Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第6章 夜明け (1)




 若い女性が一人、石の上に腰掛けていた。年のころは二十歳前後だろうか。長くまっすぐな金色の髪が、微かに吹きすぎる風に揺れている。背の高さは普通だが、その体の線ははっとするほど細かった。彼女は膝下までのスカート丈がある白いワンピースを着て、素足に白いサンダルを履いている。足元には砂浜が広がり、目の前には湖が広がっていた。それはまるで海のように大きかったが、対岸の景色を、はるかな霞の向こうに認めることが出来た。彼女の紫色がった大きな灰色の瞳は、じっと湖面を見つめているように見開かれていた。しかし、その眼は何か他のものを見ているようでもあった。
 湖の背後には林があり、その木々の緑の中から、もう一人の女性が出てきた。年のころは湖畔の乙女と同じくらいで、背の高さもほぼ同じだったが、異様な線の細さはなく、健康そうに引き締まった体躯だった。肩にかかった髪は黒っぽい褐色の巻き毛で、顔立ちははっきりとして整い、唇と頬には気持ちの良い赤みが差している。黒く長いまつげに囲まれた瞳は、澄んだ緑色をしていた。彼女は鮮やかな赤いブラウスと、足にぴったりとした濃いグレーのズボンを身に着け、飾りのないシンプルな黒い靴を履いていた。
「マリア、またここにいたのね」
 後から来た方の女性が、湖畔に座っている女性に向かって呼びかけた。
「ああ、エレノア」
 呼ばれた女性は振り向き、微かな笑みを浮かべて頷いた。
「あと一時間でゲートが閉まるわよ。リーフも学校から帰ってくるから」
 後から来た女性はそう言いながら、金髪の女性の傍らの砂浜に腰を下した。
「ええ、そうね……」マリアと呼ばれた女性は頷き、視線を湖に戻す。
「またあらざるものを見るのは、止めた方が良いんじゃない、マリア? あなたはそのせいで、最近病気がちなんじゃないかと、あたしは疑っているのよ」
 エレノアと呼ばれたブルネットの女性は、軽く頭を振った。
「病気ではないと思うのよ。ただ体質が、極端に弱くなっただけだわ。それは、力とは関係ない……いえ、逆に身体が弱くなってからね。見えざるものがはっきり見えるようになったのは」
「だからそれがね、そのせいだって言うのよ」
 エレノアは少しじれったそうに髪を振りやった。「やめなさいよ、もう。ここへ来て、先を見ようとするのは。未来が見えたって、仕方がないことなんじゃないの? あたしたちにはどうしようもない、変えられないことなんだから」
「どうしようもない未来もあるわ、たしかに」マリアは静かに頷いた。
「でも、事前に知っていれば、変えられる未来もある。エレノア、わたしは今も後悔していることがあるの。二年前にあなたとクリスが……」
「もう止めてよ、そのことは。今言っても仕方のないことなんだから」
「ごめんなさい。でも、これだけは言わせて。わたし、あの時もなにか胸騒ぎがしていたのよ。でも危険が迫る十分前になるまで、わたしは実際に何が起きるのか、わからなかった。九年前、ピクニックキャンプが襲撃された時にも、わたしは朝から不安を感じていたけれど、直前になるまで、具体的に何が起きるのか、わからなかった。自然に任せていては、遅いのよ。もう引き返せないところで、知ることになってしまう。一度起こって現実になったことは、もう取り返せない。でも、もし事前に何が起こるかわかっていて、それを回避する手段があれば、未来は別のものに変わることが出来るのよ」
「たとえば、ピクニックキャンプが襲撃されるのがわかっていたら、中止したのにということ?」エレノアは苦い記憶を振り払うような口調で、そう問いかけた。
「無理じゃないの、それは? 人があなたの言うことを信用するかどうか、わからない。たぶん狂人扱いされるのがオチよ」
「そうね。キャンプ自体を取りやめさせることは出来なかったでしょうね。でも少なくとも、わたしたちの一家だけでも、中止させることが出来たら……」
「少なくともパパとリルカは、死なずにすんだわね……」
 エレノアは頷き、しばらく二人の間に沈黙があった。
