Part 7 of the Sacred Mother's Ring - A Path to the Light

第1章 朝の輝き(6)




 五月、春の訪れとともにグリーンズデイル市は暖かい陽ざしに包まれ、市外地域は草原の緑と花々の色で鮮やかに染まっていた。例年なら最も美しい季節である五月六月には、よく市外地区に出かけていた。しかし今年は、五月の初めの頃に一度行けただけだ。エマラインは日に日に募る疲労感と頭痛に悩まされ、なかなかベッドから起き上がれない日が多くなった。五月後半の検診で、彼女は妊娠中毒の恐れがあり、できるだけ安静にしているようにと言い渡された。
「双胎であることも影響しているのでしょうが、母体に負担となって来ているようです。場合によっては、早産になっても、赤ちゃんを外に出した方が良いと思いますね」
 医師は事務的な口調で説明していた。世界連邦が解放されて十年半がたった今でも、まだ完全には、人々の心は変わってはいないのだろう。それでもエミリアの頃よりは、まだましになったが――そう思いながらも、エマラインは心が沈むのを感じた。
 上の三人の子たちの時には、妊娠過程において、ほとんど問題は起きなかった。妊娠初期には、胸のむかつきや疲れやすさなどのつわり症状を感じたが、妊娠四ヶ月の後半になる頃には、軽くなっていったものだ。週数が進むに連れて、お腹は大きくなっていき、疲れやすさが増したり、動作が緩慢になったりはしたが、それでも家事は普通にこなすことが出来たし、外出も出来た。エミリアもアレンもセルスも、ほぼ予定日の前十日くらいで産まれている。しかし今回は双子というせいもあるのだろうか、つわりも今まで以上に辛く、長引いた。やっと収まった時には、もう妊娠五ヶ月になっていた。そのあとは、後期特有の動きにくさや疲労感がとってかわった。
 今、エマラインは妊娠八ヶ月になっていた。現代医学では、このくらいで生まれても、赤ちゃんに重大な欠陥がなければ、人工保育器で育てることは可能だ。しかし機械の助けなしに生きていかれるまで胎内で育ててやれないかもと思うと、やはりすまないような気がした。
「でも、今は君の身体の方が大事だからね」
 家に帰り、アレイルに検診結果を報告すると、彼は首を振って言った。
「それに、大丈夫。まだ大丈夫だよ」
 赤ん坊たちは早く生まれても、なんとか生きていける。それに今すぐ生まれるわけではない――夫はそう言おうとしているのだと、エマラインは即座に感じた。
「いつごろ生まれることになると思う?」彼女は聞いてみた。
「知ったほうがいい?」
「そうね……出来たら。不安だから」
「不安には思わなくて、大丈夫だよ」
 アレイルは手を伸ばし、エマラインの肩を抱いた。
「本当に?」
「ああ。君なら確かめられるだろう?」
「そう……ね」エマラインは安心したように頷いた。
「その子たちは……来月の十四日に生まれるだろうね。自然に」
「予定は七月の末なのよ。一ヵ月半も早くなるのね」
「ああ。でも双子だし、君の身体にも負担がかかっているのはたしかだろうし、仕方がないだろうね。それと……これは君がちゃんと養生した場合のことだよ。医師に言われたように、出来るだけベッドに横になっていて、食べるものにもちゃんと気をつけたなら、そうなるという未来に過ぎないんだ。もし君が無理をしたら……」
「ああ、それ以上言わないで! ちゃんと言いつけは守るわ!」
 エマラインは思わず声を上げた。彼女はそのあとに続く夫の予言がよからぬものであることを瞬時に察知し、すくみあがったのだった。
「医師の診断をもらったし、僕は来週からしばらくの間、軽勤務に変えてもらうよ。そうすれば家の仕事ももっと出来る」
「ごめんなさいね」
「そんなことは当然だよ。君が気にすることはないさ。エミリアもかなりがんばって手伝ってくれているしね」
