Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第5章 自由を求めて (4)




「コーヒーがはいったわよ、ジャック」
 ヘレナがキッチンからカップを二つ持ってきて、食堂のテーブルに置いた。昨日二人で配給センターにパンを取りに行った時、六階の食料雑貨コーナーから、百グラム入りインスタントコーヒーを一瓶と、三十個入りの角砂糖、そしてクッキーを二袋購入していた。こういったぜいたく品は、以前は高級官僚しか手に入らなかった。しかし今はそれほど高くない値段で、配給センターで購入可能になっていたのだ。ジャックとヘレナは逃亡する時に一度IDチップを取り外したので、第三連邦に滞在している時に、再発行してもらった。それは以前のように腕の中に埋め込むタイプではなく、細い指輪のようだった。それを使って、二人は買い物をしてきたのだ。
「おお、ありがとう」
 ジャックは座ったまま手を伸ばし、カップを取り上げた。
「チビさんたちには、ミルクね」
 ヘレナは再びキッチンから、コップに入ったミルクを三つ持ってくる。
「おれまでチビって言うなよ。そろそろコーヒー飲ませてくれよな」
 リンツが頬を膨らませた。
「おまえさんには、まだ早いだろ。ミルクで半分割って、砂糖をどっさり入れないとな」
 ジャックが肩をすくめる。
「砂糖って言えば、昨日買ってきた角砂糖、ミルトが五つも食べちゃったわよ」
 シェリーはそう言うと、ミルクをすすり、顔を上げて聞いた。
「ね、おねえちゃんとおにいちゃんは、待たなくていいの?」
「先に俺たちでお茶を済ませてくれとさ。そういう伝言なんだよ」
「しかし、ティータイムってのも、いいよな。前からじゃ、考えらんないぜ」
 リンツがクッキーをつまみながら、そんな感想を漏らした。
「あたしたちは、おやつの時間ってあったわよ」
「それはおまえさんたちが、お偉いさんの子供だったからだろ。庶民は違うぜ」
「まあな。俺たちは考えてみれば、みなそれまでの生い立ちは違うからな」
 ジャックがコーヒーをすすりながら、頷いている。
「だな。おれんとこは一般庶民で、シェリーとミルトは治安維持軍将軍のお子様たち、で、あんたたちは政府上級職と。エマラインとアレイルは一般庶民出だな。まあ、アレイルんとこは親父さんが警察官なら、おれやエマラインの家よりは、待遇少しは良かっただろうが」
「まあ、普通なら、出会うこともなかったんだろうがな、俺たちは。みんな出身連邦も違うし、育った環境も違う。でも、今はこうしているんだからな」
 ジャックは感慨深げに言い、そして傍らにいるヘレナを怪訝そうに見やった。
「ところで、静かだな、ヘレナ。まあ、君はもともと物静かだが、なんだか考え事をしているようにも見えるぞ。どうかしたのか?」
「ええ。でも……」
 へレナはリンツとシェリーをチラッと見やって、言葉を継いだ。
「でも、子供たちの前では……」
「なんだよ、おれたちお邪魔かよ」
 リンツがちょっと気分を害したような声を出した。
「いえ、そんな意味ではないのよ。ただね……」へレナは一瞬黙り、続けた。
「ただ、子供たちには、あまり無駄に心配をかけたくないのよ」
「子供っていうけど……あたしたちにも、教えて欲しいわ」
 シェリーは目を上げ、真剣な表情で二人の大人たちを見た。
「あたし、知ってる。今まで、ヘレナさんやジャックさん、それにおにいちゃんもおねえちゃんも、あたしたちに心配かけないようにって、他のところで話していたの。でもね、あたしたち、みんな一緒に戦ってるんだから、子供だから心配かけないようにって、子供だからって……置いてきぼりにしないで欲しいの」
「そうだよ。シェリーの言うとおりだ。それにおれは、自分を子供だと思ってねえぞ。なのにいつもシェリーやミルトと一緒にされるんで、やなんだよな!」
