Part 7 of the Sacred Mother's Ring - A Path to the Light

第1章 朝の輝き(4)




 広い部屋だった。壁は淡いクリーム色で、一方に広い窓がある。その大きな窓から、中央広場の向こうに広がるビル群が見える。窓には光沢のある緑色のカーテンがかけられ、床には毛足の長いモスグリーンの絨毯が敷かれている。夕方のオレンジ色の日差しが、部屋を淡い炎の色に染めていた。
 窓際に、一人の男が立っていた。波打った明るい栗色の髪に灰緑色の目をし、鼻筋は少し太くはあるが通っていて、幅の広い眉に引き結んだ口、少し日に焼けたような肌の色。この人物に、アレイルは見覚えがあった。世界連邦が第四代総督であり、狂った能力者でもあったルーガー・ソーンフィールドの手に落ちた時、反旗を翻した唯一の都市、ネオ・トーキョーの市長、グレン・ローゼンスタイナーだ。この市長が処刑される時の光景は、以前、仲間とともに逃亡していた時に、夢に見たことがあった。アレイル自身が、同じような形で私刑にされかけた時にも、そのヴィジョンが脳裏に蘇ってきた。しかし、今夢の中に現れた市長は、それより数か月前の姿のようだった。市長は四十歳前後だろう。
 市長と対峙するような位置に、一人の若者が立っていた。その若者は濃い金髪で、灰青色の瞳の、二十代後半くらいの年頃に見えた。鼻筋も眉も市長より細く、唇も薄めで、肌も白いが健康そうな血色が透けて見える。
「新総督の命令は、理不尽だ」
 グレン・ローゼンスタイナーは首を振り、厳しい口調で言っていた。
「僕もそう思う」若者も床に目を落とし、頷いている。
 しばらくの沈黙。やがて若者が言葉を継いだ。
「でも、従うしかないんだろうね、兄さん」
「アジア連邦の総長は、服従する意向だそうだ。さもなければ、中央との大規模な戦争になってしまうからと。連邦内の他の都市も、十二都市が服従を決めるらしい。残りの六都市は、検討中だ。ここを含めて」
 市長は窓の外に目を向けた。夕闇に染まる街の光景は、来たりくるかもしれない戦火の、その炎の色を連想させるようだった。
「抵抗すれば、きっとこの街は戦いの挙句、滅ぼされるのだろう」
 市長は言葉を継ぎ、拳を握り締めた。
「この街には、四五万人の市民がいる。彼らの安全のために、私は市長として従うべきなのだろう。大勢の無辜の民を、私の一存で惨い目に合わせるわけにはいかない。だが、どうしても納得できないんだ、ヴィクター。新世界総督の描く新しい世界連邦では、今までのような暮らしは望めない。死んだように生きるしかなくなる。この風景も……」
 市長は窓の外を見つめ、一瞬沈黙したあと、続けた。
「生涯、見ることが出来なくなるんだ。自然な陽の光も、夕日も、都市の外の光景も。総督は、世界各地の時間を統一させるために、そうすると言う。だが、都市間の移動も連絡も、新法では禁止されているんだ。せいぜい中央の重臣と各連邦総長レベルでしか、通信すら許可されない。それでは時間を統一することに、何の意味があるんだ。ただ総督や総長たちの利便のためだけだ。人工的に一日を作り出す環境によって、将来的に宇宙開発が始まった時のシミュレーションになるとも言うが、しかし宇宙開発は凍結させると言う。第一、すべての都市でそんな実験をする必要がどこにある。詭弁だ。ふざけているとしか言いようがない。さらに……ああ、何もかもが狂気だ。こんな法案が通ったら、世界は狂っていく。いや、死んでいくだろう。市民がこんな生活を望むとは、とても思えない」
 市長は激したように腕を振り上げ、振り下ろした。両手で拳を作り、打ち合わせたあと、少しの間をおいて、再び話し始めた。その口調は激しくはないが、抑制された分、断固としたものを感じさせた。