「ありがとう……」
 軽勤務体制とは、通常勤務の六〇%から七五%の勤務量に移行することで、家族の病気や育児補助などの理由があれば、申請することが出来る。最初の二ヶ月は従来どおりの給与が、残りの期間はその減った勤務量の分だけ減額されて、支給される。アレイルは七〇%勤務三ヶ月の申請を出し、受理されたので、それに伴い八月半ばまで、出勤日は週二日になった。夕食はエマラインのつわりが始まってからは、家で調理をせず、すでに出来上がった料理を届けてもらっており、昼食もあまり外出できなくなってからは、同じく届けてもらっていた。しなければならない家事はそう多くなかったが、アレンとセルスには、まだ手がかかる。アレイルの出勤日とエミリアの登校日が重なってしまった時には、シェリーが手伝いに来てくれた。彼女は服飾デザイン専門コースを終え、衣料供給局デザイン科に配属されていたが、結婚して間もないので、すべて在宅勤務の軽勤務シフトになっていたのだ。

 六月初めのある日も、シェリーはやってきた。エミリアは学校へ出かけたあとで、アレイルもアレンとセルスを連れて出勤していた。軽勤務体制によって、通常より一時間遅れで勤務を開始するので、途中で息子たちをプレイガーデンに預けてから、中央庁舎に行くことが出来たのだ。
「お迎えは十一時四五分なのね。あたしが迎えに行くわね」
 シェリーは窓際にあるピンクのゼラニウムの鉢植えに水をやりながら、快活に言った。
「いつもありがとう、シェリー」
 エマラインはリビングのソファに横たわり、感謝のまなざしを向けた。ほとんど何も出来ないのがじれったくもあったが、今は生まれてくる赤ん坊たちのために、じっとしていなければならない。でも、できるだけ家族のそばにいたいという彼女の思いゆえ、しばしば自室のベッドではなしに、リビングのソファに、クッションを枕にして横たわっていたのだ。そこでは愛する家族の姿を声だけでなく目で追うことが出来るし、子供たちも負担にならない程度に、母に擦り寄ることが可能だったからだ。
「気にしないで」シェリーは首を振り、笑った。彼女は部屋をざっと片付け、洗濯物をウォッシャーから取り出してたたみ、それぞれの部屋に置いた後、エマラインの寝ているソファの床、敷物の上に座った。
「今日の気分はどう、おねえちゃん」
「だいぶ良いわ。ありがとう」
 エマラインは微笑んだ。シェリーは二一歳の今も、エマラインのことをおねえちゃんと呼び、アレイルをおにいちゃんと呼ぶ。彼女にとって、そしてミルトにとっても、自分たちが彼らの失われた家族の代わりとなっていることを、エマラインは以前から悟っていた。自分たちにとっても、シェリーやミルトは、そしてリンツも含めて、妹や弟となっていることも。アレイルにとっては、彼らは失われた兄や妹の代わりなのだろう。でも自分は――不思議なものだ。血はつながっていない(数十代も遡れば、どこかで先祖を共有しているのかもしれないが)三人が、血を分けた兄エドワードより親密な姉妹となりえていることが。それは幸福なことだと、思わずにもいられなかった。
「双子って、大変なのね」
 シェリーは首をかしげ、無邪気な様子で言った。
「そうね。生まれてからも赤ちゃんが二人だから、きっと大変だと思うわ」
 エマラインはくすっと笑った。「でもヘレナが先週来てくれた時、話していたんだけれど、双子が当たり前だった時代もあるんですって。三二、三世紀から四一世紀くらいまでは……ほら、もともと世界にはとても人が少なかったから、人を増やすことが至上命令だった時代にはね、障害を排除するために受精卵を選別して、二、三個いっぺんにお腹に入れたそうよ。それもかなりの確率で着床するように操作したから、その影響で双子出生が五〇パーセントを越えた時代もあったらしいわ」
