Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第4章 戦いの始まり (2)




 夕食の準備に起こした火は、もう消えかかっていた。アレイルは傍らに積んである乾いた枝を二、三本手に取ると、軽く火をかき回し、ついで枝を小さく折って、投げ込んだ。火は再び燃え始めた。
「で、これから具体的な作戦を考えるわけだな」ジャックは問いかけた。
「ああ」アレイルは火を見つめながら、頷いた。
「あとどのくらい、この島にいられるの?」エマラインは聞いた。
「二週間……たぶんそれくらい。だから、ここを去る前に、最初の行動を起こそうと思う」
「あと二週間か……」
 リンツが嘆息するように言い、ついでシェリーが小さくため息をついた。みな、迫りくる恐怖と、芽生えてきたかすかな希望とが激しく交差するのを感じているようだった。
 アレイルはバッグの中から、薄いプラスティック製のシートペーパーに書かれた地図を取り出し、膝の上に広げた。これは彼の逃避行最初の避難場所であった、エフライム・ミッチェル老人がくれた小道具の中の一つで、リンツに場所移動を指示する時にも役立ってきたものだった。そこには一から八と番号をふられた、各連邦が記されている。真ん中の大陸が、北から二と一、南は七と記されていた。そこから東側に三と四、その南に六。西側の方は五、その南の大陸は八と記されている。
「この地図では切れているけれど、本当は、第四連邦と第五連邦は地続きなんだよ。同じ大陸の西と東なんだ」
 アレイルは軽く両端をあわせ、再び広げた。
「ああ。そうだっけな。地球は丸いんだ」リンツが頷く。
「この島は、ここね。この間リンツに飛び先を教えた時の印が残っているから」
 エマラインが第八連邦の場所から北西に離れた海上を指差した。そこにはマーカーでつけた小さな×印がある。その傍らに小さく八の数字。これは彼らが都市の外へ移動を開始してから、八回目の拠点という意味だ。その小さな印と数字は、第三連邦内から始まり、五,六が第四連邦内、七が第五連邦内で、そこで彼らはジャックとヘレナを仲間に加えたのだった。そして今、この海上の孤島に来ている。
「ここから近いのは、第八連邦だな。すると、手始めはここからか?」
 ジャックが地図を見ながら、指さした。
「リンツの移動距離を考えると、第八からいくのが順当だと僕も思う。それに第八連邦はリンツの故郷でもあるしね。ただ、当然、相手もそれは予測してくるだろうと思うんだ」
「私たちのいる場所を相手が知っていれば、そうね。でもPAXは私たちがここにいることを予測しているの?」へレナが問いかけた。
「今はまだ……ここを予測するのには、PAXも時間がかかると思うんだ。ここに関しては、僕たちは何の手がかりも残していないから。都市から食料も調達していない。コロニーの跡地もあるわけじゃない。自生が可能な場所という条件では範囲が広すぎて、絞り込むのは難しいだろう。ここと同じような条件の場所は、他にもざっと数百くらいはある。すべての場所に偵察ヘリを送って調べるのには、かなり時間がかかるよ。あと二週間後だろう、見つかるのは」
「そう。それなら逆に、相手は場所特定が出来ていないわけだから、見つかる前に、最初に第八に行っても、予想確率が上がるわけではないのではなくて」
「ああ、そうだね。ここが予測されていないという前提条件なら、最初の目的地は第八連邦でも良いんだ」
「第八かあ……」リンツがちょっと妙な顔で、頭をかいた。
「帰りたくないの? あなたの故郷じゃない」
 シェリーが不思議そうに問いかける。
「おれ、あんまり故郷に良い思い出ないんだよ。親父やお袋や姉貴が、死んでもおれを小突きに来るような気がしてさ。おまえのせいでこうなったんだって」
「そんなことはないわよ。でも、どうしても気が進まないなら、あなたの出身都市には帰らなければ良いわ。第一都市に留まっていたら。それとも、ほかの所を先にしてもかまわないのよ」エマラインはなだめるように微笑み、少年の肩に手を当てた。
