Part 7 of the Sacred Mother's Ring - A Path to the Light

第1章 朝の輝き(3)




 十二月に入ってまもなく、リンツとシェリーが結婚した。会場を提供したローゼンスタイナー家に、かつて戦いをともにした仲間とその子供たちが集まり、見守る中、二人はコンピュータ端末を通じて、結婚手続きを済ませた。シェリーは淡いピンクのワンピースで、リンツもぴしっとした濃い緑の上着と、カーキ色のズボン姿だ。そのあと、リビングと食堂をつなげ、二つのテーブルを連結した食卓で、お祝いの宴を囲んだ。テーブルには真っ白なクロスがかけられ、それぞれの席にはカラフルなナプキンが置かれている。
「本当はお花を飾りたかったのだけれど、今の季節では外へ行けないし、花もないのよね」
 エマラインは軽く肩をすくめた。そのかわり窓辺に、この秋彼女が物品センター、かつての配給センターから見つけてきた、鉢植えの赤い葉っぱをつけた植物が飾られている。大きなチキンのあぶり焼きと、たっぷりと盛られた、色鮮やかなボイル野菜、パンとチーズ、白いクリームと赤いイチゴで飾られたケーキ、一口大にカットされた果物が盛られた器、グラスに入った水、大人たちには食後のコーヒー、そんなメニューがにぎやかに食され、その間に何回となく祝福の言葉が浴びせられた。
「ありがとう」若い二人は頬を紅潮させながら、何度もそう答えた。
「今年中に、新しい家に移るつもりなんだ」
 リンツの言葉に、エマラインは問いかける。
「新居はもう決まったの?」
「ああ。三棟先の、六階のコンパートメントに」
「手伝わなくて、大丈夫?」
「平気さ。そんなに荷物ないし。引っ越しロボットも来てくれるはずだし」
「そうよ。それに、おねえちゃんはおなかに赤ちゃんがいるんだし、ヘレナもアーサーを抱えて大変でしょう。大丈夫よ。うちにはミルトもいるし、三人だけでできるわ」
 シェリーもニコッと笑って首を振っていた。
「仕事が休みなら、僕は手伝いにいけるよ」アレイルがそう申し出、
「俺もな」と、ジャックも頷く。
「ああ、じゃ、男手は頼むかもしれないや」
 リンツはちょっと笑って頷いた。
「じゃ、決まったら、日にちを連絡して」
「OK。無理なら良いぜ。三人でもやれるだろうから」
 そんなやりとりのあと、しばらく無邪気な会話が続いた。そして一瞬出来た話の途切れ目に、ヘレナは眠ってしまったアーサーを腕に抱いたまま、少し意を決したような面持ちで、突然こう聞いてきた。
「ところでね、あなたたち。今でも力は使える?」
「へ?」
 リンツはきょとんとした表情でそう問い返し、一同も驚いたように目を見開いた。
「いえ、少し興味を覚えただけなの。でも、あれから十年よね。超能力の仕組みはよくわからないけれど、過去の文献をいろいろ読んでみると、一生涯使えるものと、人生のある一時期だけしか使えない場合があるようだから。ことに子供の時の超能力は、大人になって失われる例が珍しくないようだとも、書いてあったわ。十年前、和解の時に、あの主席プログラマーに、派手に力は使わないようにして欲しいと要請されたわよね。そのあと、あなたたちが意図的に力を抑えてきたのも、わかっているのよ。でも、今でも使えるのかしら。ちょっと興味があって」
「最後に使ったのは二年前だな。この十年で一回だけだよ」
 リンツは首を傾げた。
「あたしは七年前に一度。それっきりよ」
 シェリーも同じく首を傾げる。
「僕は二ヶ月くらい前に」ミルトは肩をすくめた。
「今も出来る?」へレナは問いかけた。
「やってみていいの?」ミルトは問いかけた。
 一瞬沈黙が走り、お互いが目で相談しあった。
「ちょっとだけお願い」へレナが頷いた。
「じゃあ……」ミルトは頷いた。次の瞬間、向かい側に座ったエミリアのコップが、するするとひとりでにテーブルの上をすべり、ミルトの前まで来た。
「わぁ、すごーい!」エミリアが目を丸くし、声を上げた。
「すごーい、ミルトおにいちゃん! これ、なに? 魔法?」
「うん。魔法だよ。僕は、本当は魔法使いなんだ。でも魔法使いは、人前で魔法を使っちゃいけないのさ」ミルトは片目をつぶり、おどけたような表情を作る。
