Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第3章 迫り来る時 (5)




「どうしたの、アレイル。何かわかったの?」
 エマラインはそのそばにより、相手の肩に手を触れて、問いかけた。
「いや、まだわからないけれど……でも、一瞬霧が晴れたような気がしたんだ。真実の断片が見えた。理論的には絶対に不可能なことが、なぜ可能なのか。それは、最初からそうなるように、決められていたからだって。ああ、でもはっきりしたことは、相変わらず何も見えないな」
「無理はしないでね、焦らないで。きっとそのうちに、見えてくるわ」
「ありがとう。まあ、あと一ヶ月の時間はあるんだしね。今夜はもうこれ以上、あれこれ考えるのはやめるよ」アレイルは首を振り、もう一度草むらに横になりかけた。が、途中でまた起きあがると、ためらったような口調で、再び口を開いた。
「でもね、エマライン。これから政府と戦う可能性があるなら、気になっていることがあるんだ。君が知った方がいいのかどうか、わからないけれど、君の家族のことだし……」
「わたしの……家族?」
「君のお母さんとお兄さんはね、まだ生きているんだ。お父さんは残念ながらもういないけれど、二人は今、政府の収容所に入れられているんだよ。どういうつもりで政府が、君の家族をまだ生かしておいているのかわからないけれど、でも僕たちがもし、これから政府に反旗を翻したりしたら、君が超能力者であろうとなかろうと、反逆者の家族ということで……」
「処刑されてしまうのね」
 エマラインは相手の意図を読みとって、言いよどんでいた言葉を引き取った。身震いとともに。自分が逃げるために家族を捨てたという、ほろ苦いつらさに苦しめられるゆえに、彼女は今まであえて、彼らのことは出来るだけ考えまいとしてきた。しかしすまないという思いだけは、いつも感じ続けていた。だが、自分が逃亡してから二ヶ月以上もたっているのだから、両親や兄はとっくに処刑されていると思っていたのだ。実際、父の最期の思いの残響は、彼女自身も聞いた。遠くから漂ってくる、微かな、しかし強烈な思いが――娘である彼女への呪詛と、恐怖。それは第三連邦でシェリーとミルトを助けた、三日後のことだ。だが処刑されたのは父だけで、母や兄はまだ生きているとは――。
 彼女は一度、彼らを捨てた。だが、さらに政府に反逆することによって、彼らを死に追い込むことが、果たして自分に出来るだろうか。二度までも家族を捨て、裏切れるだろうか。たしかにそれほど親しみのない家族ではあったが、十八年間同じ家に暮らした人たちを、自分を生み育ててくれた母や、血肉を分けた兄を、平然と切り捨てることが出来るだろうか。恐ろしかった。とてもそんなことは、出来そうもない。もうあの最後の声は聞きたくない。しかし、自分は戦わなければならないのだ。仲間たちのためにも――ああ、両方は救えないのだろうか。どちらか一方を切り捨てなければ、ならないのだろうか。
「わたし……わからない」彼女は両手で顔を覆って、うめいた。
「でも、でも……ああ、どうしたらいいかしら」
「ごめん。君にはつらい話だってわかっていたのに……」
 アレイルは起きあがり、彼女の手を握ってきた。
「でも、やっぱり君に事実を知らせないでおくのは、フェアじゃないって思えたんだ。もし君が家族を見殺しに出来ないなら……」
「戦うのは諦めるっていうの? いいえ、だめよ!」
 エマラインは残りの言葉を察して、激しく頭を振った。
「家族のことは、わたし一人の問題だわ。あなたやリンツやシェリーたちを巻き込むわけには行かない。大丈夫よ。ええ、大丈夫」
 彼女も起きあがり、いつの間にか流れてきた涙を拭った。