「それだと、二回に一回が双子? まあ、本当に珍しくはないわね」
 シェリーは驚いたような表情になった。そうしてしばらく黙ったあと、言葉を継ぐ。
「ヘレナといえばね、そう、一か月くらい前に話した時、言っていたのよ。ほら、リンツとあたしとでは、特殊体質の子供が出来る可能性があるって言われてたじゃない。だから、もし本当に心配なら、生殖センターに相談して、受精卵を選別してもらえば、リスクはなくなるって」
「わたしも、それは言われたわ。今年の初めごろに。今さら仕方がないけれど、って前置きして。ヘレナは心からの親切で、言ってくれているのよ。特殊体質であって障害ではないと言っても、やっぱりいろいろ問題があることには、変わりないんですもの。でも……そうね、もし致死性の病気が発生する、というのであれば、きっとアレイルもわたしも真剣に考えたわ。でも今のところはまだ、自然にゆだねていたいと思ったの。認識が甘いのかもしれないけれど」
「そう。でも、あたしもそう思ったのよ。それで、リンツと言ったの。とりあえずは自然に任せてみるって。それにね、あたし、あと一年か二年くらいは今のまま三人でいたいの。お仕事も始めたばかりだし」
「そうね。子供って手がかかるから。でもその分、喜びも大きいのよ」
「わかってるわ。だからね、リンツと、うちは三人くらい欲しいなって話してるの。でも、今じゃなくてね」
「あなたも、まだまだ若いんですものね、シェリー」
 エマラインは少し眩しいような気持ちを感じながら、目の前の娘を見た。金色の髪を高い位置で束ね、上着とおそろいのローズピンクのリボンで縛って、その頬はかすかに上気し、青い目は輝いている。その足取りは軽く、弾むようだった。
「ああ、身体が思うように動かなくて、少しもどかしいわ」
 エマラインは思わず小さな吐息をついた。
「あともう少しの辛抱でしょ、おねえちゃん」
 シェリーがいたずらっぽい表情を浮かべ、そう慰める。
「そうね。アレイルの見通しでは、あと一週間くらいよ」
「おにいちゃんがついてると、頼もしいわよね。だいたいどのくらいで生まれて、どうなるかがわかるんですもの」
「そうね。今回なんかは、特にそう思ったわ。こんなにひどい妊娠中毒になって、早産の危険があるのだから、何の見通しもなかったら、きっとひどく心配したに違いないわ。でもアレイルが大丈夫だって言ってくれたから、安心して養生できているのだし」
「あたしもおにいちゃんに聞いてみたいなって、時々思うの。これから先どうなるのか……ああ、まあ、おにいちゃんも、それほど先の未来は明確には見通せないでしょうけれど、漠然とした形でも、わかったりするんでしょう? その子たちの場合もそうだし」
「ええ。でも二週間より先の未来を見ることは、アレイルにとっても、自分の力ではコントロールできないみたいよ。それにね、彼もよく言っているけれど、未来を見ることは、いいこともあるけれど悪いこともある。先に何が待っているかわからないから面白いという側面も人生にはあるのだから、先のことをあれこれ夢みたり、時には心配したりするのも、人生のスパイスみたいなものだって。だから完全には未来が見通せなくてよかったなって、以前言っていたわ。予言者マリアのように完全に見えていると、結果的に不幸にならざる得ないような、そんな気もしてしまうって。わたしも、わかるような気がするの」
「ええ、それはあたしもわかるわ」シェリーは頷き、言葉を継いだ。
「でもね、時には便利なこともあるわよね。今のおねえちゃんみたいに」
「そうね。それは否定しないわ」エマラインはくすっと笑った。

