Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第6章 夜明け (3)




 三時四五分、街はまだ暗かった。七人は簡単な朝食を終え、食器をウォッシャーに入れてスイッチを押した。スープはまだ配給されてこないので、パンとミルクだけだったが、みな、あまり食欲はないようだった。数日前から一時間ずつ起床と就寝時間をずらしていったおかげで、ミルトでさえあまり眠くはなさそうだ。必要な装備以外、荷物は置いていくことにした。第一連邦を、そして世界連邦自体を解放することが出来たら、そのあと彼らはこの街、ここ第二連邦第十二都市に定住するつもりだった。
 かすかな洗浄機のうなり以外、音は聞こえなかった。都市の住民たちはみな、まだ眠りについている時間だ。新体制になってからは、就寝時間以降はパトロール・ロボットたちが都市を巡回し、新庁舎が完成するまでの間、生産区の仮施設の中にある治安維持軍本部詰め所で、数人の夜勤者がその様子をモニターするようになっている。解放された七つの連邦ではどこでも、七人を捕まえたり攻撃したりしようとする人々は、誰もいなかった。だがこの自由も、あと一つ取らなければ完全ではない。その最後の戦いに、彼らは向かおうとしていた。
「また無事に、ここに帰ってきたいものだな」ジャックが低く言った。
「なんか、本当に緊張するな……って、おれ、そればっか言ってるけど、やっぱり緊張するぜ」リンツが額に脂汗をにじませ、首を振った。
 シェリーは無言で、蒼白な顔のまま弟をぎゅっと抱き、ミルトの方もいつになく神妙な表情だ。それは、どの連邦戦でも変わらない光景だった。だが今までは、負けたらそれで最後、勝っても次がある、という戦いだったが、今回は勝っても負けても、最後なのだ。
「みんな、準備が出来たら、行くよ。リンツ、今度も飛び先の座標は気をつけて」
 アレイルはみなを見回した。彼とリンツはすでに防護服を身につけている。
「うー、これだけは、ほんっとに緊張するな!」
 リンツはぶるっと震え、目をつぶった。最初の飛び先は、第一連邦第一都市、第一連邦ビルの地下五階のコンピュータルームに隣接する、小さな制御室。少しでも目標がずれ、まだ毒が充満するコンピュータルームや、兵士たちが多数待機する廊下に出てしまったら終わりだ。
「大丈夫よ。第七の時も第二の時も、完璧にできたのだもの。あの要領を思い出して、落ち着いて、がんばってね」
 エマラインが少年の肩に触れ、励ますように声をかける。
 リンツは無言で頷き、そして数秒後、七人は無事目的地についていた。
「あーっ、やった、やった、成功だ!」
 リンツは制御室に七人が無事に着いたのを確認すると、声を上げた。ミルトは相変わらず制御端末の上だったが、狭い部屋の中、七人は身を寄せ合って立っていた。
「ありがとう。今回も完璧だったね、リンツ」と、アレイルが労い、
「おぅ、当然だぜ」と、少年は照れたような得意そうな笑いを浮かべた。
「それじゃ、休む暇もなくて悪いけれど、次へ行こうか」
 アレイルはマスクをつけながら促し、
「お、そうだった」と、リンツもマスクをつけた。
 二人は、隣接するコンピュータルームへ移動した。
 コンピュータルームには、致死性のガス、セプトスXが充満している。世界連邦ができる前、百年戦争の時代に開発されたこの毒ガスは、即効性の神経毒で、この濃度では数秒で身体の自由が奪われ、呼吸ができなくなって死亡する。防毒マスクで防御していても、せいぜい一分強くらいしか持たないだろう。
 着地すると、アレイルは呼吸を止め、間髪いれずに中和剤が入ったボンベの栓を開いた。シューっと白い霧が吹き上がるのと同時に、リンツはすぐにもと来た制御室に帰っていく。アレイルはボンベを持ち上げて、大きく円を描くように、中和剤を撒いた。その後、ボンベを持ったまま、ぐるりと部屋を歩き、中和剤が行き届くようにした。以前の二つの連邦では、センサーに引っかからないよう、その場で中和剤を噴射して、徐々に部屋全体に行き届かせるしかなく、その分時間がかかったが(自分がいる部分はすでに中和済みなので、息を止めている必要はなかったのが幸いだが)、今回はセンサーに引っかかっても、今までのように地下で戦闘をするわけではないので、関係はなかった。
