Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第2章 逃避行 (4)




 エマラインも同時に、目覚めていた。何か非常にざわついた感情のようなものが、彼女の眠りの中に入ってきたのだ。いくつもの思いが混線した、ノイズのような感じだが、はっきりとはわからない何かが。彼女はベッドの上に起き上がり、頭を振った。目覚めてもなお、頭の中は重苦しく、変に緊張したような感じだった。まるで、張りつめた糸のように――。
 その時突然、緊張と静寂を切り裂いて、悲鳴が響きわたった。彼女の頭の中だけに聞こえる、せっぱ詰まった、恐怖の叫びが。まだ歳のいかない、少女のような声。甲高く、今にも恐慌状態に陥りそうな、そして助けを求める声が。それは遠くから聞こえる木霊のようにかすかに、しかし感情だけは非常に強く、心に響いてくる。叫びに込められた極限の恐怖が、鋭いバイブレーションとなって震わせ、その激しさに、エマラインは思わず両手で頭を押さえた。
 誰かが助けを求めている――どこかで。でもその声は遠い。ここではないのだろうか。彼女は立ち上がり、ベッドを出た。暗闇の中、手探りでドアにたどり着き、開ける。そしてアレイルが寝ている部屋のドアを開けた。もし彼がぐっすり眠っていたら、引き返して寝よう。でももし起こせれば、少し話をしてみたい。この声の正体について、彼ならわかるかもしれない。
「エマライン? どうしたんだい、こんな夜中に?」
 アレイルの声がした。彼も起きて、ベッドに座っているようだ。エマラインは暗闇の中を進み、その隣に腰を下ろした。
「起きていたの、あなたも?」
「ああ、少し前に目が覚めたんだ。君も?」
「ええ。わたしもついさっき、目が覚めたの。何かざわついた感じがして。それでね、頭の中に声が聞こえたの。まだ子供のような、女の子の声が。なんだか……今にも殺されそうな感じの……恐怖。それが響いてくるの。その声は、とても遠い。でも、感情がとても強いから……細い針が頭に刺さってくるような感じがするの。それで、あなたならもっと詳しいことがわかるかしらと思って、来てみたのよ」
「そう」アレイルは暗闇を透かすように、エマラインを見つめているようだった。
「声がするんだね。女の子?」
「ええ、女の子の声だわ、きっと。それも……まだ、それほど大きくない、でも幼くもない……初等過程の上のほう……十歳から十二歳くらいの……そんな感じに聞こえるわ」
「じゃあ、きっとそれはあの子だ。たぶん、あの真ん中の、金髪の女の子だよ。そのくらいの年の子なら。もう追っ手が自宅まで行ったんだ。でもあの子の家族は、どうなったんだろう。父親は殺されたけれど、母親は、姉さんは、弟は……?」
「どういうことなの? この子を知っているの?」
「たった今、僕は夢で見たんだよ。たぶん、現実に起こっていた光景を。言葉で説明すると長くなるから、君の力を使って感じてみて、エマライン」
 アレイルは手を伸ばし、彼女の肩に軽く触れた。エマラインの能力は身体的接触を通じると、より鮮明に感じられる。彼女はたちまちすべてを知った。彼がさっき夢で見た光景を、現実を。
「ひどいわ……」
 エマラインは言葉を失った。我知らず、涙が浮かんできた。
「この子は……能力者なの? それで、政府に見つかって……ああ、でもこのままじゃ、きっとこの子、執行人に殺されてしまうわ。この声が途絶えるのが……怖い。とても耐えられないわ。助けてあげられるものなら、助けてあげたい。でもわたしたちには、どうしようもないのね」
「できなくはない……かもしれないよ。今ならまだ」
 アレイルは考え込むように黙ったあと、頭を振った。
「僕たちには、リンツがいるからね。彼を今すぐ起こして、その第三連邦の第五都市まで行ってもらえたら、なんとかなるかもしれない。助けられる確率は五分と五分……下手をすると、僕らも危険になるけれど。それでもいいなら……」
「でも、今なら間に合うのね!」エマラインはすぐに立ち上がった。
「助けに行きましょうよ。わたしたちまで危険になるのはわかるけれど、だからと言って、このまま黙って見過ごすことは出来ないわ。ねえ、アレイル。あなたもそう思うでしょ? 一緒に行ってくれるわよね」
「ああ。出来ればね。あの子たちが夢に出てきた以上、見過ごせないよ」
