Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第2章 逃避行 (2)




 ふと、人の気配を感じた。それは突然やってきた。自分たち以外の誰かが屋上にいる。エマラインは思わずはっと頭を起こし、飛び起きた。でも、どこから来たのだろう? 自分たちは屋上のドアに寄りかかっているから、下から来たはずはない。
「誰か来たわ。すぐそばに!」彼女は緊迫した声でささやいた。
「うん。やっぱり間違いなかったんだ」アレイルはぱっとライトをつけた。
 ぼんやりとした光の中に、人の姿が浮かび上がる。まだ若い、十三、四歳くらいの少年だった。くしゃくしゃに乱れて頭を覆っている、燃えるような濃いオレンジ色の髪、青白い、とがった顔。色のさめたグレーのシャツに着古したブルーのズボンを身につけ、足には何も履いていない。片手には、擦り切れた毛布をつかんでいた。少年は灯りに照らされ、驚いたように立ちすくんた。おびえたように両手をあげ、かすれた弱々しい声で言う。
「頼むよ……見逃してくれ! おれ、もう……限界……」
 次の瞬間、少年は膝をついた。そして崩れるように前に倒れていく。二人は少年のそばに駆け寄ると、協力して屋上棟の影に寝かせた。
「気絶しちゃったみたいね、この子。どうしたのかしら。ひどく疲れ切っているようだったけれど、いったい、誰なのかしら」
「リンツ・スタインバーグ、十四歳と九ヶ月。第八連邦の第四都市在住。この子も僕と同じ、政府から追われているんだ。特E、つまり超能力者ってことでね。僕がわかっていることはそれだけだけれど、君ならもう少し詳しくわかるんじゃないかな」
 エマラインはいぶかりながらも、見るからにやつれ、疲れ切った様子の少年に同情を感じた。彼女は荷物の中から薄いタオルを取り出すと、それを折りたたみ、少年の頭を持ち上げて、枕かわりに当ててやった。そして、彼が手に持っていた毛布を広げて掛けた。
 第八連邦? 彼女は世界地図を思い浮かべた。ここからはちょうど地球の裏側に当たるほど、遠い国だ。人は自分が生まれた都市から、決して外に出ることのない、また一般の人にはその手段もない今の世界で、どうしてそんなに遠くから、いったいどうやってここに来たのだろうか。この子も特殊能力者だとアレイルは言っていたが、まさかそれがこの子の力なのだろうか――。
 エマラインは半ば無意識に、半ば同情から、そっと少年の乱れた髪に手をやり、なでていた。次の瞬間、彼女は求めていた知識を知った。この新しい訪問者に関する、詳しい知識が頭の中に流れ込んでくる。
 瞬間移動術。空間を一瞬に折り畳んで再び広げる、距離や障壁を一瞬にしてゼロにしてしまう驚くべき力。それが、この少年が持っている特殊能力なのである。だから彼は地球の裏側からここまで、楽々と来ることが出来たのだ。いや、それは決して楽な旅ではなかった。折り畳む空間が多いほど、つまり移動距離が長くなるほど、その精神的疲労は大きくなる。それゆえ彼はここに来るために、すべての体力と気力を使い切ってしまった。政府の執行人たちに追いつめられて、持てる力の全てを出し切っての空間ジャンプ。どこへ行くかもわからない。飛び出す場所によっては、命の保証はない。しかし、思い切り遠くへ行かなければ、追っ手は振りきれない。そう思い詰めての決死の飛行で、彼はここへとやって来たのである。
 リンツ・スタインバーグは十日前に、特E手配を受けていた。ちょうど彼がその力を使った瞬間を、折り悪く監視カメラに捕らえられてしまったのだ。そして処刑執行の夜、彼は偶然目覚め、奇跡的にも執行人の銃口の目前で逃げた。彼の家族――両親と五歳年上の姉ミリセントは、その後直ちに執行人によって処刑され、すぐに特別手配命令が出された。それから五日の間は、彼は着ていた寝間着のままで逃げまわっていた。第八連邦内でいくつかの都市を移動しながら、留守のコンパートメントに入ってパンとミルクを失敬し、住人が戻ってくるまで休憩したあと、屋上で夜明かしを繰り返していた。しかし毎晩のように追っ手がやってきて、一晩中ぐっすりと眠れる夜はなかった。その後入った家で、ちょうど自分にぴったりの服を見つけて着替た。その時、うっかり、ではあるが幸いなことに自分のIDカードを落としたが、気づかずにいた。その二日後には運良く空きコンパートメントを見つけることができた。少年はほっとして、ここをねぐらにしようとしていたのだが、それから三日たった夜、治安維持兵たちがなだれ込んできた。そして彼はここに来たのである――。