「私は、このジレンマを悩んできた。市長としては服従すべきなのだろう。中央との戦いになったら、勝てるわけはない。だが新法下になったら、必ず市民たちの不満が噴出するだろう。不満に思わない方がおかしい。連邦の首都には精鋭軍という選りすぐりの軍隊を置き、各都市にも治安維持軍という名の軍隊を組織して、そういう不満分子はすべて有無を言わせず抹殺せよと、総督は通告して来ている。そのために何人かの人員が、中枢的な役割を果たすべく、送り込まれるそうだ。ここも例外ではない。だが私はそんな命令など、出来そうにない。しかし私がそうしなければ、中央から送り込まれた者たちに背信とみなされ、総督にそう報告されるだろう。どの道、私はどこかで背く運命になりそうだ」
「だったら今、反旗を翻しても同じだというのかい、兄さん……」
 若者が青ざめた顔で問いかけた。
「同じではないだろう。だが、私が反逆者になり、市民の命が奪われるという点では、変わりはしない。そこで考えた。明日、私は市民たちに向かって、新法案をすべて公開しようと思う。受け入れない場合には中央との戦いになり、そしてほぼ百パーセント敗北するであろうことも。そして投票を行う。もしそんな法案は受け入れられない、死んでも負けても良いから戦いたい、という票が半分を越すなら、我がネオ・トーキョーは中央に離反しようと思う。ただし、戦いに巻き込まれたくないという人々が、戦いに巻き込まれてはならない。それに、出来れば小さな子供たちも。そのために、私は服従を打ち出していない他の五都市の市長と連絡を取り、彼らと協議し、そして結論に達した。蜂起を決めた場合、ネオ・トーキョー内で戦いたくないもの、十五歳以下の子供を持つ家族、もしくは子供だけでも、養育施設はあるから、脱出可能だろう。その人々は一週間以内に、シャンハイ、ニュー・インディア、チャイナ・イースト、デリー、シベリアン・サウス、この五都市のどこかに移住する。逆にこの五都市から、新法案に不満を持ち、抵抗したいという市民がいれば、ここに移住してもらう。移民が完了すれば、残りの二週間で出来るだけの準備を整え、我が都市は蜂起する。総督が通告してきた期限は一ヶ月だからな。『一ヶ月以内に服従の返信をし、制度を整え始めないものは、反逆とみなして攻撃を仕掛ける』という警告が最後にあったんだ。我が都市は、反逆の象徴として滅びるだろう。しかし、それでも構わないと思うものが、ここに残る。それがベストだ。残り五都市は、移民が完了したら、中央に服従の意志を出すという」
「それでは、兄さんだけが犠牲になってしまわないか? 他の五都市の市長は生き延びるのだろう?」
「それで良いんだ。犠牲は最小限の方がいい。彼らには、協力してくれて感謝している。都市から出て行く人数より、ここから流入してくる人数の方が、はるかに多いだろう。二十万人近いかもしれない移住者の住居や食料手配だけでも、大変に違いない。それでも彼らは快く承諾してくれた」
 市長は向き直り、若者を正面から見つめた。
「明日投票を行う。その結果闘うことになったら、先のプランを実行に移すことになっている。もしそうでないなら、私は服従を選ぶ。私は市民の全体意思に従う。だが、もし戦うことになったら、おまえはここから脱出するんだ、ヴィクター」
「えっ?」金髪の若者は目を見開いた。
「そんな。僕だって戦うよ。兄さんが蜂起するなら……それこそ、当然じゃないか」
「おまえはまだ若い。それに結婚したばかりだ。ここに留まったら、おまえもリアも、殺されるだろう。私はおまえを死なせたくない。命令だ。おまえは生きろ。どこかの都市へ行って、生きてくれ」
「新体制下で、死んだような生活を生きろって言うのかい、兄さん。いやだ。僕はここに残って戦う」
「だめだ。おまえはここに残ってはいけない」
「いやだ!」
 ぱんっと鈍い音が響いた。若者の頬を、市長の手が叩いたのだ。その目には涙が浮かんでいた。市長は床にひざまずいた。