「でも、それでも……隣の若奥さんと赤ちゃんも、メリサとおなかの赤ちゃんもやっぱり殺されていたでしょうし、ミュリエルもきっとひどい目にあって、いまだ精神障害を負っていたことには、変わりないわ」
「そうね。ピクニックキャンプのような大勢の人がかかわることでは、変更させるのは難しいのよ」マリアも悲しげな表情で頷いた。
「じゃあ、もしあの日、クリスとあたしがドライブに出かけなかったら……」
 エレノアはためらうような口調で、そう問いかけた。
「襲われることはなかったでしょうと思うわ。あれは偶発的な災難だから」
「そう……じゃあ、今頃はどうなっていたのかしら、あたしたち……」
「ごめんなさい……わたしは起こりうる可能性しか見えないの。もう確定してしまったことでない時間軸は、決して起こりえないことだから……」
「そうね。もう取り返しのつかない現実よね……」
「ごめんなさい」
「あなたがあやまることはないわ、マリア。あたしもきっと、たとえ警告されていたとしても、あの頃にはそれほど、あなたの未来予知を信用していなかったでしょうし、それにね、そんな能力は極力人に知られない方が良いわよ。ママが言っていたように。ろくなことにはならないわ。人に危険を警告したって、感謝されることは、あまりないと思うのよ。むしろ気味悪がられるだけだわ」
「ええ。わかっているの。わたしはヘンリー伯父さんが、信用のならない相手と取引をしようとしていた時、忠告しようとしたけれど、結局言っても伯父さんは聞かなくて、財産を失うことがわかっていたから、言えなかった。その場合、結果は変わらないのに、かえってわたしを恨むことになってしまうし。アンナのお姉さんの子供が死んで生まれるのが、わかってしまったけれど、それを告げることは出来なかった。告げたって、どうにもならないことだから。少なくともお腹の中にいる間だけは、幸せでいてほしいと思ったのよ。従弟のジョンの子供が障害児だっていうことも、わかってしまった。でも告げたら子供を中絶してしまうことがわかって、考えてしまって、言えなかった……」
「だから、未来なんて見ないほうが良いのよ。ろくなことにはならないんだから」
「それでも、それを知ることによって、回避できることが、あったらいいと思って……」
「悪い未来を回避できる手段があればね。それはそれに越したことはないけれど」
 エレノアはしばらく黙り、その後思い切ったように聞いていた。
「マリア、あなたには見える? 今の動乱時代が、八十年にわたるごたごたが、どういう決着を見るか。二つの国家、二つの家はずっと分裂し続けるのか、それともどちらかが勝って統合されるのか」
「二十年以内には、決着がつくわ」
「へえ、そうなの? どちらが勝つの? ランディス家? それともカーライル?」
「ピエールが勝つわ」
「ピエールなの? だって、あの人は総領じゃないわよ。ガーフは?」
「ガーフはカーライル家の刺客に倒されるわ。あと二年後に。ナディアも一緒に」
「まあ! それは防げないの?」
「ピエールにわたしが警告することで? いいえ、それでも……その場合の未来でも、結局二人は命を落とすわ。そしてその場合、それから先はもっと悪くなる……ピエールは敵の手先と思われてしまうから……」
「そう……それでは、仕方がないのね。でもピエールはガーフと違って、ひ弱そうね。戦いには、大丈夫かしら。ああ、あなたの恋人を悪く言うわけじゃないんだけれど……学者タイプよね」
「ええ、でもピエールは頭が切れるわ。それにプログラミングの腕は天才級よ」
「頭脳戦向きと言うわけね」
「そう。そして最後に彼は勝つわ。長い戦いの後に」
「そう、それは良かったわ。あなたの恋人が世界統一できたら……凄いじゃないの、マリア。これにあなたが名参謀としてつけば、怖いものなしね。先が予測できるから」
「それが出来たらいいのだけれど……」マリアは微かに吐息をついた。
「ピエールは、あなたの力を知っているの?」
「今は、まだ知らないと思うわ」
「そう。でも、知らせても大丈夫じゃないの? 彼がどういう反応をするか、あなたには予測できるでしょうけれど」
「彼は驚く。でも、いくつかわたしが証拠を見せれば……たとえば二週間以内の主な出来事を事前に知らせて、そのとおりになることがわかれば、彼は信じると思うわ」
「そう。それなら、言っても差し支えないじゃない」