 息が苦しくなってきたと同時に、部屋の毒が薄まっていくのを感じた。毒が中和されていくにつれ、壁や床、防御服にも細かい水滴と、少し青みがかった白い粉と黒い粒子が混ざったものがついていく。セプトスXは、水と無害ないくつかの元素に分解されていっているのだ。
 部屋の毒の濃度が致死量を切り、あまり害のないくらいに薄まるのを待ってから、アレイルは防護マスクを取って、大きく息をついた。少しめまいがして、一瞬気が遠くなりかけ、床に座り込んだ。手足に軽いしびれが走る。まだかなり薄くではあるが、毒が残っているのだろう。だが、こうしている間にも、中和剤が部屋の空気を無害なものに変えていっている。まだ体力が完全に戻ったとはいえないアレイルに配慮してか、ジャックがこの中和の役をやろうかと申し出ていたが、謝辞していた。セプトスXの安全値濃度の判定が、ジャックには難しいだろう故に、まだ安全でないところでマスクを取ってしまう危険性がないともいえなかったからだ。もちろんジャックのほうが長く息を止めていられるだろうが、危険はゼロではない。
 毒は完全に消えたようで、ここに仲間たちが入ってきた場合の未来時間軸を追っても、不都合はないと確かめてから、アレイルはエマラインに思いを送った。
(OK。もう来ても大丈夫)と。
 数秒後、エマライン以外の五人が部屋にやってきた。そしてその二分後、ミルトの力によって、第一連邦の中央サーバーは破壊された。その後、接続を切り替えてから、制御室に残ったエマラインがパスワードを入力して、二つの部屋を隔てる壁がなくなった。
「さてと、ここまでは順調に来たな」と、ジャックが言い、
「ああ、これから第二段階だね」と、アレイルは頷いた。
 彼はリンツとともに潜水服に着替え、酸素ボンベを背中に、空気ボンベを手に持って、世界連邦本部ビルの地下、PAX本体が収まる部屋に移動した。
 ここの手順も、先のコンピュータルームと同じだ。リンツが空気ボンベを置いて仲間たちのところへ帰るのと同時に、アレイルは手にした空気ボンベの栓を開けた。そしてリンツが置いていったボンベも同じようにする。中和の時と違い、白い霧や副産物は出てこないが、この部屋に入った時に感じた、身体の中から膨らむような痛みや気持ち悪さが、少しずつ和らいでいくのは感じられた。たぶん厚い潜水服でも、真空圧から完全には守ってくれないのだろう。だがこれをつけていなければ、リンツともども、ここに入ったとたんに動けなくなる。リンツも今頃仲間たちのところで、「ひでえ、痛かった!」と訴え、部屋の隅で吐いてしまったようだった。その光景が、アレイルの精神的な目にちらりと見えた。
「宇宙服があればよかったな……」
 思わず、そんな呟きが漏れた。しかし宇宙開発は八百年前、『闇の大統領』ダレン・バートランドの時代以降、放棄されてしまっている。でも、いずれ再開されるのだろう。世界が元に戻ったら。

 この部屋は五メートル四方ほどで、その中央に、PAXの本体があった。黒い台座の上に、アグノイト製の透明な箱に収められた、直径一メートルほどの白い球体。それがPAXだった。台座から後ろに伸びるハードグラファイトに包まれた配線を通して、各連邦の中央サーバーや連邦ビル地下二Fにある、巨大なデータベースを収めたサーバーに接続されているようだ。もっとも各連邦のサーバーは、今はなくなっていて、みなRAYのネットワークで動いているが。第一連邦の中央サーバーまでRAYの管轄に入った今だが、まだこの連邦ビルのネットワークは、その中のデータベースやファイルも含め、PAXの管轄内だった。