「あなたも家族の犠牲を乗り越えてきたんでしょう、アレイル。シェリーやミルトも、リンツもね。だからわたしも、乗り越えなければならないわ。つらいことだけれど……三ヶ月半前に家を出た時、わたしはもう家族を捨てたのよ。今さらどんなことになっても、二度と元には戻せないわ。父や母や兄には、本当に申し訳ないけれど……でもね、わたしたちがこれからやろうとしていることは、もっと大事なことなのだと思う。だから、許してもらうしかないわ。たとえ許してくれなくても……だからといって、わたしは後戻りできない」
 彼女はもはや、涙があふれるのを拭おうともしなかった。握った手から伝わってくる相手の同情に慰められ、その手を握り返しながら、言葉を継いだ。
「わたしね……家族は大事だと思うわ。でもそれ以上に、みんなのことが大切なの。リンツやシェリー、ミルト……みんなかわいい、いい子たちだわ。優しくて明るくて、逆境にも負けない強さがあって、子供らしくて、心からわたしたちのことを信頼してくれている。わたし、あの子たちに未来を与えてあげたいの。それにね、アレイル……わたし、誰よりもあなたと一緒にいたい。あなたのためにもわたしのためにも、未来を作りたいのよ。わたしたちが、もっと一緒にいられる未来を」
「僕もだよ。かわいい仲間たちが増えて、あの子たちのために、何とかしてあげたいと思ってる。それにエマライン、君は誰よりも、僕にとって特別な人なんだ。君は最初の友達だし、いつも誰よりも僕の支えになってくれているよね。本当にそうだよ。このままずっと一緒にいられたら、どんなにいいだろう……」
 二人は握り合った手に力を込めながら、月明かりの下で見つめ合った。胸の鼓動は高まり、お互いの激しい感情の波が、大きなうねりとなって包み込んでいくのが感じられる。少なくともエマラインの力は、それをはっきりと感じ取っていた。そして、彼女はふいに気づいた。この感情の波――この熱いうねり――それはかつて感じたことがある。自分自身のものではなしに、だれかの共感として。それは、かつてピアジェックのコロニー跡で泊まった夜に、感じた思いに似ていた。八百年前に、そこに住んでいた娘の感情として。(ポールを愛している)彼女がそう思った時にうねっていた、熱い感情の波――それは今の自分たちの思いに、なんとそっくりなことか。
 エマラインはその時、はっきりと悟った。自分たち二人を結びあわせていたものは、友情や共感などではなく、愛なのだと。それを認めた瞬間、激しい動揺が襲い、思わず目を伏せた。愛――この世界ではほとんど存在しない、過去の遺物だと思っていたものが、いや、その存在さえ知らなかったものが、まだ息づいていた。まだ失われていなかった。でもその意味を、お互いにまだ知らない。エマラインの方は、今やっとその認識の戸口にたどり着いたばかりだし、アレイルはまだその意識さえない。自らの感情を、かつての彼女のように、深い友情と思っている段階なのだ。彼女はそんな相手の心理状態がわかるだけに、なおさら戸惑った。自分一人が意識しているなんて、なんだかもどかしいと。お互いに認識してくれなければ、そこから先のステップへは踏み出せない。愛というものがどういうものなのかを、知ることが出来ない。でも、相手にも本当のことがわかって欲しいと思っても、それを口に出すことなど、彼女にはとても恥ずかしくて出来なかった。
 エマラインは一度伏せた目をおずおずと上げ、自分をじっとまっすぐに見ている相手の目を、ためらいがちに見た。再び目があった瞬間、二人の間に新たな感情の交流が生まれた。彼女の思いが、まるで電流のようにアレイルの心にも伝わったのである。それは、紛れもないテレパシー――相手の思考を受け取るのではなく、自分の考えを相手に送るもの。一瞬の間に起きた、二つの感情の完全な交わり、そして共有であった。それはまるで、ぱちんと火花が散ったような衝撃であり、その瞬間二人の心は完全に重なり合い、一つになったのである。
「あっ!」
