Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第5章 自由を求めて (2)




 会議が終わり、自室に引き取る時、クラークソンが話しかけてきた。
「どこで止まるかだな、スミソンズ」
「ああ。ここまでは来させない」スミソンズは頷いた。
「あの案は、我々の共同提案だ。防護策も含めてな」クラークソンがそう念を押す。
「ああ、わかっているさ」スミソンズは肩をすくめた。そして宙を見据えた。
「あいつは見ているんだろうかな? 何を考えているかは知らんが、悠長に休んでいることを、後悔させてやるぞ」
「そんなことを言って、慌てて来たら、どうする?」
「焦りは自滅を招くだけだ。それでも来なければ、よほど余裕がないのだろう」
「そうだろうな。PAXもあと一週間は休息している公算が強いと言っていた」
「それならば、我々の思う壺だ」スミソンズはにやりと笑った。
「まったくだな」クラークソンも含み笑いをした。
 二人の後を、二台のメイドロボットが従っている。その微かなモーター音が響いていた。
 この十日間は疑心暗鬼だった。だが、第三連邦以来失われたリンクがなく、小休止状態になっている間に、PAXから提示された様々な情報と予測にもとづき、彼らは進みたくとも進めない状態にあるのだという確信を強くした。それが二人に余裕を与えた。
「コーヒーが欲しいな」クラークソンは、にやっと笑った。
「部屋に帰ったら、いれさせよう」
 スミソンズもかすかに笑みを浮かべ、頷いた。
 二人は、長い円形廊下を歩いていった。


 第三連邦第一都市の、ある集合住宅の一室から、エマラインは出てきた。ここは彼らにとって、五番目の新居だった。ここに腰を落ち着けてから、もう十日がたつ。その間に、今までは三日とおかずに次に移っていたために見ることが出来なかった、新しい体制下での連邦の変化を見ることができた。
 この十日間に、第三連邦では様々なことが起きていた。市庁舎が爆発して三日目、『暫定新総長』により、食糧配給の増加が発表された。一人につき一食分のパンは二つ、ミルクは一週間で二瓶という、以前からほぼ倍の量に、市民からはいっせいに歓喜の声が上がった。パンも密閉できる保存袋に入れて配られるようになり、次の配給の時まで柔らかいままだ。シチューやスープの味も、格段に良くなっていった。そして一週間後には、賃金の二割増が発表されたのである。
「一刻も早い復興のためには、市民が心から満足して労働に励むことが必要だ」との、暫定総長談話も発表された。治安維持軍や警察も、自らの待遇向上に異論のあるはずもなく、嬉々として新体制に従っているようだった。配給品を取りに行くために、年長の四人が外に出かける折、治安維持軍や警察と遭遇しても、彼らはほとんど関心を払わなかった。ある者はまったく気づかず、ある者は(どうせ関係のないことだ)と思い、またある者は(もう追いかけずにすんで助かった。面倒だからな)と思っていた。そんな様々ではあるが無関心な思考の声を聞きながら、エマラインは密かに安堵のため息をついていた。
「子供たち、お昼は食べた?」
 エマラインが食堂にやってくると、ヘレナが顔を上げて聞いた。
「ええ。あまりまだ食欲はなさそうだけれど。でも、なんとか食べてくれたわ」
 エマラインは手にしたトレーと食器をキッチンに備え付けのウォッシャーに入れながら、答えた。
 第三連邦を解放して二日がたった頃、リンツが突然、高熱を出して倒れた。この十日間、遠距離移動を繰り返したことが、彼の体力を限界以上に消耗させてしまったようだった。その翌日、今度はミルトが熱を出して寝込みはじめた。夜中の進撃で生活リズムが狂ったこと以上に、やはりコンピュータを破壊させしめるほどの強い力の放出は、彼の体力を削るらしかった。ミルトは三日ほど熱が高かったが、そのあと微熱の状態になり、やや不機嫌で、いつもよりよく眠っていたが、やっと昨日からいつもの元気を取り戻していた。リンツの方が回復は遅く、熱が下がるのに一週間かかり、ようやく最近、数十分ほど起き上がっていられる状態になったところだ。シェリーはそれほどの消耗はないものの、極力体力を保持するために、一緒に子供部屋にこもって、弟と遊んでやったり、一緒に眠ったりしていた。
「あたしに病気が治せたら良いのになぁ」と、彼女はある日、残念そうに言った。少女の治癒能力は怪我の回復は出来ても、内部からの疾患は治せないようなのだ。
「大丈夫よ。時間が治してくれるわ」
 エマラインは安心させるように、声をかけていた。彼女は三人の看護役を引き受け、食事を運んだり、しばしば様子を見に訪れたりしていたのだ。
「やっぱりいずれにせよ、ここで休息、というのは避けられなかったようだな。というより、これも見越していたのか、アレイル?」ジャックは聞いた。