 十分な濃度の空気が部屋に満ちるのを待って、アレイルは潜水服を脱ぎ、今まで着ていた服をもう一度着た。リンツは戻った先で着替えているはずだが、アレイルは一緒に持ってきていたのだ。彼は潜水服を部屋の隅に置き、背負っていた酸素ボンベの空気も少しずつ部屋に噴射しながら、ゆっくり深呼吸した。大丈夫だ――そしてエマラインに思念の通信を送ろうとした時、彼は「あっ」と小さな声をあげた。
 PAXの前に立つ、小男が見えた。しかし、これは過去のヴィジョンだ――そう気づき、アレイルはその時間軸を眺めた。約六百年前――ここで――いや、まだここが独立した、不可侵な地下にではなく、真空状態でもなく、隔離はされていたが各連邦の中央コンピュータと同じように、世界連邦ビルの地下五階にあったころ、二年の時間をかけ、センサーを解除し、壁を切り裂くバーナーを作って、入ってきた男。その男は子供ぐらいの身長しかなく、その身体は奇妙に捻じ曲がっていた。頭髪はまばらで、その顔は身体と同じように歪んで醜かった。その男はアグノイト製の箱の上部分にバーナーで穴をあけ、節くれ立った指でPAXに触れると、目を閉じて、一心に何かをその中に注ぎ込んでいた。
 その男が誰だか、アレイルにはわかっていた。しかし世界中の誰もが、その男の姿からその名前を想起するのは不可能だろう。その醜い小男こそ、ルーガー・ソーンフィールドなのだ。一般に認知されているソーンフィールド総督の姿は丈高く、がっしりとした体躯で、豊かな黒髪と黒い目の、にじみ出る残忍さは隠せないものの、偉丈夫といっていい男だった。しかし、そのソーンフィールドは本物の影武者だった。いや、人間ですらなく、ソーンフィールドが作り上げた、彼の指令どおりに動く、自分の理想像を反映させ、本物のソーンフィールドの遠隔操作で動く、アンドロイドに過ぎなかったのだ。本物のソーンフィールドは、自宅の――特別区の大邸宅の地下に作られた大きなコンピュータルームの安楽椅子に座り、そのアンドロイドから逐一モニターされてくる映像や音を楽しんでいた。人々が敬意を払う様子も、ネオ・トーキョー制圧戦も、反抗勢力の弾圧や拷問、そして総督自らが手を下したとされる、ネオ・トーキョー市長、グレン・ローゼンスタイナーの処刑も。そうして暗い喜びに浸っていたようだった。本物のソーンフィールドは傀儡の総督から『恩師』と呼ばれ、至れり尽くせりの待遇を受けていた。そして、その存在は偽のソーンフィールドに仕える側近の一部にしか、知られていなかった。本物のソーンフィールドは贅沢を楽しんだ。権力を楽しんだ。しかし一番楽しんだのは人々の痛みや不幸だったようだ。
 何が彼をそうさせたのだろう――ふとそんな思いを感じると同時に、アレイルは現実に立ち返った。小男のヴィジョンは消えていた。彼はふっと息をつき、エマラインを呼んだ。

「わたしたちが知っていたソーンフィールド総督は、本物の操り人形だったのね」
 一分後、部屋にやってきたエマラインは、思わずそう言わずにはいられなかった。彼女はアレイルのヴィジョンを、少し離れた場所から共感していたのだった。アレイルが中和役に飛ぶたびに、エマラインはその想念をずっとモニターするように追っていた。無事かどうか、その願いを込めて。今回は特に回復間もない彼の体調を案じ、まだ完全には消えていない毒を吸い込んだり、真空圧でダメージを受けたりするごとに、彼女の心は同じ痛みに震えていたのだ。そして彼が過去のヴィジョンを見た時、映像は少ししか見えないながら、知識として感じることが出来た。本物のルーガー・ソーンフィールドは、身体も心もねじれた醜い小男だったということを。そして彼女も、アレイルが感じた思いを感じていた。(何が総督をそうさせたのだろう)と。
