Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第2章 逃避行 (1)




 アパートの玄関から隣の建物との間の広場を抜け、二人は環状道路へと出た。通りには、人はほとんどいなかった。道にはオートレーンも通っているし、地下にはストリート・ウォーカーも走っている。ただ、どちらにしても交差点からしか乗れない。
「どっちにしろ、ウォーカーもオートレーンも、僕らには使えないけれどね」
 アレイルは歩道を進みながら、小声でささやいた。
「そうよね……」
 エマラインは頷いた。それが使えないわけは、彼の思いから理解していた。
「わたし、少しあとから行くわね。五、六メートルは離れた方が良い?」
「ああ、そうだね。二区まで行くから少しかかるけれど、大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫よ」
 エマラインは頷き、少し遅れて歩き出した。アレイルは途中、一度も後ろを振り向かずに歩いていく。歩くペースは時おり速くなったり、ゆっくりになったりと、変化していた。途中いく度となく建物間を通る、オートレーンもなくウォーカーも走っていない道の方に曲がり、さらにアパートメントの建物の間に設けられた広場を横切り、そしてまた幹線道路に戻る。その繰り返しだ。エマラインは常に数メートルの間隔を置きながら、忠実にその足取りをたどっていった。彼がいくぶん変則的な歩き方をしている理由は、彼女も承知している。警官たちや監視カメラの作動時間を避け、巧みにその間を縫って歩いているのだと。その日はちょうどミルクの配給日だったので、彼はあえてミルクの瓶をはみ出させていたのだろう。エマラインも同じようにしていた。

 二区に入ったころ、道路にかなり人が増え始めた。労働時間が終わったのだ。エマラインは人が増えてきたことに少し不安を覚え、戸惑いを感じた。
(大丈夫だよ。できるだけ普通に歩いて。一般の人たちは、僕が手配されているなんて知らないから。それにここでも今日はミルクの配給日だから、不審には思わないはずだよ)
 頭の中にそんな声が響いた。アレイルが後ろを振り向かずに、思考で彼女に語りかけてきたようだ。彼女の能力ゆえの、通信手段。その返事は伝えられないが、彼は予測するだろう。エマラインは歩き続けた。アレイルの姿は労働者たちの中に時々紛れるが、彼女はその想念と存在を知ることができるので、見失う心配はない。
 オートレーンは一方通行だが、歩道は両方向に人がいる。同じ方向に行く人、反対側から来る人。仕事場と家の関係で、目指す方向は違うのだろう。すれ違う人はみな一様にくたびれた顔をして、周りのことなど、何も目に入ってはいないようだった。
 我が家を目指す疲れた労働者たちとすれ違いながら、エマラインは自分が捨てた家に残された父母に思いを馳せた。そろそろ両親も家に帰ってくる頃だ。帰宅した彼らは、テーブルの上に夕食の用意はなく、パンもミルクも半分なくなっていることを知って、激怒するだろう。そして娘を捜し、どこにもいないことを知るだろう。その時、父母はどうするのか。どこかに行ってしまったと、さらに怒りを募らせるのだろうか? それとも、何かあったのかと心配してくれるだろうか? いや、たぶんそれはありそうにない。
 彼女は小さなため息をもらした。だが、彼らが自分に向かって激怒したとしても、それは当然のことだ。自分には、それだけの罪があるのだから――。
(ごめんなさい。お父さん、お母さん……)
 エマラインは心の中でわびた。そして再び思いをアレイルへと向けた。彼は相変わらず、彼女の数メートル先を歩いている。できるだけ人と同じペースで。ゆっくり歩くのは(邪魔だな)と思われ、早く歩くと(ずいぶん急いでいるんだな)と思われる。それゆえペースを合わせている。そのことを理解したエマラインも、同じ歩調で後をついていっていた。