「この子、今までずいぶん大変な思いをして逃げてきたらしいわ。かわいそうに……」
 エマラインはアレイルに自分が得た知識を語り、目を潤ませた。
「そうだね。いつも不安におびえて、孤独で、きっと心の休まる時はなかっただろうね」
 彼は少年を見やった。その眼も同情に満ちているように見えた。アレイルは手を伸ばして同じように少年に触れた後、連れを振り返った。
「今は寝かせておこう。疲れているんだよ。でも、堅いコンクリートの上よりも、ちゃんとベッドに寝かせてやりたいから、そろそろ下へ降りようか」
「ええ。でも大丈夫? 本当に気をつけてね。それに、どうやって中に入るの? この子なら、きっとできるでしょうけれど……」
「そう。この子が移動できる体力がついたら、きっとできるだろうね。そのために仲間になってほしいわけだけれど、今は無理だ。でもミッチェルさんに道具をもらったから」
 アレイルは自分のバッグを開け、その中から細いロープと、長さ二十センチくらいのスティック状のものを取り出した。
「それは?」
「ガラスカッター。ミッチェルさんは住宅のメンテナンスを仕事としていたから、手に入ったんだろうね。廃棄するものだったから切れ味は悪いけれど、まだ使えるはずだって」
 アレイルはロープの端を、フェンスの上についている柵に結んだ。ロープといっても、小指の幅の半分もない細さだ。それをぎゅっと結び、外へ垂らすと、彼はフェンスを乗り越え、ロープをつかんで降りていった。外壁に足をかける場所などないのだが、時々蹴るように押しながら、ゆっくりとその姿が、暗闇に見えなくなっていく。ライトは肩から斜めにかけて持っていったが、直下の二四階を通る時、窓に面した寝室に寝ている人が、灯りで目が覚めて不審がられる可能性があるため、点けてはいない。
 エマラインはフェンスに身を乗り出すようにして、見守っていた。片手をロープの結び目に置いていたが、もし万が一切れたりほどけたりした時、自分が支えられるか自信はなかった。それでも、できるだけのことはしようと、手をかけていた。やがて下の方に、赤い点が見えた。弧を描くように回っている。たぶんガラスを切っているのだろう。それがわかると、ほっとため息が漏れた。
(待っていて。今、内側からドアを開けて、屋上へ行くから)
 アレイルが声に出さず、思いで彼女に呼びかけている。エマラインはそっと踵を返し、再び屋上のドアに向かった。あたりは相変わらず真っ暗だが、微かに階段へ向かう扉がある、小さな建物が見える。近くに来ると、歩幅を小さくし、探るように進んでいった。うっかり寝ている少年を踏んだらいけない。手が扉に触れると、その場に座った。傍らに眠っている少年の手を手探りで握り、そのままじっと待っていた。時計塔の表示は、二時十八分になっている。でも、眠気はどこかに消えていた。闇の中に少年のかすかな寝息と、自分自身の少し弾んだ息づかいだけが聞こえてくる。
 やがて階段を上がってくる足音が加わり、しばらくするとライトの光とともに、扉が開いて、アレイルが姿を現した。
「待った? そっちは大丈夫だったかい?」
「大丈夫よ。あなたが無事に入れて良かったわ」
「うん。うまくいって良かった。今ロープを回収してくるから、それから行こう。僕はこの子を連れていくよ」
 アレイルはフェンスに結んだロープをほどいて再び束ね、バッグの中に入れた後、少年を肩に担いで、階段を下り始めた。エマラインも二人分の荷物を取り上げると、屋上のドアを閉めてロックしてから、後に続いた。部屋のドアは開放状態になっていたので、中に入ってから、改めてもう一度開閉ボタンを押す。