「ありがとう。じゃあ、決まりね。今すぐ、リンツに頼まなきゃ。ライトを貸してくれる?」
 エマラインは携帯用ライトを点けると、躊躇せず隣の部屋に入り、ベッドに寝ている少年を、揺り起こした。
「リンツ、リンツ、起きて! お願い、頼みがあるのよ」
「んだよお、いったい〜〜」
 少年は寝ぼけ眼で起きあがったが、たちまちはっとしたように、ぱっと立ち上がった。
「なんだ、なんだ。敵か? 奴らに見つかったのか? 大変だ、逃げなきゃ!」
「寝ぼけないで。違うのよ!」
 エマラインはもう一度、相手を軽く揺さぶった。
「違うの、危険なのは、わたしたちじゃないの。お願いだから、今すぐ第三連邦の第五都市へ行って。大急ぎで。早くしないと、間に合わないわ!」
「ええ? ちょっと待てよ。おれ、何がなんだか、わけわかんないぞ。いきなりたたき起こして、第三連邦まで行けだあ? 第三連邦って、海の向こうだろ? そんなに遠くまで行くのって、おれも大変なんだぜ」
「ごめんなさい。無理を言っているのは、わかっているの。謝るわ。でも、ことは一刻を争うのよ。わたしたちは、ある女の子を助けたいの。今にも執行人に殺されそうなのよ。この子も超能力者らしいの。どんな能力を持っているのかは、わからないけれど」
「女の子? そいつは誰だ? いったいあんたと、どんな関係があるんだ?」
「何も関係はないわ。どんな子なのか、わたしも詳しくはわからない。アレイルが夢で見た以外にはね。でもその子が今、助けを求めているの。必死に逃げながら、助けて助けてって叫んでいる声が、わたしにははっきりと聞こえてくるの。その声を聞いてしまった以上、出来ることなら助けてあげたいって、思わずにはいられないのよ。あなたはそこへ連れていってくれるだけで良いわ。あとはアレイルとわたしとで、何とかその子を助けられるかどうか、やってみるから。お願い、お願いよ、リンツ。わたしたちをそこまで連れていって。これだけはあなたの力を借りないと、どうにもならないのよ」
 リンツはその懇願を聞きながら、しばらく黙って考えているようだったが、やがてほっと大きくため息をついた。
「まったくお人好しだなあ、あんたたちはさ……だけど、ま、そこがあんたらの良いところだけど。いいよ、行ってやるよ」
 エマラインは思わず少年に飛びついた。
「本当に? ああ、ありがとう! うれしいわ!」
「いいってことよ」リンツは少し照れたように笑った。
「じゃ、正確な場所を、教えてくれないかな。地図かなんかがあると、都合がいいんだけどな。おれ、飛び先のイメージがはっきりしないと、行った先はお楽しみ、になっちゃうんだ。それこそ、ここへ来た時みたいにさ。最悪、海の中へどぼんだぜ」
「わかったわ。ねえ、地図はなかったかしら、アレイル」
「バッグに入っているよ。ミッチェルさんにもらったものが」
 アレイルは後から少年の部屋に入ってきたらしく、片手にいつも使っているバッグを下げていた。そして中を探り、地図を取り出して、差し出す。エマラインはそれを広げると、灯りを掲げて照らし、三人で覗き込んだ。
「ここが第二連邦。その中のここが、今僕たちがいる第三都市だ。第三連邦はこっち。海を挟んで、ずっと東の大陸の北部。昔は、ヨーロッパって呼ばれていたらしいね。第五都市は、この真ん中あたりだ。ほら、ここだ」
「ふーん」
 リンツはしばらく指し示された地点と全体の地図を、熱心な様子で見ていた。
「で、細かく言って、街のどの辺へ行ったらいいんだい? どこでもいいのか?」
「いや、できたら……」アレイルは急いで力を働かせているようだった。
「第四区の、住宅区第二ブロックの東側に行ってほしいんだ。ここに」
 彼は地図をひっくり返した。裏面には都市の図が書いてある。彼らがいた第二連邦第十二都市のものだが。アレイルは指でその地点を示した。
「ここならたぶん君も安全だし、僕らもぎりぎりで間に合いそうだからね」
「都市はどこも同じ構造だよな。ってことは、うん……わかったぜ」
「じゃあ、急ごう。エマラインの頭に聞こえる声が、消えないうちに。荷物をまとめて、あわただしくなったけれど、ついでに引っ越そう。ここもそろそろ危なくなってきたからね」アレイルは地図を畳み、バッグの中に入れた。