 それから一週間あまり後、六月十三日の夕方近くになって、エマラインは陣痛に見舞われた。アレイルはこのことを予見していたので、前日からリンツとシェリー、ミルトに応援を要請し、彼らはその日の午後から、ローゼンスタイナー家に滞在していた。彼らに三人の子供たちを預けて、アレイルは妻を病院に運び込んだ。陣痛は最初強かったが、二時間ほどで一端弱まり、日付が変わる頃、再び強まった。そして夜中の二時過ぎに、男の子が生まれた。一八〇〇gの小さな赤ん坊だったが元気で、身体を清められたあと、保育器に入れられた。もう一人の女の子の方は位置が難しかったために手間取り、途中で心拍が落ちたために帝王切開も検討されたほどだったが、三時半過ぎにやっと生まれた。そして小さな兄と並んで保育器に入れられた。こっちの子の方は一五〇〇g弱しか体重がなく、本当に小さく感じた。
 苦闘を終えたエマラインは、ほっと大きな息をついた。出産時の苦痛を和らげる術は広く普及していたが、彼女はエミリアの時から今まで、我が子を生み出す痛みを緩和する処置を拒んでいた。すべての痛みを自分で受け止め、子供が生まれた時の瞬間を全身で感じたかったのだ。苦痛緩和されると、それほど鮮やかには感じられないだろうと、彼女の意識が教えていた。彼女は、すべての結果に満足していた。エミリアの時も、アレンの時も、セルスの時も。どの赤ん坊もみな、二三〇〇から二六〇〇くらいの体重しかなかったが、生まれ落ちた瞬間に大きな声で泣き、心からの安心と感動を与えてくれた。今度の赤ん坊たちは今までにまして小さかったが、ともに上げた声は、彼女を安心させてくれるものだった。
 医師が彼女の腕に催眠注射を打った。産後の回復のために、これからしばらく深い眠りに入る。急速に遠のく意識を感じながら、エマラインは深い満足感に包まれていた。そして二日後に対面する我が子に、早く会いたいという切望をも。
 
 次に目覚めた時には、アレイルが枕元にいた。その傍らに目を輝かせた三人の子供たち、エミリア、アレン、セルスがいる。エマラインが目を開けると、三人は口々に「ママ、ママ!」と叫びながら飛びついてきた。彼女は子供たちを抱きしめながら、夫に目をやった。
「目が覚めたね。大変だったね、ご苦労さま」
 アレイルは手を伸ばして、妻の髪をなでた。
「ええ。今回はちょっときつかったわ、二人分だけに」
 エマラインは笑顔で答えた。
「それで、赤ちゃんたちは? まだ保育器なのかしら?」
「ああ。でも、管にはつながれていないよ。二人とも小さいながら自分で呼吸できるし、スポイトからなら、自分で飲めるみたいだから。ただちょっと普通の赤ん坊より未熟だから、保育器の保護はまだいるんだけれど。午後には君も会えるよ」
「あたしたち、もう会ってきたのよ!」エミリアが目を輝かせた。
「本当にちっちゃいのね。アレンやセルスが赤ちゃんのときより、ちっちゃいの」
「ぼく、うまれたてのあかちゃん はじめてみた」
 セルスは目をくりくりさせて言い、
「ぼくも!」と、アレンが声を上げる。
「あらぁ、あんたはセルスのとき見てるじゃない」姉にそう言われると、
「でも、覚えてないもん」と、返していた。
「そうね。アレンはセルスが生れた時、まだ二歳だったものね。覚えてなくても不思議はないわ」エマラインは息子たちの頭をそっとなでた。
「セルスも、もうお兄ちゃんね。みんな、赤ちゃんたちをかわいがってあげてね」
「うん!」子供たちはいっせいに頷く。
「あたし、妹欲しかったから嬉しいな。あ、もちろん弟もかわいがるわよ」
 エミリアがそう付け加えた。

 その日の午後、エマラインは新たな我が子たちに対面できた。保育器の中ではあるが、他の新生児たちのように白いベビー服を着せられ、小さな手を握りしめて眠っていた。二人とも、産毛のような髪がもう生えている。男の子の方は薄い栗色で、女の子の方は淡い金色のようだった。エマラインが涙をにじませながら見つめていると、二人とも目を覚ましたようで、ぽっと目を開き、母親の方をじっと見ているようだった。男の子の目は父親譲りの緑で、女の子の方は夏の空の色のような、明るい青だ。