「失礼ねえ! それにあんただって、十分子供だと思うわ」
「んなことねえよ」
「あたしと対等に喧嘩してるんだから、あたしが子供なら、あんたも子供よ」
「うっ……そう言われると。だが、でもなあ……」
「わかったわ。わかったわよ、チビさんたち」ヘレナは苦笑していた。
「だから、チビさんはやめてくれっての。チビはミルトだけで十分だよ。あいつだけは、本当にチビだけどな」リンツは赤毛の頭を振ってそう抗議し、
「そうそう。それにあたしたちの話も、あまりわからないだろうし」
 シェリーは弟を見やりながら頷いた。ミルトはクッキーとミルクを平らげたあと、床に滑り降りて、ブロックつみ遊びを始めている。
「わかったわ。ごめんなさいね」へレナは再び苦笑し、小さく首を振っていた。
「で、君の心配ってなんだい、ヘレナ」ジャックが問いかける。
「あのね……少し、変だと思わない?」
「何が?」三人はいっせいに聞き返した。
「いえね、アレイルのことが。彼、ここを落としてから八日たつけれど、まだ第一連邦の戦いについては、まったく何も指針を立てていないでしょう。珍しいと思わない? 今までずっと先の先まで見ていた彼が、最後の最後に来て、なぜ何もしないで、ずっと立ち止まっているのか」
「いろいろ難しいんじゃないのか、さすがに第一連邦戦ともなると。だから、あれこれ考えなければならないことが多いんだろう」ジャックが肩をすくめる。
「それと、いざとなって、おれらが前みたいに倒れたりしないように、休みを入れてるんじゃないのか?」リンツは首を振っていた。
「そうだといいんだけれど……それならそれで、そう言うはずなんだけれど、なんだか私の感じでは、第一連邦戦のことを考えているようには見えないのが、気になって。先のことを聞いても、『少し休もうと思う』しか言わないのは、今までになかったし」
「……アレイルおにいちゃんも、疲れてるんじゃないかしら」
 シェリーは頬杖をつきながら、首をかしげていた。
「あたし、おにいちゃんの能力って、よくわかってるとは言えないけど、でもね、リンツもミルトも、前に疲れて倒れちゃったし、あたしも最初に逃げる時、バリアを張るのに、ものすごく疲れたもの。おにいちゃんの能力って……うーん、たとえば一生懸命ずうっと勉強すると、頭がボーっとするみたいな、そんな感じなのかもしれないなって思うのよ」
「ESP能力っていうのは通常とは違う力だから、身体にとっては非常に負担だし、非常に多くの労力を削ると、私も聞いたことがあるわ。だからリンツやミルトが倒れたのは、とても納得できたし、あなたがバリアを張り疲れて気絶したというのも、わかる気がするのよ、シェリー。だから、私もその可能性は思ったの。アレイルの力はあなたたちのような物理系ではない、精神系の能力だけれど、やはり同じように負担をかけるとしたら……彼は第七、第二連邦戦で、力をフル活動させたから、今その反動で消耗しきっているとしたら……そう、私もその可能性を考えているの。だけどそれを言うと、私たちも心配してしまうから、言えないでいるのかも。それが一番、妥当な解釈のような気がするのよ」
「そうか。そうかもしれないな。言われてみれば、たしかにありうるだろう。でも、だとしても、いずれ戻るんだろう? リンツやミルトのように」
「そうだろうと思うわ。たぶん。確実なことは、何も言えないけれど」
「いや、戻んなくちゃ、困るぜ、そうだとしたら」リンツは頭を振った。
「どちらにしても、今は休養しかないんだろう。俺たちがじたばたしても始まらない」
 ジャックはコーヒーを飲み干し、首を振った。
「幸い、まだ時間はあるんだ。タイムリミットまで一ヵ月半以上あるしな」
「待つしかないのだとは、わかってはいるのだけれどね。時々、不安になるのよ」
 ヘレナはふと窓の外に目をやっていた。