 どの住居も、たとえ住民がいなくとも、ドアの開閉だけはできるようになっている。玄関のドアは、管理室に保管されているキーカードを使うか、そこに住民登録されている人しか、外から開けることはできない。でもドアは一度開けると二十秒ほどで閉まるが、ドアの開閉ボタンを連続で二度押しすると、“開放”状態となり、もう一度押さない限りは閉まらない。これは普通の人にはほとんど使うことのない機能で、また知りもしないものだが、エフライム老人に教わった。またアレイル自身の力でも知ることができた。それゆえ彼は丸く切った窓から入った後、玄関ドアを内側から開放状態で開けて、外へ出たのだ。
 中に入ると、二人は少年の靴を脱がせてベッドに寝かせ、自分たちは居間のソファに腰を下ろした。空き家のため、照明はつかないので、携帯ランプの小さな灯りが、周りをぽうっと照らしているだけだ。
「ああ……なんだかやっと落ち着けた気分だわ」
 エマラインはため息とともに、そんな言葉を口にした。
「そうだね。今日は本当に長い一日だったよ。たぶん君にとっては、なおさらだろうね」
 アレイルもほっとしたような口調だった。「僕たちも、そろそろ寝よう。あ、でもその前に、カメラの音声センサーをオフにしないとね」
「ああ……そうね。ミッチェルさんに教わったの?」
「そう。道具ももらったよ」
 アレイルはバッグを探り、太い針のようなものを取り出した。先端は丸く、もう一方には小さな円盤がついている。彼はまず少年が眠っている部屋に入り(家の中のドアは、内側からロックをかけない限り、外からでも開けられるようになっている)、常夜灯の周りをじっと見つめた。手で触れるようにもしながら。ミッチェル老人に教わった場所を、壁の上から透視して、探しているようだ。そして「ここだ」と小さく呟くと、その上から針の丸い先端の方を押し当て、広い方に手を当てて押し込むようにした。ピッと小さな音がした。それが終わると別の部屋に入り、同じようにする。
「君はここで寝るといいよ。毛布は持ってきた?」
「いいえ。かさばるからタオルしか持ってこられなかったわ」
「そうか。じゃあ、それをかけて、その上から就寝着か上着をかけて、寝るしかないね」
「大丈夫よ、それで。それにしても、政府の監視をくぐって逃げるのって、本当に大変なのね。普通じゃ、とても無理だわ」エマラインは微かに肩をすくめた。
「わたし、なんだかのどが乾いちゃった。緊張したせいかしら。お水を飲んでから寝るわ」
「水は出ないよ。残念だけど、ここは人が住んでいないから、動力も水もストップしているんだ。動くのは、ドアの開閉装置だけだよ。これだけは別系統みたいだね」
「あら……そうなのね。ドアは開くけれど、それだけなのね。まあ、たしかに人が住んでいないから、無駄な動力は来ないのかもしれないわ」
「ミルクを飲んだら? まだかなりあるから」
「いいわ、我慢する。ミルクだってパンだって、貴重品よ。これから先、いつ手に入るかわからないんですもの。明日の朝、一階の共同水道に行って飲めばいいわ」
 エマラインは靴を脱いで、ベッドに上がった。着替えはしないで、タオルを広げてかけ、その上から持ってきた就寝着を身体の上にかける。
「おやすみなさい。いろいろありがとう」
「おやすみ。僕の方こそ」
 アレイルはドアのところで立ち止まった。振り返り、呼びかける。
「ねえ、エマライン」
「なあに?」
「今でも、後悔はしていない?」
「ええ。全然」
「本当に?」
「本当よ。そんなに心配しないで。わたしは大丈夫だから。自分で決めたことなのよ。本当を言えば、わたしの方こそ、あなたに迷惑をかけているんじゃないかって、心配なのよ」「そんなことはないよ」
「それなら良かったわ。じゃあ、お互いにもう、このことを言うのはやめましょう。もうわたしに『後悔してる?』なんてきかないで。これからのことだけを気にして」
「ありがとう……じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 アレイルは部屋を出て行った。たぶんあと二つある、どちらかの部屋で休むのだろう。同じように音声センサーをカットしたあとで。エマラインはふっと息をついて目を閉じ、やがて押し寄せてきた眠りの波の中に、心地よく浸っていった。

 翌朝、エマラインはアレイルに起こされて目が覚めた。部屋はまだ暗い。いや、この部屋には照明がつかないのだから無理もないが、窓の外も暗かった。まだ起床時間前なのだろう。