「ああ。だけど、本当に無理をさせてしまって、二人には悪かったな。ぎりぎり限界まで引っ張ったせいで」
「いや、おまえさんは、なかなか有能な指揮官だよ」ジャックはニヤッと笑う。
 四人はテーブルにつき、昼食を取った。スープとパン。メニューは以前と同じだ。ただ配給が増えたおかげで、パンの量が二倍になっている。そして朝食や昼食の際、食糧供給管から配られるスープは、以前は一人当たり器に六分目くらいの量で、味は薄く、微かに妙な苦味があり、キャベツやにんじんの切れ端に、申し訳程度のジャガイモしか入っていなかったが、今は器に八分目くらいに量が増え、味も塩辛くはないが濃厚になり、入っている野菜も三倍以上、さらにベーコンやソーセージの欠片もかなり入っていた。三回に一回はトマト味やカレー味のようなバリエーションがつけられるようにもなった。
 食事を終えると、食器をウォッシャーに入れ、テーブルを拭く。他には何も、やることはなかった。何ヶ月も都市の外で暮らし、ある程度は自給自足を目指して、それぞれの役割をこなすため忙しくも楽しく働いていた彼らに、都市の生活は少々単調に感じられた。時おり潮騒の音が、吹きぬける風が、太陽の光が、木々の緑が恋しくもなる。だが今はそれ以上に、このつかの間の休息を、みなは心から楽しむことが出来なかった。事態を予測しているアレイルだけでなく、その思いを共感しているエマラインも、そして政府上層部の事情にある程度詳しいジャックとヘレナも、これからの戦況は非常に困難になるであろうことがわかっていたからだ。
 放送局はまだ復帰していないので、解放プログラムの一環であるスクリーン・ニュースと、治安維持軍が流している市庁舎撤去作業の情報だけが、放送画面から流れてくる。ただ以前と違い、端末のスイッチをオフにして、プログラムを消すことが可能になった。
 エマラインは窓に歩み寄り、灰色の町並みを眺めた。いろいろと変わり始めた部分は、たしかにある。しかしまだこの街は目覚めたわけではないと思いながら。

 エマラインはリビングへ出てきて、照明をつけた。キャビネットにはめ込まれた時計には、一時三五分と表示されている。かつての連邦では一度就寝時間になると、起床時間になるまで、一般家庭の照明は洗面所以外、つけることができなかった。ドアのそばにある照明スイッチは、ただの飾りでしかなかった。でも暫定であれ新体制になったここでは、深夜に部屋の照明を灯すことが出来る。スイッチが本来の役割をやっと果たすことが出来ていた。エマラインは誰もいないリビングの椅子に座りながら、もしかしたらこの照明スイッチも、ダブルシステムとも言うべき世界連邦を統べる二つの頭脳、どちらに対しても対応できるように作られたのだろうか、とふと考えた。
 その知識はこれまでの間に、アレイルとエマライン、二人の力で得られたものだった。居住区の建物はルーガー・ソーンフィールド以後も、それほど大幅な改造はされてきていないらしいらしい。監視カメラも最初からついていた。逸脱を見張るためでなく、何か異常があった時の発見のために。それゆえ、ソーンフィールド総督がその監視システムを再構築した時、元からあったプログラムが別のパーティションにあったため、上書きされずに残っていた。その干渉が働いて、動作時間間隔は指定の二倍となり、『嫌疑が最大の時には二四時間監視』という指令も発動しなかった。『夜間は映像オフ』になることも解除できなかった。ソーンフィールド総督は後からそのことに気づいたが、もうすでにコンピュータルーム自体を地下の深部に移設し終わった後だったため、それ以上の改変は出来なかったのだ。もともとPAXは、回線を通じてその本体プログラムを書き換えることは出来なかった。プロテクトがかかっているため、ゲートで跳ね返されるのだ。それゆえ総督は、最初にPAXのプログラムを書き換えるために、わざわざ何年もの手間をかけて、コンピュータルームに侵入しなければならなかったほどだったのだ。
 そのため、彼らの逃亡や潜伏も見過ごされた。二四時間監視だったら、例えばすべてのアパートの入り口や空きコンパートメントをその指定にされたら、自分たちは到底逃げることは出来なかっただろう。最大で二時間に一度、十分。そんな間隔だったからこそ、最初の数週間を都市で過ごすことができたのだ。
 エマラインはテーブルに肘をつき、深くため息をついた。様々な思いが渦巻いて、落ち着かない浅い眠りが破られたあと、どうにも目が冴えてしまい、ここに出てきたのだった。自らの思いのほかに、仲間たちの思いも絡み合い、彼女の頭の中に入ってきてしまうのだ。
 リンツは思っていた。
(情けねえなあ。おれがこんなになったおかげで、行きたくても行けやしねえ。こうしてる間にも、敵はいろいろ手をうっているんだろうなあ。おれのせいで失敗したら、どうしよう。ああ、ちくしょう! おれはくそったれだ!)