 その想念を追いかけていたエマラインは、ふと彼の心の中によぎった思いを感じた。彼は妹ルーシアのことを考えている。最初に妹を連れて逃げようと試みた時、そのプランを阻んだのは、この人混みだった。帰りの労働者たちの混雑に紛れた時、ルーシアは普通の女の子だから、想念を探ってあとについていくということはできず、目で追いかけるしかない。不安も感じるだろうし、見失いそうにもなるだろう。それに彼女はエマラインより四、五歳若く、どう見ても配給を取りに来ている専門学生には見えない。それゆえアレイルの意思に反しても、妹を切り捨てざるを得なかった。そのことを彼は悔やみ、悲しく思っている。そしてもう一つの思い。『あたしは、その人を好きになれそうにないなぁ』と、以前ルーシアは兄に告げたという。そのことをアレイルは思い出しているようだった。まだ見ぬエマラインに対して妹は“自分に対抗するもの”という意識を持っていたのだろうか、と。その彼女と今一緒に行動していることに対し、彼は心の中で呼びかけているようだった。(ルーシア、ごめんな。僕は、おまえが好きだよ。おまえと一緒に逃げられるなら、そうしたかった。でもエマラインも素敵な子だよ。おまえと彼女が二人で話せたら、きっとおまえも好きになれると思うんだ)
(ごめんなさいね、ルーシアさん。本当に、わたしもあなたとお友達になりたかった。一緒にお話ししたかったわ。許してね)
 エマラインも心の中で、そう付け足した。

 すれ違う人がほとんど途絶えた頃、二人はアパートメントの区画を分ける、細い道に入った。その道を五分ほど歩いたあと、周りに誰もいないのを確かめ、アレイルは少し足を早めて、一件のアパートメントの入り口に駆け込んだ。エマラインもあわてて後に続いた。二人は一階の廊下を端まで行き、階段を四階まで上がると、そこの踊り場に座り込んだ。
「目的地に着いたの?」
「いや、まだ途中だよ。今はちょっと時間調整のために、ここにいるんだ。二十分くらい。ここにはもう、今日は誰も通らない。三十分後にそこの監視カメラが作動するけれど、それまではいられるよ。今日の目的地は、ここから歩いて三十分くらいの所なんだ」
「そう」
「君も疲れただろう? あれからずっと歩きっぱなしで」
「ええ。ちょっとね」エマラインは頷き、少し微笑して続けた。
「だけど、わたしの気持ちは変わらないわ。あなたが言いたかったのは、そのことでしょう? 大変なのがわかっただろうから、帰ってもいいよって」
「図星だね。本当に、君にはなんでも筒抜けだね」
 アレイルは苦笑して相手を見やった。
「気遣ってくれるのはうれしいけれど、大丈夫よ」
 エマラインはにこっと笑い、バッグの中を探ってパンとミルクを取り出した。
「時間があるなら、ちょうど良かった。ここでお夕食にしない? パンとミルクを、家から持ってきたから」
「僕も持っているよ。ミッチェルさんから今朝もらったんだ」
 アレイルもバッグの中からパンの袋を取り出した。
「あら、かなりあるのね。八枚くらい? 一人暮らしの人だったら、あなたの分もあると、足りなくなるかと思ったけれど」
 パンの配給は、小さな丸いパンの時と、大きなパンをスライスしたものの時があり、この週はスライスパンだったのだ。
「僕も家を出る時、パンとミルクをある程度持ちだしたけれど、ターミナルセンターへ行く前の月は、配給が倍になるらしい。だから、大丈夫だったんだ。こっち側の四枚は、昨日、配給センターからもらってきたものなんだって。最後のおみやげってところなんだろうね。それを僕にくれたんだ。これから必要になるだろうから、もって行きなさい。自分には必要ないからって……」
「そうなの……」
 エマラインはそっとパンに手を触れた。それは柔らかく、ふかふかしていた。
「せっかくだから、柔らかいうちに食べようか、これから」
 アレイルは袋の中からパンを一枚取り出して、手渡した。
「ありがとう」
 エマラインはそれを受け取ると、バッグを開けてミルクの瓶を取り出した。
「じゃあ、ミルクはわたしのから飲まない? あなた、コップ持っている? わたしも持ってきたから」 
 二人は階段の踊り場に座って、ささやかな夕食を食べ、しばらく休憩した。

「そろそろ時間だよ。行こう」
 やがて、アレイルが立ち上がった。二人はアパートメントを出て、再び細い道を歩きだした。途中で何度か曲がった後、彼らは一件の建物の玄関に入っていった。