「……まあ、後回しにしてもいずれは来るんなら、早くたって良いぜ。それにおれには、近い方が楽だし。自分の街に行かなきゃ良いことだしな」リンツは肩をすくめる。
「それじゃ、アレイルの予測で不都合が起こらなければ、最初のターゲットは第八連邦ということだな」ジャックが膝の上で手を打ち、言った。
「でもあなたの予測能力は、時間軸では二週間くらいだって、さっき言っていたわね。そうすると、今だと、ぎりぎり見通せるかどうかというところではなくて」
 へレナが少し気づかわし気に問いかける。
「ああ。たぶん今の段階では、具体的にどうやったら良いかまでは、またたどり着けないと思うんだ。もう少し日がたてば、たぶん出来ると思うけれど」アレイルは頷いた。
「それじゃ、今日のところはいったん終わりにして、また後で改めて作戦会議ということにしちゃどうだ?」ジャックがそう提案し、
「そうね。ミルトもすっかり寝てしまっているし……今、何時くらいかしら。時間を気にしなくなってずいぶんたつからわからないけれど、今夜はもう休みましょう」
 エマラインがミルトを抱いたまま、立ち上がった。シェリーとリンツもそれに続き、木を登って、上にしつらえた自分たちの小屋へと戻っていく。
「さてと。じゃあ、火の始末をするか」
 ジャックがプラスティック製バケツに海水を汲もうと、浜辺へと歩いていった。このバケツは鍋やその他の調理器具と一緒に、ピアジェックのネイチャーコロニー跡地の家から持ち出してきたもので、それ以来ずっと彼らの逃亡生活の助けになっている小道具のひとつだった。アレイルは食事の残骸を埋めるため、やはりピアジェックから持ち出してきたスコップで、砂浜を掘り始めた。そして焚き火と食事の後始末が終わるころ、エマラインが年少三人の小屋から戻ってきた。
「それにしても、素晴らしい星空ね」
 へレナが感嘆したように空を仰ぎ見た。
「ええ。本当にきれい」エマラインも魅入られたように目を上げる。
「星か。まあ、きれいだとは思うが、俺はそれほど光り物には惹かれないな」
 ジャックはちらと空を見上げ、苦笑した。
「さてと、後始末もすんだし、寝るとしようか」
「そうだね」
 アレイルは頷き、空を見上げた後、足元に目を落とし、焚き火の跡を見た。
「場合によっては、寝る時には常に火が必要だ。ここではいらない。今までもいらなかった。でも場所によっては……」
「眠るのに寒いからかしら。今まで季節は暖かかったけれど、外では季節も気候も変化するんですものね」エマラインが同調した。
「ああ。これから季節は秋になり、冬になるから、寒くなっていくよ。このあたりじゃ、一年中夏のようなものだけれど。でも火が必要なのは、それだけじゃないんだ。動物は火を恐れる。場所によっては危険な動物から身を守るために、火が必要になるんだ」
「危険な動物?」
「そう。人を襲って、その肉を食べてしまう可能性のある動物がね」
「いるの?」エマラインはすくみあがったように、そう問い返す。
「ここにはいないよ。この島には、昆虫や鳥の他には、ネズミの一種のような小動物しかいない。中型や大型の動物は復元が難しかったらしくて、本当に限定された地域にしかいないようなんだ。第六や第七連邦、それに、第四、第五の一部地域。そういう場所は意識して避けてきたから、僕らは実際に見たことはないけれど」
「復元って?」
「動物たちは一度、旧世界が滅んだ時に絶滅したんだよ」
「旧世界って何?」エマラインは不思議そうに目を丸くした。
「新世界ができる前に栄えていた文明なんだって」
「新世界ができる前に? そんな時代があったなんて知らなかったわ」
「私も初耳よ。世界連邦前の世界があったというのは、漠然と知ってはいたけれど……あなたはどこから知ったの? それもあなたの言っている『知識』なの、アレイル」
 へレナが頭を振り、話に入ってきた。
「いや、これは僕の知識じゃなくて、ニコルが話していたことなんだ。僕にも、その当時は想像もつかない話だった。今もあまり想像はつかないけれど、実際自然の風景を見て、小動物や鳥なんかも目にしていると、なんとなく意識に上ってくるようになったんだ。それに世界連邦が出来た経緯なんかを知ってみるとね……かつての世界は、どうだったんだろうって」