「アレイルの力って、なんだかんだで、大きいからなあ……」リンツがため息をつく。
「そうだな。ここまで来て指揮官が機能しないんじゃ、俺たちもお手上げだからな。そう……おまえさんとアレイルは最悪のタッグだと、おまえさんたちを追いかけていた頃から、言われていたんだ。戦いを始めてからは、おまえさんとミルトとアレイルが、政府側にとっては最悪のコンボだろうな。誰が欠けても機能しない。俺たちも、到底ここまでは来れなかった」
「最悪って言うなよ」リンツが頬を膨らませて抗議した。
「あくまで政府にとってだ。それだけ強力なのさ、おまえさんたちは。いずれにしても、コンボ復活のために時間が必要だとしたら、待つしかないさ」
「でも、一週間は少し長くないかしら……」
 ヘレナは言いかけ、口をつぐんで首を振り、続けた。
「そうね、やめましょう。私たちがあれこれ心配したところで、何も変わるわけじゃないのですものね。余計な不安をあおるのは止めるわ。本当に、待つしかないわね。ごめんなさい、お茶の時間に変なことを言ってしまって」
「でも、話し合うことは、いいことだと思うわ」
 シェリーが真面目な調子で言った。
「まあ、今回はおれらが蚊帳の外じゃないだけ、いいな」リンツも頷く。
 そこに、来訪者を告げるチャイム音が鳴った。
「帰ってきた?」
「いや、あいつらだったら、チャイムは鳴らさないだろう」
 ジャックが玄関へ行き、少しだけドアを開けた。廊下にいたのは数日前から街に何体か配備されている、配送ロボットの一人だった。
「配給センターからお届けものです。受け取り認証願います」
「洋服だけ送ってきたぞ。あいつらは?」
 リビングに戻り、ジャックは怪訝そうに首をかしげた。
「中に何かメッセージが入っていない?」
 ヘレナに言われ、ジャックは袋の中を覗き込んだ。袋には淡く優しい色のシャツが七枚入っている。袋の内側に、エマラインの筆跡でこう書いてあった。
「アレイルの元の家に行ってきます。そのあと、わたしの家に行くかもしれません。少し遅くなるかもしれないけれど、心配しないで。夕食までには戻ります」
「元の家か。ここはあいつらの故郷だからな」ジャックが呟いた。
「まあ、元の家を訪れることで、なにかのきっかけになればいいわね」
 ヘレナはシャツを取り出した。そして自分用の淡い紫色のシャツを見て、小さな感嘆の声をもらした。「まあ、きれいな色ね……」
「わあ、このピンクが、あたしのね!」シェリーは嬉しそうな声を上げている。
「さっそく着替えなきゃ。ミルト、おいで。新しい服よ」
「女って、やっぱりきれいなものが好きなんだな」リンツは肩をすくめていた。

 ウォーカーはステーションに到着した。そこから再び地上に出ると、道路を歩いて建物に入り、エレベータに乗った。廊下を歩いて、部屋の前に立つ。ここを出て、半年あまりが過ぎていた。再びここに帰ってくることなど、その時には考えもしなかった。しかし、スタイン氏はなんと書いてきていたか。
【君の父と妹が、死んでもなお晒されている】
 本当だろうか。確かめることは怖かったが、見てみないといけない。
 押し寄せるおぞましい記憶と戦いながら、アレイルはドアのスイッチに触れた。玄関はロックされていたが、IDカードをかざすと、開いた。中に入ると、異臭が鼻をついた。アレイルはリビングに進み、叫び声を上げて、立ち止まった。
 テーブルの上に、デヴィッド・ウェインの首が乗っていた。首だけだった。腐敗し、干からびて変色したそれは、恨めしそうに目を開けて睨んでいた。胴体の方は、椅子の上にだらりと座らされていた。
 壁には、ルーシアが――妹が裸にされ、手足を釘で撃ちとめられた格好で、貼りつけられていた。その身体は干からび、腐敗しつつも、赤褐色のふわふわした髪の毛だけはそのままだ。灰色の壁に赤い文字で、大きくこう書かれている。