「頼む、ヴィクター。おまえは生きてくれ。我が侭かもしれないが、おまえは私の唯一の身内なんだ。おまえが他の都市で生き、やがてリアとの間に子供も生まれると思えば――新しい法では、自然に子供を作ってはいけないそうだが、法に従っていれば、人工的にであれ、子供を持つことは可能だ。生き辛い社会だろうと思う。むしろ、ここで死んだ方がましだと思えるほどの、生き地獄を味わうかもしれない。それでもヴィクター、私はおまえに生きて欲しいんだ」
「兄さん……」
 ヴィクターは打たれた頬を押さえ、言葉を飲み込むように黙った。
 グレン・カートライト・ローゼンスタイナーとヴィクターは歳の離れた二人兄弟だった。もともと両親には子供が出来にくかったのか、グレンが生まれたのは結婚後四年目で、その十二年後に思いがけずヴィクターが生まれた時には、父母はもう四十代になっていた。もともと身体の弱かった母はヴィクターが十歳の時に病死し、父も三年前に他界している。グレンは二六歳の時に結婚したが、妻は結婚後三年で奇病にかかり、死んでしまった。二人の間に、子供はなかった。
 市長は立ち上がり、言葉を継いだ。
「ただ、私が政府に背いて戦いを指揮したならば、私は反逆者として最大級の犯罪者になるだろう。そうなると、一族に累が及ぶ可能性がある。おまえが他の都市へ移住していたなら、その記録を調べ、政府の手が伸びるかもしれない。だから、おまえはこの都市を出る時に、ヴィクター・カートライト・ローゼンスタイナーの名前を捨てて欲しい」
「それはどういうことだい、兄さん?」
「私の部下に、スティーヴン・タッカーという人間がいる。スティーヴン・スタンフォード・タッカーというのが、彼のフルネームだ。彼はちょうど、おまえと同じ年ごろだ。そしてリンダという、結婚したばかりの妻もいる。リンダもかつて市庁舎で働いていて、二人は法案に反対し、戦う覚悟だと言っていた」
「そう。でも、それが……」
「私はおまえとリアに、スティーヴン・タッカーとリンダとして、移住して欲しいんだ」
「えっ?」ヴィクターは再び目を見開いた。
「そんな……そんなことができるのかい?」
「可能だ。移住先は、スティーヴンとリンダを知らない人間しかいないところを選べばいい。そこは私の部下たちが、うまく振り分けてくれる。後はどうにでもなる。おまえは移住先でスティーヴン・スタンフォード・タッカーとして登録される。ここのデータベースを改竄してくれる協力者もいるんだ。何も問題はないはずだ」
「そうすると、そのスティーヴンが、僕の代わりということになるんだね。でも市庁舎内には、彼を知っている人はたくさんいるだろうに」
「いるだろう。しかし移民が終わるころには、ここに残るのは戦いに参加するものだけだ。それにスティーヴンとリンダは、中央庁舎を離れて戦うことになる。彼らは移民したはずだから、その時に宿舎を出ていっておまえの家に行き、そこから戦うと言っていた」
「じゃあ……スティーヴンとリンダも、了承しているんだね……」
「ああ。彼らの了解は、すでに取り付けてある。喜んで協力すると言ってくれた」
「兄さんは……僕に他人になってまで、生きて欲しいって言うんだね。生きているともいえないような、残りの人生を送るために。戦わせて、雄雄しく死なせてはくれないんだね」
「許してくれ、ヴィクター」
 市長は搾り出すように、それだけ言った。兄弟は見あったまま、長い間沈黙していた。市長の目には涙が光り、弟の目も濡れていた。
 長い長い沈黙のあと、弟はぽつりと答えた。
「わかった。それが兄さんの意思なら……」
「すまない……」
 兄はそう繰り返し、兄弟は抱擁を交わした。

 エマラインも同じ夢を見ていた。夢の中で、彼女は市長の弟――ヴィクターと呼ばれた若者に意識が同化していた。若者は部屋に備え付けてある、端末のスクリーンを見つめていた。それは世界中で、すべての端末に配信されたプログラム――反逆者の処刑を中継するものだった。