「そうね、わたしも部屋から荷物を持ってくるわ。あなたもまとめてね、リンツ。急ぎましょう。まだ声は聞こえているわ。あの子は、まだ生きているのよ。ああ、間に合いますように!」エマラインは祈るように声を上げ、ライトを持って部屋を出て行く。
「オーケー」少年も頷き、これまでに調達してきた下着と就寝着を毛布に包んだ。そしてエマラインがバッグを持ってくると、待っていたように声を上げた。
「準備はいいよな。じゃあ、二人とも、おれの手にしっかり捕まっていてくれ。離すなよ!」
 次の瞬間、彼らは空間を飛んでいた。それは、いつも不思議な体験だ。一瞬意識の糸が切れ、遥かな異次元空間に飛ばされたような。その一瞬の空白の後、再び意識の糸はつながる。目の前には新たな景色が広がり、足は新たな大地を踏みしめているのだ。

 三人は新しい街の歩道の上に着地した。リンツは長距離ジャンプのため、相当に力を消耗したのだろう。飛び出したその場に、崩れるように座り込んでいる。
「はあ、やっぱり海を越えて遠くに行くのは、しんどいぜえ。ところで、正しい場所に出たかい?」
「ああ。大丈夫だよ」
 アレイルは確認するようにしばらく間をおいてから、頷いた。
「じゃあ、行こう。でも、リンツはかなり疲れているから、ここにいた方がいいな」
「ああ、悪いけど、しばらくは動けそうもないや。とても救出なんて、出来そうもないよ。でもおれ、ここにいても大丈夫かなあ、アレイル?」
「うーん。道の上じゃ、ちょっとまずいな。あそこのアパートメントの玄関の横、共用トイレの建物の裏側で待っていてくれないか。あそこなら、あと一時間くらいは安全だし、僕らもそれまでには戻ってくるよ」
「ああ。でも気をつけてくれよな。絶対、帰ってきてくれよ。おれ、もう一人にはなりたくないんだ。頼むよ」少年は手を組み合わせている。訴えるような口調だった。
「僕らもできるだけ、がんばるよ。必ず戻ってこられるように」
 アレイルはリンツの肩を叩き、、
「ええ。大丈夫よ。戻ってくるわ」と、エマラインは頷いた。

 リンツがのろのろと足を引きずるようにして集合住宅の方に歩いていくのと同時に、二人は歩道を走り出した。エマラインの頭の中に響く少女の叫びは、もはや遠いこだまではなく、はっきりとした強い声になっていた。都市に着くと同時に、明瞭に聞こえてきたのである。あの子はやはり、ここにいるのだ。
「今行くわ。それまでどうか、がんばってちょうだいね!」
 相手には聞こえないとわかっていても、思わずそんな小さな叫びが口から漏れた。
 エマラインには、今少女がどこにいるのかはわからない。聞こえるのはただ、想念の声だけである。アレイルも少女の現在位置については、正確な見通しはつかないようだった。彼にわかっていることは、少女は今特権階級だけが持つことを許される個人用エアロカーに乗って、街を逃げ回っているということだけだ。彼女はいつも父がそうするのを見て覚えたやり方で、車を発進させた。しかしそれ以上の操作はわからず、運転盤にあるボタンをいろいろ押しているうちに、ランダムモードに入ってしまったらしい。それゆえ、今はめちゃくちゃな方向転換をしながら、走っている。それが今のところ、政府の追っ手をかわすのに、プラスに働いているようだが。乗っているのは金髪の少女と、小さな弟だけ。母と姉の二人は、幼い姉弟を車に押し込むのが精一杯だった。車が発進するのと同時に、楯となってかばってくれた二人は、政府軍に撃たれて死んだ。
 車は今、完全にコントロールを失っている。何度か政府軍にレーザー砲を打ちかけられ、あちこちに故障が発生しているのだ。もうまもなく走れなくなって、どこかに不時着するだろう。最終的に、幼い姉弟を乗せた車がどこに止まるのか――アレイルの力は、その場所を特定してくれた。そこへ政府の追っ手よりも早く着くことが出来たなら、二人を救出することは可能だ――そこまでが、この短い時間にアレイルが知り得たすべてだった。そしてエマラインも同時に、それを共感している。ただ時間の猶予がなく、そこから先の細かい見通しをつけている暇はなかったことが、彼にとって少し不安材料だったようだが、とりあえず今は行くしかない。
 
 二人は歩道をしばらく走ったあと、三つ目の交差点で、道の真ん中へと出た。そして今まで走っていた環状道路から放射道路の方へと曲がり、中央行政区に向かって走った。まもなく住宅区を過ぎ、広い環状道路を横切って、生産区へと入る。その二つ目のブロックの交差点にさしかかったところで、彼らは立ち止まった。