「ええ……でも今は、その時期ではないわ」
 マリアはしばらく黙って湖面を見つめた後、立ち上がった。
「帰らないとね。ゲートが閉まってしまうわ」
「車で来たの、ここまで?」
「ええ。森の向こうに止めてあるわ」
「あたしはエアロスクーターできたから、一緒には乗れないわね。まあでも、帰りましょう。リーフも帰ってきちゃうから」
 エレノアも立ち上がって、砂を払い落としながら言う。
 二人は並んで、岸辺の手前に広がる森の中に入っていった。

 暗闇の中、エマラインははっと頭を起こした。夢の中に切れ切れに入ってくる話し声、マリアとエレノア――映像はぼんやりとしか見ることが出来ないが、あれは世界連邦創世の二十年前に交わされた、姉妹の会話なのだろうか。エマラインは身体を起こし、ベッドで寝ているアレイルの腕に、そっと触れてみた。彼が瀕死の重傷を負い、意識不明になってから五日が経過していた。その間、エマラインはできる限り、アレイルの部屋にいた。夜も、三日目だけは自分の部屋に戻ってベッドに眠ったが(『せめて三日に一度くらいは、ちゃんとベッドで寝た方が良いわ』とヘレナに忠告されたからだ)、それ以外はずっと彼の枕元の椅子に座り、ベッドに半分寄りかかって寝ていた。彼が意識を取り戻した時、そばにいたい――その思いで。時々その意識を探ってみても、真っ白で何もなかったが、今は夢を見ているようだ。さっき感じた思いは、彼の夢の中から伝わってきたものだった。それはたぶん、七百年以上前の歴史の木霊。アレイルの夢の中では、明確な映像とともに、はっきり再現されている過去なのだろう。エマラインには切れ切れの映像と感情を伴った情報しか伝わっては来ないが。
 彼女は目を閉じ、そっとその手に触れながら、さらに聞き入ろうとした。映像には表れない、エレノアとマリアの生きていた時代背景、そして彼女たちの半生が、夢の中で伝えられる知識として流れ込んできた。
 二人が生きていた時代は、今から約七百年あまり前。長く続いてきた平和な時代が、ある野望と力に満ちた一人の男、ダレン・バートランドの前に敗れ去ってから、数十年間に渡って続いた混乱の後、分裂した世界、カーライル家とランディス家が世界を二分してにらみ合っていた、百年戦争の終わりごろだった。ランディス家は本拠を今の第一連邦第一都市におき、今の第二、第七そして第八連邦を傘下に入れていた。カーライル家は今の第三連邦第一都市に本拠を置き、第四、第六、そして第五連邦を傘下に入れていた。百年の間に三回ほど、大規模な戦争が起きた。しかし、それぞれにかなりの被害を出しただけで(とくに双方の取り合いになった第五、第八連邦は何度か所有が変わり、荒廃した)、決着はつかなかった。そしてここ二五年ほどは、何度か小競り合いはあるものの、状況は膠着していた。
 エレノアとマリアは第一連邦第一都市の(当時は、ニューヨーク市と呼ばれていたが)住民であった。この頃の都市はみな透明なアグノイト製のドームに覆われていたが、街には四箇所のゲートがあり、十時から十八時までという時間制限つきではあったが、そこから都市の外に出ることが可能だったのだ。
 エレノアとマリアは、父テイパー・マクニコル・ローゼンスタイナーと母アリソン・シンクレア・ローゼンスタイナーの間に生まれた、双子の姉妹だった。双子ではあるが、二人は容姿も性格も対照的な印象で、似ていなかった。当時は今と違い、二卵性の双生児でもまったく問題はなく、彼女たちは両親の愛を受けてすくすくと育ち、七年後には妹リルカが、それから三年後には、弟リーフが生まれた。幸せな家族だった。
 エレノアとマリアが十三歳の時、一家はピクニックキャンプに出かけた。それはその当時時々行われていた集団レクリエーションで、ブロックごとにまとまって大型シャトルに乗って街の外へ移動し、そこで遊んだりランチを食べたりする集いだった。その時には、老人から小さな赤ん坊まで、約二百人が参加していた。ランチが終わり、めいめいにくつろいでいた時、突然空から数機の大型飛行機が編隊で飛んできた。そして上空から爆弾や銃撃を浴びせてきたのである。その後、地面に降りてきた飛行機から何台も小型シャトルが出てきて、乗り込んでいた数十人の男たちは、さらにレーザーや機関砲を人々に撃ちかけていった。