 先ほどの夢から、三か月ほどの時間がたっているらしい。彼はニュー・インディア市の居室にいた。彼の傍らには長い亜麻色の髪をした、ほっそりとした女性が座っている。妻のリア――いや、ここではリンダと呼ばなければならない。彼もヴィクターではなく、スティーヴン。スティーヴン・タッカーなのだ。本物のスティーヴン・タッカーとその妻は、ヴィクター・ローゼンスタイナーとその妻リアとして、燃え盛る市街地の道路で、敵の戦闘機と砲撃戦を交わした末、死んだ。その遺体は黒焦げになっていたが、DNAは鑑定できた。しかし生まれた時に登録されるDNAマップまで、グレンの意をくんだコンピュータ技師によって巧みにすりかえられたので、スティーヴンの遺体は中央政府の手によって、ヴィクターと認定された。本体プログラムではない住民データベースは、その都市のプログラマーチームによって絶えず書き換えられる性質のものであったことも幸いしたのだ。
「ああ、もう見ていられないわ」リアはうめき、顔を手で覆っていた。
 スクリーンには、兄グレンが処刑される光景が映し出されていた。しかしヴィクターは画面から目をそらすことなく、瞬きもせずに見つめていた。両の拳は硬く握りしめられ、ぎゅっと血が出るほど唇を噛み締め、涙を押し殺そうとして。兄の最後を見届けるのは、自分に課せられた役割だと、彼は思っていた。
 永遠にも思える時間が過ぎ、兄が絶命する様を見守った後、ヴィクターは長い長いため息を吐き出した。そして傍らですすり泣いている妻の肩に手を伸ばし、そっと抱いた。しかしこんな愛情表現は、この世界ではあまり見せると危険なものなのだ。二ヶ月前に発布された新しい法律では、長く続く禁止項目のリストの中に、こんな条文があった。
「たとえ家族でも、過剰な愛情表現の発露は好ましくない」
 彼はため息をつき、手を離した。すべての住居に監視カメラが取り付けられている今、特にネオ・トーキョーからの移住組にはとりわけ厳しい監視がついている現在、危険は冒せない。だが新しい法には、どうにも納得できがたい禁止事項が多数あった。
「仕事や用件以外の会話を極力しないように」
「夫婦は別々の部屋で眠ること。みだらな行為は一切禁ずる」
「自然出生とみなされる子供は、その時点で抹殺する」
「感情を暴発させてはならない。過剰な感情を発露してはならない」
 ここでは他人との交流を一切持つなということだろうか。友人、恋人は言うに及ばず、家族まで。こんな世界に生きる意味など、いったいあるのだろうか。しかし、仕方がない。自分は生き延びなければならない。他に道はない。それが兄の遺志なのだから――。

 エマラインは目が覚めた。お腹の中で、小さな鳥の羽ばたきのような動きを感じた。二月の終わり、まもなく春を待つこの時期、彼女は妊娠五ヶ月になっていた。これは胎動だろう。彼女は手を伸ばし、そっと腹部に触れた。頭をめぐらせ、キャビネットにはめ込んである時計を見ると、四時を少し過ぎたところだった。
 もう一度眠ろうと、エマラインは目を閉じた。グレンとヴィクター――狂った世界総督、ルーガー・ソーンフィールドによって暗黒と化した世界に対し、はかなく潰える運命にあることを知りながら反旗を翻した兄と、兄の遺志により、暗黒の世界を生き延びることを余儀なくされた弟。彼らは喜んでくれるだろうか。この世界が暗黒のくびきから解き放たれたことを――そう思いながら、彼女は再び眠りに落ちた。

 再び目覚めた時には、八時だった。エマラインは慌てて起き、服を着替えてリビングに行った。もうすでに子供たちも起きていて、アレイルが彼らに朝食を食べさせている。
「ああ、ごめんなさい。寝坊しちゃったわ!」
 エマラインは謝りながら、キッチンに行こうとした。
「良いよ。座ってて。僕が持ってくるから。子供たちを見ていて」
 アレイルは妻を制してキッチンに行き、やがて自分たち二人分の朝食を持ってきた。
「ごめんなさいね」
「大丈夫だよ。今日は僕も仕事に行く日じゃないし、余裕はあるさ。君も疲れやすいだろうし」アレイルはコーヒーをついで妻に渡した。