 シェリーは思っていた。
(ここまでは来られた。でも、これからも行けるのかしら。怖いわ。ずっとここにいられたらいいのに。ああ、でも、ここよりお外がいいわ。ここはつまらない。外へ出ても、ずっと家の中にいるみたい。もう一度お日様の光を浴びて、きれいな景色を見たいなあ)
 ミルトの思いは、幼いだけに簡潔だった。
(ここ、おもしろくない。つまんない。おそと、いきたい。バナナ、たべたい)
 ジャックは思っていた。
(本当はここでのんびりしている暇じゃないのだろうが、仕方がないな。リンツが動けなきゃ話にならないし、チビ助だってな。しかし、きっと今後はきついだろうな。場合によっちゃ、犠牲が出るか、負けるかもしれない。だが、仕方がない。俺にとっては、あれからの人生は賭けみたいなものだからな。負けても悔いはないだろうが……い、いかん、俺としたことが、負けることを考えてどうする!)
 ヘレナは思っていた。
(こうしている間にも、状況はきっと確実に厳しくなっていくわ。でも私に出来ることは何もない。もどかしいわ。私は本当に、何も役に立たない。能力があるわけでもない。人より少し知識があるだけ。戦いの場になっても、何もせずに突っ立っているだけね。本当に情けないわ。何か私に出来ることがあればいいのに。無為な時間は辛いわ。不安だけが大きくなっていく……)
 アレイルの思いは、未来時間軸を追っているだけに、複雑に交錯したものだった。
(ああ……相手は、ここまで作戦を進めているんだ。どうやったら、突破できるだろう。僕らの限界を、超えていないだろうか。だめだ、弱気になるな。どこかに道はあるんだ。考えないと……全部いっぺんにこなそうとしないで、一つ一つ考えていこう……)
 休息は彼らにとって、安らぎよりも焦りを生み出しているようだった。それは、エマラインもまた同じだった。仲間たちの思いが、彼女の思いをさらに増幅させていくようだった。
 そしてもう一つ、彼女の能力は、彼女にとって辛い思いを受け止めていた。シェリーとミルトを助けた二日後に、遠くから漂ってきた感情――娘への呪詛と恐怖。それは処刑される時の、父の思いだ。そして第八連邦を解放した二日後の夜、彼女は再び遠い感情の声を聞いた。同じく娘への呪詛と恐怖を。それは、母が処刑される時の思いだった。二人から投げられた、自分への呪いの感情の強さに、エマラインはいたたまれず、震え上がった。だが、どんなに詫びても、彼らへの思いはもう届かない。そして一週間前、彼女は同じ感情の声を聞いたのだ。それは兄、エドワードのものだった。とうとう家族をすべて犠牲にしてしまった――許して、などとはとても言えない。自分が家を出た時に、さらに戦う決心をした時に覚悟は決めていたことだとはいえ、彼らの断末魔の思いを受け止めてしまうと、ただその重さに震え上がるしかなかったのだった。
 エマラインは立ち上がり、棚からコップを一つ取り出すと、水道のスイッチを押し、水をくんだ。水道管は以前、洗面所以外は就寝時間になると、止められていた。しかし今は二四時間、水が出てくるようだ。彼女はゆっくり水を飲んだ。かつて、そこから出てくる水には、ほんの少しだが微かな苦味が感じられた。でも今は感じない。そういえば、以前の世界連邦下では、水道水や配給のスープ、シチュー、ミルク、すべてに薬剤が薄く混ぜられていて、それが感情の働きを鈍くさせていると、ジャックとヘレナが言っていたことがあった。だからすべてに、微かな苦味を感じたのかもしれない。だが新体制に切り替わって、そういう不純物が除かれたのだろう。
 エマラインは再び水を出し、軽くコップをすすぐと、棚に戻した。もう一度眠ろう。ここで考えていても、仕方がないことなのだ。
「エマライン……」
 その時、アレイルがリビングに出てきて、呼んだ。
「ここにいたんだ。どうかしたのかい?」
「ああ、ごめんなさい。ちょっとのどが渇いたから、お水を飲んでいたの」
「それならいいんだけど……」
「なにか心配事があるんじゃないかって?」