 瞬間、アレイルは何かに打たれたような表情になり、彼女の手を離すと、しばらく呆然とした様子で、相手の顔を見ていた。そして再び、ためらうように手を伸ばし、その手を握った。「愛……この感情が? 知らなかった。君が教えてくれるまで……とっくに気がついてても良かったはずなのに……」
「わたしも……わからなかったのよ。今までは」
 エマラインは真っ赤になりながら、消え入りそうな声で答えた。
「でもわたし、前にね……ピアジェックで他の人の愛の気持ちを、感じたことがあるの。それで今……急にわかったのよ。自分の気持ちが、まったく同じだって……」
「君が気づいてくれて、良かった。本当に、自分を蹴とばしたくなるよ。わかっていたはずなのに……誰も教えてくれなくても、もっと前に気づいていても良かったのに……」
 アレイルはためらうような動作で彼女の肩に手をかけ、しばらく黙ったあと、戸惑ったように言葉を継いだ。「でも、どうしたらいいんだろう。わからないんだ。君のことが好きで、愛しくてたまらないのに、それをどうやって伝えたらいいのか、どうしたらいいのか……もどかしいよ。たぶん君には、僕の思っていることがわかっているだろうけれど、でも、それだけじゃなしに……僕は、どうしたら君に愛を伝えられるだろう」
「わたしにも、わからないわ。ええ、あなたの心は感じられるの。とってもうれしいわ。わたしも同じ気持ちなのよ。でもそこから先は、誰も何も教えてくれない。わたしたちは、心の交流だけで満足すべきなの? わたしには気持ちがわかっても、あなたにも伝わる、アレイル? わたしの思いが」
「わかるよ。君のようにすべてを共感できるわけじゃないけれど、君の心は感じられるんだ。うれしいと思ってる。でもそれだけじゃ、僕は満足できないんだ。なにか、もどかしくて、たまらない。心だけじゃなく、身体も君に触れていたい……そうだ、そうして全身で君を感じていたいと思うんだ。でも……もし僕が君を抱きしめたら……君はいやかな?」
「いいえ、いやじゃないわ……少し恥ずかしいけれど……でもわたしも、そうして欲しいと思ってるの」彼女は真っ赤に頬を染めながら、消え入りそうにそう答えた。
「エマライン……」アレイルは呟くように彼女の名を呼び、最初はためらうようにそっと、やがて力を込めて激しく彼女を抱きしめた。お互いの胸の鼓動と、ぬくもりが感じられた。まるで自分の一部のように。
 激しい感情の海の中に溺れたように、二人とも我を忘れて身を任せていった。相手に触れていたいという強い欲求に命じられるまま、二人は生まれて初めてのキスを交わし、さらにお互いの身体を激しく確かめあった。本能というものは、たとえ長い間抑圧されていても、誰も教えてくれなくとも、自然の欲求が発する声のままに道を開いていく。若い二人にとって、それは未知の領域だった。お互いに手探りで進んでいく、新たな世界でもある。降るような星空の下、柔らかい草の絨毯の上で、本能の声に導かれるまま、二人はぎこちないながらも、新たな領域に到達した。愛することの意味を、そして身も心も一つに結ばれるということの、その無上の幸福感を。それは生まれて初めて知った愛の瞬間であり、至福感であった。
 没我の境地からさめ、穏やかな眠気がやってきた時、二人は幸福感に包まれたまま、心地よい眠りへと落ちていった。
 眠りに落ちる寸前、エマラインはかすかに、誰かの声を聞いたような気がした。
(愛している……愛しているから……)
 それはさっきまで、自分たちが交わしていたような、激しい感情の交流ではなく、遠くから響いてくる、かすかなこだまのようだった。彼女はその時、その彼方の声に反応する気力は起きなかった。自らの歓喜に酔い、夢うつつに聞くこだまとしてしか感じなかったのだ。まもなく、彼女は深い眠りに落ちていった。
 
 自分の肩に寄り添うようにして、エマラインが眠るのを見守っていたアレイルも、彼女が眠るのと同時に強い眠りの誘いを感じた。彼も深くため息をつくと、彼女のあとを追って眠りについた。