「ここも時間調整なの?」
「いや。今日の目的地だよ。今の時間は大丈夫だから、エレベータで途中まで上がろう」
 二人は二一階まで着くと、再び階段を上がりだした。二五階まで上がった時、エマラインは息を弾ませて聞いた。
「まだ上に行くの? この先は屋上よ」
「そう。屋上へ行くんだ」
「屋上へ? 何のために? ひょっとしたら、今晩はそこで寝るの?」
「いや、違うよ。もちろん、できないことじゃないけれど危険だ。夜中でも、政府のヘリは巡回してくるからね。赤外線センサーを積んで。うっかり眠っている間に来られたら、見つかってしまう」
「じゃあ、何をするために?」
「ちょうど二三階のコンパートメントが、一つ空いているんだ。そこに屋上から降りようと思っているんだよ」
「どうやって?」
「ロープを垂らして降りるしかないね。それは僕がやるよ。なんとか中に入れたら、内側からドアを開けるから、君はそれから入ればいい」
「危ないわよ。落ちたら死んでしまうわ」
「でも、それしか方法がないからね。あっ……着いたよ」
「ドアを開けなければ、屋上には出れないわよ。キーロックされているわ」
 エマラインはすべすべした黒いドアに触れた。
「暗証番号を入力しないと、開かないタイプのキーよ。どうしましょう」
「ちょっと待ってて……」アレイルはしばらくじっとドアキーのボードを見つめたあと、手を挙げて、ゆっくりコードを入力していった。
「五……二……三……四……〇……八……これでいいかな?」
 二人の目の前で、すうっと音もなくドアが開いた。
「ここの暗証番号を知っていたの?」
「いや、でもわかるんだ。一桁ずつ数を合わせていくと、正解の数字はぴんとくるから」
「すごいわね……」
「こういう場合には、多少役に立つって言うだけのものだよ。でも、君にもこれはできるかもしれないね。ドアキーのボードに触れていれば」
「ああ……そうね」
 エマラインはもう一度ボードに触れてみた。たしかに語りかけてくれている。ロックを開けるために記憶された数字群を。

 屋上に出ると、アレイルはエマラインを振り返った。
「入り口の建物からは、あまり離れない方がいいよ。ちょうど影になってくれるから」
「わあ、きれいねえ……」
 目の前に開けた光景に、エマラインは思わずそう声を上げた。街はすっかり夜になっていて、周りのアパートメントの窓にともる灯りが、まるで光の海のように広がっている。中央行政区の真ん中に建つ市庁舎の電光時計の表示は、二十時二十分になっていた。
「すっかり夜になってしまったわね。これからすぐに下へ降りるの?」
「いや、二三時を過ぎて、街の人がみな寝てしまってからの方がいいな。警察隊がパトロールしているし、向かいのアパートの人たちに見られる危険もあるから。できるだけ、人目に付かない方がいいよ」
「そう。でも就寝時間を過ぎたら、街は真っ暗になってしまうわよ」
「大丈夫さ。まったく何も見えないわけじゃないし。それに、携帯用のライトも持ってきたんだ。そんなに明るくはないけれど、このくらいがちょうどいいよ」
 アレイルが取り出したライトに、エマラインはふと手を触れた。
「これはお父さまのものね。警察官だったから、夜のパトロール用に使っていたのね」
 何気なく口に出してしまったが、彼は今、父親の話題は避けたいだろう。
「ごめんなさい」エマラインは小さく謝った。
「大丈夫だよ。ありがとう」アレイルは微かに首を振る。
 しばらく、二人は黙った。エマラインは昼間知った知識の中で、あまり深く追求しなかったことを、もう一度考えてみた。エフライム・ミッチェル老人がアレイルをかくまってくれたのは、なぜだろうと。お互いに、見も知らぬ他人だったはずだが――ケインに似ている? ケインというのは、老人の息子だろうことは彼女にもわかったが、実際の彼を知らず、老人の持ち物にも触れていない今は、それ以上のことはわからなかった。
「エフライム・ミッチェルさんがあなたをかくまってくれたのは、どうして?」
 思い切ってその疑問を相手にぶつけてみた。アレイルは彼女を見、そっと再び指先に触れた。それで充分だった。エマラインはすべてを知った。