「小動物で思ったんだが、アレイル、そいつの肉は食えるのか?」
 ジャックがきいてきた。
「ここの、大型ネズミのようなものかい? 食べられると思うよ。どんなものなのかは、食べたことがないから、わからないけれど……ああ、たぶん、昔食べていたシチューの肉より癖があるかもね。でも、あれよりおいしいかもしれない」
「じゃあ、試しにこんど銃で撃ってみるか」
「いやだ、かわいそう」エマラインは両手を頬に当てた。
「貝だって、生きたまま焼いたり、熱湯に放り込んだりしているじゃないか。魚だってそうだ。そんなことを言ってたら、何も食えなくなるぞ。それに良い射撃練習になる。戦うとなったら、銃の一つも撃てた方が良いだろうしな」
「まあ、生きるうえでは他の命を犠牲にしなければならないというレッスンだと思えば納得できるけれど……撃ちとめてから肉にするまでの過程を思うと、僕も少しひるむね」
 アレイルは苦笑し、小さく首を振っていた。
「情けないな。やり方を教えてもらえれば、やるぜ。俺はそういうのは平気だからな」
「あなたはどうしてもお肉が食べたいようね、ジャック」
 へレナは肩をすくめる。「でも、たしかに貝や小魚だけで足りない時には、考えても良いかもしれないわね。さあ、もう寝ましょう」
「そうだね、おやすみ」
「おやすみなさい」
 四人はそれぞれ二人ずつに分かれ、自分たちの小屋へ上っていった。

 広い部屋だった。幅十メートル、奥行き十五メートルほどの、個室にしては広すぎる部屋だ。床には毛足の長い銀色の絨毯が敷かれ、四方の壁紙は白で、所々織り交ぜられた金糸銀糸が、ちらちらする微かな光を放っている。一方の壁は大きなスクリーンになってして、そこに世界地図が掲げられていた。スクリーンの前にエボニーという名の硬木で作られた大きな机があり、深紅の大きな、座り心地のよさそうな椅子がその前においてある。机の右半分には、コンピュータ端末が置いてあった。
 その机の前に、一人の男がいた。背はあまり高くないが、肩幅の広い、がっしりとした体躯。広い額を露出するようにして後ろにとかされた黒髪、太く黒い眉に、ぎょろりとした黒い目。鼻は少し大きく。少々赤ら顔だが、造作自体は比較的整っているその男は、金色のふち飾りが付いた黒の上着に、同じく黒で、裾に金のふち飾りのついたズボンをつけていた。その服装、その顔には見覚えがあった。おそらく世界連邦の市民なら、小さな子供以外、誰でも知っているだろう。世界連邦第二三代総督、ダンカン・ジョグスレンだ。
 総督は不安げな表情を浮かべていた。手を後ろに組み、落ち着かなげに机の前を行ったり来たりしている。
 来訪者を知らせるランプがついた。ドアの傍らに控えたアンドロイドの秘書がボタンを押すとドアが開き、一人の男が現れた。その男にも見覚えがある。短く切られた、まっすぐな薄い金髪、ほとんど白に見えるほど色素の薄い灰色の目、薄い唇、研ぎ澄まされた顔や身体の線――かつてアレイルが家を出た前の晩に見た夢に出てきた、連邦主席プログラマーの男だ。
「おお、来たか、スミソンズ!」
 ジョグスレン総督が待ちかねたような口調で声を発した。
「閣下には、ご機嫌麗しく」スミソンズは軽く右手を折り曲げ、敬礼する。
「今日は、どのような御用でございましょうか」
「まあ、そこへ座れ」
 総督は部屋の向かい側にある、柔らかそうな合成皮革で出来た茶色のソファを指差した。
「そこにもPAXの端末がある。詳しい話はそこでする」
「かしこまりました」
 スミソンズは一礼すると、言われた場所へ行き、相手が正面のソファにどっかりと腰を下すのを待ってから、自分も浅く腰掛けた。
「私はどう判断していいかわからん。他の連邦首長にもいずれ話さないといけないが、その前におまえの意見が聞きたい、スミソンズ。おまえほど頭が切れて、PAXにもくわしい奴はおらんからな」
「光栄です、閣下」スミソンズの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「しかるに、どのようなご相談でしょう」
「あいつらのことだ」総督はうなるように言った。