人々は悲鳴を上げて逃げ惑い、炎と銃声の中で次々と倒れていった。父テイパーと当時六歳だったリルカは、その襲撃で命を落とした。混乱の中で姉妹は小さな弟を抱いた母とはぐれ、二人で命からがら逃げ延びた。放浪した末、再び街にたどり着き、同じく逃げ延びてきた母と弟に再会したのである。参加者約二百人のうち、命を落とさずにすんだのは十人あまりしかいなかった。一緒に行った、二人の親友であるミュリエルという少女は、命は助かったものの、精神的なショックが大きすぎて、正気を失った。姉妹の母親アリスンもその時に負った怪我で足が不自由になり、さらに二次的な後遺症で五年後に亡くなっている。その襲撃はカーライル家が時々行っていたものの一つだったが、これほど本拠の近くで起きたことに、ランディス家は衝撃を隠せないようだった。
 事件の翌年、マリアは偶然ランディス家の次男、ピエールと知り合った。ピエールは当時十七歳、青白い顔のやせた、背ばかり高い少年だった。七歳年上の兄、ガーフ、ことガーフバルト・ランディスがたくましく、人をひきつける力を持った総領で、誰もが現在のランディス家の党首であり父親であるジャン−バルトの後継者であると信じて疑わなかったので、一日中コンピュータ端末の前に座っているようなひ弱な少年ピエールは、ランディス家からも、あまり重きを置かれていないようだった。四歳上の姉ナディアの方がまだ、ピエールより役に立つと言われてさえもいた。孤独な少年は優しい少女と出会い、惹きつけられた。まもなく二人は付き合うようになったが、その頃にはピエールの動向はあまり注目されていなかったので、妨害はなかった。
 事件から五年後、母のアリソンが死去し、その涙も乾かない頃、エレノアは恋人クリストファー・トラヴァースと郊外にドライブに出かけ、悪夢の再来にあう。こんどは前回ほど大人数ではなく、相手はせいぜい十数人のゲリラ部隊だったが、なんとか逃げて、エアロカーに飛び乗ろうとした瞬間、クリストファーは撃たれてしまう。エレノアは恋人を車に乗せ、なんとか発進させて逃げることが出来た。しかし彼は街に着くまでに、息を引き取ったのだった。
 マリアが佇んでいた湖は、第一連邦第一都市から北に、個人用シャトルで一時間ほど離れた場所にあるようだった。対岸は第二連邦だ。その頃はまだ、カナダ地区と呼ばれていたが。夢は場面が転換しただけで、まだ続いているようだった。姉妹は家に帰ってきているようだ。リビングのテーブルに二人と、栗色の巻き毛に灰緑色の眼をした、十歳くらいの少年がいる。たぶんこの子が弟、リーフなのだろう。キャビネットの棚には三枚の光学写真が飾ってあった。父と母、そして六歳で死んだ小さな妹。女の子はダークブロンドの巻き毛に、ぱっちりとした灰色の目をしていた。母親は娘と同じような色合いのダークブロンドの髪に、灰緑色の目の、はっきりした顔立ちの美しい人だった。父親テイパーの顔は、あの暫定新総長「テイパー・マクニコル・トラヴァース」だった。解放プログラムに組み込まれた新暫定総長のイメージは、エレノアとマリアの父親がモデルだったのだ。彼の名前はテイパー・マクニコル・ローゼンスタイナー。そのラストネームを落とし、かつてのエレノアの恋人の苗字、トラヴァースをつけて合成されたのが、あの新暫定総長なのだ。

 場面が再び転換した。それからさらに四年後だ。十九時ごろ、仕事場である教育局から帰ろうとしていたエレノアのもとに、十四歳になった弟リーフから、通信が入った。
「マリアお姉ちゃんが帰ってこないんだ」リーフはそう言っていた。
「僕が学校から帰ってきた時、お姉ちゃんはいなかった。エアロカーもないから、また外に行ったのかなって思っていたんだ。夕食はテーブルの上に用意してあるし。でも、もう十九時近いのに、まだ帰ってこないんだ。街のゲートも閉まっちゃってる時間なのに、どこ行っちゃったのかなと思って。それでマリアお姉ちゃんの部屋に行ってみたら、テーブルの上に、エレノアお姉ちゃん宛の手紙があったんだけど、僕は読んじゃいけないかなと思って、そのままなんだ」
「なんですって?!」エレノアは叫んだ。
「すぐ帰るわ、リーフ。そのまま待っていて。ああ、夕飯は先に食べてて良いわ」
「うん。わかった」