 ソーンフィールドは人々の不幸を喜んでいた。それゆえ、世界連邦を巨大なディストピアに変えてしまったのだ。おそらくは、永遠に続くことをもくろんでいた、反楽園に。そこでは誰も幸せになれず、誰も人間らしく生きることが出来ない。そうしようとする人間は思想逸脱とみなされ、抹殺される。そんな呪わしいプログラムを、特殊能力を使って、PAXに焼き付けた男。ピエールとエレノアのランディス夫妻が、そして予知能力者マリアが、もう戦乱の世は、人が大勢死に、憎しみあう世界は終わりにしたいと願い、世界に平和を、そう願って名づけたPAXは、狂った念写能力者であり、天才プログラマーでもあった小男によって、恐怖の独裁者と化した。その後の歴代総督はみなPAXにより選ばれ、その指示通りに動く傀儡でしかない。実質の政策権力者である主席プログラマーも、PAXによって選ばれ、その指示に反することは出来ない。すべての政策はまずPAXの承認がいるのだ。そこで拒否されると、世界総督がサインしようが、決して発動はされない。事実上世界は、ソーンフィールドによって作り変えられたPAXが支配しているのだ。
 エマラインは足元から感じる想念を感じた。ここに――六百年前、ソーンフィールド総督はここに立っていた。いや、まだ移転前の場所にではあるが、同じこの床に。そこから感じられたのは、強烈な怨念にも満ちた思いだった。
 ルーガー・ソーンフィールドは、ごく普通の中級家庭に生まれた。今のように生殖センターで作られるのではなく、夫婦の愛の営みによって、人が生まれていた時代に。三歳上の兄と、二歳下の妹との間の第二子だった。しかし四歳の時、彼は難病にかかった。それは自己免疫病の一つで、当時の発達した医療の元で命は取り留めたが、重い後遺症が残った。脊柱や手足の骨の変形と顔面麻痺が、命が助かった代償として残ったのだ。
 当時の世界連邦では、教育課程にある子供たちは、スクールでの勉強と家庭学習が二:一の比率で組み込まれ、子供たちは週三回、地域にあるスクールに通って勉強した。そこでルーガーは醜い容姿のため、ひどく蔑まれ、馬鹿にされ、無視された。彼はまもなくスクールへ行かなくなり、母親が市の当局にかけあって、すべて家庭学習にしてもらった。その頃のシステムには柔軟性があり、希望して、妥当な理由と認められれば、スクールではなく完全な家庭学習にすることも出来たのだ。そうしてルーガー少年は家で勉強していたのだが、十歳の頃、両親が離婚する。母親は新しい結婚相手の下へ、妹を連れて出て行った。父は兄を連れて、新しい相手と再婚した。どちらも、ルーガーの親権は拒否した。見た目が悪く、また決して扱いよくなかった彼は、新しい結婚相手の負担になると思ったためだ。彼は育成施設に預けられた。そこで彼は、その施設のボス格の子とその一団から、徹底的にいじめられた。しかし成績は良かった。幼少の頃から部屋にこもって、コンピュータと向かい合っていたせいもあるだろう。だが教育課程を終わる時、彼は希望していたコンピュータプログラマー職を、面接で落とされた。
 若いソーンフィールドは、怨念の塊になっていた。自らの醜い容姿を呪い、回りの人間を呪った。自分を捨てた父と母を。排斥し、いじめた子供たちを。見た目だけで判断する人々を。もともと彼は優しい人間でも、穏やかな人間でもなかった。性格的には攻撃的で、自己中心的な部分があった。そして環境が、彼の暗黒部を広げた。
 ソーンフィールドはしかし、自らのプログラミングの腕と特殊能力に気づいていた。それで世の中を見返してやろうと思った。最初にしたことは、自分の家と収入を確保することだった。彼は市役所のデータベースに侵入してデータを改竄し、望みをかなえた。そして着々と自らの野望を現実にしていった。まずアンドロイド製作技術者になり、影武者を作りあげた。その影武者を表に立てて、その後、彼はプログラマーから世界連邦総督まで上り詰めた。もちろんすべて、コンピュータデータの不正改造によってである。その過程で、彼は復讐を果たしていった。父母と兄妹を殺し、自分をいじめた者と、その家族も殺した。そして彼はPAXのプログラムを書き換え、世界を暗黒に変えたのである。