「よし、いいか、エミリー、驚くなよ。おれたちはみんな、実は魔法使いなんだ。ただ人にそれを知られちゃいけないから、隠してたんだぜ」
 リンツもいたずらっぽい様子で、目を輝かせて指を振った。
「ほんとなの?」エミリアは驚いたように目を丸くした。
「ねえ、ねえ、リンツおにいちゃんもやって、まほう!」
 アレンもテーブルに身を乗り出している。
「よし、じゃあな、見てろよ」
 リンツはぱちんと指を鳴らした。次の瞬間、その姿が消えたと思うと、エミリアとアレンの背後に現われ、二人の背中に手をかけた。
「わあっ!」
「びっくりしたぁ!」
 二人は同時に声を上げ、振り返って椅子から転げ落ちそうになっていた。母親の傍らのセルスも、驚いたように目をくるくるさせて見ている。
「シェリーの力は……そうだなぁ」リンツはテーブルを見回し、ついで立ち上がってキッチンへ行き、ナイフで指に小さな切り傷を作ってきた。
「おお、痛え。これ治るかな」
「馬鹿ねえ。わざわざ自分で怪我しなくたって良いじゃない。治すの止めようかな」
 シェリーは半ばあきれたように笑い、頭を振った。
「んなこと言わずに。おれが痛い目をしてまで、実験台になったんだからさ」
「しょうがないわねぇ」
 シェリーは夫となった人の指を手で覆い、そして目を閉じた。しばらく後、手を開くと、その指の傷はきれいに治っていた。
「うわぁ、すごーい!」子供たちが再び声を上げる。
「三人とも、まだ力は使えるのね。じゃあ、ミルト……今でも物は壊せる?」
「壊すのはやったことないから、わからないよ。それに力の入れ具合も忘れたし」
「止めとけよ。下手してこの家ごと吹っ飛ばしたら、たまったものじゃない。おれたちの結婚式が、葬式になっちまう。うう、縁起でもないな」
 リンツが両手を振って制する。
「そうね、危険ね。でも、いきなり大爆発はしないでしょう? 最初は力の入れ具合を小さくして、少しずつ加減していったら」ヘレナが重ねてそんな提案をした。
「それだったら……」
 アレイルが立ち上がり、しばらく奥の部屋に消えたあと、手に小さなプラスティック樹脂製のかたまりと、いつも市外区に行く時に持っていくシートを持って現れた。
「これは新しい建材のサンプルなんだけれど、もう処理していいものなんだ。飛び散るといけないからシートをしいて、この上に置けば……ああ、みんな、下がった方が良いね。破片が飛ぶと危ないから」
 一同は部屋の隅に避難し、ミルトは立ち上がって、その物体を見つめた。手を振り上げ、最初はポン、ポンと小さな光の弾を飛ばしていたが、やがて少しまとまった光が出たかと思うと、ボンと小さな音とともに、シートの上の建材がはじけ散った。
「ああ、良かった! ふっ飛ばさなくて」
 ミルトは安心したように笑い、ローゼンスタイナー家の三人の子供たちは驚いたように見つめていた。アレイルはシートごと持ち上げて、細かく砕けた破片をダスターシュートに投げ込んだ。そして一同は、元の席に着いた。
「まだできるのね」
 へレナはアーサーを抱いたまま、頷いた。子供の方は騒ぎに起きることもなく、安心しきったように母の腕にもたれて、すやすやと眠っている。
「あなたがたはどう?」
 へレナはついで、アレイルとエマラインに向き直った。
「まだ力は残っているわ。意図的に使うことも……出来る」
 エマラインは軽く想念の枝を伸ばし、各人の思いに触れてから頷いた。
「僕もだ。仕事で見通しをつける時以外は、使わないけれどね」
「ってことは、今でも使ってるのかよ。いいよなぁ、おれらと違って、あんたの力は目立たなくて」リンツが苦笑してそう抗議し、
「いや、見通しを考えていると、自動的に見えてしまうんだよ」
 アレイルも苦笑して、少し肩をすくめている。
「そうなのね。それじゃあ、たとえば、アレイル……今、私たちの部屋の様子が見えて?」
「どの部屋?」
「そうね……私の書斎で良いわ」
「食堂の右側の部屋だね」アレイルは頷き、そして中空に視点を定めた。