「ああ、例の超能力者グループのことですか。第五連邦の中央上級職おちこぼれの二人も加わって、今は七人ですね。たしかに厄介な相手には違いありませんが、もう時間の問題ですよ。あと三週間もすれば、偵察衛星が完成しますから」
「私もそう思っていた。偵察衛星さえ完成すれば、奴らを殲滅できると。PAXもそう予測していた。しかし今朝になって、PAXは別の可能性を私に知らせてきたのだ。奴らがこの世界連邦の転覆を仕掛けてくる可能性があると」
「なんですって?」スミソンズは驚いたように声を上げた。
「ナンセンスです。たった七人で何が出来るというんです。たとえ連中が我々にたてついたところで、勝てるわけがない。いくら能力者だといっても、こちらには数も装備もある。あいつらに勝ち目など、万に一つもありはしませんよ。むしろ逃げ回られるより、ありがたいくらいだ」
「それが、あるというのだ」
 総督の口調は、怒りと不安が入り混じっているように響いた。
「PAXがそう報告してきた。そこの端末から、もう一度その予測を聞いてみると良い。もうセッションは開いてある」
「はい」スミソンズは半ば信じがたいような表情で、イヤレシーバーを耳に当てた。ボイスシステムはどうやらレシーバーを通して、直接操作者にしか聞けないようになっているらしい。おそらくアレイルの能力を警戒しての措置だろう。
 聞いているうちに、スミソンズの表情が見る見る変わっていった。目を見開き、驚愕の表情を浮かべている。そして五分後、彼はレシーバーを外し、吐き捨てるように言った。
「バカな!」
「どうすれば良いだろう」
 総督は相変わらず怒りと不安がない交ぜになったような声で問いかける。
「どうすれば? 阻止するしかないでしょう」
 スミソンズは不信の表情もあらわに、首を振った。
「どうやって阻止できるのだ? 向こうには瞬間移動能力者もいれば、爆発能力を持った念動者の赤ん坊もいる。いくら厳重に警備しても、直接コンピュータルームに飛び込まれて、壊されて、つなぎかえられたら、おしまいだ」
「コンピュータルームに兵を配備して……いや、そこで戦闘になるのは避けたいですね。流れ弾が当たる可能性もゼロではない。何らかの警備はしなければならないが……い、いかん!」スミソンズは不意に何かに気づいたように、はっと口をつぐんでいた。
「閣下、少しお時間をいただけますか。出来るだけの策を考えてみます。ただし、ここでお話しすることは出来ません。そんなことをすれば、相手側に筒抜けになってしまうでしょう。PAX端末を通して、ボイスファイルでお送りします。お聞きになる時には必ず、イヤレシーバーをお付けくださいますよう。返信も同様に願います。そして案が固まったら、同様に各首長にお送りしましょう。連邦首長殿方とのご協議も、直接スクリーンでやり取りなさらない方がよろしいかと思います。同様にすべてボイスファイルにして送信し、聞くときは必ず外に漏れないように。恐れながら、それだけはご注意願います」
「ったく、忌々しい覗き屋の小僧め!」
 総督がいらだたしげに足を踏み鳴らした。
「まったくですね。本当に忌々しい、憎むべき奴です」スミソンズが同調する。
「それでは閣下、さっそく策を考えてみたいと思いますので、私はこれにて失礼いたします。ですがその前に、できるだけのデータを当たってみたいと思いますので、申し訳ありませんが、閣下の権限でのみ閲覧できるファイルの閲覧許可を、与えていただけないでしょうか」
「ああ、もちろんだ」
 総督は頷くと、端末の前に座り、セッションを開いて、ひとしきり操作した。
「これで良い。おまえのIDでも、私同様の閲覧許可が得られるようにした。ただし、一ヶ月だけだが」
「一ヶ月もあれば十分です、閣下。ありがとうございます。三日後には、必ず何らかの有効な作戦を考えてみせます」
「期待しているぞ、スミソンズ」
「はっ、必ずご期待に添えますようにいたします」
 主席プログラマーの男は深々と敬礼し、ドアを開けて退出していった。
 総督は椅子にどっかりと座り込み、落ち着かなげな仕草で、タバコのカートリッジを取り出した。アンドロイドのメイドはその傍らに静かに控えている。