「間に合った。ほら、今来るところだ!」
 アレイルが叫ぶと同時に、一つ先の曲がり角から、銀色のカプセル状のエアロカーが、白い煙を吹き出しながら飛んできた。もうもうと白煙を上げながら、見る見るうちに失速し、二人が立っているところから五メートルほど離れた道の真ん中に、すうっと着地する。
 二人は車の方へと駆け寄った。中には小さな子供を抱えた、金髪の少女が座っていた。大きな青い目は恐怖で見開かれ、腕に抱いた弟をぎゅっと抱きしめ、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、おびえた声を上げている。
「いやあ、来ないでえ! おねがい!」
 エマラインは窓から中をのぞき込むと、優しくにっこりと笑った。
「大丈夫よ。わたしたちは、あなたたちを捕まえに来たんじゃないの。助けに来たのよ。あなたが助けてって叫んだ声を聞いたの。さあ、ドアを開けていらっしゃい。わたしたちと一緒に逃げましょう」
「本当?」
 少女は驚いた表情で、不思議そうに目を見張った。優しそうなおねえさんだ――彼女はたちまち、そう認識したのだろう。おにいさんの方も優しそう。政府の追っ手の人たちみたいに、怖い目はしていないわ、と――その心の動きが、エマラインにも感じられた。彼女は再び微笑んだ。そして、手を差し出した。
「いらっしゃい。大丈夫だから」
 少女はしばらくためらっていたようだったが、弟を腕に抱きかかえたまま、ドアを開けて出てきた。
「ああ、良かった。すんなりと出てくれて」
 アレイルは少女の手を取り、ほっとしたような声を上げた。「でないと、大変なことになっていたかもしれないよ。さあ、できるだけ早く車から離れないと」
「どうして?」
 少女は引っ張られるままに走りながら、怪訝そうに聞いた。しかし、すぐに答えは得られた。まもなく背後でボンという音響とともに、車が爆発して燃え上がったのである。
「ああ、良かったわね、本当に……」
 エマラインも驚きながら後ろを振り返ると、安堵のため息をついた。
「あなたたちが早くわたしたちを信用してくれて、良かったわ」
「君たち、IDカードは持っている?」アレイルはそう問いかけ、
「あ、おうちに置いてきちゃった」と、少女は答える。
「弟くんの分も?」
「うん」
「じゃあ、ちょうどよかった。リンツの所まで大急ぎで戻ろう。追っ手に見つからないうちにね」アレイルは立ちあがり、しばらく黙った後、首を振った。
「いや、見つからずというのは無理だ。もう連中は、そこまで来てしまっている。エマライン、君はこの坊やを抱いてくれないか。それから……シェリーちゃんだっけ。君は僕が背負っていくよ、おいで」
「いいの?」少女はためらいがちに、背中におぶさった。
「おにいちゃん、あたしの名前を知ってるの? ひょっとして、パパの知り合いなの?」
「個人的には知らないよ。でも……少しは知っているって言えるのかな」
 アレイルはちょっと苦笑して答えている。
 エマラインは、少女が抱いていた小さな男の子を、腕に抱き取った。幼児は青い大きな目をぱちくりさせて、こっちを見ている。栗色の巻き毛に縁取られた顔は、造作が整っていて、かわいらしい子だ。でも今はおびえているようだった。
「大丈夫よ、坊や。わたしにしっかりと捕まっていてね」
 エマラインはにっこりと笑いかけた。
「さあ、早く。もう時間がないよ!」
 アレイルが彼女の腕を引っ張り、二人は走り出した。まもなく、角を曲がって十数人の追っ手の姿が現れる。
「おねえちゃんとミルトを先にやって!」背中の少女がそう叫んだ。
「君が一番後ろになってしまうよ。危なくないかい?」
「うん。大丈夫だと思うわ。ちょっとの間だけなら、きっと」
 少女がそう答えると同時に、追いついてきた兵隊たちが銃を発射する。少女の全身が、さっと緊張したようだった。そして素早く振り向いて、両手を広げる。と、その腕にはじかれたように、彼らめがけて飛んできた何本ものレーザー光線は、空中で広がって四散していった。
「バリアか。すごいね」
 アレイルは走りながら後ろを振り返り、感嘆したような声を上げた。