「ごめんなさいね……」
 エマラインは新生児室の透明な仕切り越しに、そっと呟いた。
「すぐにあなたたちを抱いて上げられなくて。早く抱っこしたいわ……」
「もう少し大きくなったら、すぐに抱けるよ」
 アレイルがそっと肩に手を置いて、答えた。エマラインはここまで電動車椅子で来ていて、アレイルはその後ろにずっとついていたのだ。その手の上から自分の手を重ねながら、エマラインは「ええ……」と頷いた。
「ねえ、赤ちゃんたちの名前、なんていうの?」
 エミリアがそう聞いてきた。
「そうねえ……」
 エマラインは首をかしげた。子供たちの名前はすべて、命名プログラムに頼らずに自分たちで考えてきた。今回も、男女一人ずつとわかってから、幾度となくいろいろな名前を考えてきたが、実際に二人を目の前にしてみると、考えてきた名前はどれも合っていないように思えた。
「男の子と女の子だから、一人ずつ名前をつけようか」アレイルがそう提案し、
「そうね」エマラインも頷く。
「じゃ、パパが男の子でママが女の子って言うのは当たり前だから、逆にね、パパが女の子でママが男の子の名前をつけて」エミリアがそう言いだした。
「難しい注文だな、それは」アレイルが苦笑した。
「じゃ、君からつけてくれ、エマライン。息子の方をね」
「本当に難しいわね」
 エマラインもかすかに笑いを浮かべ、しばらく黙った。いくつかの名前を思案した後、ふと心に落ちてきたものを拾い上げる。
「アリストル……」
「僕は……」アレイルはしばらく沈黙し、思いを巡らせているようだったが、同じように心に落ちてきた名前を、口に出したようだった。
「アディルア」
「アリストルとアディルア? わあ、なんだか変わった名前。でも素敵ね」
 エミリアが声を上げた。
「でも、言いにくい」アレンが抗議し、セルスも頷く。
「じゃ、アリストとアディルと呼んだらいい」アレイルがそう提案し、
「それでも呼びにくいけど、まあ、いいや」と、アレンは頷いた。

 新しく生まれた双子は一週間後には母の胸から飲むことを覚え、保育器を出た。そして生まれて十日後に退院し、両親に一人ずつ抱かれて家に帰った。家にはシェリーとミルトが子守のために来てくれていて、ともに新しい家族を歓待した。主寝室の隅にベビーベッドが置かれ、一歳になるまで双子たちはここで、両親と同じ部屋で眠る。本来は二台欲しかったのだが、並べておくスペースがないので、少し大きめのベビーベッドに二人を並べて寝かせることにしていた。
 赤ん坊たちより五日ほど早く退院したエマラインも、まだ身体は回復していないため、お茶を済ませた後、ベッドに横になった。すぐ手を伸ばせば届くところに置かれた小さなベッドから、かすかな寝息が聞こえてくる。居間からは子供たちと夫、それにシンクレア姉弟の楽しそうな声が聞こえる。
 エマラインは幸福感に包まれ、片肘をついて赤ん坊たちの寝顔を見守った。二人とも、本当に可愛らしい赤ん坊だった。上の三人も可愛らしい顔立ちだったが、この子たちの場合は次元が違うと思えるほどに。頬にかぶさるような長いまつげやきれいに通った鼻筋、形の良い口元、芸術的とも言えるほどの輪郭を、エマラインは飽くことなく眺めた。やがて軽い疲労感を感じ、彼女はベッドに横たわった。その間も注意は赤ん坊たちから離れなかった。きちんと心地よくしているかどうか、オムツは濡れていないか、おなかは空いていないか、その微細な変化に耳を澄ませ、心をすませて。この子たちがもう少し大きくなったら、この家は今までにまして、にぎやかになるだろう。幸福さも増していくだろう。その思いに、彼女は暖かく浸っていった。