 広い部屋に、静寂が支配していた。
「まったく、信じられない話だ」
 世界連邦総長は、相変わらず当惑と不信が入り混じったような口調で呟いた。
「この世界連邦の土台が、そんなに脆いものであったとは」

 アレイルは小屋の中で、ふっと目覚めた。外を吹きすぎていく風の音の他は、隣で彼に寄り添うように眠っているエマラインの、微かなやわらかい寝息が聞こえるだけだ。そして彼自身の息遣いと。隙間から差し込んでくる月の光が、エマラインの金色の髪に一筋落ちていた。アレイルは彼女の寝顔をしばし見つめた後、ビニールシートを張り渡して作ってある、急ごしらえの天井に目を移した。さっき見た夢は――世界連邦総長と主任プログラマーとのやり取りは、今リアルタイムで起こった映像ではない。たぶん明日の夜、演じられるはずのシーンだ。アレイルに宿る力が、彼にそう知らせていた。相手方も同様に、世界連邦創世と、双子のコンピュータシステムの存在を知ったに違いない。
 PAXのファイルには、どこまで記されているのだろうかと、アレイルは考えた。相手も彼の能力の厄介さに気づき、声に出して何かを語ることを極力控えているようだ。コンピュータ端末のスクリーンに表示させるという手も、使っていないように見える。たぶん、アレイルの精神的な“眼”は、カメラのアングルを切り替えるようにして見ることが出来るのではないかという可能性を、考えているのだろう。実際、夢の中のような意識のコントロールが効いていない場合は別として、意識的にその力を働かせる場合、彼は実際に視点を切り替えることが出来た。
 あの男、ほぼ銀髪に近い髪と薄色の目を持った主席プログラマーは、いったいどんな対抗策を考えてくるのだろう。あの男とコンピュータPAXとを相手にして、いくら特殊能力のアドバンテージがあるとはいえ、自分は勝てるのだろうか。
 アレイルは再び、傍らに眠るエマラインに目を移した。暖かい、愛しさの感情がこみ上げてくると同時に、彼女を守りたいという思いと、しかし本当に自分に守りきれるのだろうかという不安が、強くわき起こってくる。彼はため息を押し殺し、反対側にそっと寝返りを打った。エマラインは眠りが浅いたちのようで、かすかな物音や気配、そして強い感情の動きにも反応して、目覚めてしまうようだ。今、彼女の顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。楽しい夢を見ているのかもしれない。そんな彼女を、起こしたくはなかった。
 だが、現実問題として――アレイルは木と蔓がからまった小屋の壁を見ながら、考えずにはいられなかった。仲間たちを巻き込んで、戦う決意はした。エマラインと二人で、あの時――海辺で、未来のヴィジョンが一瞬見え、道が開けたように感じた時には、世界を一瞬自分たちの手に治められたような高揚感を味わった。そして、前に進むのだという、強い勇気も。しかし今、仲間たちにその決意を話し、実際に行動を起こすのだと決まると、心の中に不安と逡巡を感じてしまう。彼ら全員が生きて行かれる道は、確かに存在する。しかし、それは決して広い道ではない。注意深く、その細く複雑な道をたどっていかなければ、自分たちは間違いなく志半ばにして倒れる。そして彼は、その道案内をしなければならないのだ。だんだんとこっちの手の内を知り、警戒を強める相手に対して、そしておそらく世界で有数の頭の切れる男と、世界を掌握するコンピュータを相手に。
 考えても仕方のないことだ。迷いは能力を曇らせる。アレイルは再び、ため息を押し殺した。この土壇場にきて、恐れを感じてしまう自分が情けなかった。