 家に戻ると、たしかにマリアの部屋のテーブルの上に、白い封筒が乗っていた。封を開けると、青と白の薄い記録用光学ディスクが二枚入っている。青のほうには一、白には二とナンバリングしてあった。エレノアは部屋にあるコンピュータ端末のスイッチを入れ、青のディスクを差し込んだ。記録されていたマリアのメッセージが、スクリーンに現われてくる。

 親愛なるエレノアへ

 ごめんなさい。未来のために、これがわたしのとる最善の道だとわかりました。カーライル家はここ十年ほどゲリラ戦術に近い形で、様々な揺さぶりをかけてきたけれど、今ジャン−バルト卿が病床にあり、ガーフとナディアが殺され、後継者がピエールだけになった今、彼をもまた抹殺しようと計画し、そのためにわたしが人質にとられること、そしてその際にこの家が襲撃を受け、あなたとリーフの命が危うくなることを知りました。その前にわたし自身が命を断てば、この運命は回避できます。それ以外では回避できません。

 そこまで読んで、エレノアはがたんと椅子を倒して立ち上がった。その顔は蒼白で、震えていた。自家用車がないというリーフの言葉で、双子の妹がどこへ行ったのか、ぴんと来た。彼女のお気に入りの場所、あの湖のほとり――マリアはまさか、そこに身を投げたのだろうか。それとも何か刃物を持って行って、我が身に突き刺したのだろうか――?
 エレノアはキャビネットにはめ込まれた時計を見た。もう十九時三十分では、都市の外へ出ることは出来ない。明日の十時まで待つしか――いや、仮に今行ったとしても、もう助けられないのではないかという暗い絶望感が、彼女を襲っていた。
 翌日、マリアは湖から発見された。彼女の遺体は湖面に浮かび、その髪が湖面のさざなみとともに、太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。着衣に乱れはなく、遺体に傷もなく、そのまま湖の中に自ら入っていったようであった。エレノアはマリアが残した二枚のディスクの一番の指示に従って、マリアの机の引き出しに入っていた『遺書』を警察に提出した。それには、病弱のあまり仕事に就くこともできない自らを悲観して、命を絶ったという旨が記されていた。それはマリアがあらかじめ警察に提出するように作っておいた偽りの遺書だったが、そのために彼女の死は病苦による自殺として処理された。この時代では以前ほど自殺は許しがたい悪とはされていなかったため、普通に葬儀も行われた。悲しみにくれたピエールも参列した。
 
 マリアの葬儀から三日後、ピエールがお忍びでエレノアの家を訪ねてきた。
「僕はマリアが病気を苦にして命を絶ったとは、どうしても信じがたいんだ。彼女は確かに外で仕事は出来なかったけれど、家でできる限りのことをしていて、満足していると言っていたし、身体が弱いのを悲観していたとも思えなかった。だから、君がもし何か知っていることがあったら、教えて欲しい」と。
 エレノアはかつてのマリアの部屋にピエールを招き、そこですべてを打ち明け、告げた。
「マリアは、あなたが世界統一を果たせると言っていたわ。そのためにあなたが用心しなければならないこと、しなければならないことが、その青い方のディスクに入っているの。それを見て、是非、実行してちょうだい。マリアの死を無駄にしないで。あの娘はわたしとリーフと、あなたの命を救うためだけでなく、この世界全体を救うために、自らの命を捨てたの。カーライルが世界統一をすれば、この世界は救いがたいものになる。ロマリア連邦の現状を見れば、一目瞭然だわ。だから、お願いよ、ピエール。あの娘を愛しているなら、あの娘の遺志を無駄にしないで」
 ピエールは青ざめた顔で、マリアが遺したディスクを再生してみていた。二人の間に長い話し合いがもたれたあと、ピエールはマリアの意思を生かし、世界統一へ向けて、カーライル家率いるロマリア連邦に勝利することを誓った。
「君にも、力を貸してもらえないかな、エレノア」ピエールは熱心な口調で頼んだ。
「マリアもそう書き残している。君の協力を仰いで欲しいと」
「ええ、あたしで役に立てることなら、喜んで」エレノアは頷いた。