 ケイン・ミッチェルはエフライム老人の息子で、彼にはほかに子供はいない。いや、四年半後に娘が生まれたが、その子は二歳半で死んでしまっている。遊んでいるうちにおもちゃが千切れ、それを飲み込んでしまって、窒息死――兄のケインは初等教育に入ったばかりで、カリキュラムを勉強中のことで、母親は別室で放送プログラムを見ていた。三歳になると仕事が再開するので、少し一人でいるのに慣れさせようと、娘用の小さな部屋の中で遊ばせていたのだ。母親が様子を見に行った時には、もう娘は冷たくなっていた。落胆した両親は、三人目を作る気力もなかったようだった。二人は息子に愛を注いだ。あまり可愛がりすぎると政府の目を引くので、慎重を期したが。ケインは父親と同じ、建築関係の技師コースだったゆえ専門課程が長く、二二歳で社会人となったが、あと一か月で結婚通知が来るという時、政府の手によって処刑された。異端の咎で。ミッチェル老人はその事態を避けようと心を砕き、いろいろな手を用意したが、当の息子はそんな父親の心配をよそに、わざと変なふるまいをしているように見えた。放送プログラムを見ず、ボーとしていたり、部屋の中を歩き回ったり、時には声に出して不満を口にした。
『いったいどういうつもりなんだ』そう問いただす父に、息子は答えた。
『こんな世の中、生きてるかいなんてあるのか?』
 そしてケイン・ミッチェルは処刑された。気配を感じて、その両親も起きだしてきた。『おまえたちもこうならないよう、気をつけるんだな』
 そう告げる処刑人に、母親は叫んだ。
『私も殺してください。私は息子を愛していました。もう生きているかいもないです』
『今すぐは無理だ。でも遠からず、それは叶えられるだろう』
 彼らは冷たい目でそう答えた。その言葉通り、次の週に母親も同じ運命をたどった。
『私も同じことを言おうと思った』エフライム老人はアレイルに、そんな話をしていた。
『もう生きていたくないから殺してくれと。たぶんケインも同じように感じていたから、わざと異端なふるまいをしていたのだろう。妻もそうだった。でも私は、言葉が舌に張り付いたようになって、出てこなかった。私は平伏していた。今は死んではいけない。そんな気が強烈にしたんだ。息子を助けるために用意した道具も、隠して持っておこうと。今はそれをとても感謝しているよ』
(それはすべて決められていたことだったのだろうか、ニコルが言ったように)
 アレイルのそんな思いも、感じることができた。そしてニコル・ウェインが夢の中で弟に明かした知識も。彼らの実の父親はあのデヴィッド・ウェインではなくて、ケイン・ミッチェル。でも、そんなことがあるのだろうか――?
 アレイルは老人の家に滞在中に、その“父”の写真を見ていた。今はめったに写真も撮ることはないが(光学カメラは平均年収の十倍以上するのだ)、データベースに添付する写真を、生涯に二度だけ撮る。一度は教育課程に入る時、もう一度は職業を授けられ、成人になる時。その写真は端末の中に残されている。
『ほら、これがケインだ』エフライム老人は画面を操作して、息子の写真を出した。
『あまり見たことはなかったがな。見るのは辛いし、あいつの顔は写真で見なくとも、よく覚えている。でも君には初めてだろう』
『ええ……』アレイルは頷き、その写真に見入っていた。その肖像には、たしかにはっきりとした相似が認められた。同じような髪の色、同じ目の色、そして顔立ち。
『おまえは、あいつにそっくりだな』
 あの朝父がうなるように言った言葉の意味も、納得できた。デヴィッド・ウェインは一度、母とにこやかに言葉を交わすケイン・ミッチェルを見かけている。それ一度きりのはずだが、よほど大きな印象を父の心に刻んだのだろう。

 エマラインは沈黙の間に、その思いを手に取るように共感し、驚きにうたれていた。そんなことがあり得るのだろうか。この時代、子供はすべて夫婦間の体外授精で誕生するのに。結婚して一年たつと、生殖センターに月一度通い、遺伝子パターンを分析して卵子と精子を採取し、理想的な組み合わせのものを選んで受精を行う。だから夫婦以外で子供が産まれるなんて、そんなことはありえないはずだ。でも実際には起こり得ること――なのだろうか?