「でもこれ、長くできないの。疲れちゃって」
「そうだろうね。じゃあ、少しジグザグに走って、攻撃をかわしていこう。できればここじゃなく、歩道の上の方が良いな。次の交差点で歩道に入ろう。それで交差点に来たら曲がる。僕らが角を曲がったら君は休んで、奴らの姿が見えるようになったら、また構えてくれれば良いよ。疲れてもう出来ないと思ったら、遠慮なく言ってくれ。その時には、別の方法を考えるから」
「うん。じゃああたし、後ろを見てるね」少女はこっくりと頷いている。
「とりあえず次の交差点ね。歩道に入って、どっちに曲がるの、アレイル」
 幼児を抱いたエマラインは、二人のすぐ前を懸命に走りながら、そう聞いた。
「右。あとは君の力で読みとってくれないか」
「わかったわ」
 彼らは交差点に出るたびに曲がり、ジグザグに街の中を走り抜けていった。最初に来た大きな二本の道路の対角線に当たる道を、なぞるように走って行くが、たまに回り込んでくる敵のために、迂回をした。アレイルが能力を駆使して順路を指定していくので、挟み撃ちにはならなかったが、ほとんどいつも彼らが次の曲がり角を曲がる前に、追っ手の射程距離に入ってしまい、砲火を浴びる。そのたびに少女が念動シールドを張ってレーザーを散らしてくれたが、何度か繰り返されるうちに、だんだん少女の疲労の色が濃くなっていくようだった。顔や服に汗がにじみ、ハアハアと弾むような荒い息づかいに変わってきている。もうそろそろ力の限界なのだろう。
 エマラインもひどく疲れていた。ここへ着いてからほとんど走りっぱなしの上に、この幼い姉弟を助けてからは、ずっと小さな子供を抱いて走っているのだ。二歳くらいの子供というのは、もうかなり重くなってきている。腕に抱いた幼児がだんだん重たく感じられ、腕がしびれそうになるほどだった。だが、決して落としてはならない。幼児の方も、必死なのだろう。小さな腕でかじりついてくる。彼女は精一杯の力でその子を抱きかかえながら、ほとんど無我夢中で走っていた。周りのことは、もはや頭になかった。ただ、リンツが待っている場所まで着くことしか――。
「エマライン、逆だよ、戻れ!」
 アレイルの声で、彼女ははっと我に返った。うっかりして次の曲がり角の方向を読み忘れ、ただ自分の方向感覚のみで、無意識に曲がってしまったのだ。彼女はあわてて元の方向に戻ろうと方向転換した。
「きゃ!」
 エマラインは、思わず短い悲鳴を上げた。急いだあまりよろめき、そのはずみに足を取られて転んでしまったのだ。頭に浮かんだのは、赤ちゃんをかばわなければ――それだけだった。彼女はとっさに身体をひねり、背中から地面に落ちた。その為、ひどく不自然な体勢で倒れることになってしまった。
「エマライン! 大丈夫かい?」
 アレイルが、ぱっと駆け寄ってきた。
「ええ……坊やは大丈夫?」
 エマラインは倒れた姿勢のまま、かろうじてそう返事した。子供はまだ腕にしっかりと抱かれたまま、目をぱちくりしていたが、いきなりわっと泣き出している。しかしそれはびっくりしたためで、怪我をしたような様子はなかった。少女が地面にすべりおり、弟を抱きかかえて宥めにかかっている。アレイルはエマラインを助け起こそうとするように、手を差し出した。彼女はかろうじて立ったが、すぐに顔をしかめて座り込んだ。
「痛い……」彼女はくるぶしをさすった。そこは紫色のあざになっていた。
「ひねったんだな。捻挫したかもしれない……」
 アレイルの口調は困惑を感じさせた。もう時間の猶予はない。すぐに追っ手がやってくる。エマラインも近づく敵の気配を感じていた。彼女は絶望的に叫んだ。
「だめよ、みんな。わたしをおいて逃げて!」
「とんでもない。君を置いていけるものか!」
 アレイルは強い口調で、声を上げていた。
「それに、ここに入ってしまったら、もう僕らは逃げられないよ。突破するしか……」
「挟み撃ち……?」
 エマラインもたちまち、相手の言わんとしていることを悟った。そして自分たちが今、どれほど困難な状況に陥ったかのも。ここはオートレーンもシャトルも走っていない、幅三、四メートルの細い道だ。その角から、まもなく追っ手が現れる。逃げても、反対側からもやってくる。少女はもう精神力の限界で、バリアを長く張る力はないだろう。まして両方向からの攻撃を防ぐのは不可能だ。もはや八方ふさがりだ。状況は絶望的、もう逃げられない――わたしのせいで。
