を食ってるってのに。いやな思いもさせちまったな」
「いや、大丈夫だよ、本当に。こうして会えてよかった。気になっていたんだ」
 アレイルは微かに笑い、
「そうだよ。気にすんなって。おれらも心配してんだからさ」リンツも頷いていた。
 昼食休憩が終わり、三人はそれぞれの仕事場に帰っていった。
 仕事場に続く通路を歩きながら、アレイルは背筋にちりちりとした感覚が走るのを感じていた。それは、かつてジャックに『アーサーの未来を見てくれ』と言われた時に感じた感覚に似ていた。それは明確な危険警報ではなかったが、遠くからの警告のようにも感じられた。彼の中に降りてくる知識には、明らかにアーサーの死はない。あの子は病気に倒れたが、その病気では死なないだろうと、その知識は告げていた。先に見たヴィジョンのように、かなりの年月を幸福に生きるだろうと。それなら、ただ温かい波動だけが感じられるはずなのだが、このかすかな寒気の正体はなんだろう。しかしその問いに、“知識”からの答えはなかった。




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