「机、変えたんだね。ハードフォームのものになっている。アーサーがぶつかっても怪我をしないようにかな。色は濃いグレー。椅子に青いチェックの家事用上着がかかっていて、端末は今消えている。机の上にシートペーパーが置いてあって、その上に何か書いてある。X263851――BCK5920 これは何の数列? ああ、そうか、このテストで僕が読めるかどうか、だね。数列自体には、特に何の意味もなさそうだ。四年くらい前に一度ここに実際に入ったことがあるけれど、それからそんなに印象は変わっていないね。カーテンもクッションも変わっていない。キャビネットと机にアーサーの写真が飾ってある他は。シートペーパーの右側にタブレットペンが、少し斜めに置いてある。ああ、キャビネットの右下に、アーサーが落書きしたあとがある。不規則なぐるぐる模様になってるね」
「大正解ね。たしかに力は衰えてはいないわ」
 へレナは微かな笑みを浮かべ、小さく肩をすくめた。
「わたしも証明しなければならない?」
 エマラインは微笑を浮かべて見た。
「そうね、できたら。私が今、何を思っているかを当ててくれない? 中には言い当てられて、私が気まずかったり、いやな思いになったりすることもあるかもしれないけれど、自分から言い出したことなのだから、耐えるわ」
「ヘレナはこういう気質なんだよ、許してやってくれないか?」
 ジャックがおどけたように肩をすくめ、妻を見やってから、エマラインを見た。
「ええ。ヘレナらしいとは思うわ」エマラインはかすかに笑った。
「じゃあ、言うわよ。『みんなが幸せでよかった』」
「あたりね」
「それから『私がこんなことを言い出して、みんなは不快に思ったりしていないかしら。でも私は、超能力と言うものへの好奇心が押さえられない。研究すればするほど、未知の部分が広がっていくように思える。それに魅せられる。まるで底なし沼のよう。この世界の歴史のように。まだまだ知りたいことが、たくさんある。知れば知るほど、まだまだ知らないことが多いのだと思い知らされる。私はアーサーの母でいたい。母でいることに喜びを感じる。この子は私のすべて。でも、それでも未知の部分を知りたいと思える私もいる』大丈夫よ、それは両立しえると思うわ、ヘレナ。わたしはあなたの知的探究心に感嘆しているし、みなもそうよ。不快には思っていないわ」
「良かったわ」へレナはかすかに安堵の笑みを漏らした。
「『みながまだ力を持っているかどうか、前から試してみたかったけれど、機会がなかった。今思い切って実行に移せて、良かったと思っている。みな、まだ能力を持っているのね。ミルトやシェリー、リンツは消えている可能性もあるかと思ったのだけれど、意外だったわ。以前、あの子たちが話していた、(光が入って、力が使えるようになった)という話を聞いた時、これはもしかしたら、目的が達成されたら去るような種類の、いわばどこからか一時的に託された力のように感じたのだけれど、そうではなかったのかしら。アレイルやエマラインはまた違う種類の力のようだから、まだ保持していたとしても、あまり不思議ではないのかもしれないけれど。でも生まれつきのものではなく、どういう形にしても途中で発現した形質ならば、死ぬまで続くものなのかしら。それともゆっくりと衰えて消えていくものなのかしら。それはきっとこれから見守っていけば、わかるのだろうけれど。ああ、それにしても、自分たちにこの力がないのは残念だったわ』」
 そこまで言うと、エマラインは目を上げ、ヘレナを見た。
「この先は、どうしましょう……」
「言っちゃって良いわ。もう私の中では、あなたはまだ力を持っているって証明されたけれど」へレナは軽く唇を引き結び、頷いた。
「それなら……もういい?」
「言ってしまってちょうだい。ここで止めたらかえって、後味が悪いわ」
「わかったわ。気を悪くしないでね」エマラインは頷き、言葉を継いだ。
「『私はみなを羨ましく思っている。自分にはない能力を持てる人は羨ましい。でもそれを言ってもせんのないこと。私は私の得意分野を、人より秀でたものを伸ばすしかないのよ。ああ、そういう発想も昔のエリート意識の名残かしら。私って、いやな人間ね。エミリアたち三人は仲がよさそう。アーサーにも兄弟が出来たら良いのに。一人っ子より、兄弟がいた方が、楽しいと思えるから。でもそれも、きっと無理ね。お医者様にも望みはほとんどないから、諦めた方が良いと言われたもの。この子がいてくれるだけで、満足しなければ。なぜそれでも、完全には満足できないのかしら。人の欲望って、きりがないのね。