 エマラインは微笑し、肩をすくめた。
「それなら、同じ心配事をみなが抱えているのよ。中でもあなたが一番大変だと思うわ、アレイル。すべてを抱えてしまっていると思うから」
 アレイルは無言でキッチンに進み、コップに水を込んで飲むと、同じように洗って棚に返した。そしてリビングの椅子に座り、テーブルに片肘をついて、エマラインを見上げた。
「もし……もしもだけれど、僕らがこの先どこかで行き詰ったら……負けたら……それでも僕らは間違っていなかったと、言えるだろうか。君や、みんなは……」
 エマラインは隣の椅子に腰かけた。目に見えない感情の受信機を、作動させまいと思いながら。相手の言おうとしていることを先取りしてしまうのは、場合によっては緊密なコミュニケーションの阻害になりうる。彼女は逃亡生活の中で、必要に応じて自らの能力を遮断するすべを身につけていた。
「それだけ状況は厳しいのね」
 エマラインは言い、軽く相手の手に触れ、続けた。
「でもアレイル、今までに何度も言ったわ。たとえ負けても悔いはない。みな、その覚悟だって。わたしたちは間違っていない。仮にわたしたちがこれから先、負けるようなことがあっても、きっと未来にまた同じようなチャンスがあるに違いないわ。ピエール・ラインディスも、完全な勝算がなければ、ここまで周到なプログラムは組まなかったはずよ」
「ああ……そうだね。何度も同じことを聞いて、ごめんよ」
「あなたの気持ちはわかるわ、アレイル。でも、あなたがいつも思っている通り、全部いっぺんに解決しようと思わないで、一つ一つ、正しい道を積み重ねていけば良いと思うわ」
「そうだね……ありがとう」
 アレイルはエマラインの手を軽く握って、頷いた。
「ここを解放して、もう十日たったのね」
 しばらくの沈黙の後、エマラインが口を開いた。
「ああ。ようやくリンツも回復してきたし、ミルトはすっかり元気だし……まあ、ちょっと退屈しているようだけれどね」
「ええ。ここはつまらない。お外へ行きたいって、思っているわよ」
 エマラインはいたずらっぽく笑って答えた。
「お外へ行きたいか。きっと町へ出ても、ミルトにとっては『お外』じゃないんだろうな」
「ええ、そうね。あの子にとってのお外は、都市の外よ。シェリーもそう思っているし、正直に言えば、わたしもそうよ。多少暮らしは便利になっても、わたしもやっぱり都市の中は好きじゃないわ。人工的な光の中で、木も草も何もない、風も吹かない、太陽も星も見えない、青い空もない、花もなければ鳥も飛ばない、虫さえもいない。ええ、わたし、あまり虫は好きではないけれど、それでもね。雨も降らなければ、海も、池さえもない。時に、息が詰まりそうな気がしてくるわ。今までよくこんな中に暮らしていて、平気だったのかしらって」
「生まれた時からその環境にいれば、それが当然だと思って、何も疑わないんだろうね。他の人たちのように」
「そうね。でも、外の世界を知ってしまうと、物足りなくなるわ」
「すべての連邦が解放されたら、ドームが開くよ。そうなったら、もう少し自然と共存した道が開くと思う」
「それが究極の夢ね、わたしたちの」
「ああ。でも究極ではあるけれど、最後じゃない。もしそうなったら、僕たちには、そこから続く人生があるんだ。そうすると、どうなるんだろうな。しばらく、みんなは一緒に暮らすんだろうか。ジャックとヘレナは、二人でずっと一緒に暮らすんだろうな。新体制では、結婚も申請だけで自由に認められるらしいから、二人は結婚するんだろうと思う。シェリーとミルトは、まだ一人暮らしは出来ないだろうから、リンツも含めて僕らはまだ一緒にいるだろうけれど……」
 アレイルはそこで言葉を止め、エマラインを見た。
「ねえ、エマライン。今……まだ先行き厳しい時に言っても仕方がないことかもしれないけれど……もし、もしも自由な世界に僕らが生きていかれたら……リンツやシェリーやミルトが僕らを必要としなくなっても……君は、僕と一緒にいてくれるだろうか」