 エマラインはぶるっと震えた。恐怖と同時に、かすかな憐れみも感じた。とうとう自分本来の姿を見せることなく、虚像のまま、自分の他は誰も愛すことなく、誰からも愛されることなく、一生を憎しみの中で過ごした醜い小男に。彼は不幸だった。だから他人が幸せになるのが我慢できなかったのだろう――。

「アル。あれ、こわすの?」
 ミルトがアレイルを振り返ってたずねた。
「いや、あれは壊さなくて良いよ、ミルト」
「えっ、壊さなくって良いのか!」リンツが声を上げた。
「作戦では、破壊するはずだったろ?」ジャックも驚いたように言う。
「破壊はするよ。でも、別の方法で」
 アレイルはPAX本体に歩み寄った。そして黒い台座の真ん中を、リズミカルに触れた。台座の一面が反転し、さらに表面がスライドした。その中心部に小さな穴がある。
「それは何?」エマラインは歩み寄って訪ねた。
「マイクなんだ。ここから声で入力できる。台座の中に慎重に隠されていたから、ソーンフィールドも気づかなかったようだ。八つの衛星コンピュータとのリンクをすべて切ってから、この台座面のある一点を指で触れると、現われるようになっているんだ。ただ触り方も規則があって、長く押すのと短く押す、その組み合わせで言葉を表しているようだ。かつてエレノアとマリアがやっていた、暗号遊びの暗号として」
「どんな言葉?」
「LOVE、だよ。まあ暗号だから、他の人にとっては、意味のない短音と長音の組み合わせに過ぎないけれど、ソーンフィールドはそんな言葉は、決して使わなかっただろうね」
 アレイルはかすかに笑って首を振ると、マイクに向かって、一言一言確認するように、ゆっくりと告げた。
「愛の名において、希望の名において、信頼の名において、幸福の名において、光の名において、真実の名において、誠実さの名において、友情の名において、今、元来た所に立ち返れ」
 それはそれぞれ、解放プログラムを起動する際、八つの連邦で使った言葉だった。
『〜の名において』その八つの言葉が一つになった。
 PAXの球面の中央に、小さなスクリーンがある。そこに今、文字が出てきた。
【私は元来たところに帰ります・・・停止】
 そして数秒のち、表示が変わった。
【システム全初期化中・・】
「な、何これ、こんなことができるの?!」へレナが叫んだ。
「ああ。今PAXの内部では、すべてが消されていっているんだ。元からあったプログラムも書き換えられたプログラムも、すべて」
「でも、どうしてソーンフィールド総督が見抜けなかったのかしら。全消去プログラムがあったなんて……それにPAXのプログラムは、通常では書き換えできなかったはずよ」
「通常ではね。でも、そう設計したのはピエール・ランディスだから、彼だけは解除も出来るんだ。それにソーンフィールド総督は天才プログラマーで念写能力も持っていたけれど、元からあったコンピュータのプログラムをスキャンする力はなかったからね」
 アレイルは首を振り、マイクの隠されていた台座のプレートに触れた。
「それにPAXに自分の内容をすべて吐き出せと、指令することも出来ない。ハード的に不可能なように、設計されているから。だからソーンフィールドはPAXの内部に侵入して、システムファイルと人工知能を丸ごと書き換えた。彼は元のプログラムを知らない。知ることも出来ない。その能力も手段もないから。だから彼は一からすべてを構築し、上書きしていった。ピエール・ランディスの元プログラムでは、端末や回線を経由した書き換えは、できないようになっていた。だから本体に触れて直接書き換え、そしてまた自分と同じような能力者に同じことをされないように、コンピュータルームをここに移設し、部屋を真空状態にしたんだ。でもソーンフィールド総督は、設計者ピエール・ランディスがそのことを見越して隠した、外部プログラムのことは気づかなかった。これは最後のプログラムなんだ。マリアの青写真に従って作った――すべての子サーバーとの接続を切って、PAX単体になった時にのみ働くものだ。台座の中に組み込まれたプログラムは、さっき声で入力したあの言葉で、PAX内部に転送され、強制発動するようになっていた。PAX本体は、ミルトの力でもなかなか壊れない。それにこの連邦ビルの場合、PAX本体が壊れた場合は、地下部もろとも爆発するように設計されているんだ」