 六月終わりの、ある日のこと、ミルトは学校にいた。かなり気温が上がって暑い日だったが、ドームを閉ざすほどでもない、そんな汗ばむ初夏の日で、教室の開け放した窓から入ってくる風が心地よかった。お昼ごろ、職員室に行くために一人で廊下を歩いていると、一級下の少年が一人、ダスターシュートの溝の隙間に屈みこんでいた。
「どうしたの?」ミルトは声をかけた。
「ああ……あの、カードがこの中に落ちて……手が入れられないので、取れないんです」
「どれ?」
 ミルトは隙間から中を覗き込んだ。たしかに狭く、手は入らない。奥の方に、学校用のIDカードらしきものが落ちているのが見えた。これだったら動かせる――いつもやってきたように。ミルトは見えない力で、カードを動かそうとした。いつもなら、すぐに入り口まで移動させることが出来、たやすく手で拾えた。一年ほど前にも、上級生がここにカードを落とした時、拾ったことがある。
 でもこの時、カードはびくとも動かなかった。ミルトは驚き、何度も試してみた。しかし、動かない。数分後、彼は諦め、後ろから覗いている少年を振り返った。
「だめだ、取れないや。僕はこれから用があって職員室へ行くから、一緒に行こう。そこで話をして、吸引機で出してもらった方が良いね」
 そうして少年とともに職員室に向かい、無事カードは持ち主の元に帰った。しかしミルトは不思議な思いで、家に帰るとさっそく実験してみた。テーブルの上のコップが動くか――動かなかった。離れたところから手を使わずに、キャビネットを開けようとした。しかし開かなかった。ミルトは唖然とし、ソファを浮かせようとした。しかし、以前はまるで見えない糸で操っているように、手を触れずとも思いのままに動かせたものが、その糸が切れたように、頑固にそのままの位置に留まっている。小さな古いボールを流しの中に入れ、それを壊そうとした。しかし、振動一つ起きない。そうして一時間ほどさまざまなことを試した後、ミルトは悟った。力が失われた――と。
 ミルトは姉の仕事が終わるのを待って、そのことを告げた。シェリーは驚き、弟の力がなくなったことを確認すると、自分の力を試してみようとした。自らの指を傷つけ、治そうとした。しかし、傷はうずくばかりで治せなかった。ミルトにボールを投げてもらって、それを見えないバリアで跳ね返そうとした。しかしボールはそのまま、彼女のところに飛んできて、胸にあたった。もう一度やっても、同じ結果だ。シェリーは自らの力も去ったことを知り、夕方帰ってきた夫にそのことを告げた。リンツは二人の力がなくなったことを見たあと、自分の力を試そうとした。しかし、彼の力もまた失われていた。もはや空間は彼の思い通りにはならず、頑としてその存在を主張し、消えうせることはなかった。普通の人のようにしか移動できない。そのことを悟ると、リンツはシェリーとミルトを見つめた。三人はともに、自分の中の何かが失われてしまったという喪失感を感じているようだった。が、やがてリンツが自嘲気味に口を開いた。
「まあ、まあ……良いんじゃないか。なくなったものは、仕方がないさ。これでやっとおれたちも、普通になれたわけだからさ」
「そうね」
 シェリーは言い、ミルトも無言で頷いた。受け入れるしかないのだろうと思いながら。突然来た力なのだから、突然去っていっても不思議はない。しかしずっと留まってくれると思っていたから、いや、生まれた時からずっと持っていたような気にもなっていたので、衝撃は隠せない。しかし今は、力はなくとも普通に暮らしていけるのだ。
「ま、あの世界連邦解放戦の真っ最中に力が消えなくて、良かったと思うぜ」
 リンツの言葉に、二人は苦笑して頷いていた。

「リンツたち三人の特殊能力がなくなったらしい」