【史上最悪の罪人は、自らの家族を皆殺しにし、逃げた】
 アレイルはルーシアの亡骸に飛びついた。妹の身体を痛めないように苦労しながら、彼女を壁から引き剥がし、彼女の部屋のベッドに寝かせた。そして上から毛布をかけ、その上に突っ伏した。何も考えられなかった。あの時から――あの時から二人はこのような仕打ちを受け、ずっと放っておかれたのだろうか。

「ひどい……」
 扉が再び閉まる前に家の中に滑り込んだエマラインは、それ以上の言葉を失い、思わず床に座り込んだ。何も出来なかった。目の前に展開された光景と、それによって揺さぶられたアレイルの感情があまりに激しく、彼女はどうすればいいか、わからなかった。
 救い出して欲しいというのは、こういうことだったのか――きっとあの手紙をくれたスタイン氏は、かつての同僚の惨状に、密かに心を痛めていたに違いない。新体制下になり、アレイルの手配が解かれてやっと、自らの懸念を伝えることが出来たのだ、と。
 ならば――ショックが少しずつ薄れるにつれ、エマラインの心に一つの思いが芽生えてきた。エドワードが解放されたというのも、本当なのかもしれない。自分が聞いたのは鋭い恐怖の感情だけで、それが処刑される時の父と母のものと同じだったから、兄が処刑されたと思い込んだ。でも、ただの恐怖だけだったとしたら。アレイルは兄が処刑寸前のところを見たと言う。エマラインが感じた思いは、その時のものだったのかもしれない。でも彼も、兄が死んだ決定的な瞬間を見たわけではない。そんな場面は見たくはないのだろう。だが、処刑寸前で取りやめられることなど、あるのだろうか――?
 ともかく、行って確かめよう。確かめなければいけない。エマラインは蒼白な顔で、立ち上がった。そしてデヴィッド・ウェインの凝視を見るまいと目をそらせながら、震える足でリビングを進み、個室のドアを開けて、ベッドの上に突っ伏しているアレイルにそっと触れ、声をかけた。
「アレイル……わたし……なんて言っていいか、わからないけれど……家に帰って、手続きしてもらって、お父さんと妹さんを、きちんと処置してあげましょうよ。それしか、できないから。ひどいわね……本当に、ひどい」
 気づくと、彼女の頬にも涙が流れていた。エマラインは手でぬぐうと、言葉を継いだ。
「わたし……わたしの家に行くわ。あなたの家のことが本当だったから、わたしのほうも本当なのかもしれない。兄さんが、もし生きていたら……わたしに会って、話したいのなら……行かなければ」
「ああ……」アレイルは頭を上げ、ゆっくりと頷いていた。
「そうだね……それじゃ、僕も行くよ」
「大丈夫?」
「ああ」彼は再び頷き、のろのろと立ち上がる。
「ここにいても……僕は、何も出来ない。待って……父さんも、ちゃんとしてあげたいから。そうしたら……行くよ。行って、家に帰って……ちゃんと処置してくれるように……」
 アレイルは感情をこらえきれないように、そこで言葉を止めた。
「ひどいわね……本当に」エマラインもそう繰り返し、涙の中で頷く。
 やがて二人は再び道路に出て交差点まで歩き、地下に潜って、ストリートウォーカーのステーションに行った。乗り込み、エマラインの自宅最寄りのステーション番号を打ち込む。二台のウォーカーは走り始めた。

 集合住宅の壁は、三月に出た時と変わらず、くすんだグレーで、所々しみが出来ている。廊下の照明も、相変わらず薄暗い。かつての我が家へ向かう廊下を歩きながら、エマラインは微かに足が震えてくるのを止められなかった。アレイルがかばうように伸べてくる手にぎゅっと捕まりながら、彼女はともすれば止まりそうになる足を、無理に前に運んだ。一七一二号と表示された、かつての我が家の前に、ついに到着する。先ほど訪れたアレイルの家とは違い、居住者を表示するネームプレートはなく、そのドアはぴったりと閉まっていた。