 アレイルは、過ぎ去った子供時代の夢を見ていた。母は居間の椅子に腰を下ろし、赤ん坊の妹を優しく揺すっている。赤ん坊のルーシアが腕の中ですやすやと眠ってしまったあとも、母は娘を抱いたまま、遠くを見るような目をして、じっと座っていた。
「何を考えているの、お母さん?」
 当時五歳くらいのニコル・ウェインが遊びをやめて母のそばに膝をつき、その顔を見上げて問いかけた。同じように幼い少年だったアレイルも、兄のあとを追って母のそばに駆け寄り、その膝に手を置いて見上げる。
「なんでもないのよ」
 母は優しい微笑みを浮かべ、息子たちの頭をなでていた。
「ただ……いいえ、今のあなたたちには、わからないことよ。あなたたちが大人になったら、わかるかもしれないけれどね」
「何をわかるの?」二人はそろって問いかける。
 母はしばらく黙っていた。二人から視線をはずし、遠くを見るような目をして。そして再び彼らに穏やかな眼差しを注ぐと、呟くように答えた。
「誰かを愛する気持ちをね。その喜びと……悲しみを」
「愛って、なあに?」二人はまた、そろって問いかけた。
「あなたたちがもし、心を失わないまま大人になれたら、いずれは訪れるものよ。でも、それは喜ぶべきものではないかもしれないわね」
「どうして?」
「この世界では、自分への愛と社会に対する愛しか、認められないの。本当に誰かを好きになって愛しく思う、そういう本来の愛はないほうが楽なのよ、ここでは」
「なぜなの? どうして誰かを好きになっちゃ、いけないの?」
「さあさあ、坊やたち。あなたたちは本当に、こだまのようね。二人いっぺんに、同じことを聞いてくるのね。そんなに何でも知りたがるのは、おやめなさい。知らなくていいことが、世の中にはたくさんあるのよ。お母さんを困らせないでちょうだいね。あなたたちが大人になったら、もしかしたらその答えがわかるかもしれないわ。でも、もしずっとわからなくとも、気にする必要はないのよ。その方が幸せなのかもしれないから」
 母は穏やかな笑みを浮かべていた。しかしその瞳が心から笑うのを見た記憶はない。いつも悲しみの影が、そこには宿っていた。母が生きている時には、彼女の憂いの元が何か、ついに理解することは出来なかったが、今はアレイルにもはっきりとわかった。それはかつての恋人であり、自分たちの実の父親であるケイン・ミッチェルとの、許されなかった愛のためだったのだと。
 その思いが彼の意識を揺さぶった瞬間、過去の残像はかすんでいき、別の風景が白いもやの中から浮き出してきた。それは、次第にはっきりとした映像になる――。

 コンパートメントの一室に座っている、一人の男の姿が見えた。その男はベッドの上に腰をかけて、いらいらした様子で両手をにぎったり、離したりしている。二十代半ばくらいの年輩で、胸幅も腕も足も太く、筋肉の盛り上がった、がっちりとした体格をしていた。白い衿なしのシャツにグレーのズボンを身につけ、傍らの椅子の上には、深緑色の軍服が無造作に掛けられている。テーブルの上には、レーザー銃が一本置いてあった。男の顔は浅黒く、短く刈り込んだ黒い髪と、筋の通った、鼻翼の張り出した鼻、分厚い唇と太い眉毛をしている。窪んだ目は鋭い灰色だった。左の頬には、長い傷跡が走っている。
 来訪者を告げる、玄関の呼び出し音が鳴った。男ははじかれたように立ち上がり、部屋を出てドアを開けた。入ってきたのは、ほっそりとした体つきの女だ。耳を覆うくらいの長さの柔らかい鳶色の髪をした、青白い細面の女性。年齢は、ほぼ男と同じくらいだろうか。彼女は少し丈の長い紺色の上衣と同じ色のズボンを着て、手には大きなバッグを提げていた。おびえたような目は、深い茶色だ。背は高いが、身体の幅は男の半分くらいしかない。
「ヘレナ、来てくれたんだな」
 男は女の肩に手をかけ、その眼をのぞき込んでいた。