私はエミリアが生まれた時には、まだ平静でいられたけれど、アレンやセルスの時には、少し嫉妬を覚えたことも否めない。私が生めないのに、彼女は何人も次々に生むって。そんな自分がいやだわ。彼らには彼らの苦悩があったというのに。アーサーが生まれた時には、もう何もいらないと思った。でもやっぱり兄弟の姿を見ていると、兄弟が欲しいと思ってしまう。ジャックと結婚できて、かわいい子供が持てただけでも十分幸せなはずなのに。本当に持てば、もっともっとと求めてしまう。なんて欲が深いのかしら』ごめんなさいね、ヘレナ。でもそれでも、祝福してくれたわよね、わたしたちを、心から。本当にありがとう。大丈夫よ。わたしもきっとあなたの立場だったら、そう思うわ。いえ、きっとあなたほど寛大には、なれないかもしれない。感嘆するわ」
「ありがとう……」へレナはかすかに頬を紅潮させ、頷いた。
「『わかってくれてうれしい。私たちはいつまでも仲間だ』そうよ、そうよ、その通りよ。『でも、冷静に考えてみれば、子供たちに配慮が足りなかった。エミリアたちが寝てから、確かめればよかった。あの子たちは驚いているわよね。どう説明をしたら良いかしら』そうね。ねえ、ヘレナ、もうこのくらいでいい?」
「良いわ。本当にありがとう。最後にもう一つ聞いていい?」
「ええ。なに?」
「子供たちには、力を受け継いでいる子はいないの? 今のところ」
「ええ。今の時点ではね。みんな特別な力は持っていないわ」
 エマラインは首を振り、次いで夫と目で相談してから、子供たちに向き直り、話し出した。「それじゃ……エミリア、アレン、セルス。びっくりしたでしょうけれど、わたしたちはみな、種類は違うけれど、魔法の力を持っているのよ。それでね、その力のゆえに殺されかかったの」
「昔の話をしようか。おまえたちがまだ生まれる前の、エマラインと僕が出会った頃の話を。まだおまえたちには、ことにアレンやセルスにはわかりづらい話かもしれないけれど、いつか話そうと思っていたことなんだ」
 アレイルがそう続け、そしてエマラインとともに、かつての時代を簡単な言葉で語った。物資に乏しく、食べ物はすべて配給制で質が悪く、考えることは禁止され、人の愛も異端とされた時代。人間らしさを求める人たちは、異端の名の下に無慈悲に殺され、普通に生きても、七十歳になると強制的に殺された時代。その中で魔法――超能力を持つ者は最も忌むべきものとして政府に追われ、命を狙われながら逃亡し、その中で同じように超能力を持ち、追われていたリンツと出会い、シェリー、ミルトを助け、特殊能力はないものの愛ゆえに異端とされたジャックとヘレナとも合流して、世界各地を逃げ続けた日々。その後、意を決して戦い、世界連邦解放を勝ち取ったことを。
 子供たちは驚いたように聞いていた。その後、アレンが感極まったような声を上げた。
「すご〜い。それじゃ、パパやママやみんなは、せかいをすくったえーゆーなんだぁ!」
「悪の大王を倒す正義の使者かい? そんなプログラムがあったな、子供向けの。でも、僕らはそうじゃない。ただ自分たちが生きていかれる世界を作るために、必死だっただけさ。そのために多くの人も殺してしまった。英雄なんかじゃない。今もそうは思えない。でも世界を今のような姿に戻す手助けが出来て、とてもよかったと思っている。おかげで今、こうしておまえたちが生まれて、幸せな家族が作れたし、ジャックとヘレナや、リンツとシェリーもね。ミルトもいずれ良い子が現われて、新しい家庭を築くんだろうし」
「ミルトおにいちゃんのおよめさんには、あたしがなるの〜」
 神妙な表情で話を聞いていたエミリアがそこで声を上げ、ミルトの腕にしがみついた。
「あは、エミリー、あと十年たっても、お互い気が変わらなかったら、考えるよ」
 ミルトは空いたほうの手で頭をかいたが、それでも嬉しそうに笑う。
 この二人は本当に結婚するだろう。そんな予感が、アレイルの頭の中に不意に降りてきた。今はまだ子供同士の仲の良さにすぎないが、十一年が過ぎた頃――ミルトが二四歳、エミリアが十九歳になった時、二人は新しい家庭を築く。ただし、問題はあるだろう。自分たちや、今結婚したばかりのスタインバーク夫妻と同じように、彼らにも特殊体質発現の可能性があるのだ。エミリアは四八%の特殊因子を持つ。十七%が母系由来で、三一%が父系だ。そしてミルトは四五%だ。母系三十%で、父系が十五。彼のDNAチェックはまだ公表されていないが、きっとそうだとアレイルにまだ宿る力が教えていた。この組み合わせだと、半数近くが特殊体質出生になる。その頃には、それは今以上に、重い意味を持ってくるかもしれない――。