「ありがとう」エマラインは感謝してカップを受け取った。
 エミリアが学校へ出かけたあと、アレイルはアレンとセルスをプレイガーデンに送っていった。プレイガーデンとは、五年ほど前に各区に二、三個の割合で配置された新しい施設で、学校に上がる前の三歳から五歳までの子供たちを、一時的に預かって遊ばせるのを目的として作られている。教育局の一部門として養成された管理員たちが、常に子供たちを見守っている。参加は任意だが、他の子供たちと遊ばせるために、ローゼンスタイナー家では週二回ほど、午前中だけ息子たちを参加させていたのである。
 その間にエマラインは朝食のテーブルを片付け、食器をウォッシャーに入れた。昨夜衣類ウォッシャーに入れた洗濯物が乾いていたのでそれをたたみ、各自のクロゼットに納め終わった頃、アレイルが帰ってきた。
「ありがとう。お迎えはわたしが行くわ。あなたはこれから仕事でしょう?」
「いや、途中で抜けることは出来るさ。今日は家だから」
 アレイルはソファに座り、エマラインも隣に座った。
「そういえば、昨夜PAXから通信が来てたんだ。市外地区計画、グリーンズデイルでは四月から着工して、二年後に完成する予定だって」
「ええ! とうとう? 嬉しいわ!」エマラインは両手を打ち合わせた。
「ただし、最初は本当に小規模らしいよ。市外区の南側に、区画は三ヘクタール弱で四五世帯分らしい。このあたりは冬に雪が多いから、移住希望者は少ないだろうっていうことで。他の都市でもそんなに戸数は多くないらしいよ」
「そうなの? でも、そうね。まだ今の段階では、そんなものかもしれないわね」
「ああ。それともう一つ、市外区の東側に、レジャーランド建設も始まるんだ。それは全都市一斉らしいね」
「そう。出来たら一度、行ってみてもいいわね。子供たちが喜ぶかもしれないわ」
「そうだね、混んでいなければね」
「二年後には、新しい家に住めるかしら」エマラインの瞳は深い紫に輝いた。
「ああ。たぶん。市外区に建てられる個人用住宅は三階建てで、六〜七ベッドルームという設計になるんだ。設計プランの一端を、僕も携わっているんだよ」
「あら、まあ。じゃあ、希望がすぐに伝わって良いわね!」
「何か要望があったら、言って良いよ」アレイルは小さく肩をすくめた。
「市の建設局長が言うには、『これは大家族向けだな』ってさ。うちにはたしかにぴったりだね。夏に双子が生まれたら、七人家族になるから。子供が大きくなったら、七ベッドルームの家だって、ぎりぎりだろうね。僕の仕事部屋を確保できるか、それとも客用寝室を犠牲にするかという話になりそうだ」
「そうね。犠牲にするとしたら、また客用寝室よ。でも、それもかなり先の話ね。その頃には、もう少し家を大きく出来るかもしれないし」
「そうだね。部屋数や規模は柔軟に出来たらいいな。それはいいアイデアだ」
 アレイルはぽんと小さく手を打った。
「仕事をする前に、何か飲む? 持って来るわ。朝の償いに」
 エマラインは立ち上がって、かすかに笑った。
「いいよ、今はいらない。ありがとう。それにしても、子供たちがいないと、静かだな」
「そうね。でも今だけね。赤ちゃんが生まれたら、こんな時もしばらくなくなるわ」
 エマラインはくすっと笑った。彼女は我が身の幸福を、心ゆくまで吸いこんだ。そして思った。昨夜の夢の断片を。
「昨日わたし、グレン市長の夢を見たの。鮮やかな夢だった……まるで本当の出来事みたいに……そう、昔ネオ・トーキョーの廃墟で感じた思いに似て。あの人たちは、自由のために戦ったのよね、命を懸けて。決して勝てないとわかっている戦いを。でも彼らが命がけで守ろうとしたものが、今取り戻せてよかった。本当にそう思うわ」
「君も夢を見たの?」
 アレイルはいくぶん驚いた顔で、そうきいてきた。
「ええ。あなたも?」
「ああ。市長とその弟が話している夢を。あれはネオ・トーキョーが反旗を翻す前の出来事だろうね」