「そんなことがありえるの?」思わず言葉が口から出てきた。
「ああ。どうやってかは、わからないけれど。三十分でって、ニコルは言っていたけれど――まあ、そのあたりは、僕もよくわからない。でも、たしかに事実はそうなんだろうね。ニコルと僕は、父さんよりずっと、あの人に似ていたから。エフライムさんも、母さんを知っていたよ。昔は、同じアパートメントの住民同士だったらしいね。ミッチェルさんも、ローゼンスタイナーの祖父母も、子供がいなくなった後は夫婦用の部屋に移ったけれど。ああ、ミッチェルさんは単身者用だね。今は祖父母も亡くなったし。ターミナルセンターで。一緒のアパートメントに住んでいたころ、母が二、三回ケインさんの家に来たことがあるって、ミッチェルさんは言っていた。でもたぶん、幸いにもカメラには映っていなかったんだろうね」アレイルは言葉を止め、息を吐くと、小さく頭を振って続けた。
「でも僕は、今でも不思議な感じがするんだ。本当は血がつながっていないかもしれないけれど、やっぱり僕にとっての父は、君も知っている、あのデヴィッド・ウェインなんだ。でも父は僕らを嫌いだった。似ていないから、僕らを見るとどうしても疑問がわいてきてしまうから、見たくなかった。イライラした――その気持ちは、わかる気がするんだ」
「そう……」
 エマラインは、ただ頷くことしかできなかった。適切な言葉は見つからなかった。彼女は無意識のうちに黒い携帯ライトに触れながら、ただじっと聞いていた。
「でも、少し不思議なんだ。疑っていたなら、どうしてその疑問を解明しようとしなかったんだろう。もっと早く。父はあの時、僕を殺そうとしたけれど、僕が十八になった今まで待っていたというのが、わからないんだ。僕らは双子だったから、一卵性か二卵性かを確定するために、DNA検査はやった。でも、改めて父との親子関係の有無や、その時に戻された受精卵とのマッチングはしなかったみたいなんだ。そこまで手間をかけることはしないで、ただ僕とニコルが同一遺伝子の持ち主かどうか、それだけで……だから僕らは、生存を許された。でも父は、僕らが自分の子ではないかもしれないと疑っていたのなら、政府に訴えて鑑定してもらうことができただろう」
「でも、もしそうしたなら、あなたのお母さんはルールを破った重罪で、処刑されてしまうでしょう? だからお父さんはためらったのよ。あなたのお父さんは……ウェインさんは、あなたのお母さんのアルシアさんが、とても好きだったんだわ」
 エマラインはそっとライトをなでた。そこから持ち主の想念が、彼女の中に入ってきたのだ。漠然とした感情ではあったが、確かな想いが。
「このライトに、まだウェインさんの思いが残っているわ。ウェインさんは、アルシアさんが好きだった。だから、あなたのお母さんが、なかなか自分を好きになってくれないようなのが、悔しかった。配給センターにアルシアさんを迎えに行った時、彼女が他の人に笑顔を見せたのが、とてもショックだった。アルシアさんはウェインさんには、決してあんな晴れやかな美しい笑顔を見せたことがなかったから。でも、彼女を失いたくなかった。心は自分のそばになくとも、身体だけはそばにいてほしかった。だから彼女が生きている限り、鑑定を依頼しようとは思わなかったようね」
「そうだったのか。でも母も、二年前に亡くなったから……」
「そうね。それからでも遅くはなかったのかもしれないけれど、あなたのお父さんは百パーセント確信していたわけではなかったから、ある程度どうでもよくなっていた、というのが正しいのだと思うわ。あなたはほとんどお父様と顔を合わせることはなかったし、必要以上に刺激されることもなかった。それと、大きかったのはルーシアさんの存在ね。妹さんは、お母様にとても良く似ていた。あなた方は双子だったから、第三子は任意だったけれど、ウェインさんはあえて主張して、申請した。娘が欲しいと。そして生まれたルーシアさんを、ウェインさんは本当に愛しいと思っていた。だからずっと自分のそばに引き付けておいた。彼女がいてくれる限り、自分は満足だ――そう思っていたみたい」
 エマラインはほっと息をついた。そして相手の顔を見た。
「ここから先も、言ってもいいかしら」
「ああ。とても聞きたいな」アレイルは少し硬い表情で頷く。