「ええ!!」みなはいっせいに声を上げた。
「でもそれは、ソーンフィールド総督が仕掛けたものじゃない。元々子サーバーが壊れたら中央庁舎が壊れるのと同じシステムだけれど、ここの場合は地下部にも、爆薬が埋め込まれている。そして第一連邦のビルだけは、PAXが壊れても破壊されない。あのビルだけは、爆薬がないんだ。なぜそうなったのか。それはすべてマリア・ローゼンスタイナーが残した、白ディスクの遺言に記せられた事なんだ。ビルの連動自爆も、強制初期化も、彼女がデザインし、ピエールとエレノアがそれに従って実行した。ああ、初期化が終わったみたいだ」
 PAXからピーと小さな音がなった。
【初期化完了】
 同時に、それまでかすかに響いていた小さな唸りがやんだ。PAXの小さなスクリーンは再び空白になった。エマラインは進み出て、透明なケースに触れた。
「安らかに眠ってね、PAX。あなたは悪くない……」
 ケースからは相変わらず、ソーンフィールドの邪悪な思いが感じられる。しかしもっと過去からの木霊も聞こえた。隠された緊急プログラム――システム全停止、内部プログラム、レジストリ全初期化という、コンピュータにとっては自殺ともいえるこのプログラムは、暴走してしまったPAXを、尊厳をもって止めるために組まれたものだった。
『出来るならば、こんなプログラムは起動させたくない。しかし、PAXがあるべき姿とは別のものへと変えられたら、これが最良の方法だ。そうしておけば、RAYからプログラムを送って、本来の姿に戻せる』
 それはピエール・ランディスの思いだった。彼にとっては、エレノアとの間にもうけた三人の子供と同様、PAXとRAYも心血を注いで作り上げた子供だった。その思いは、愛情に満ちたものだった。
「PAXは機能を止めたけれど、でも本体を破壊しなくて、どうやってRAYに制御を渡すの? もしRAYからのファイバー束が、この台座の下に来ているとしたら……」
 ヘレナが少し気遣わしげに問いかけた。
「ここは本来の場所から移設されているから、この台座の下にRAYからの接続線は来ていないんだ」アレイルは首を振り、言葉を継いだ。
「だけどこの台座内部に、通信中継局が埋め込まれているんだ。マイクとプログラムチップが隠されている場所に。RAY側からの中継局は、この第一都市の沖合い、すぐそばにある。この間の通信は、世界連邦初期に飛ばして、今も軌道を回っているあの衛星を中継して、届くようになっているんだ。そしてそのために、このPAXの箱やビル内部には、細い『道』がある。通常無線は通さないハードグラファイトさえ、鋳型に入れて固める時に、一ミリほどの細い隙間を作って固めた。その間を通るように。ソーンフィールド総督がここに移設した時に使ったハードグラファイトも、もともとはここの倉庫にあったもので、同じようにピンホールが空いていた。総督は知らなかったけれどね。このビルの天井や壁にも、そしてドームにもピンホールがあって、そこを通って無線が届くんだ。ドームに遮光塗料を塗った時も、そのピンホールの部分は塗料が脱落するようにした、百年ほどたってから。無線だから、速度はあまり出ないけれどね。PAXの機能停止を受けて、RAYが動き出したみたいだ。ほら」
 PAXの小さなスクリーンに、再び文字が現われている。
【プログラム転送開始】
「えっ?」へレナが驚いたように目を見張った。
「今RAYがPAXに、自分のプログラムを転写しているようだよ。少し時間がかかるけれど」アレイルはそのスクリーンを見ながら、そう説明した。