「おはよう。ちょっと早いけれど、あと三分で起床時間になるから、カメラが作動する。それまでに起きて、ベッドをもとの状態に戻してから、そこのクロゼットの中にいて」
「ああ……そうね。おはよう」
 エマラインは起き上がり、相手を見た。アレイルは携帯ライトをまだ片手に持っていた。少し前に起きたという感じではない。
「早いのね、あなたは」
「ああ。起床時間前に、切った窓を戻さないといけなかったからね。それもミッチェルさんがくれたから。ガラス接着器を」
 彼が後で見せてくれたそれはカッターと同じようなスティック状で、赤ではなく緑の光がつく。丸くカットされたプラスティックガラスはアレイルが入る時、内側に落としたので、窓際に落ちたままだった。それを拾い上げ、再び慎重に窓にはめて、上からスティックを当てる。一か所十秒。全周で十分ほどかかる作業だ。それゆえアレイルは起床時間の二十分前に起きて窓ガラスを元通りにふさぎ、ベッドに寝ていた少年を毛布ごとクロゼットの中に移動させてから、エマラインを起こしに来たのだ。少年はクロゼットの中に膝を折り曲げた姿勢で座るように寝かされたが、起きる気配はなかったらしい。
 エマラインも起き上がり、広げてかけていた就寝着とタオルをバッグの中に入れると、ベッドを平らにならした。そしてバッグを持ったまま、部屋に備え付けられているクロゼットを開けて、中に入った。そこは狭かったが、バッグを抱えた状態で、横になって座るだけの奥行きがある。
「大丈夫になったらまた来るから、それまでそこにいて」
 アレイルはそう指示すると、部屋を出て行った。きっと彼も自分が寝ていた部屋のクロゼットに隠れにいくのだろう。エマラインは中から扉を閉めた。狭いが、少しの辛抱だ。

 十分あまりがたった頃、扉をノックする音がした。
「大丈夫だよ。もう出てきても」
 アレイルの声がする。エマラインはほっとして扉を開け、外に出た。
 二人は隣の部屋に入ると、少年を再びクロゼットの中からベッドの上に移動させてやり、その上から毛布をかけた。
 起床時間が過ぎたので、窓の外は明るかった。その光の下で、ベッドに眠る少年も、昨夜よりはっきりと、その容貌が見えた。もしゃもしゃに乱れた濃いオレンジ色の髪、顎のとがった顔に、少し上を向いた鼻と大きな口、突き出た頬骨の上を点々とそばかすが飛んでいる。調和の整った顔とは言えないが、笑えばきっと愛嬌があるに違いない。エマラインはふとそう思った。でもこの子は今まであまり笑ったことは、なさそうだとも。手足は身体に比べて長く、骨ばっていた。
 少年が眠っている部屋は、たぶん親用の部屋なのだろう。ここも他と同じように個室が四部屋あり、二つはいくぶん広く、他の二つは多少狭い。広い方が親用で、狭い方が子供用だ。夫婦でも別々の部屋がある今は、もし三人子供がある家族なら、五部屋の家に行くのが普通だが、アレイルの家では母が自分用の部屋を双子の息子のために提供していた。これは例外的な措置だが、違法ではない。夫婦が一つの部屋に眠る方が、この世界ではむしろ違法だった。
 窓にカーテンがないのは、この家に人が住んでいないだけではない。今では、ほとんどすべての家でそうだ。カーテンは高額なうえに、意味がないものとされた。上級職の一部で、装飾的に使われるだけだ。壁際に机があり、その上に端末が置いてあるが、電源すら入っていない。たぶん住民が来ないと、動かないのだろう。
 エマラインは洗面所に歩み寄り、顔を洗おうとしたが、途中で気づいた。
「ああ、そうだったわね。お水は出ないんだったわ……」
「ごめんね。もうちょっと待ってて。あと一時間くらいたったら、出勤時間が過ぎるよ。そうしたら、一階に降りよう。公共水道があるから」
 集合住宅にはエントランスホールの外に、小さな水道がついている。外で汚れがついた場合、ここで落としておけば建物を汚さないで済むから、それゆえの設備だ。水はすべて同じ水道管から供給されているので、洗面所のものでもトイレでも、台所でも外の公共水道でも同じ水質で、飲むこともできた。実際そこで水を飲んでいる人も時々見かけた。
「それなら顔を洗うついでに、ミルクの瓶を一本開けて、そこにお水を汲んできましょう。もちろん、人に見つからないようにしなければならないけれど」