 そこまで思いが到達した時、何か大きな、しかし実態のわからない不安――恐怖にも畏怖にも似た思いが大波のように覆いかぶさり、想念をさえぎった。アレイルはかすかに震えを感じた。ここまで探ってはいけない。いや、どのみち今の自分の力では、意図的に十年以上先の未来を見ることは出来ないのだ。彼方からの知識が、予感の形をとってやってくるほかは。
 エマラインも夫の想念を感じ取り、同じ不安を感じているようだった。一瞬、その身体が小さく震えた。二人は顔を見合わせ、そっとテーブルの下で手を握り合った。不安の正体が何かは、わからなかった。しかし、今は願うしかない。リンツとシェリーの行く末にも、やがて同じ道を行くはずのミルトとエミリアにも、幸多い未来が開けていることを。

 その後、宴は和やかに進み、夜遅くになってお客たちは帰っていった。結婚したばかりのリンツとシェリーは、同じ建物の下の階へ。ジャックとヘレナは二棟先まで、歩いて。ジャックが眠っているアーサーを抱きかかえ、ヘレナは持参した毛布でしっかりと息子をくるんでいた。ミルトは「今日だけは二人にしておこうと思うんだ。ここへ泊まって良い?」とローゼンスタイナー夫妻に頼み、「良いよ。まだ客用寝室も空いてるしね」と、了承を得て、まだ残っていた。
「遠慮しているの、ミルト?」エマラインが軽く笑って聞く。
「遠慮って言うかね、配慮だよ」ミルトは小さく肩をすくめた。
「あなたも大人になったわね、ミルト」
 エマラインは少し感嘆をこめて、少年を見やった。
「まだ大人とは言えないよ」ミルトは少し照れたように笑う。
「そうね。あなたは、やっと十三になったばかりですものね。でも、あなたが二歳半だった時のことを、今も時々思い出すのよ」
「止めてよ、エマおねえちゃん。僕はもうあの頃のことを、ほとんど思い出せないのに」
「そうなの? そうかもしれないわね。本当に小さかったから。あなたが以前の世界の記憶をほとんど持っていないのは、ある意味幸いだと思うわ」
 エマラインは目の前の少年の十年前の姿を、思い出さずにはいられなかった。両親のいない不安感を抱きながらも、無邪気に遊ぶ幼児の姿は、一同をどれだけ和ませてくれたかわからない。自らの力の統制が取れるのかどうか、一時は懸念を抱いたものの、元来素直な性格であり、人を傷つけたくないという優しさも持っていたために、期待通りの統制力を身につけてくれた。学校で時おり、その力をこっそり使っているようだが、それは主に困っている学友を助けるためのものであり、それも人にわからないよう注意深く使っているので、問題はないだろう。その彼が、娘婿になるかも知れない――。
 幸せなことだ。エマラインは即座にそう思った。エミリアとミルトはまるで兄妹のように仲が良いから、きっとそのままその親愛が、恋愛へとつながっていくのだろう。彼が義理の息子になってくれるなら、これほど心強いことはない。
 アレンとセルスはまだお客たちがいるうちに眠ってしまったので、アレイルは二人を子供部屋に寝かせに行っていた。エミリアも「おやすみなさい」の挨拶をしたあと、自室へ引き取っていった。戻ってきたアレイルと手伝いを申し出てくれたミルトと三人で後片付けをしながら、エマラインは願っていた。どうか未来にも、この幸せがずっと続いてくれますように、と。


 世界を統べるシステムは大幅に変わったものの、世界連邦総督室の様相は、かつてと変わってはいない。毛足の長いやわらかい布を張った、大きな深紅のソファに座って、世界連邦総督ダンカン・ジョグスレンは薄い緑色の飲み物が入ったグラスを片手に、ディスプレイに映される書類に見入っていた。彼は一時心労のために痩せたが、今は元の恰幅の良い身体に戻っている。その髪は半分白くなり、しわも深くはなっていたが、それは加齢のなせる技だろう。ジョグスレン総督は今、六十歳になっていた。しかし、以前の大統領システムとは違い、世界連邦総督には決まった任期がなく、PAXが次の総督にふさわしい人物を選んで、退任勧告を出すまでは、その地位にいることができた。そしてPAXは二か月ほど前、ジョグスレン総督に『あと十年、今の地位にいてください』と告げたばかりだった。