 エマラインは身体の震えをこらえながら一歩前に踏み出し、ドアにそっと手をかけた。一瞬のうちに、ここから連行されていく父と母の思いが流れ込んできて、彼女は小さな叫び声を上げ、手を離した。エマラインが家を出て三週間あまりがたった夜、ミルトとシェリーを助けた次の日に、治安維持軍がここに踏み込んできて、父と母を市庁舎の監禁室へと連れて行ったのだ。二人は開いたドアに両手でしがみつき、連れて行かないでくれと懇願した。治安維持軍は無情にドアの『閉』ボタンを押し、閉まるドアに指を挟まれそうになって慌てて手を離した両親を、乱暴に引きずっていった。その時の恐怖と、行方不明になった娘――自分への恨みの念にエマラインはたじろぎ、いっそう激しく震えた。これでは、ドア越しに兄の想念を探ってみることなど、出来はしない。
「エマライン……?」
 呼びかけるアレイルの声に自分への心配と配慮を感じ、彼女は振り返った。
「大丈夫……」
 エマラインは頭を振って答えた。でも、微笑むことは出来なかった。
「このドアに……刻まれた父さんや母さんの思いが強すぎて……中に人がいるかどうか、そこまではわからなかった。それだけよ……」
「僕に、中の様子が見られたらな……」
「気にしないで」
 彼女はIDカードをポケットから取り出してかざした。しかしドアは開かなかった。
「どうしてかしら。もうここは、わたしの家じゃなくなっているのかしら。だとしたら、兄さんはどうして……もしいるとしたらだけれど、中に入ったのかしら」
「ああ……ちょっと変だね。管理人さんに言って、開けてもらったのかもしれないけれど」
「そうね、もし兄さんが中にいたとしたら、それが一番ありそうね。チャイムを鳴らしてみるわ」
 エマラインは一瞬躊躇したあと、ドアの横に備えつけられた、濃いグレーの呼び出しボタンを押した。中に誰もいなければ、もちろん何も変化が起こらないだろう。でももし誰かがいるなら、扉を少しだけ開けてくれるかもしれない。そうすれば、中に誰がいるのかわかるだろう。
 一分ほどは、何も反応はなかった。が、扉が三センチほど開いた。これは“確認”モードと呼ばれる、訪問者の正体を見るための機能だ。連邦解放後に、“開放モード”とともに、放送プログラムで告知されていた。“閉”ボタンを連続で二度押してくださいと。
 扉の隙間から、青白い顔が見えた。面変わりしてはいるが、紛れもない兄の眼だった。エマラインは激しい驚きに見舞われ、声を上げた。
「兄さん! エドワード兄さん! 本当に!?」
「エマラインか……」
 兄は妹を認めたようだった。その声は、いつも以上に感情を抑えたように響いた。
「ええ」
「おまえ一人か?」
「いいえ。アレイルも一緒だけれど……知っている?」
「おまえを連れて行った首謀者だな」
 兄はちらっと妹の頭の向こうに、視線を走らせたようだった。その声には、まぎれもない反感が込められていた。
「入ってくれ。ただし、おまえ一人で。僕はまだ、そいつに会うだけの気持ちの準備は出来ていない」
「え……ええ」エマラインは頷きながら、当惑したように連れを振り返った。
「僕に会いたくないのは、わかるよ。僕がお兄さんの立場だったら、きっと僕を憎むだろうからね」
「わたしのことも、恨んでいるはずね」
 エマラインは苦い思いとともに認めた。でもそれも、仕方のないことだ。それでも兄が、捨ててきてしまった兄が生きていて、自分に会いたいのというのなら、それにこたえるのが、せめてもの償いのような気がしていた。許してもらえるかどうかはわからないけれど。そして兄と妹との対話の場に、第三者は(エドワードにとっては、間違いなくそうだろう)いてほしくない、その思いもわかるような気がした。
「君を一人で行かせるのは、気になるけれどね。大丈夫かい」