「あと、監視カメラにもね。大丈夫。その時間は作れるよ。じゃあ、先に朝食にしようか」
「そうね。ミルク瓶を一本空けるためにもね。でも、どこで食べる?」
「そうだね。リビングでもいいけれど……まあ、ここで食べようか」
「この子、いつ起きるのかしら」
 エマラインはベッドの上に眠っている少年を改めて見やった。
「今日は起きないかもしれないな。だから、あえてここにいなくとも良いだろうけれど」
「それは予知?」
「ああ。でもできるだけ一緒にいた方が良いから、ここで食べよう」
 二人は少年が寝ている部屋の、エマラインはスツールに、アレイルはベッドの端に腰かけて、パンとミルクのささやかな朝食をとった。エマラインはパンの一枚を相手に手渡した時、その手が傷だらけなのに気がついた。
「昨日屋上から降りる時に、ロープでこすれたのね。それでこんなに……」
 彼女は思わず相手の手を取った。
「そうらしいね。でも、痛いなんて感じる暇もなかった」
 アレイルはちょっと苦笑しながら、手を引っ込めている。
「……ごめんなさいね」
「君が謝ることは、全然ないよ」
「でも、あなたに大変なことばかりやらせてしまっているみたいで」
「君は僕が巻き込んでしまったんだからね。むしろ、何もしなくてもいいくらいだよ」
「それはいやだわ。わたしもなにかやりたい」
 エマラインは小さく笑って、肩をすくめた。
「じゃあ、食事にしましょうよ。わたし、お腹が空いたわ」

 その日は静かに過ぎていった。二人はその日、誰もいない時を見計らって、集合住宅の外にある共同水道とトイレ(水道の横には、小さな個室が設置されている。家に着くまで間に合わない時のためらしい)に数回降りていき、パンとミルク、時には水で食事をとり、数回来る監視カメラの作動中は荷物もろともに、クロゼットの中に隠れた。それには、いつも注意が必要だった。常に部屋の状態を変えないようにしなければ、見つかってしまう。それゆえ、動かした家具を元通りにし、食事の道具や着替えは用が済んだらすぐにバッグにしまって、クロゼットの中に持っていった。
 チェック時間以外は、静かな声でいろいろな話をした。十九時を過ぎ、街の人工太陽の光が消されると、携帯ライトを窓のない部屋に持っていき、そこで話した。ほとんどたわいもない話であったが、話題はつきないように思えた。
「わたし、こんなに話ができたのは初めてよ」
 エマラインはその夜、相手を見上げて微かに頭を振り、微笑んだ。
「不思議だけれど、今が一番楽しいわ。わたし、いつも誰かと話をしたいって思っていたの。あなたに会った時もね。あなたと話したいって。それが叶って、うれしいわ」 
「ああ、僕もだよ。僕は話し相手には、恵まれていたけれど……ニコルや、ルーシアや。でも二人ともいない今、君がいてくれて、本当に良かった」
「その点は、本当に羨ましいわ、アレイル。兄妹と、たくさんお話ができたというのは。わたしは全然だめ。お父さんもお母さんもお兄さんも、みんな話なんかするのは無駄だって人たちばかりだもの」
「君はそれだけ愉快な話し手なのにね。もったいなかったね、話が聞けなくて」
「そう言ってくれるのは、あなただけよ」
 エマラインは肩をすくめ、小さな声で付け加えた。
「だから良かったと思っているの、今」

 その間も、赤毛の少年は眠り続けていた。二人は監視カメラの作動時間が近づいてくると彼をクロゼットの中に入れ、チェックが終わると、再び元の位置に寝かせてやっていた。身じろぎもせず、昏々と眠っているようで、夕方になってようやく寝返りを打ったりし始めたくらいだ。アレイルとエマラインが眠る頃になっても、翌日の朝二人が目を覚ましても、まだ少年は眠り続けていた。
 彼が目を覚ましたのは、二日目の午後のことだった。チェック時間をやり過ごすためにクロゼットの中に隠したあと、再びベッドに寝かせた時だ。
「う、う〜ん」と声を上げ、腕を動かし、そして目を開いた。その眼は少し緑色がかった灰色だ。しばらくぼんやりとした様子で、天井を見ている。
「ここは……どこだ?」
 少年はそう呟くと、眼を動かした。その視線がアレイルとエマラインの上に止まると、彼はたちまちぱっとベッドの上に起き上がり、慌てふためいたように両手を振った。