 足音が近づいてくる。まもなく、最初の追っ手が現れるだろう。少女は弟をエマラインに預けて、敵がやってくる方向に進もうとした。最後の力でバリアを張るつもりなのだろう。しかし、もはやそれだけでは防げない。わたしたちはみな、この場で死ぬのか――そんな絶望に支配されかけた時、エマラインは腕の中の幼児に強い力を感じた。
「そうだ。この場を切り抜けられるとしたら……」
 同時にアレイルが声を上げた。彼も自分の能力によって、子供の力を知ったのだろう。
 追っ手の姿が視界に飛び込んできた。十数人の兵士たちが、一斉に銃を構える。少女は打ちかけられるレーザーを交わすために、腕を上げかけた。と、兵士たちがトリガーボタンを押す前に、別の光が少女の後ろから、その横をすり抜けて、彼らめがけて飛んでいった。金色に輝く光が、男たちの頭上で爆発する。まるで、小型爆弾が炸裂したようだった。その光が晴れたあと、残ったものはさっきまで追いかけてきた兵士たちの、バラバラの残骸だけだった。
 アレイルも少女も、呆気にとられた様子で、振り向いていた。エマラインも目を見張って、腕に抱いた幼児を見つめた。子供は目を見開き、頬はピンクに燃えていた。
「あいつら、きらい!」幼児は片言で、興奮気味に叫んでいた。
「やっつけちゃう!」
「ミルト……」少女は驚いたように、弟に呼びかけていた。
「あんたって……ボールやおもちゃやテーブルを、動かすだけじゃないの? すごい……」
「本当にすごいよ!」アレイルも感嘆したように声を上げた。
「ねえ、坊や。もうすぐ向こうのかどからも、敵が来るよ。やっつけられるかい?」
「うん」子供は頷いている。
「ほら、来たわよ!」
 エマラインは子供を抱いたまま、新たな敵の方を向いた。
 幼児は小さな両腕を上げた。「えーい!」という声と同時に、またしても光が炸裂する。姿を現した敵は、一瞬にしてその中に飲み込まれ、吹き飛ばされた。
「やったわね。坊やの力がこれほどすごいとは、思わなかったわ」
「うん。僕も驚いているよ。この子は、とんでもないサイキックだ。僕は誤解していた。シェリーちゃんの力を見た時、政府から手配されているのは彼女で、彼女だけだと思いこんでいた。でも違うんだ。手配されていたのは、この子だったんだ。これだけ派手な力の持ち主で、しかもまだわけの分からない子供だから、見つけられるのも早かったんだね。シェリーちゃんの方は、まだ発見されていなかったんだ」
「そうなの。あたしはまだ、大丈夫だって、パパが……でも、ミルトはね……」
 少女はふうっと深く吐息をついた。
「でもミルト、あんた、あんな力を持ってたんなら……なんで最初から、やっつけてくれなかったの? そうしたら、ママだって、お姉ちゃんだって……」
「気持ちはわかるわ。でもまだ小さいから、無理よ。状況がわかってなかったんだし」
 エマラインは穏やかに宥めた。
「うん。まあ、そうだけど……」
 少女は頷くと、ふいにふらっと倒れかかった。
「どうしたの? あら……この子、気絶しちゃったわ。かわいそうに、力を使い果たしたのね。緊張がほどけたら、気を失っちゃったのよ」
「そうだね。気力体力の限界だったんだろう。精一杯弟をかばって、がんばったんだよ」
アレイルは少女をもう一度背中におぶい、幼児を片手に抱かえた。
「でも、そうのんびりもしていられないよ、エマライン。新しい追っ手が、あと二、三分もすれば来てしまう。急いで戻らなきゃ。立てるかい?」
「ええ、なんとか……ちょっと、ごめんなさいね」
 彼女は相手の服に捕まりながら、苦痛に顔をしかめ、なんとか立ち上がった。
「ごめんなさいね、わたしの不注意で」
「僕も悪かったんだ。ちゃんとはっきり言えば良かった。それに、君は疲れていたんだね。この子を抱いていたし」
「でもあなただって、女の子を背負っているんですもの。わたしがだらしないのよ。ごめんなさい」エマラインは痛みをこらえながら、びっこをひきひき歩き出した。
「走るのは無理だけれど、ゆっくり歩くことなら、なんとかできるわ」
「君も支えていけると良いんだけど……せめて僕の肩につかまりなよ。その方が、少しは楽に歩けるから」
「だってあなた、もう二人抱えているじゃない。わたしまでよりかかって大丈夫?」