「え……ええ、もちろんよ」
 エマラインは突然言われた言葉に、耳まで紅に染めながら頷いた。
「ありがとう……」
 アレイルはそれだけ言って、頷いた。そしてしばらく黙ったあと、言葉を継いだ。
「みんなの未来を作るために……守るために。本当の正念場はこれからだと思う。明日、みんなで考えよう。次の目標を」
「次はどこなの? いつ行くの?」
「第七連邦。七日か八日後くらいに。だけど、今回は厳しいよ。いろいろな準備が要る。しっかり作戦を考える必要もある。一つでも手順が狂ったら、その場で終わりということもありえる」
「そうなの……」エマラインは思わず固唾を呑んだ。
「でも、今考えていても仕方がないね。とりあえず、部屋に帰ってもう一度寝よう」
「そうね」
 二人はリビングの明かりを消し、それぞれの寝室へと向かった。

 翌日、昼食のあと、話し合いが持たれた。リンツもこの朝から起き上がり、リビングでみなと食事をともにしている。シェリーとミルトも二、三日前から同様なので、七人が顔を揃えていた。ミルトは午前中に配給センターで買ってきた幼児用のパズルゲームに夢中になっていたので、比較的静かだ。
「長いこと迷惑かけちまったなあ。でも、もうおれ大丈夫だぜ。もう行けるよ」
 リンツがすまなそうに言った。
「いや、まだ無理だよ。ここから第七連邦は遠すぎる」
 アレイルは首を振って制した。
「第七かよ、次は。さすがに遠いな」リンツは頭をかいた。
「少し自信ないだろう? 行けても、また身体を壊すよ。だから無理しないで、あと一週間は休んでいたほうがいい」
「悪いなぁ……」
 そんなことないと、ミルトを除く五人から即座にそう言われ、「わりいなぁ」と再び言うと、リンツは照れくさそうに黙った。
「準備期間が、一週間くらい必要だしね。でもそのためには、市庁舎の地下へ行かなければならないんだ。大丈夫かな?」アレイルはそう続けた。
「ああ、そのくらいなら、全然平気だぜ」
「地下倉庫へか?」ジャックが聞いてきた。
「ああ」
「ということは、いよいよ本格的な戦闘突入か?」
「ああ。これからは避けて通れないと思うよ」
 アレイルは頷き、ついでへレナに目を移して言葉を継いだ。
「それと、ヘレナに頼みたいんだ。一週間で、青酸ガスの中和剤を作って欲しい」
「青酸ガスの中和剤?」へレナは驚いたように目を見開く。
「なぜそんなものがいるんだ?」ジャックが怪訝そうに聞いた。
「コンピュータルームに充満している。第七は青酸ガス、第二はカチリアA」
「ああ、神経系の新しい毒ガスね」
「そう。でも第七は昔からある青酸を使うみたいなんだ」
「わかったわ。中和剤は、材料と環境さえあれば、出来ると思う。ああ、それも地下倉庫にあるわけね」
「そうなんだ」
「それにしても、なぜコンピュータルームに毒ガスが?」
「壁に穴を開けられたみたいだ。今じゃないけれど、あと数日で。そこからガスを注入するんだろう。そのまま飛び込むと、ほぼ即死だから、その前に中和しないとね」
「でも、どうやって中和するの? 中和剤をまくにしても、その場に行かなければならないわよ」ヘレナは重ねて問いかけている。
「生産区にいくつか薬物工場があるけれど、そこには防毒マスクがあるんだ。それをつけて入れば、三分くらいは大丈夫だ。このマスクは――リンツの力を借りなくても、RAYの子サーバーに要請すれば、たぶん分けてもらえると思う。それをつけて入って、中和剤をまいて、毒ガスを中和する。ただ、防毒マスクのサイズは、小さい方でリンツがぎりぎりなんだ。だからミルトを連れては入れない。まず全員で、制御室の方に入る。ちょっと狭いけれど……きっとミルトは端末の上に乗ってしまうかもしれないね。でも仕方がない。それから僕がコンピュータルームへ行く。リンツは移動係だから、どうしても一緒に来てもらわないといけないけれど、きっちりマスクをつけて、よく息を止めて、到着したら、すぐ元の場所に帰って欲しい。薬をまくのは、僕がやるよ。完全に中和できたら、エマラインを呼ぶから、それからみんなで来て欲しい」