「ええ、ジャック。来ないでは、いられなかったの。あなたは……あなたは、ほかの都市へ行ってしまうんでしょう? もう二度と会えなくなるんですもの……」
 女は顔を両手で覆い、静かに泣き始めている。
「俺は行かないぞ」
 男はきっぱりとした口調で言い放った。まるで宣言するように。彼女を中に引き入れ、ドアをロックした。そして寝室に女を連れていくと、手を取って自分の隣に座らせていた。
「そうさ!」男は激した口調で続けた。
「一昨日の晩だ。俺の上官が、俺を第十七都市に配置換えすると言いやがったんだ。つまり俺はもう、超兵士ではなくなるわけだ。ただの治安維持軍というわけさ。しかも連邦で一番辺境の、北の果ての都市へ」
「でもジャック、そうすればあなたはもう、特別任務者ではなくなるわけでしょう。あなたのためには、いいことかもしれないわ。そうすればあなたは、自分自身の家庭を持てるのですもの」
「誰とだ? 誰と結婚して家庭を持つというんだ? 君とではないことだけは、たしかだ。君はまだ、ここにとどまるのだろう?」
「ええ。でも配置換えになったわ。私は来週から、生殖技術担当のプログラマーになるの」
「生殖担当になるわけか。医療機能の方ではなく。しかしそれでも、特別任務者には違いない。君には結婚は許されていないんだ。そもそも俺たち二人の仲が政府に発覚したのが元で、こうして左遷されるのだから、俺たちの結婚なんぞ、連中が認めてくれるわけがない。だが俺は君以外のどんな女とも、結婚などする気はないんだ」
「でも、あなたは来週から、第十七都市に行ってしまうんでしょう? 一般人になれば、一、二年ですぐに結婚話が来るわ。あなたももう、二四ですもの。結局あなたは政府の決めた人と……」
「やめてくれ、ヘレナ!」男は語気を強めて遮った。
「俺は言ったはずだ。十七都市へなんぞ、行かないとな。そして君以外の女とも、結婚する気はないんだよ」
「でも、ジャック……」女はさらに怯えたように、目を見開いた。
「それじゃあ、政府に逆らうことになってしまってよ。本気で言っているんじゃないでしょう?」
「本気だとも。俺は最初から、そのつもりだ」
 彼は強く相手の手を握り、ぐいっと乱暴に彼女を引き寄せて抱きしめた。
「そんなことをしたら……あなたは殺されてしまうわ」
「そんなことは覚悟の上だ。指揮長は一昨日、こう言いやがったよ。『本来なら、処刑される所なんだぞ、J−六三四一八。総長閣下の温情に感謝するんだな』だと。畜生。温情なんか、くそ食らえだ。結局奴らは俺を飼い殺しにしたいのさ。何らかの利用価値があるとでも思ったんだろうな。さもなければ、俺を試しているかだ。冗談じゃない。俺は君のいない人生を送るぐらいなら、今死んだ方がよっぽどましだ」
 彼は激した口調で言うと、ふと力を緩め、彼女の肩を抱いて、その目をじっとのぞき込んだ。男の厳しい灰色の目が別人のような優しさで和み、静かに言葉を継ぐ。
「だが俺は、君まで巻き込むつもりはないんだ。ただ、最後にどうしても君に会いたかっただけなんだよ。少しだけ、俺に幸せな時を過ごさせてくれないか。俺が死ぬ前に、ほんの数時間でいいんだ。君と二人だけでいたいんだ」
「ええ。ここにいるわ。ここに、ずっとあなたといるから」
 女は顔を上げると、きっぱりとした口調で言った。
「私もあなたと一緒に、最後までここにいるわ。死ぬ時も一緒よ」
「しかし、ヘレナ……」
「かまわないの。私もその方が幸せなのよ。あなたのいないこれからの人生なんて、考えただけでも、ぞっとするわ。私、あなたを愛して、初めて人間になれたのよ。私たちナーサリーで育ったものは、はじめから人間であることを認められていない、政府のために働く機械と同じだわ。でも私はもう、機械に戻りたくはないの」
 彼女は男の胸に顔を埋めた。男は彼女を抱きしめ、二人ともしばらくじっと動かないで抱き合っている。と、男はそっと腕をゆるめて立ち上がった。