 以前と変わった点といえば、主席プログラマーの作業場が、総督室の中に据えられたことだろう。総督のデスクの右下に、ドアに向かってスミソンズのデスクが置かれていた。ヴァーノン・スミソンズも少々太ったことによっていくぶん線がやわらかくなり、顔にも少々しわが増え、以前ほど研ぎ澄まされた鋭さは感じさせない。五一歳の今、髪も半白になっていたが、もともとが色の薄い金髪なので、あまり目立たなかった。
 総督はタブレットペンを取ってサインを終わると、グラスを取り上げて中身を一口飲み、スミソンズに声をかけた。「おまえもどうだ、スミソンズ。食品開発局が先週市場に出した、新しい飲料だ。なかなかいけるぞ」
「私は甘いものは好かないんです、総督閣下。水で結構ですよ。ご配慮はありがたくちょうだいいたします」スミソンズはほんの少しだけ肩をすくめた。
「これは、それほど甘くないぞ。報告では、よく売れているそうだ」
「それでは、少し試飲してみましょうかね。失礼します」
 スミソンズは立ち上がって、総督のデスクに置かれた飲料容器に手を伸ばし、自分のグラスについで飲んでみた。そしてかすかに顔をしかめ、デスクに戻った。
「悪くはないですが……この香りは、あまり好きじゃないですね」
「そうか? 私は気にいっているが」総督は微かな笑みを浮かべると、言葉を続けた。
「PAXがまた新案を出してきた。街の周辺部に住宅地を作る試みをするそうだ」
「都市の外にですか? なんのために? 住宅は不足していませんよ」
「これから人口は微増傾向にあるので、将来的な布石としてだそうだ」
 総督はゆっくりとグラスの中身を飲み干すと、続けた。
「そして、まずは個人用住宅を建設するそうだ」
「個人用住宅ですと?!」
 スミソンズはあきれたように問い返し、ついで苦笑いを浮かべた。
「この提案の出所は連中でしょうね、きっと」
「そうだろうな。試用モデル都市五つの中にグリーンズデイル市、昔の第二連邦第十二都市が入っているのが、端的な証拠だ。きっと住民第一号は、あいつらだろう」
「連中はともかく、一般の人間がそんなものに興味を示しますかね」
「さあな、わからん」総督は窓の外に眼をやり、にやりと笑った。
「まあ、でもいいだろう。連中はこの世界をのっとっても、不思議はなかったわけだ。この程度のわがままくらいは、許容してやろうじゃないか。どの道、私がとやかく言ったところで、PAXが決定するのだから、どうしようもないことではあるしな」
「連中が図に乗って、次々とわがままを言いださなければ良いですね」
 スミソンズは肩をすくめた。「我々が連中に生かしてもらったという考えは、いまだに好きになれません。それが現実であったとしてもです。ですが……」
「たしかに、屈辱ではある」ジョグスレン総督は頷き、再び画面に眼を落とした後、飲料容器を取り上げて、再び中身をグラスに注ぎ、微かに笑った。
「だが、今生きていて、ありがたいと思えることもある。それは事実だ」
「そうですね」スミソンズは頷いた。
 たしかに生き易くなった。ぴりぴりした緊張感もなくなった。まるでぬるま湯につかっているような状態で、張り合いもなくなったような気もしたが、今までに気づかなかったことにも、興味を持てるようにもなった。クラークソンなどは、五年前に上級プログラマー、かつての上級専門職の女性と結婚している。二人とも四十代での結婚で、子供はもう持つことは出来ないが、傍目にも幸福そうだった。十年前の改革の折、すべての政府上級専門職は一般と同じ扱いとなり、名前が与えられ、結婚も自由になっていたのだ。それはスミソンズとて同じだったが、彼はまだ女性に興味を持つにはいたっていなかった。ジョグスレン総督さえもが、三年前から上級専門職の女性と住居をともにしているというのに。
 スミソンズは苦笑いをこらえ、再び画面に視線を戻した。




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