「でもルーシアさんも、あまり自分を好いてはくれないようだ。そんな思いを薄々ウェインさんが感じ始めていたところに、あなたを“処罰”しようとした時、ルーシアさんが泣いて止めたことで、よけいに衝撃を受けた。もしかしたら彼女は、あなたが好きなのか、って。それで煩悶することになった。同僚に頼んで、留守中の監視カメラ映像を見せてもらったりもした。でも幸いそれは、ルーシアさんがあなたの部屋に来る映像を取られる前のことだったから、見る限り二人の接触はないようだと、ほっとしてもいたようだったわ。ただ娘は暴力が嫌いなのだろうと、そう思って納得しようとした。ルーシアさんの心があなたに向かうことは、お父さんには耐えられなかった。アルシアさんによく似たルーシアさんが、ケインさんによく似たあなたを好きだったら――まるで以前のアルシアさんとケインさんを見ているようだから」
『ルーシアは私のものだ。おまえには渡さん!』そう言い放った父の言葉が、アレイルの脳裏をかすめているようだった。その言葉の意味を、改めて知ったことも。最愛の娘を自分で手にかけた後、『もう生きている甲斐もないからな』と言った、その重みも。
「父さんも、自分以外の誰かを好きになれる人だったんだな……」
 アレイルはドームの灰色の天井を見上げ、深く息をついた。
 さまざまな想いが、彼の心に浮かんでは消えていくのが、エマラインにも感じ取れた。幼い頃からの、あまり愉快ではない父の追憶。母や妹のこと、そしてあの朝の光景が。
『でも僕は、父さんを殺してしまったんだ』
 言葉には出さなかったが、そんな呟きがエマラインの心にも響いた。悔悟と自責の念が木霊のように大きく反響して。
「それはあなたが意図したことじゃないわ。事故だったのよ。だから考えないで」
 エマラインは相手の腕に触れ、首を振った。
「事故というより、なんだかあの朝のことは……僕自身にも理解できない。その道に強制的に進まされたというのが、いまだに怖いんだ。でも、事実は消えない。僕は父さんを殺した。妹も、間接的に殺されるように導いてしまった。取り返すことはできない。もう二度と、こんな思いは嫌だ」
 エマラインは言葉を探した。でも適切なものは見つからなかった。ただそっと相手の腕に触れた手を動かした。撫でるような仕草で。
「ありがとう……」
 アレイルは視線を上に向け、しばらくそうしていた後、エマラインを振り返った。
「君がいてくれて、よかった。君はわかってくれるし……僕に力をくれる」
「あなたの力は、わたしとは関係ないと思うわ。でも、わたしの力のせいかしら。なんでもわかるって言うのは」
「君がくれる力は、能力とは違うよ。生きる勇気って言えばいいかな。君は優しい人なんだろうな、エマライン。能力以上に、その感情を受け止めてくれる。あの朝、僕は一人になったと思っていた。でも君に会えて、本当に救われた気がする」
「わたしは、そんなに褒めてくれるようなものじゃないと思うわ。おしゃべりな変わり者だって、いつも家族には言われてきたし、うるさがられるだけで、わたしの思いを受け止めてくれる人もいなかった。だからわたしも……あなたがいてくれて、良かったと思っているわ。でも、なんだか不思議ね。あなたとわたしは去年のクリスマスにちょっと会っただけで、それから二週間前に少し言葉を交わして……それだけなのに、なんだかずっと前から友達だったような気がしているのよ」
「僕もそんな気がしているんだ。でも君とここにこうしていることが、今でも少し不思議な気がするんだ。君が本当に一緒に来てくれるとは思わなかったから」
「あら、あなたの力なら、わかっていると思っていたわ」
「いや、そこから先がどうなるのか、見る勇気はなかったから」
 アレイルは苦笑を浮かべ、首を振っていた。
「君に来てほしい。それは僕の願望だ。でもそれは君のために選んではいけない道かもしれないという思いも、捨てきれなかった。だから、その結果は見なかった。今日予定していることは、たぶん僕一人でも辿れる。でも君がいる方が、成功率は上がる。そんな予測はあったけれど、君が来るか来ないかは、見るのが怖かった。願望と不安が入り混じった状態で、ちゃんと予知できるかどうか、自信もなかったしね」
「あなたの力は、自然にわかる系ではない……ということかしら。あらかじめ集中して、探らなければならない感じなの?」
「そうだね。自分の命に関する危険とか、今後の予定が大きく狂う可能性とか、そんな重大なものに関しては、たぶん自然に“降りてくる”とは思うけれど、あまり時間的に余裕がない場合が多そうだな。だから僕は逃亡生活に入ってからは、朝起きたらその日の展望、予知をしっかりやろうと思っていた。君のことは例外だけれど」
「そうなのね」エマラインは頷き、二人はまたしばらく黙った。