「マリアも書いていたけれど、それならすぐに、ここから引っ越して、僕の家の別棟に移って欲しい。もっと前から、そうすべきだった。僕が気づかなかったばかりに、マリアは死んでしまった。でも、これから僕にかかわれば、君もまた危険になる」
「わかったわ。でも、すぐには無理よ。明日で大丈夫でしょう? マリアも別に引越しの時期についての警告は、していなかったみたいだし」
「ああ、それじゃ明日の夕方、君とリーフを別邸に迎えさせるよ。僕のゲストとして。そこからはじめよう。マリアの『青ディスクの遺言』を実現させるために」
「ええ。よろしくね」
 そして、ピエールは帰り際にたずねた。
「ところで、マリアが遺したディスクは、もう一枚あったね。あの白いディスクには何が書いてあったのかい?」
「あっちのほうは、統一後の青写真のようよ。いわばね、青い方は統一前、白い方は統一後の方向指南書のようなものみたい」
「統一後?」
「そう。どうやら、あなたの理想とする世界も、それほど長くは続かないみたいなの。それを再び元に戻すためには、どうすればいいかということみたい」
「そうか。じゃあ、今はまだ見なくて良いな。マリアの青ディスクによると、あと十五年で、ほぼカーライル勢は殲滅できるらしいから、そのあとで白を見ることにするよ。ああ、そうだ。明日、君たちが僕の家に来たら、その時にこれを僕に預けてくれないか。僕は複製を取って、オリジナルは君に返すよ、エレノア」
「そうしてくれると、ありがたいわ」
 エレノアは微かに笑みを浮かべ、ピエールを見送っていた。

 風景が白くかすんでいった。やがて一面、真っ白な世界になっていく。その中に、声が響いてきた。
『そう。七百年近く前に、マリア・シンクレア・ローゼンスタイナーによって描かれた青写真、二枚目の白ディスクに書かれていた『特殊能力者による解放フェーズ』も、もうすぐ大詰めだよ。君たちはこれまで、彼女が見たとおりの未来を、現実にしてきたんだ。これからもそうであることを信じて、行くといいよ』
(ニコル? ……ニコルかい?)
 戻ってきたアレイルの意識が問いかける。
『そうだよ』
(そう。また会えて嬉しいよ。以前、君が僕の夢に出て来た時には、これで最後だって言っていたから、もう会えないかと思っていたんだ)
『あの時の僕と今の僕とは、違う所から来ているから』
(違うところ?)
『ああ、今の僕は、三年半前に死にかけていた僕じゃないんだ』
(夢で時渡りをしていた君じゃないということかい? だから……声だけなのかい?)
『そういうわけでもないけれど。今の僕は、君の覚えている僕とは違う姿になりつつあるから、もうそろそろ人格自体も、本体に統合されそうだよ。僕の本体はとても強くて、僕はその一部に過ぎないから、本来の僕に統合される時期が近づいてきたのだと思う』
(ニコル……? どういう意味だい?)
『君は僕のいる世界に、生あるものの世界ではなく、生の狭間で休息する世界に、あの時ひどく近づいたから、だから僕は君に会えた。アレイル、君はまだここに来てはいけない。でも、あの時君がとった道は、間違ってはいないんだよ。エマラインも見捨てず、君自身も助かる。その道は細く、ぎりぎりの狭間を通って行くようだけれど、これもすべて、デザインされた道なんだ。僕が言ったこと……情を切り捨てなければいけないと言ったのは、それまでの戦いのことさ。君も思ってきただろう。解放のために、大勢の命を犠牲にしてしまったと』
(ああ、そのことなんだね……)
『そう。だから自信をもっていい。君は間違ってはいない。君は定められた一つの道をたどるように、生まれてきた。他の人には見えない、あらかじめ決められた道を、自らが導いて具現化していく。君の名前も、それを象徴しているんだ。A-Rail。一本の定められた道。そのために政府の命名コンピュータに、干渉が入ったんだ』
(そうか……そんな意味があったんだ、僕の名前に。でも、どうやって干渉を……?)
『この世には、不思議な力があるんだよ。超能力だけでなくね』
 ニコルはどことなく、面白がっているような感じだった。
『ともかく、君たちの戦いの、最大の試練は超えた。あともう一つで終わる。そしてそのあとは、君は君自身の人生を、新しい世界で生きて欲しい。そうしたら、また僕は君に会える。新しい命を得て』
(どういうことだい?)