「どのくらい時間がかかるかしら」
 へレナも小さなスクリーンを見ながら呟くように問いかける。
「十六、七分くらいかな。無線通信だと、ファイバー経由の時ほど大量のデータを送付できないから。それにここは深地下だから、それほど速度も出ないしね。そのあと更新禁止処理が入って……あと二十分で、新しいPAXが動き出すよ」
「しかし、今、上ではどうなってるんだろうな」
 リンツが天井を見上げた。
「そうだね。PAXが機能を止めたのはわかっているから、きっと大騒ぎだろう。でも、ここにいる僕らには手が出せないから、ただ手をこまねいて見ているしかない。ああ、『いずれ現われるから、戦闘体制を強化しろ』って言っているようだね」
「大丈夫かよ。ああ、あんたの作戦を疑うわけじゃないけどさ、アレイル、きっと成功する見通しがあるんだろうとは思うよ。でもさあ……なんかおれ、不安でさ」
「百パーセント成功するかどうかは、僕も確信がないよ。でも、これがきっと最上の方法のはずなんだ。ピエールとエレノアとマリアの、世界連邦の理念を継ぐのなら」
 しばらく、みなの間に沈黙がおりた。傍らの酸素ボンベからは少しずつ酸素が吐き出され、この完全密室で消費される七人分の酸素を供給していた。同じ密室とはいえ、天井から換気口がビル内の空調システムにつながっていた他のコンピュータルームとは違い、ここは天井にほんの小さなピンホールが空いただけの、ほぼ完全なる密室なのだ。その間にも、再びかすかな唸りを上げ始めたコンピュータの小さなスクリーンの表示が、少しずつ動いていく。
【システム・プログラム転送中――現在○○パーセント】
 その数字が百パーセントになると、【インストール中】さらに【プロテクト処理中】に変わる。そして転送が始まった二十分後、ついに表示が【PAXシステムは正常に復旧されました】となった。
「本来のPAXが動き出すのね。そしてRAYが」
 エマラインは、かすれた声でささやいた。
「ここまで終わったら、台座は元に戻しておこう」
 アレイルは再び台座の別の面に触れ、もう一度パターンを押した。台座の一面は再び反転し、元の何もない黒い側面にかえった。
「それもLOVEなのか?」リンツが聞く。
「いや、こっちはHOPEだよ」アレイルは首を振った。
「愛、希望、幸福、信頼――あの八つの言葉は、どれもこの世界にはなくなっていたもの、異端とされたものだけれど、本来の世界連邦の理念だったんだ。どれも、漠然とした大げさな言葉かもしれない。でも、とても重要なものには変わりないと思うんだ」
「そうね」エマラインは頷いた。
「時間だ。仕上げはPAXがやってくれるよ」
 アレイルは再び動き出した白い球体を見た。

 世界連邦ビル地下一階にある仮設総督室では、ジョグスレン総督、ジョーンズ総長、そしてスミソンズとクラークソンが集まっていた。彼らの周囲には二五人の精鋭軍兵士が、油断なく目を光らせながら見回っている。ついたてで仕切られた隣室にも、さらに二五人が控えていた。
 四人は『第一連邦のコンピュータルームに侵入者』の警報によって、眠りから覚まされた。そしてスミソンズとクラークソンが仮設総督室に駆けつけ、地下警備の兵たちに警戒を強めるよう呼びかけた数分後『第一号機とのリンクが失われました』と、PAXが報告してきた。一行はなすすべもなく、ツインビルの片方、第一連邦ビルが爆発するのを待った。しかしPAXの報告から三十秒が経過しても、ビルは無傷だった。第二、第七両連邦からの報告では、中央コンピュータが壊れて三十秒後に、ビルの地上部は爆発するということだった。しかしここ第一連邦では、爆発する気配はまったくなかったのだ。
「どうなっているんだ?」
 総督、総長とともに顔を見合わせたが、答えは見つからなかった。そして最初の報告から約七、八分後、ビル内の電気が消えた。同時にすべてのコンピュータ端末のスクリーンが短く鋭い警告音とともに、真っ暗になった。