「どこへ行くの、ジャック?」女が怪訝そうに尋ねる。
「玄関だ。これからロックを壊してくる。その前に……」
 男はテーブルの上に置いてあった銃を取り上げると、常夜灯に向けて発射した。鈍い音とともにガラスが割れ、壁にぽっかりと黒い穴が開く。部屋の外へ出ると、玄関のロック装置をも打ち壊した。部屋へ戻り、ベッドの上にどっかりと腰をおろしながら、彼は深く息を吐いた。
「さあ、奴らにおれたちの邪魔はさせないぞ」
「でも、そんなことをしても……」
「無駄なことはわかっているさ。でもな、これは俺の最後の意地なんだ。俺たちの最後の時間を、政府の連中にのぞき見されるなんざ、まっぴらごめんだ。それに玄関のロックが壊れていれば、執行隊の奴らも開けるには、ちょっと手間がかかるだろう。その間に俺たちは、自分でけりを付けることが出来る。俺は超兵士だ。その誇りがある。けちくさい執行隊の奴らの手に掛かるなんて、まっぴらだ」
「そうね。でもあなたなら逆に、執行隊くらい簡単にやっつけられるのではなくて?」
「出来るだろうな、簡単に。だが、そのあとはどうする? 連中はあとからあとからやってくる。俺たちがここで粘って抵抗を続けても、きりがないじゃないか。その間食うことも眠ることもできない。いや、俺はうぬぼれる気はないね。いくらがんばっても、自分の限界は見えてるさ。遅かれ早かれ、いずれは殺されるだろう」
「それは、たしかにそうね」
「だから、その前に潔く自分の手でけりを付けたいんだ。俺は死ぬことは怖くない。子供の頃から、そういう風に訓練されてきたのだからな。だが、君のことは心配なんだ」 
「私も怖くはないわ。大丈夫よ」
「よし。だが、まだ時間はある。今はまだ、十八時だ。俺のところに君が来て、俺が監視カメラを打ち壊したことは、すぐに上に報告されるだろう。そして、俺は処刑されることになる。だが、連中が来るのは夜中だ。あと六時間、それまで俺たちは二人きりでいられる。誰にも邪魔されることなくな。さあ、食事にしよう。たぶんこれが、俺たちがこの世で食べる最後だ」
 二人は食堂に向かうと、テーブルに差し向かいで座り、しばらくは黙々と食事をとっていた。そして最後のコーヒーを(上層部で使われているドリップ式のものではなく、上級専門職が許されている、フリーズドライのインスタントではあるが)飲みながら、男はふうっと長いため息をもらした。
「逃げることが出来たらな。たった五、六時間ぽっちでなく、もっと長い間、君と二人でこうしていられたら、どんなにいいだろう」
「私も、そう思わずにはいられないわ」
 女性の方も、悲しげなため息をついていた。
「でもジャック、それは叶わない望みよ。あなたが、一番わかっているはずだわ。さっき、自分で言ったじゃないの。いくらあなたが強くとも、まともに戦っては勝てないって。かといって、逃げるわけにもいかないわ。どんな人間も、政府の監視網をくぐって長い間逃げ続けるわけには、いかないのよ」
「例外はあるがな」男の顔に、微かな苦笑いが浮かんだ。
「長期逃亡の記録を更新中の奴らがいるぞ。最初から数えれば、かれこれ三ヶ月近く逃げ続けているのが」
「ああ、政府が躍起になって追っている、例の超能力者集団でしょう? 最初は単独で逃げていたのが、まとまって行動するようになってから、お互いの能力を駆使して、今まで逃げ続けているのよね。でも、あれは例外中の例外だわ。あなたには彼らのような特殊能力はないんですもの」
「まあ、そうだな。いくら戦いのエキスパートであっても、それだけじゃ、どうにもならん。奴らのように、事前に危険をキャッチして、世界中どこへでもすいすい移動できるというような離れ業が出来れば、別だけどな」
「でも、彼らの逃亡も、捜査衛星が完成すれば、もう長くはもたないでしょうね」