 空も海も、藍色に染まっていた。いつの間にかアレイルは、別の風景の中にいる自分に気づいた。ここもまた島のようだが、仲間たちとともに避難場所にしている島のように、うっそうと木が茂ってはいない。膝のあたりまでのびている一面の草は柔らかく、若草色の、非常に毛足の長い絨毯を敷き詰めたようだった。草原の先には、白い砂浜が広がっている。おそらくは草原の周辺部が長い年月の間に海に浸食されて、できた砂浜のようだった。草原の真ん中、ほぼ島の中央部に、一本の巨木が生えていた。非常に太い樹で、両手をまわしても、両方の指先が三十センチほど開きそうだ。樹齢何年くらいたっているのだろう。おそらく数千年たっているのかもしれない。その木の幹は金色の色調を帯び、緑色に輝く木の葉が、陽光を浴びてきらきらと光っていた。その樹のほかには、この島に生えている木はなさそうだった。夏の日差しは暑くはあったが、むっとするような熱帯の暑さではなく、空気はどことなく乾いていて、吹き抜ける風が気持ちよかった。
「ここはどこだろう……?」
 アレイルは考えずにはいられなかった。
「ここはね、もう一台のコンピュータが近くに埋まっている場所だよ」
 不意に声がした。アレイルはその声に十分聞き覚えがあった。彼は振り向き、微笑した。
「ニコル。また、来てくれたんだね」
 ニコル・ウェインは相変わらず十五歳のままの風貌で、兄弟に笑いかけていた。そして島の中央の巨木に眼をやりながら、言葉を継いでいる。
「ここに来ることが出来て、嬉しいよ」
「君もここに来るのは、初めてなのかい?」アレイルは問いかけた。
「いや。でも初めて来たのは、入院してからだよ。僕はずっと鎮静剤を与えられて、眠っていたんだ。魂が体から離れるまで、二か月半の間。その頃の初めに、僕はここへ来たんだ。そして今までも漠然と知っていたことを、はっきり悟ったんだ。すべてを。だから僕は死ぬまでに、その力を駆使して、できるだけ未来まで行こうとした。もちろん、精神だけだけれどね。そして未来の君が……君にとっては現在だけれど、立ち向かわなければならない困難の助けになろうと思って。でも僕の力も、このあたりが限界だ」
「……じゃあ、君は三年前、入院していた時の君なんだね、ニコル。身体は病院のベッドで眠っていて、精神は未来の、僕の夢の中に……」
「そうだよ」
「でも、これが限界なんだね。ということは、もう僕の夢の中にも出てきてくれないんだ」
「ああ……今の僕にはね」
「そうか……」
 どうしようもない寂しさと不安感が襲ってきた。自分は完全に一人になってしまったような、頼りなさだった。これから道を切り開いていかなければならないこの時に、ニコルはもう頼れない――。
「君の心は不安で一杯だね、アレイル」ニコルはかすかに笑っていた。
「ああ。それは否定できないな……」アレイルもかすかに笑ってみせた。
「これから一番大変な時に、僕は力になれない。ごめんね。でも、アレイル。この場所を覚えていて欲しいんだ。ここは僕らにとって、特別な場所だ。僕にとっても、君にとっても、エマライン――君の大切な女性にとっても、そして未来に来るはずの、もう一人にとっても。僕ら四人の、神聖な場所なんだ」
「……何を言っているんだい、ニコル?」
「今の君には、まだわからないことだよ」ニコルはふっと微笑んで首を振る。
「それでもね、アレイル。いつかはわかるよ。君が……君たちが、この試練を乗り越えることが出来たら」
「乗り越えることが出来るだろうか、ニコル」
「不安なのはわかるよ。そういう時に僕からできるアドバイスは、不安から逃げようとはしないことだ。とことん不安を突き詰めて見ると良い。きっと本質が見えてくる。そして、なにより……ねえ、この景色を見てごらん。空の色を、風の感触を、草の匂い、海の匂い……そして、太陽。この中にすべてを委ねて、無になってごらん」
 言われるままに、アレイルは目を閉じ、全身を自然の中に委ねようとした。ゆったりとした波の音、樹を吹きぬける風の音、草原のざわめき――いつしか、その心は空っぽになっていくように思えた。
 ふっと、人の気配を感じた。驚いて眼を開けると、傍らに、いつの間にかエマラインが立っている。彼女は島にいる時の服装のまま、髪を風になびかせ、不思議そうに辺りを見回していた。
「ここはどこなの?」彼女は怪訝そうに口を開いた。
「アレイル? そこにいるの? わたしは夢を見ているの? ここはどこ?」
「エマライン……僕の夢に、君が出てきたんだろうか? それとも……」
 アレイルも驚きに打たれ、手を伸ばして相手の華奢な手を握った。