「大丈夫よ」エマラインは頷いてみせた。「兄さんはわたしを殺さないと思う。でも、もし危ないと感じたら、すぐに逃げるわ。内側からはロックを解除できるから、あまり玄関ホールから離れないようにして、兄さんの思いをよく読むようにするわ」
「本当に気をつけて。じゃあ、僕はここで待っているから」
「ええ」エマラインは頷き、そして開いたドアに向かって告げた。
「行くわ。わたしを中に入れてちょうだい、兄さん」
 ドアのところに兄の姿は見えなかったが、すぐ内側にいたようだ。そしてドアが開いた。エマラインは再び連れを振り返り、「心配しないで」と告げて、中へ踏み込んだ。彼女が中に入ると、再びドアが閉じた。

 エドワードはドアを開けた後、すぐに踵を返してリビングスペースへと向かったようだ。エマラインが見たのは、兄の後ろ姿だけだった。栗色だった髪は真っ白になり、別人のように手足が細くなり、背中も肉が落ちている。少しふらついた足取りだった。兄をこんな風に変えてしまった原因は自分なのだろう――そう思うと、エマラインの胸は痛んだ。
 兄の後について入ったリビングスペースは、がらんとしていた。かつてそこにあったテーブルや椅子は、なくなっている。たぶん父母が連行されてから、ここの家具は持ち去られたのだろう。しかし、普通は空きコンパートメントにも備え付けてある、放送プログラム用スクリーンやホームコンピュータの端末さえ撤去されているのを見て、エマラインは不思議な感じを受けた。なぜここまで、政府は徹底的に持ち去ったのだろうかと。
 エドワードは窓のところまで進むと、振り返った。窓から入ってくる光の下ではっきりとその姿を見たエマラインは、思わず息を呑んだ。顔は、紛れもなく兄だ。しかしあちこちに何本も深いしわが刻まれ、頬はこけ、目は落ち窪み、肌は生気を失っていた。体中の肉が落ちたように痩せた体躯、真っ白な髪がもつれて肩にかかっている。その姿を見ただけで、彼がこの半年どんな思いで、どのような境遇にあったかを、悟るには十分だった。
「ごめんなさい、エドワード兄さん!」
 思わすそう声を上げて、エマラインは兄に駆け寄ろうとした。許してくれなくとも、仕方がない。でもどうしても、謝らなくてはと。しかし、途中で立ち止まった。彼の眼は、その表情は、明らかに憎悪に染まっている。そうだ、もともと兄からは、妹である自分に対して、いかなる肯定的な感情も感じたことがなかった。それなのに、さらにこんなひどい目にあわされた張本人である妹を兄が許すなどということは、絶対にありそうにない。許してもらえるとも思わないし、兄が自分を理解してくれることも期待していないが、それならなぜ彼は、エマラインを呼んだのだろう。会いたいなどと言ったのだろう。そもそもエドワードは処刑寸前だったはずだ。今こうしているということは、処刑は免れたのか。処刑前に、第二連邦を解放できたのか――いや、違う。彼女は兄の恐怖を聞いたのは、それより前だ。それならなぜ、彼は許されたのだろう――?
 エマラインは兄を見つめた。怖いけれど、その思いを知らなければならない。彼の真意を。
「どうした?」エドワードが二、三歩、自分の方に近寄ってきた。
 兄は感情を押し殺そうとしている。自分の感情に蓋をしようとしている――エマラインはその瞬間、はっきりと感じた。エドワードは明らかに、何も思うまいとしているようだった。でもその下から吹き上げてくる思いは、押さえきれないようだ。激しい憎悪。
 突然、エマラインは他の想念を感じた。この家には、姿こそ見えないが、他に誰かいる。今まで兄のことで頭がいっぱいだったから、気づかなかった。でも、微かな感情の動きを感じる。それも複数。面白がっているような、興奮しているような――でも、それを明らかに押し殺し、(何も思わないように)と思っている人々が。誰――?