「そうだろうな。でもまあ、今の俺にとっちゃ、そんなことはもうどうでもいいことさ。俺はもうこれ以上、奴らと追いかけっこする義務はないからな」
 男は質の悪い紙巻き煙草に火をつけ、ふうっと煙を吐き出した。
「今の俺は、むしろ奴らがうらやましいよ。まあ、あと一ヶ月かそこらで捕まるにせよ、それまでは自由を満喫できるわけだからな。なのに俺たちに残された時間は、あと五時間足らずだ。ああ、時間が惜しい。なぜ時計って奴は、忌々しいほど早く進むんだろう!」
「そして、早く過ぎ去って欲しい、いやなことに限って、時計は遅く進むのよ」
 女は物憂げな微笑を浮かべて言った後、深く嘆息するようにこう続けた。
「ああ、本当に……時間が止まってくれたらいいのにね」
「そうだ。でも、時間って奴は止まってくれないんだよ。だから、こっちへ来てくれ」
 彼は立ち上がり、恋人の手を取って引っ張ると、再び寝室へ向かっていた。
「俺は死ぬ前に、どうしてもやっておきたいことがあるんだ。頼む。来てくれ」
「何、ジャック。何をしたいの?」
「セックスさ。心から愛する女とのな」
「えっ!」女は目を見開いた。血の気のなかった頬に、見る見る紅の色が上っていく。
「でも、あなた……そんなこと……」
「君だって、わかっているはずだ。俺たち超兵士は、他の奴らみたいに、性欲を抑圧されないということを。そのエネルギーを、戦いに転化できるようにってんでな。もっとも、君は抑圧されているだろうが……だが、俺は我慢できないんだ。これで永遠のお別れなら、最後にどうしても、君と契っておきたいんだ」
 男は荒々しく、着ている服を脱ぎ捨てた。訓練と薬剤で鍛えられた盛り上がった筋肉と、演習でついた傷跡の残る、たくましく浅黒い身体だった。彼は仁王立ちの姿勢で相手の前に立ち、女の方に手をさしのべた。
「さあ、俺を見てくれ! 俺は愛の具体的な形が欲しい。だから、来てくれ、ヘレナ。たとえ君が政府に本能を抑圧されているとしても、そんなものは俺が取り払ってやる。俺たちには時間がないんだ。頼む!」
「え……ええ」女性の方は真っ赤になりながら、消え入りそうな声で頷く。
 男は彼女の肩に手をかけ、ゆっくりとその服を脱がせにかかっていた。白い肩が現れ、つっと上衣が床に落ちる。さらにズボンが下に落ち、女は下着だけを身につけて、恥ずかしそうにうつむきながら立っていた。男の手がそっとその下着に伸びていく――。

 瞬間、アレイルは衝撃で目が覚めた。思わず声を上げて飛び上がり、身を起こして汗を拭う。自らも昨晩体験した、目覚めたばかりの本能が、見知らぬ男女の愛の交換を目の当たりにして、妙に生々しいショックを覚えずにはいられなかった。アレイルは思わず長いため息をつき、再び汗を拭った。
 寄り添うようにして眠っていたエマラインもその気配で、目を覚ましたようだ。彼女も、ゆっくりと起きあがった。
「どうしたの?」
「いや……夢を見ていたんだ」
 アレイルはそう答えながら、彼女に向き直った。その時、彼の中に改めて、昨夜の記憶がよみがえってきた。戸惑いと喜びと、微かな恥じらいと――エマラインも同じように感じているらしく、少し顔を赤らめ、はにかんだような表情でうつむいている。
「おはよう……」
 二人は少しぎこちなく、そう挨拶を交わした。そしてともに、ほぼ同時に地面に視線を落とし、さらに空へと向ける。東のかなたにゆっくりと、太陽が昇っていくところだった。
「きれいな朝ね」エマラインはその瞳を紫に輝かせながら、夢見るように呟いた。
「うん。きれいだ……」
 二人は寄り添いながら、しばらく無言のまま、夜明けを眺めていた。草原の向こうに湖があり、さらに向こうには森が見える。灰色と紫、そして水色を混ぜたような空に、太陽がオレンジ色の光を纏って上っていく。その光は露を含んだ草原や湖の湖面に、きらきらと金色に反射して輝いていた。柔らかな風が髪を吹き抜けていく。
 ふいにエマラインが、小さく身を震わせた。両手を頭に当て、しばらく何かを聞いているように黙った後、告げる。