「つぶれはしないと思うよ。なんとか、がんばるさ。僕もそれほど力に自信のある方じゃないけれど、あと一ブロックぐらいならね」
「あと一ブロック? もう、それだけでいいの?」
「ああ、僕らは結構近くまで来ていたんだよ」
「そう。良かったわ。リンツはきっと、待ちくたびれているでしょうね」
 エマラインはほっと安堵のため息をついた。そして遠慮がちに相手の肩に捕まって歩き出し、なんとか追っ手が来る前に、最初に来た地点までたどり着くことが出来た。

 近づいてくる四人の姿を認めたのだろう。リンツが隠れ場所から飛び出してきた。
「よかったあ! 帰ってきてくれて! おれ、気が気じゃなかったぜ!」
「ちょっと遅くなってごめん、リンツ。なんとか帰れたよ。この子たちのおかげでね」
 アレイルの言葉に、リンツは目を丸くしている。
「こいつらのおかげで? って、あんたたち、助けに行ったんじゃなかったのか? それにまあ、女の子だけじゃなくて、おまけもいるじゃないか」
「坊やを怒らせない方がいいわよ、リンツ。わたし、ちょっと失敗しちゃったの。この子たちのおかげで、切り抜けられたのよ。本当にこれじゃあ、どちらが助けられたのか、わからないわね」エマラインは微かに笑みを浮かべた。
「へえ……」
「リンツ、詳しい話はあとでするよ。とりあえず、どこかに移動できないかな? 街の中は非常線が張られていて、危険なんだ。もうすぐここにもパトロールが来るよ」
「わかったよ。短い距離なら、なんとか移動できるぜ。さっきまでの隠れ家に帰れってのは、無理だけどさ。で、この街に、どこか良い空き家があるかい?」
「いや……外へ行こう」
 アレイルはしばらく考えるように黙ったあと、そう告げた。
「へ、外?」リンツは驚いた顔で、聞き返している。
「街の外なんて行って、大丈夫なのかい? 死にやしないだろうなあ?」
「死ぬもんか。外は真空地帯の宇宙じゃないんだよ。外には普通の、自然の世界があるだけさ。街の東から十キロくらい離れたところに、森があるんだ。その入り口あたりにいってくれないか?」
「よし、わかった。じゃあ行こう。今度は五人か。ちょっと重いなあ」
 リンツは苦笑して頷いた。アレイルは少女を、エマラインは幼児を抱え、それぞれリンツの両腕に捕まる。次の瞬間、彼らの身体は街の外に出ていた。

「明るいわ! まぶしい!」
 足が柔らかい草に触れた瞬間、エマラインは思わず声を上げ、片手を目の上にかざした。今までずっと携帯用ライトの明かりを頼りに、夜の街を走ってきた。そのため、光に目が慣れていないのだ。これは、いったいなんという光なのだろう。ドームの中の照明とは違う、暖かく、柔らかい金色の光。
「太陽だ……」アレイルが空を見上げて呟いた。
「僕も実際に見るのは初めてだよ。そうか……第三連邦じゃ、この時間はもう、外は朝なんだ」
「なぜ? どうして街の中と外の時間が違うの?」
「専門課程の文献で、読んだことがあるんだよ。地球は丸くて、太陽の周りを自転しながら回っているから、地球には本当は、いろいろな時間が同時に存在しているらしいんだ。でもそれじゃ不便だからって、連邦政府が世界中の時間を統一した。第一連邦の第一都市標準時間にね。だから街をドームで囲って、人工的に一日を作り出しているらしいよ。僕らの第二連邦は、基本的に第一と時間は同じだから、街の中が夜なら、外も夜なんだ。でもここでは、もう朝なんだね。なんだか不思議だな」
「そうね。それだけ本当は、地球は広いってことかしら……」
「おれ、さっぱりわけわかんないんだけどさ……」リンツは頭をかいた。
「それに、地球が丸いって初めて聞いたよ。真っ平らだとばっかり思ってた」
「ええ? それでよく、今まで無事に移動してたなあ!」
「おれもそう思うよ、今になればさ。でも、地図は平らだし」
「まあね。でも地球儀っていう、丸い地図もあるらしいよ。あまり見かけないけどね。それに地球の地理は、高等専門課程になって初めて出てくるんだ。初級課程で教えても良いようなことだと思うのにね」
「政府はあまり、わたしたちが外の世界を知ることを、歓迎しないんじゃないかしら」
 エマラインは微かに首を振った。感嘆の思いで、周りの景色を見ながら。
「そうだろうね」アレイルは頷く。