 電光時計の表示が二一時になろうという頃、アレイルは彼女の手を引っ張り、ドアのキーロックを解除して、再び建物の中へと入った。
「どうしたの?」
「そろそろパトロールヘリが来る。隠れなきゃ」
 数分後、かすかなモーター音が上空を行きすぎていった。ほとんど聞こえないほどのうなりであったが、エマラインの敏感な耳にははっきり聞こえ、同時にそれが巡回ヘリの飛来を意味することも知った。音が聞こえなくなってからしばらく待った後、二人は再び屋上へと戻った。

 時は過ぎ、消灯時間が迫ってきた。
「あと五分で二三時ね。真っ暗になってしまうから、ライトをつけましょうか?」
「いや、必要がない限り、ライトはつけないでおこう。パトロールも巡回している。不自然な灯りは危険だよ」
「そう。そうね。たしかにそうだわ」
 そんな会話を交わしているうちに、時計塔の表示が二三時になり、就寝のチャイムが街に響く。二人の目の前に広がっていた無数の灯火が、一斉に吹き消されたように消えた。遠くに見える市庁舎の窓のいくつかと、電光時計のオレンジ色の表示だけが、暗闇と静寂の中に浮き上がって見える。
「いつ、下へ降りるの?」エマラインは声を落としてささやいた。
「三時間くらい待ってからだね。十二時前後って言うのは、危険な時間帯なんだ。政府の執行部隊が活躍する時間だから」
「そうよね。あなたは政府に追われているんですものね」
「ああ。何もわざわざ連中の活動時間に、ことを起こさなくてもいい。でも、それだけじゃないんだ。ここには、二時過ぎまでいなくちゃならない。それが正しい道なんだ。その時間まで待ったら彼に会えるって、僕の力が教えてくれたから」
「彼って……誰?」
「僕らの仲間になってくれるかもしれない、遠くから来る僕らの同類なんだ。彼が僕らの仲間になってくれる気があるかどうかわからないけれど、たぶん大丈夫なはずだ。お互いこれから長く生き延びるためには、手を組む必要がある。それが彼にとっても、有益なことだから」
「そうなの……」
「うん。でもその彼のことは、時間が来ればわかる。だから、待っていて。それまで君は少し眠るといいよ。パトロールヘリが飛んでくる少し前になったら、起こすから。今日はいろいろあって、疲れただろう?」
「ええ、確かに疲れたわ」
 エマラインは大きく息をつき、身体を伸ばした。
「でも、眠くはないのよ。興奮しているのね、きっと。目がさえちゃって。へんね。昨日もわたし、ろくに寝ていないから、眠いはずなのに」
「そうなんだ。それは、たまたま? それとも何か原因があるのかい?」
「ええ」エマラインは昨夜彼女の中に流れ込んできたことを、改めて語った。その同じベッドで処刑された青年のことを。
「そうか。想像で架空の人物を生み出せるのって、すごいな。僕には思いつかないよ」
「わたしもそう」
「その人に、話を聞きたかったな」アレイルは少し黙り、そして続けた。
「ニコルは自分の見聞きした知らない世界のことをいろいろ教えてくれたけれど、全く想像だけの話って、どんなものなんだろうな」
「わたしはニコルさんのお話も、聞いてみたかったわ」
「よく二人で話したんだ。部屋で。いつ話をやめるか、そのタイミングも彼は完璧に知っていた。いつかその話を、君にもいろいろしていけたらいいなと思うよ」
「楽しみにしているわ。そのためにも、できるだけ長くいられるといいわね」
「ああ、本当にね」
 二人は屋上の扉前にある小さな段差の上に並んで座り、扉に背中をもたせていた。静かに時は過ぎていった。時計塔の表示は零時になり、一時になり、やがて二時になった。その間、巡回ヘリをやり過ごすために二度ほど階段に戻った。二人は時々小声で話をし、時には沈黙した。
 やがて、アレイルはだんだん黙りがちになった。彼はその遠くから来るという仲間を、待っているのだろう――エマラインにも強くそう感じられたが、その“彼”とはだれか、どうやってこんなところに来るのか、やっぱり階段からだろうか。そうするとこんな風に入り口をふさいで、大丈夫だろうか。いや、そのためにここにいるのか、後ろから来る気配を感じるために。でもそれにしては、アレイルは前方、屋上の何もない空間に目を向けているようだ。いや、彼もただ前を向いて座っているから、そこを見ているだけなのだろうが――そんなことをとりとめなく考えているうちに、エマラインは眠さを感じてきた。そして、うとうととまどろみ始めた。




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