「で、そこで改めてぶっ壊すわけか」リンツが頷いた。
「中和係は、俺でもいいぞ」ジャックが申し出た。
「ありがたいけれど、ジャック。でも、僕は安全確認を確実に出来るから、僕がやるよ。あなたはこの先、大変になるから、休んでいて欲しいんだ」
「戦闘が待ち構えているってわけだな。きっと地下には、わんさと精鋭軍が配備されているんだろう。どれくらいいるんだ?」
「五十人くらい。地下全体で百二十人から百五十人くらいだろうか」
「なかなかきつい人数だな」ジャックは頬をぽりぽりと掻いた。
「しかも、火炎放射器や小型爆弾、電気砲、麻酔銃、捕獲銃も装備している。それに地下五階はほぼ全員が防護スーツを着ているはずだ」
「そりゃ、また……勝ち目はあるのか? それなら、どうせ地下は遮断状態になるんだし、連中は出てこれないなら、放置していくという手もあるんじゃないか?」
「うん。それも考えた。でも、地下には食糧庫もあるし、精鋭軍の副隊長がそこを開ける鍵を持っているから、地下が開くまで生き延びられる確率が、結構高いよ。それにたぶんそうなると、僕らのためにひどい目にあったという思いが向こうに強く残ってしまうから、僕らの手配が解かれても、報復しようとする人も出てきてしまう可能性がある」
「そうか。それはあるかもな。じゃあ、やっぱり戦闘するしかないのか。そうなると……さっきも言ったが、俺たちに勝ち目はあるのか?」
「厳しいね。でも、不可能でもないと思うんだ。一つには、まず援軍を遮断すること。中央サーバーが破壊されると、地下五階の防護シャッターが下りる。五階だけでなく、各階ごとに遮断されるんだ。でも、接続を切り替えると、再び開いてしまう。だから、接続の切り替えは地下五階の相手を一掃できてからにしたほうが良いと思う」
「まあな。後から後から来られるよりは、いいな。でも五十人、それも強武装の相手に二人で行くのは、きついぞ。かといって、ミルトを戦闘に出すのは危険だしな」
「ああ、そのつもりはないよ。僕らも出来るだけの装備を使おうと思うんだ。幸い、ここの地下倉庫には、かなりの武器がある。先制攻撃として一番確実なのは、リンツを僕らの間に挟むような形で部屋の外に移動し、出たらすぐに離れて、煙幕か催涙ガスのようなものを投げこむ。僕らが巻き込まれないよう、みんな防毒マスクが必要だけれどね。リンツは僕らが離れたら、すぐにみんなの元に戻る。リンツの姿を見つけたら最優先で狙い打つように、相手は命令されているみたいだから、守るためにはそれが一番良いと思う」
「良い手だと思うな。さらに敵が目潰し食らっている間に小型爆弾をいくつか投げ込むというのはどうだ? もちろん、こっちが巻き添えを食わないような距離を置いて、だが」
「ああ。良いと思うよ。それでかなり時間を稼げる。あとは……もう少し近い時間軸になれば、詳しくシュミレーション出来ると思う。敵がどう来るか、こっちがどう動くか」
「俺は覚えられるかな? ちょっと自信がないぞ」
「大丈夫だと思う。あとはその場になって、教えられる余裕があったら、そうしたいけど」
「おまえさんもその場になったら、自分の身を守るだけが精一杯じゃないか? 俺を構っている暇なんか、ないだろう。まあ、何人かはやっつけられるだろうがな、重武装の相手となったら、危ないぞ。なんと言っても、戦いには素人なんだからな。だから、俺は……そうだな。覚えられないなんぞと言っている暇はないな。死ぬ気で叩き込むしかない。なんとかするぜ」
「ありがとう」
 アレイルはそう言うと、一瞬の間をおいて、言葉を継いだ。
「ここが一番厳しい戦いになると思うけれど、もし無事に切り抜けられたら、エマラインにわかるようにする。いや、僕らの思考を追っていれば、わかるよね。成功か失敗かは。でも大丈夫となったら、はっきり君に伝えるよ。もし怪我をしたなら、いったんリンツの力を借りて僕らはコンピュータルームに戻り、シェリーに治してもらおうと思う。その必要がなければ、僕らは中には戻らない。エマラインとヘレナで、プラグをつなぎ変えて、解放プログラムを動かして欲しい」