 通信チェックをしていたアレイルが、振り向いて妻に告げた。もう上の子供たちは眠ったあとで、エマラインは双子たちに授乳をしていた。まだあまり二人とも飲む量が多くないので、人工ミルクは今のところ使っていない。最初にアリストルに飲ませ、げっぷをさせてから寝かせると、今度はアディルアを抱き上げ、反対の乳房に含ませる。
「あら、そうなの?」
 突然の知らせにエマラインはアディルアを抱いたまま、顔を上げた。
「ああ。今日わかったらしいよ」
「あら……でも、どうしてなのかしら。急に?」
「急に、らしいね。でも考えてみれば突然降ってきたような力だから、いつかは去っても不思議はないのかもって、シェリーが書いて来ているんだけれど」
「まあ、それはそうなんでしょうけれど、三人いっぺんに? 不思議ね」
「三人じゃないよ」アレイルは椅子を回し、妻に向き直った。
「僕も力を失った。ただリンツたちと違って、全部じゃないけれど。自分で意識しては、空間を飛べなくなったんだ」
「あら! 本当に?」エマラインは思わず声を上げた。
「ああ。時間軸だけは追えるけれど……前後一週間くらいなら。でも、それだけだ」
「いつそれがわかったの?」
「五日前だよ。仕事場から君たちの様子を見ようとして……見られなかったんだ」
「そう……」エマラインは頷き、アディルアの授乳を終えると、その小さな背中を軽くさすり、しばらく後、再びベッドに寝かせた。
「それなら……わたしの力も、失われてはいないかしら」
「君は確かめてみたことはない?」
「ええ。やってみるわ」
 エマラインは試してみた。そして知った。力は失われていない。でも格段に弱くなっている。ことにサイコメトリー能力――物に触れてその持ち主の思いや歴史を知る力は、完全にといっていいほど、消えうせていた。テレパシー能力の方は、ごく近い範囲でなら使える。しかし二メートルも距離が離れると、どんな思いも感じることは出来なくなってしまっていた。少なくとも、普通の人が感じ取れる程度以上には。
「わたしも普通に近づいたわね。良い事なのかもしれないわ」
 エマラインは肩をすくめた。
「一抹の喪失感は否めないけれどね」アレイルも苦笑を浮かべている。
「でも仕方がない。それに一部は残っているんだし。この力もいずれ弱くなるのかもしれないけれど。たぶん、もういらないんだ。本当は世界を取り戻せた時に、なくなっているはずのものだったのかもしれない。今まで持っただけでも、良かったのかもしれないな」
「そうね」エマラインは頷き、ベビーベッドの中で並んで眠る二人を見やった。
「今の時代には、必要ないものね。少し名残惜しいけれど、仕方がないわ」
 エマラインは立ち上がり、窓に歩み寄った。ビルの向こうに夜空が見え、明るい月が輝いていた。日中は暑かったが、今は涼風が吹き込んでくる。その風にしばらく身をゆだねたあと、エマラインは窓を閉め、カーテンを引いた。
 ありがとうございます――彼女は心の中で、言葉がひとりでに湧きあがってくるような思いにとらわれた。わたしたちみなに、力を授けてくださって――世界を今の姿に戻すことが出来て。今、その力をお返しする時なのですね。でもミルトやリンツ、シェリーのようにすべてなくなるのではなく、一部残ったことには、何かまだ意味があるのでしょうか。まだ必要になることがあるのでしょうか。それとも、おまけとして残しておいてくれたのでしょうか――。
 誰に呼びかけている言葉かわからないままに、彼女は振り返った。アレイルも窓辺に近寄り、妻と同じ思いを感じているようだ。そして自らに残された能力に何か意味があるのかと問いかけた時、またあの感覚が彼を襲ってきたのを、エマラインの残された力は感じた。圧倒的な、畏怖のような思い――それは、なんなのだろう。彼はいぶかっている。彼女も――二人は無言で手を取りあった。




BACK    NEXT    Index    Novel Top