「声が聞こえる……昨夜も聞いた声よ。愛している……愛しているのに、時間がないって」
「えっ?」
「そう。昨日も聞いたの。この声を……眠る直前に。男の人のような、女の人のような……いえ、なんだか入り混じって聞こえてくるような感じだわ。わたし……昨夜は気にならなかったのだけれど。でもこの思いの声は、真剣だけれど、とても……なんていうのかしら、絶望感のようなものも感じるのよ。『愛している。愛しているのに……時間がない』って」
「それはきっと、あの二人だと思う。僕もさっき、夢で見たんだ」
 アレイルは頷き、昨夜の夢を語ろうとした。が、話せば長くなるし、若干気まずい部分もある。彼は手を伸ばし、エマラインの肩を抱いた。この方が確実だ。彼女の力で、自分の夢の内容はすべて伝わるだろう。
 エマラインは驚きと同情に満ちた表情を浮かべていたが、不意に顔を赤らめ、身を引いた。「それであなた、さっき急に起きたの?」
「ああ。やっぱり衝撃的すぎてね。昨日の今日だから……それに他人のそんなシーンを黙って見るなんて、どう考えてもいい趣味じゃないし」
「そうね。あなたも罪な力を持ったものね、アレイル」
 エマラインもくすっと笑ったが、すぐに真顔になった。
「ねえ、この人たち、殺されてしまうの?」
「殺されるんじゃなくて、その前に、自分で死ぬつもりなんだ。もう、あと二、三時間くらいしか、猶予がないんじゃないかな」
「えっ? でも、都市の中で死刑が執行されるのって、真夜中でしょう?」
「そうだよ。今、都市の中は夜なんだよ。二一時か二二時時くらいじゃないかな。外の世界の本当の時間は、朝でもね」
「ああ、そうよね。都市の中と外の時間は、たいていの場所では違うんだったわ。じゃあ、本当にもう時間がないのね」
「そうだね。なんだか、悲しいね。あの人たちはやっと、人間らしい感情と愛を持てたって言うのに。でも立派だよ。人間としての誇りを持って、愛を貫いて、死んでいこうとしているんだから……」
「本当にね。男の人の方は、第一都市の精鋭部隊の人でしょう? たぶん、わたしたちの追撃隊にも入っていたかもしれないわ。いわば、敵なのに……こんな人もいるのね」
 エマラインは考えるように、しばらく黙った。その眼には同情と熱意が現れていた。
「ねえ、アレイル。わたしたちで、その人たちを助けられないかしら」
「君はそう言うだろうと、思っていたよ」彼は笑って、軽く肩をすくめた。
「でも、向こうに救われたい気があるかどうか、わからないよ。プライドの高い人たちのようだし、シェリーやミルトとは違って、二人ともちゃんとした大人なんだから。よけいなお世話だって、言われるかもしれない」
「そうかもしれないわね。でもわたし、その人たちと話してみたいっていう気がするのよ。年齢や立場が違っても、たとえプライドの高い大人であっても、お互いに理解しあえるかもしれないわ。少なくとも、その人たちは人間の心を持っているんですもの。それに、誰であれ、他の人を真剣に愛することが出来る人たちなんですもの」
「そうだね。じゃあ、リンツやシェリーが起きたら、相談してみよう。みんなの意見を聞いてみなくちゃね」
「ええ。そうね。でも、わたしはあなたみたいな予知能力はないけれど、なんだか二人とも、反対しそうな気はするわ。だってたぶん……」
「精鋭軍の兵士っていうところが、ネックかもしれないな」
 アレイルは肩をすくめて、言葉を引き取った。
「でも、君の案は悪くないよ、エマライン。彼らと会ってみるのは……」
「正しい道だって、あなたの力が教えているわけね」
 彼女は微笑した。エマラインは彼の中の“言葉”を聞いたのだろう。
「じゃあ、大丈夫よ。やってみましょう、ぜひ」




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