「ええ。わかったわ」エマラインが言い、ヘレナも頷いた。
「そうなったら、階段のシャッターが開くから、僕らは第二の戦闘に入ることになる」
 アレイルは二人に頷いたあと、再びジャックに目をやって言葉を継いだ。
「この場合、相手が来る場所はわかっているんだけれど、問題は二箇所あるってことだろうね。だから、あなたと僕とでそれぞれの階段を防御するしかないと思う。最後の一人がいなくなるまで」
「結構大変だと思うぞ。まあ、俺は相手が来るのがわかっていて、重武装なら、たぶん大丈夫だろうと思うが、おまえさんは大丈夫か?」
「僕も出来るだけ装備を整えて、突破されないようにするよ」
「ねえ、わたしも一緒に戦っては、だめかしら」
 エマラインは問いかけた。それは、以前から考えていたことだった。
「私も、出来れば一緒に戦いたいわ。足手まといになるだけかもしれないけれど」
 ヘレナも穏やかにではあるが、熱心な口調で言う。
「いや、危ないだろう、それは」ジャックは即座に答えた。
「それに女たちが戦闘現場にいたら気が散って、戦いに集中できなくなる」
「危険だよ、とても」アレイルも少し驚いたような表情だ。
「危険なのは、わかっているの。でも、危険だからこそ、わたしたちも、危険な場をあなたたちだけに任せてじっとしているより、一緒にその危険を分かち合いたいのよ。でも、やっぱり迷惑かしら。戦いにも慣れていない、非力なわたしたちが行っては」。
「待って……」アレイルは手を上げ、そして目を閉じた。彼の思考は、エマラインとヘレナが戦闘に加わった場合の時間軸を追っているようだった。みんなはいっせいに黙った。
 数分後、アレイルは目を開け、頷いた。
「ああ……そうだね。大丈夫かもしれない。ただ、地下五階の兵士を一掃してからだけれど。階段の防御線を守るには、一人より二人の方が有効かもしれない。それにお互い、守るべき人がそばにいたほうが、もっと気合が入るだろう」
「守るべきものがすぐそばに、か。そうだな」
 ジャックも一瞬の間をおいて、納得したように頷いた。
「ただ、ガードスーツとヘッドギアを忘れないようにね。僕らは最初から階段付近に待機していなければならないから、切り替えたらリンツに連れて行ってもらって――階段から等距離の、中央廊下に。それから僕らのところに走ってきて。それで、僕らより少し下がって待機していて欲しい。それも、もうちょっと日が近くなったら、具体的にシミュレーションしてみるよ」
「わかったわ」エマラインとヘレナは、安堵の表情を浮かべて頷いた。
「ねえ、あたしたちは行かなくていいの?」シェリーは聞いてくる。
「君たちは、だめだよ。君とリンツとミルトは、できるだけ戦いには出したくない。コンピュータルームで、じっと待っていて欲しいんだ」アレイルは即座に言い、
「子供は論外だな。ちびさんの攻撃力は欲しいが、やられるリスクの方が多すぎる」と、ジャックも首を振った。
「あなたたちは、他に大事な仕事があるのよ。ミルトとリンツはもちろん、シェリーにもね。あなたは戦いに出ている人が傷ついたら、治してもらわないとならないから。だから、戦わなくちゃ、なんて、気にしないで」エマラインはやわらかい口調で言いきかせ、
「うん」と、シェリーは神妙な表情で頷いている。
「それで、ともかく無事地下の連中をやっつけられたら、第七連邦も解放なんだな」
 ジャックが聞いてくる。
「いや、まだやらなくちゃならないことがあるよ」アレイルは答えた。
「他にはどんな?」ヘレナが問いかける。
「中央庁舎を離れて待機している通信部隊と、連邦総長の一団を、何とかしなきゃならないんだ。それが終わらないと、解放とは言えない。これから先の連邦はね」
「連邦総長は、まだその段階では生きているのね?」
 エマラインは声を上げた。