「じゃ、おれなんか、一生知らないままだったろうな、地球が丸いなんて。だっておれの頭じゃ、高等専門課程なんて行けるわけないもんな」リンツが自嘲気味に笑った。
「君のいた第八連邦じゃ、今頃は夕方なのかもしれないよ」
 アレイルは草の上に腰を下ろし、空を見上げた。
「世界は広いね。この景色を見ると、本当にそう思うよ。僕も自分の夢では、何度か見たことがあるんだ。いつも、その美しさに魅せられていた。現実に見るのはこれが初めてだけど……感動しているよ、今。街の中に閉じこめられていたら、一生見ることは出来なかっただろうね。この自然の世界は」
「本当ね。こんな景色、始めて見るわ。なんて広々としていて、きれいなんでしょう……」
 空は柔らかく、澄み切った青い色で、どこまでも高かった。その中に真っ白い綿のような雲が二つ三つ、ふわふわと浮かんでいる。西の方に、今あとにしてきた第五都市の灰色のドームが見える他は、地平線までずっと、鮮やかな緑色の草原が続いていた。遠くに小高い山々が見え、所々、森らしい木の固まった、ひときわ濃い緑が見える。少し涼しさを含んだ風が吹き抜けると、草原の柔らかい緑に銀色の波が立った。
「きれいなことはたしかだけどさ。でも、あんまり広々としすぎないかい。おれ、なんだか自分が縮んじまったみたいな気がするんだ」
 リンツが当惑気味に、そんな感想を口にしていた。
「そうだね。たしかにそんな気はするよ。この広い自然の中では、僕ら人間って、なんて小さいんだろうって」
「ええ。わたしもそう思うわ。でもきっとそれが、本当なのよ。わたしたちって、小さいんだわ、とっても……と言うより、自然が偉大なのかしら」
「ところでさ、こいつらの詳しい話聞かせてくれよ。どういういきさつであんたらが助けるようになって、どうやって助けたのかをさ」
 リンツは傍らの姉弟を見やりながら、そう聞いた。少女はまだ気絶したまま、草の上で眠りに入っていて、弟もいつの間にか姉の傍らで、すやすやと寝込んでいる。アレイルとエマラインはそんな二人を見守りながら、改めて語った。幼い姉弟のことを知ったいきさつ、彼らの生い立ち、その夜に起きた悲劇と、二人の救出の様子を。
 リンツは驚きと感心が入り混じったような顔で聞いたあと、頷いた。
「つまり、こいつらは、お偉いさんの子供ってわけか。で、二人ともおれたちと同じ能力者、でも能力は違うと。それで政府のお尋ね者になったわけだな。でもおれ、お偉いさんたちは何をやってもつかまんないと思ってたぜ。そうじゃないんだな」
「かわいそうに、きっと今まで何不自由なく、幸せに暮らしていたんでしょうね」
 エマラインは幼い二人を、同情をこめて見やった。
「そうだなあ。まあきっとこいつらも、冷たい現実って奴を知らされたんだろうなあ。ちとかわいそうな気もするが、でもまあ、今まで幸せだったんだから、おれよりはいいぜ」
 リンツは出し抜けに大きなあくびをした。
「ふああ。おれも眠くなったなあ。まったく、外は朝だって言うのに、おれたちは、ろくに寝てないんだ」
「そうね。少し眠りましょうよ。わたしも安心したら、急に眠くなってきたわ」
 エマラインは草の上に座り込んだ。
「ちょっと濡れていたらしいけれど、もうほとんど乾いているわ。ああ、暖かくていい気持ち……」
「じゃあ、ここで少し寝よう。毛布は一枚だけしか持ってきていないから、ちびさんたちにかけてあげるとして、まあ、今は夜じゃないし、この天気だから、そのまま寝ても大丈夫だよ。政府は今のところ街の外までパトロールヘリは飛ばさないし、しばらく見つかる心配はないからね」アレイルは草の上に横になった。
「本当に、この草は柔らかくて気持ちがいいな。コンパートメントの堅いベッドより、ずっと寝心地が良さそうだ」
「そうね。それにぽかぽかして気持ちがいいわ。いい匂いもするし……ああ、眠い」
 エマラインも横になりながら、そう呟いた。
 リンツもどさっと草の上に寝ころぶと、早くも眠りに入っている。
 彼らは暖かな五月の太陽の下、ぐっすりと眠った。時々風が吹き抜けて、木の葉や草をさわさわと揺すっていく。そのかすかなざわめき以外、何の音も聞こえない。
 彼らは生まれて初めて、大自然に抱かれ、心からの眠りを味わった。




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