「ええ。わたしもそのシーンを見たのよ」
 彼女はそっとその手で、夫の腕に触れた。彼の思い、見た夢がなお衰えぬ力で、エマラインの中に流れ込んできた。
「わたしたちは、同じ夢を見たみたいね」
「どうやらそうらしいね……」
 アレイルにもわかったのだろう。彼は妻を見、頷いた。
「弟さんも辛かったでしょうね。別の名前で、別人になって、見知らぬ町で、死んだように生きなければならなかったなんて……」
「そうだね。彼はその後、生き延びられたんだろうか」
「あなたは、続きの夢は見なかったの?」
「続き?」
「ええ。弟さんと奥さんがニュー・インディア市で、お兄さんの処刑を放送プログラムの中継で見ていたのを……」
「いや、それは見ていないけれど……君は見たの?」
「ええ。それでは、それは純然たるわたしの夢かしら。あなたの夢と違って、わたし単独だと、信憑性が落ちるわね」エマラインは肩をすくめた。
「いや……そんなことはないと思うよ」
 アレイルはしばらく沈黙した後、首を振った。
「あなたの『知識』が、そう告げたのね」
「ああ。じゃあ、あの弟だけでも生き延びていたんだ。ニュー・インディアか。今はその名前に戻っているけれど、元は第五連邦第四都市だね。かなり暑い地方だね、あのあたりは。半分以上暑さのためにドームが閉まっているって聞いたよ」
「そうなの? ここは寒さで閉まっているし……三、四ヶ月の間だけだけれど。レインボーシティー、昔の第十都市あたりでは、夏の何ヶ月以外は、半分以上閉まっているって聞いたわ」
「そうだろうね。あそこはかなり北だから」
 二人はしばらく黙った。しかし沈黙していても、そこには暖かさがあり、幸福感もある。やがてエマラインが再び口を開いた。
「グレンさんもヴィクターさんも、今の世界で生きられたらよかったのに……」
「あの時代に生まれたのが、彼らの運命なのだろうけれど……そうだね。もう少し平和な時代で生まれていたらね。いや、生まれているのかもしれないけれど」
「それは……どういうこと?」
「昔、ニコルが言っていたことなんだ。人は死んでも、魂は死なないで、また新しい生をまとって生まれてくるって。それが本当なら、グレンさんもヴィクターさんも、今頃別の誰かに生まれ変わって、この時代を生きているかもしれないな」
「死んで……また、生まれるの?」
「ありえないと思うだろうね。僕もはじめて聞いた時には、そう思ったよ。肉体が死ぬのに、精神が別のものだっていうことが、ありえるだろうか。精神は人の脳に宿るんだ。脳のニューロンのネットワークで思考が生まれて、記憶や感情が生まれる。だから肉体と精神は、連動しているはずだ。肉体が死んだら、もちろん脳も死ぬから、もうパルスは伝えない。無だ。だから精神も死ぬ。当然そうだと思う。でも精神活動をする脳が、単なる活動場に過ぎなくて、何か目に見えない魂というものが脳に根を下して、そこで生きている間は活動し、死んだらそこを離れて、もといた場所に帰っていくということがありえるだろうか。そのもといた場所というのは、死後の世界なんだろうか。そんなものが本当にあるんだろうか。ヘレナじゃないけれど、僕もわからないことは、知りたいと思う。でも本当に答えが得られることはあるんだろうか」
「わたしには、よくわからないけれど……でももし、本当に不滅の精神体というものがあって、それがわたしたちに宿っているのだとしたら、その人の記憶はどうなるの? 離れた時に、やっぱりなくなるのかしら。だって、もしそれが本当だったとしても、わたしはわたし自身の記憶しかないもの。それに、世界中で人は増えたり減ったりしているのでしょう? 世界連邦以前の歴史を見たら、新世界最初の頃は何千人しかいなくて、その前の世界には何十億人もいたと書いてあったわ。もとの、その……魂というものが一定の数しかないのだとしたら、増えたり減ったりするのは不都合じゃないのかしら。それとも魂も新しく生まれるの? 死んだりするの?」