 振り返ったとたん、個室のドアが開き、三人の男が飛び出してきた。エマラインは悲鳴を上げた。かつての自分の居室からも、さらに二人飛び出してくる。さらに奥の、兄の部屋からもう二人。
 エマラインは身を翻し、玄関のドアを目指して駆け出した。外へ出なければ――背後から、はじけるように想念が降り注いできた。七人の男からは敵意と、そして獲物を駆り立てる喜びに似た感情を。兄からは自分への憎しみを。だがそれ以上に、エマラインは自らの恐怖を感じていた。この男たちは敵なのだ。なぜ、どのようにこの街に彼らが侵入したのかはわからないが、彼らは明らかに政府の工作員だ。絶対に捕まるわけにはいかない。逃げなければ――。
 玄関ホールにたどり着き、ドアの開閉ボタンに手を伸ばそうとした瞬間、エマラインは背中に激しい衝撃を感じた。何も思う暇もなく、意識がなくなり、彼女はその場に崩れるように倒れた。
 
 エマラインがドアの中へ消えた後、アレイルは廊下の壁に寄りかかり、ドアのプレートに書かれた数字を眺めていた。エマラインの兄が生きていて、妹に二人きりで会いたがっている。それ自体は、別に不自然なことではない。エドワード・ローリングスが、妹を連れて行った――彼ら側から見れば、そそのかして反逆の道に踏み込ませたと思っているだろう自分に対して、決して良い感情は持っていないことも、理解できる。だから来ないでくれというのも、頷ける話だ。でも、なぜこれほど胸騒ぎがするのだろう。アレイルの力は第七、第二連邦戦で疲弊し、今はまったくといって良いほど、働かない状態になっている。だが、この第十二都市に来てからずっと、漠然とした落ち着かない思いを感じていた。それはかつて自らが犯した罪と、捨てた故郷に対する罪悪感ゆえだと思っていた。でも、一人でエマラインの家の前にこうして佇んでいると、不安な落ち着かなさが急激に膨らんでいくのを感じる。
 危険なのだ――その思いは突然、背後から襲いかかるように降ってきた。ここはまだ、危険なのだ。エマラインを一人で行かせるべきではなかった。その思いをはっきり感じると、アレイルははじかれたように壁から離れた。彼女を助けなければ――アレイルはドアに飛びついたが、外から開けることは出来なかった。
「エマライン!!」アレイルは両手でドアを叩き、叫んだ。
「エマライン!! 開けろ! 開けてくれ!!」
 中から微かに、小さな悲鳴が聞こえてきた。それは紛れもなく、エマラインの声だった。
「エマライン!!」
 アレイルは再び叫んだ。中から複数の足音と微かな笑い声がし、そしてどさりと何かが倒れる音が聞こえた。まさか撃たれたのか――全身の血が凍るような思いの中、アレイルはドアを叩いた。でも、彼にはドアをこじ開ける力も、リンツのように障壁を飛び越える力もない。もしドアロックがパスワード式なら、まだ自らの内に微かに残っている能力で、開けることも可能だっただろう。しかし、一般住宅のドアは中からは開くが、外から開けるには、個人ID認証が必要だ。大人はそれぞれの腕に埋められたIDユニットで、就業前の子供たちは親から渡されるIDカードによって、認証されるのだ。でも、エマラインのカードでは開かなかった。つまり、この家の認証は解除されている――空き家扱いになっていることを意味する。それなのに、エドワードは中にいた。『管理人さんに頼んだのかもしれない』などと言ってしまったが、それ自体、そもそも疑問に思わなければならないことだったはずではないのか。エドワード・ローリングスが処刑を逃れたわけも。
 今、エマラインの身に危険が迫っている。しかし、手を下そうとしているのは、エドワードではない。そう悟った瞬間、アレイルは疲弊した能力が再び力を得、よみがえるのを感じた。彼の身体はリンツのように、物理的な障壁を飛び越えたりは出来ない。しかし精神は飛翔が可能だ。アレイルの精神的な目には、今、はっきりと部屋の中の光景が見えた。




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