「やばい! おれ、またドジったらしいや! あー、おれ、あやしいもんじゃないから! 今すぐ消えるからさ……」
 エマラインは素早くその腕を取った。
「待って! 大丈夫よ。わたしたちは、あなたを政府に突き出したりはしないわ。覚えていない? あなた一昨日の晩、このアパートの屋上に逃げてきたでしょう?」
「えっ?」少年は驚いたように目を見開き、ベッドの上に再び座り込んだ。当惑しきった表情だった。彼は手を上げて髪に触り、ポリポリと頭を掻いた。
「そういや……思い出した。おれ、政府の奴らに殺されそうになって、どこでも良いから、思いっきり遠くへ飛んだんだっけ。そんでたしか……どっかのビルの屋上へ出て……でも、めっかったと思ったんだよな。ライトかなんかで照らされたと思って……もうだめかって……おれ、もうへとへとで、逃げる気力なんて全然なかったもんなあ」
 そして大きく息をつくと、頭をかくのをやめ、首を傾げて二人を見る。
「おれ、なんでここにいるんだ? 殺されたんじゃないのか」
「君は今も生きてるよ。それに政府にもまだ、見つかってはいない。安心して。ただあまりにも疲れ切っていたから、一日半くらい、ぶっ通しで眠っていたけれどね。もう大丈夫かい?」アレイルがそう問いかけた。
「あ……あ。なんとか」少年は不思議そうな顔のまま、頷いた。
「でも、ここはどこなんだ?」
「ここは第二連邦、第十二都市の集合住宅の中だよ」
「第二連邦!?」少年は目をぱちくりさせ、ついで考え込むように首を傾げた。
「ずいぶんまあ……来たもんだなあ。連邦の外へ、思い切り遠くとは思ったけど……第二連邦っていや、たしか、世界地図の真ん中の上へんだろ。そんなに飛んだのか……どおりで疲れるわけだ」
 少年は再び頭をかいたあと、怪訝そうな顔で二人を眺めた。
「ところで、あんたたちは誰なんだい? ここの部屋に住んでる家族かい? 兄妹……にしちゃ、あんまり歳が離れてなさそうだし、顔もそれほど似てないし……でも、こんなに若い夫婦がいるわけないし……第一、おれが来たのは屋上だろ? なんで、あんたらのコンパートメントに来てるんだ?」
「わたしたち、あの時屋上にいたの。そこにあなたが飛び出してきたのよ。誰が来たのかしらって思ってライトを当てたら、あなた政府の人と勘違いしたみたいだったわね。それで、あなたが倒れちゃったから、ここまで運んできたのよ」
「ふうん……」少年は二人を見比べた。
「ってことは、あんたたちはおれを助けてくれたわけかい?」
「助けたっていうほど、大げさじゃないけれど……」
 エマラインはアレイルと目を見交わしあってから、話を続けた。
「話せば、いろいろ長くなるの。それに、ここはわたしたちの家じゃないし、わたしたち二人も家族や親戚じゃないのよ。友達なの」
「へ?」少年は、ぽかんと目を見張っていた。
「友達? なんだ、そりゃ?」
「そうだなあ。一言じゃ説明できないけれど……他人なんだけれど、家族みたいに近い人っていうか、気が合う仲間って、一緒にいて楽しい人……わかりあえる人……そんな感じじゃないかと思うんだ」
 アレイルの言葉に、少年は怪訝そうに反対していた。
「一緒にいて楽しい他人なんか、いるもんかよ。家族だってさ。少なくとも、おれにはそうさ。まあ、あんたたちが二人、一緒にいて楽しいってなら、別にけちを付ける気はないけどさ。変わってるよな」
「たしかに変わっているかもね、僕たちは。でも、良かったと思っているよ」
「わからねえな、おれには……」
 少年は明らかに当惑しているようだった。彼にとって自分以外の人間は、今までみな敵であったのだ。家族もみな自分に敵対し、避けた。ましておや逃亡中の今は、ほかの人間は自分にとって、危険な存在以外の何者でもない。その誰かと一緒にいて楽しいなどということが、あり得るのだろうか。第一自分は今まで、楽しいと感じたことすらあっただろうか? それに彼らは敵なのか、味方なのか? 何の利益があって自分を助けるのだ――。
 エマラインはそんな少年の当惑と混乱を、強く共感することができた。この子は人の優しさを知らない。愛情や信頼、親切といった感情に、今まで出会ったことがない。孤独で、かわいそうな少年。でも、もしこの子にも、誰かと触れ合う喜びや、楽しいという感情を与えることができたら――。