「初めまして、ミス・ローリングス」
 ニコルが進み出、微笑んで挨拶をする。
「初めまして。あなたは……?」
「ニコル・ローゼンスタイナー・ウェインです」
「ああ、あなたが……お会いできて、うれしいです」
 エマラインは驚きに打たれたような表情で、相手を見ていた。
「もう一台のコンピュータ、RAYは、この沖の海底五十メートルの場所に、完全防水障壁に囲まれて眠っているんだ」ニコルは東の海上を指差した。
「RAYっていうのか、もう一台は」
 アレイルは行く手の海原に眼をやった。
「光……」エマラインが呟く。
「そう。もう一台は“平和”。この二台がどうして作られたかは、ピエール・ランディスに聞いてみないとわからないけれど、でも僕には彼の意図がわかるような気がする」
 ニコルは二人に向かい、頷いた。
「ピエール・ランディスって……あの暗黒の時代を終わらせた、世界の統一者だね」
「そう。彼がPAXとRAYを作り、すべてのシステムを整備し、世界連邦を作り上げた。双子のコンピュータを作ったのは、闇の大統領ダレン・バートランドに以前のマザー・コンピュータが乗っ取られた時のように、もしPAXが乗っ取られていても、不可侵のリザーバーを用意することで、元に戻せるように。でも彼はすべてのシステムを構築し終わった、その三週間後に急死した。宿敵との戦いに勝って世界を統一し、システムをすべて作り上げることに心血を注いで、無理をしすぎたんだろう。急な心臓発作だった。世界連邦は彼の妻、エレノア・ランディスが引き継ぎ、彼女が初代総督となった。そのあたりは歴史でも習うよね」
「ああ」
「エレノアには、双子の妹がいた」ニコルは話し続けた。
「彼女の名前は、マリア。ピエールは若い頃、マリアと恋人同士だった。エレノアにはまた別の恋人がいた。でもマリアは二四歳の時、自殺してしまったんだ。そしてエレノアの恋人もそれより数年前に、殺された。その後いろいろあって、ピエールとエレノアは結婚した。ピエールが三十歳、エレノアが二八歳の時に。二人の間には三人の子供も生まれた。二代目総督、セオドア・ランディスは二人の次男だね」
「そうなんだ……」
「マリアは、予知能力者だったらしい」ニコルはさらにそう言葉を継ぐ。
「えっ?」
「彼女の力は君と違って、空間系には働かない。純粋に時間系列のみに働く力だったようだ。そしてはるか遠い未来も見通せた。その青写真にしたがって、ピエールは今のシステムの概要を作ったらしいんだ」
「じゃあ、いずれ世界連邦がルーガー・ソーンフィールドによって暗黒化することも?」
「ああ。だからこそ彼らは、この双子のコンピュータシステムを作り上げたんだろう。世界を統べる一台がのっとられても、もう一台がひっくり返せるように、希望を残して」
「それなら彼らは、いずれ僕たちが反旗を翻すこともわかっていて?」
「いや、そこまで詳しくわかっていたかどうかは、わからない。ただ、いずれ再び特殊能力の持ち主が世界に現れ、軌道を外れた世界を元に戻すチャンスを残すため、そう、言ってみれば、未来に希望を残すために、彼らはこのシステムを作ったんだ。そして君たちが、その希望なんだ」
「希望……」アレイルは呟いた。
 エマラインがそっとそのそばに近づき、腕に触れる。
「あなたの不安はわかるわ、アレイル……」彼女は小さく言った。
「でも、わたしたちには、前に進むしか道はないと思うのよ。希望が達せられるのかそうでないのか、それはわからないけれど、万が一、仮に失敗したとしても、誰もあなたを恨みはしないわ。だから、恐れないで……お願い」
「ああ……」アレイルは目を閉じ、頷いた。
「僕が言うまでもないね」ニコルがふっと微笑んだ。
「君たち二人、そして仲間たち全員の力を合わせて、お互いに信頼しあって行けば、きっと大丈夫だよ。道は開ける。そう信じるんだ」
「ああ。ありがとう、ニコル……そして、エマライン」
 アレイルは眼を開け、もう一度頷いた。草原の島の幻は、ゆっくりと霞んでいった。



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