「わからないな、僕には」アレイルは首を振った。
「ニコルなら答えられたかもしれない。彼は……夢で言っていたことが本当ならば、たしかに何度も違う人生を生きてきたらしい。でも彼の言うことが本当なのか、僕にはわからない。確かめようがない。もしそれが本当なら、君も僕も、かつていろいろな時代に、別の誰かだったと言うことになる。ニコルの話だと、いつも同じ性で生まれ変わるとは限らないらしいから、君が男だったり、僕が女だったりする人生もあったのかもしれない。そう考えると、なんだか奇妙じゃないかい? たとえば君と僕が以前の人生では、男の友人同士だったとしたら、今の僕らの関係は彼らからしてみれば、かなり気持ち悪いだろうと思うしね」
「そうね……そうじゃないことを祈りたいわ」
 エマラインは苦笑して肩をすくめた。同時に記憶の底で、何か形にならないものが頭をもたげてきたような感覚を、ふと感じた。何か――誰かがそんなことを言っていなかったか。転生する魂――アレイルがそう言いだした時、彼女は初めて聞いたような驚きをもって受け止めた。いや、初めてではなかったかもしれない。アレイルが敵の手にかかって処刑寸前になり、かろうじて命を取り留めた時、再び意識を取り戻す直前のあの夜、彼の夢を追走して聞いた言葉――ニコル・ウェインが話していたことだ。アレイルが今言っていることも、あの時ニコルから聞いた知識なのだろう。でも――それよりも古い何かが、誰かが、同じようなことを言っていた記憶がある。もしかしたら自分が――いや、誰かに聞いて――?
 その時、エマラインは再びかすかな動きを胎内に感じた。彼女は手をそっと腹部へ持っていき、ささやくように言葉を継いだ。
「ところでね……今朝から、赤ちゃんの動きを感じるの」
「そう。胎動が感じられる時期になったんだね」
 アレイルもそっと手を伸ばして、妻の腹部に触れた。
「まだ僕には動きがわからないけれど、二人とも元気みたいだね」
「中を見ることだって、あなたには出来るのよね」
 エマラインは再び小さく肩をすくめた。
「出来るけれど、やらないよ。人の内部まではね」アレイルも肩をすくめる。
「でも君にも、もう赤ちゃんの性別もわかるだろうね」
「ええ……」エマラインは目を伏せ、両手で腹部に触れた。
「男の子と……女の子ね。一人ずつだわ。エミリアは喜ぶでしょうね。あの子は妹を欲しがっていたから。アレンもセルスも……まあまあ、弟と妹をいっぺんにだなんて、あの子たちは驚くでしょうね。きっと喜ぶわ」
「そうだね。君は大変だろうけれど、エミリアも一生懸命面倒を見そうだ。頼りになる助手じゃないかな」
「そうね」
 再び沈黙が流れた。やがてアレイルが、静かに口を開いた。
「魂があるのかどうか、今の僕にはわからないけれど、命は確実につながっていくんだろうね。親から子供へ」
「ええ。だからきっとグレンさんも、ヴィクターさんに頼んだのね。生きて、命をつないでくれって」
 エマラインも頷いた。彼女の目は、せりあがってきた涙に濡れた。己の幸福と、動乱の時期に生きた兄弟への哀悼と、世界を取り戻せた誇り、六百年の間に消えた、同じように失意の生涯を送った人々への思い――いろいろな思いが押し寄せてきた。
 窓からは、弱々しい冬の日差しが差し込んでいた。この日は珍しく雪も降らず、気温が二月にしては上がったために、ドームも開いたようだった。冬の日は短い。気まぐれに顔を見せても、またすぐに沈んでいく。午後早くには、再びドームは閉じられるのだろう。しかしドーム越しにも、空を見ることは出来る。光も入ってくる。
 アレイルが手を伸ばし、そっとエマラインの手をとった。彼も同じ思いを感じていることを彼女は知り、二人は言葉のない思いを共有した。




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