「ああ。相手は中央庁舎が破壊されている可能性を想定してきたんだろう。五人の精鋭軍兵士からなる通信部隊と、二五人の護衛を連れた連邦総長。彼らは特別居住区……治安維持軍の上級職や上級役人たちの宿舎にいるようだ」
「ちょっと厄介だな」と、ジャックがうなった。
「通信部隊は、こちらの状況を相手に知らせるためね」
 へレナが低い声で呟く。
「連邦総長が生きてたら、あの新暫定連邦総長は使えないんじゃないか?」
 リンツが心配そうに言った。
「使えないね。だからそれも含めて、考えないと。彼らの対策を。コンピュータルームに飛び込む前に彼らの一掃を、とも考えたけれど、お互いに連携しているだろうから、そうすると地下の警備軍に、僕らが来ることを、あらかじめ知らせることになってしまう。だからやっぱり、あとの方が良いと思う。でも、できるだけ早くでないと、解放プログラムに支障をきたす。ちょっと難しいけれど、地下の……ああ、それよりも、地下五階の兵士を一掃した時点で、接続をつなぎかえる前に、外に待機している部隊をどうにかした方が良いだろうな。中央サーバーが壊れた時点で、停電になる。ドアは開かなくなるから、各部屋で分断された状態で、しかも暗いなら……最初に通信部隊、それから連邦総長。それが終わってから接続を切り替え、階段を開いて、地下に残った兵士を一掃する。ああ……それが流れとしては一番有効だろう」
 アレイルは考えるように時々沈黙を入れながら言うと、深く息を吐き出した。
「いずれにしても、どの局面でも厳しいだろうけれど、特に外の部隊を倒すのには、隔離された部屋を次々に渡っていかなければならないから、リンツはずっと僕らと一緒にいなければならない。その都度行って帰ってではかえって危ないし、消耗もしてしまう。相手に決してリンツを狙い打たれないように、僕らは出来るだけのことをして守らなければならない。的確に、動きを追っていかないと」
「まあ、それもじっくりシミュレーションしたら良いさ。幸い、時間はあるんだ」
 ジャックが励ますように、肩をぽんと叩いた。
「おれが倒れちまったおかげで、ずいぶん状況がむずかしくなっちまったんだなあ」
 リンツが沈んだ口調で言う。
「あなたのせいじゃないわ。それは言いっこなし。みんながんばっているんだから、誰も責めない。これからも、そうよ。失敗するかもしれないとか、足手まといになるかも知れないなんて、誰も思っちゃだめだわ。わたしたちはみんなで、進んでいくのよ」
 エマラインが優しいながらも、きっぱりとした口調で言い、首を振った。
「できたー!」
 ミルトがそこで、声を上げた。今まで取り組んでいたプラスティックパズルが、とうとう完成したようだった。それはカラフルに彩られた、様々な形のピースをつなぎあわせて、一つの形を作るというものだった。みなは会話を一端中断し、その労力をほめてやった。
「僕らがやろうとしていることも、これと同じかもしれないな」
 ミルトが再びパズルをばらばらにし、嬉々として別の課題に取り組み始めたところで、アレイルが言った。
「一つ一つのパズルを正しい所に嵌めていく。それで全体の絵が完成するんだ」
「これと違って、なかなか難しそうではあるけれど、でもたしかにそうね」
 ヘレナが穏やかに微笑み、肩をすくめる。
「ええ。一つ一つのパズルを嵌めるのは、とても大変そうだわ。でも、積み重ねていかないとね」エマラインは頷いた。
 まだ放送局は完全復旧していないので、放送プログラムの画面には、幾何学的な模様のループが映っている。低い音量で、音楽が流されていた。今までの連邦下では聴いたことがない、穏やかではあるが楽しげな旋律が、電子オルガンの柔らかな音色で綴られていく。芽吹き始めた新しい世界への、ほんの小さなステップ。それを再び灰色の抑圧の中に戻されたくはない――それは、みなの思いだった。




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