 彼女はベッドのそばに跪き、両手で相手のごつごつした手を包み込むと、その目を見上げた。「あなたも、わたしたちと友達になりましょうよ、ね、リンツ」
「お、おれが……?」
 少年は、ますますまごついたようだった。そしてあたふたと、握られた手を引っ込めかけて、途中で止めた。相手の言葉に込められた暖かい思いに、当惑を強めながらも、惹かれるものがあったのだろう。それはこの子が今まで出会ったことがない、信頼と共感――その心の動きを、エマラインも感じた。彼は少し顔を赤らめ、相手の顔を見返した。しかし、途中でふいに気がついたように、慌てた様子で、つかまれた手をふりほどいた。
「あんたら、いったい何者だ?! どうして、おれの名前を知ってるんだ!?」
「僕らは政府の手先じゃないよ。君はそれを心配しているんだよね、リンツ・スタインバーグ君。誰だって初対面の相手が自分の名前を知っていたら、気持ち悪いのはわかるよ。驚かせてごめん」アレイルもベッドのそばに片膝をつきながら、相手を見た。
「彼女は君の心の中から、君のことを知ったんだ。僕はこれからの道を探していくうちに、君を知ったんだよ。君は僕より二日早く政府に手配されて、逃亡しているってわかって、その君が一昨日の晩、この建物の屋上へ出て来るって知ったから、ここへ来たんだ。君に会うために」
「なに、政府の手先じゃないって? でも、そうじゃないなら、おれのことを知ったって、どうやって……?」
「それが僕の能力なんだ。君に瞬間移動の能力があるように、僕には透視能力がある。そして彼女もね、テレパシーとサイコメトリーって言う、特殊な力があるんだよ」
「ええ?!」少年はこの言葉に飛び上がっていた。
「うそだあ!? おれの同類なんて。じゃあ、証明して見せろよ」
「疑い深いのね、リンツ」エマラインは苦笑し、少年の手を取った。
「じゃあ、待ってよ。今、あなたのことを当ててあげる。あなたは今十四歳で、誕生日は七月十三日。第八連邦の第四都市に住んでいて、お父さんの名前はヘルマン、お母さんはリディア、お姉さんがミリセント。でも三人とも、あなたに親切ではなかったようね。あなたは小さい頃からクロゼットの中に入れられたり、折檻用の檻に入れられて、ほおって置かれたり殴られたり……かわいそうに。さぞつらかったでしょうね」
 彼女の目には、涙が浮かんできた。
「幸いみんな、手で殴ったり蹴ったりするだけだから、身体に残る傷はないようだけれど、一度ミルクの瓶で頭を殴られたわね。かっとしたお母さんに。ひどいわね、本当に……」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。もういいよ、もういいったら……」
 少年はあたふたと、手をふりほどいた。
「あなたは今、疑いと驚きでいっぱいだけれど、少しずつわたしたちを信用する気になっているでしょう……」
「もう良いよ。わかったってば。信用するよ!」
「僕は彼女ほど、はっきり自分の力の証明はできないんだけど。未来のことは信用してもらうしかないからね」アレイルも少年の様子を見て、微かに笑みを浮かべながら言う。
「でも、過去のことなら信じてもらえるかな? 僕は君のことを時々見ていたけれど、結構人のいる家に飛び込んじゃったみたいだね。三日前に第八連邦で君が食料調達に入った家で、三歳くらいの女の子の目の前に出てきてしまって、驚いたその子が泣き出したから、あわてて別の家にジャンプして、そこの食料戸棚にあったパンを手にとって、一口かじったとたんに、今度はちょうど居間に休憩しに来た初等課程にいる男の子とはちあわせして、叫び声をあげられたから、パンを持ったまま、急いで屋上に逃げていたね。でもあわてて飛び出したから、屋上の縁ぎりぎり一メートルくらいの場所に出て、『あぶねー』なんて呟いていた」
「もういいって。いいよ! 信用するよ。参った! 頼むからそれ以上、おれのドジをばらすなよ」少年は降参したように、両手を上げ、頭を振った。




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