「どうなっているんだぁぁ!」
 ジョグスレン総督が混乱したように叫んだ。
「PAXが、PAXが破壊されたのか!! 我々はどうなるんだ!!」
「落ち着いてください、総督閣下!」
 ジョーンズ総長が、これも動揺を隠せない声で叫んでいた。
「これが落ち着いていられるか! 終わりだ! もう終わりだ!!」
 総督の声は、恐慌状態に近くなっていく。
 護衛の兵士たちも、にわかにざわめきだした。
「奴らはきっと来るぞ! ここに来るぞ! 油断するな!」
「おう! しかし、どこから現われるんだ?」
「わからん。ともかく油断するな」
「奴らはここに、我々を殺しに来るのか!!」
 ジョーンズ総長が突然、パニックに駆られたように叫んだ。
「ひいいぃ! いやだ! 私はいやだ!」
 ジョグスレン総督がヒステリックな声を上げる。
「落ち着いてください、お二人とも!」
 スミソンズは声を張り上げた。総長や総督の様子は滑稽でもあったが、同時に彼らの恐怖が自らの恐怖としても押し寄せ、むしろ自らに言い聞かせるように、彼はさらに続けた。
「落ち着いてください。パニックになっては、相手の思う壺です!」
「総督、総長。とりあえず、この机の下に避難されてください。そのほうが安全です」
 クラークソンが誘導している。しかし、その声も震えていた。
「裏をかかれることはないだろうな」総督が疑わしげに問い返している。
「私とスミソンズが、その前で護衛いたします」
 スミソンズも大きな机の前に行き、その下に隠れた二人の前に立って、自ら盾となった。しかし内心は激しく揺れていた。総督も総長も、つまらぬ人間に見えた。その男たちのために、なぜ自らの命を捧げて守らなければならないのだ。奴らはここに、殺しに来るのだろうか。他連邦の総長や兵士たちを皆殺しにしたように。死ぬとは、どういうことなのだろう――気がつくと、額に冷たい汗がにじんでいた。馬鹿な、この私が恐れるとは――。
 スミソンズは、ちらりと傍らのクラークソンを見やった。その表情は見えないが、両手でデスクのふちを後ろ手に握って立っているらしいクラークソンも、かすかに震えているようだ。奴も恐ろしいのだろう。しかし、奴を笑えはしない。取り乱した総督や総長のことをも。自分も恐ろしいのだ――そうはっきり自覚して、スミソンズは首を振った。いかん、私は弱くなっている。つまらぬ人間に成り下がっている。冷静にならねばならん。冷静に、冷酷に――第一連邦中枢のナーサリーで生まれ、育ち、ここまで成り上がってきたヴァーノン・スミソンズの、それは生命線とも言える信条だった。
 デスクの上の無線機が小さく鳴った。クラークソンがそれを取り、しばらく話した後、再び元の位置に戻していた。
「隣のビルの地下五階部隊からだ。こちらのビルの電気が消えたという報告を受けて、連絡してきたらしい。向こうではビル機能が復帰しているほかは、変化がないそうだ」
「向こうが復帰しているということは、第一連邦もリザーバーの支配下に入ったということだな」スミソンズは呟き、そして続けた。
「連中は今、何をしているんだろうな」
「さあな……我々の様子を見て、隙ができるのを待っているのかも知れん」
 クラークソンが答えると、デスクの下から総督が「ひぃぃ」と声を上げた。スミソンズは軽蔑の念を押さえつけた。自分も心臓がつかまれたような恐怖を一瞬覚えたからだ。
 暗闇の中――いや、兵士の何人かがあらかじめ携帯していた非常用ライトをつけたので、ほのかに薄明るいが、いつどんな武器を持って現われるかもしれない敵を待つことは、恐ろしい緊張と不安だった。その時間が延びていくにつれ、それは膨れ上がっていく。時間はゆっくりとたっていくようだった。しかし緊張の糸を切ることは許されない。連中はそれを待っているのだ――。




BACK    NEXT    Index    Novel Top