『人としての生は、生まれて始まり、死んで終わる。でも魂はそうじゃない。肉体が死んで、その時の人格が消えても、それを吸収して、次の生が始まるんだ。そうして成長していく。君が君になる前にも、多くの人生があった。僕が僕になる前には、それこそ数え切れない人生があったよ。でも僕にとっては、次が最後の一回だ』
 もやの中から、人が現われた。それはたしかにニコルではあったが、十五歳の少年の姿よりいくぶん大人びた印象で、そして丈の長い紫紺の服を着ている。
『もうこの姿でいられるのも限界だよ、アレイル。僕は本来の姿に帰る。今度の休息は本当に短いから。でも満足だよ。約束の時は、近づいてきているんだ』
(ニコル……?)
 ニコルの回りを銀色の光が包んでいくようだった。そしてそのまぶしい光の中で、彼は徐々に姿を変えていった。光が消えた後、そこには見知らぬ人物が立っていた。一部の隙もなく整った顔立ち、緑色に輝く瞳、琥珀色の長い髪の両翼には緑色が一房。頭に銀色のベルトのような装飾をつけ、後ろの方には虹色に光る飾りが揺れている。足元を包み込むほど長く広がった、紫紺に輝く衣装。
 見知らぬ人だった。それに、その雰囲気自体、まるで人間ではないような、高貴な、はるか上に属するなにかのようなもの――名状しがたい犯しがたさを持っている。しかしその人を見た時、アレイルは奇妙な既視感を覚えた。以前、はるか彼方の記憶の向こうで、この人は見たことがある。そして、この人ではないが似たような印象の――もう少し全体に白っぽい人も、かすかに覚えがあるような気がする。光と――本来の姿。だが、それ以上は、何も思い出せなかった。
『そう、あなたが抱いているその既視感、霞の向こうの不思議な記憶の断片こそが、転生する魂の記憶なのです』
 その人の声は、頭の中に直接響いてくるようだった。
(……あなたは、誰ですか? ニコル……だった? なんて信じられないけれど……)
『私はニコル・ローゼンスタイナー・ウェインとして、私の一部だけですが、十五年の短い生を生きました。本当に、今までの中ではあっという間の短さでしたね。瞬きをするくらいの間のような。この星でやっと肉体を持った転生だったというのに』
 その人は優美な動作で髪を振り、微かに微笑んだ。
『約束の時は、近づいているのです。そろそろお戻りなさい、あなたの場所へ』
(ええ……でも、あの……ニコル、じゃない……ええと、なんとお呼びすればいいんでしょうか……)
『名前は別に良いです。それに、あなたの言いたいこともわかりますよ、アレイル・ローゼンスタイナーさん。細かいことはまた、おいおいこれからわかっていくでしょうから。一つだけ、言っておきます。たしかにあなた方は、約七百年前のピエール・ランディス、デザインしたのは、マリア・ローゼンスタイナー、アシストしたのがエレノア、この三人の筋書きを現実のものにしていくプレイヤーなのですが、この壮大なデザインを作り出したのは、この三人ではなく、彼らもまたデザインの一部に過ぎないのです』
(彼らもまた、デザインの一部に過ぎない……?)
『ええ。本当の作り主は、あなたは神と言いました。あの時に……あなた自身に、その概念はなかった。でも、あなたの魂は知っていたのかもしれません。漠然とではあるのでしょうが。運命は、神と人とが決めるものです』相手はふっと笑った。
『今はまだ、理解できなくても良いのです。未来に躊躇する必要もありません。あなたは進んでいけばいいのです。あなたの信じる未来に』
(……ええ)
 頷いたところで、アレイルの意識は急激に何かに向かって、吸い寄せられるように落ちていった。そして彼は目覚めた。最初に灰色の天井が目に入り、ついで覗き込んできたエマラインの、今はすみれ色になった瞳と目が合った。
「アレイル! 気がついたのね!」
 エマラインは咽ぶように叫んでいた。
「ああ……エマライン……」
 彼は呟くように、それだけ言った。そして、微笑もうとした。ただ生きていることがありがたい――自分が、そしてみんなが。その思いが、ゆっくりと身体に浸透してくるようだった。




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