Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第1章 夜の序曲 (5)




 アレイルはベッドの上に座りなおし、目の前の壁を見つめた。とりあえず今しなければならないことは、どうしたらそのミッチェル老人の家に、監視の目をかいくぐって到達できるかだ。自分一人なら、慎重に行けば、たぶんたどり着ける。いつ家を出るかにもよるが、監視カメラが作動して無人の部屋を映した途端に、自分の逃亡は政府に知られるだろう。そして彼の罪は“特E”――超能力者であることが確定となるだろう。でも、家族はもうみな死んでしまった。処罰の対象になる四親等以内の係累も、父方の叔母夫婦のほかは誰もいないのだ。母の兄は結婚前に病気で早世し、父の妹は体が弱く、妊娠出産に耐えられないと判定され、子供を産めないまま、四十歳を超えてしまったのだから。命を助けてもらうかわりに断種をしても、何ら影響はないだろう。これから自分はこの忌まわしい能力を駆使して、生きていく努力をしよう。
 アレイルは目を閉じた。妹を殺され、父を殺してしまった。その衝撃的な事実は、彼の感情を乱し続けている。でも、今はそれを払いのけなければ。放送プログラムと同じにノイズとして脇に置き、心を空っぽにして、集中することが必要だ。
 まずは、エフライム・ミッチェル老人の家に行くことだ。政府の監視網に見つからず。彼はその一点のみに集中して、必要な情報を探り始めた。老人が住んでいる詳しい場所、現在の境遇、そして政府の監視網に引っかからずに、相手の家までたどり着く方法を。政府から疎まれる元となった超自然的な力が、勢いよく働き始める。ただ一つの道を模索し、そこに至るプロセスを一つずつ知っていく。それは非常な精神集中を必要とする作業だ。
 やがて、答えがわかった。アレイルは深いため息を吐いて立ち上がると、行動を始めた。父の部屋に行き、クロゼットを開けて黒いバッグを取り出すと、その中に熱線銃と携帯用ライトを入れ、台所に行った。家に残っているパンとミルクを入れると自分の部屋に戻り、着替え用の下着と就寝着を入れた。ポケットからIDカードを取り出し、テーブルの上に置く。これは持っていくわけにはいかない。政府の中央コンピュータからID照会をかければ、このカードの現在地がわかってしまうから。あと十五分したら、出なくては。それが最適な時間だ。
 時間が来ると、バッグを片手に持って、アレイルはゆっくりとドアに向かった。コンパートメントの外に出て、彼は振り返った。十八年間暮らした家――ニコルと母を亡くし、今ルーシアと父も亡くして、自分一人だけになった。もう、家族はいない。そしてここも、もはや自分の家ではない。これからは逃亡者として、政府の目を逃れて生きていかなければならないのだ。
 彼は軽くドアに手を触れ、無言で別れを告げた。兄に、母に、妹に、父に、そして昨日までの自分自身に。そして廊下へと踏み出していった。


 三月下旬のその日、エマラインはいつも通り規定の学科を済ませたあと、机の上に頬杖をついて、ぼんやりと端末から流れる放送プログラムを見ていた。昨夜あまりよく眠れなかったので、頭が重い。放送プログラムの内容も音声も、いつものように彼女の頭の中を素通りしていく。
 それは昨夜のことだった。真夜中にふと目覚めたエマラインの心の中に、明確な思いとイメージが飛び込んできたのだ。今自分が寝ているこのベッドにかつて眠っていた、青年の思いが。
 エマラインの両親が結婚してここに移り住む前、このコンパートメントには、同じように四人家族が住んでいた。両親と息子、娘。その息子が、かつてこの部屋を使っていた。彼は子供のころから感受性が強かったようだが、大きくなるにつれて、生きづらさを感じるようになってきたようだ。なぜこの社会は決められたこと、人と同じことしかできないのだろうと。放送プログラムもゲームも、本も退屈だ――この時代の本は、小説と国家論(もちろん、今の社会システムを賛美したものだ)しかなく、ストリートウォーカーに一回乗るくらいの値段で買える。それは端末にダウンロードされてきて、そこから読むか、携帯用読書端末を持っている富裕層なら、そこに取り込める。この青年も、一年に二冊買うことが許されていたが、内容は放送プログラムと大差のないつまらなさで、十代半ばを過ぎた頃から『もう本はいらない』と、両親に告げていた。
 彼は教育カリキュラムが終わった後、暇を持て余していた。放送プログラムはうるさいが、消してしまうわけにもいかない。他のことに使っていない限り、就寝時間までずっと流され続けるのだから。そんなある日、専門課程に入ったばかりで、両親の代わりに配給を取りに行った時、彼は上の階まで足を延ばし、ふと目を引かれた品物を買った。それは、光学ペンシル――プラスティックペーパーに文字を書くのに使われるもので、普通の家庭ではまず必要のないものだった。価格は本五冊分くらいだったが、十六のころから本は買っていないので、このくらいの出費はいいだろうと思えた。両親も少し驚いたようだったが、黙認した。彼はその光学ペンシルを使って、机の上の何も置いていないスペースに、絵を描き始めた。端末や、窓や、ビルなどを、書いては消し、書いては消した。光学ペンシルで書いたものは、反対側でなぞると、消すことができたのだ。彼はそうやって、余暇時間を過ごしていた。やがてその絵は無機物から、人物へと変わっていった。自画像や、両親、妹の肖像に。さらに、それは彼自身も全く知らない、架空の人物像になり、やがて同じ少女の絵になった。長い髪の、華奢な体つきに目の大きな、丈の長い服を着た、十代後半くらいの少女。それを青年は“イリア”と名付けた。その少女は彼の心の中で、あたかも生きている本物の人間のように実体を持ち、彼はその娘についての想像を巡らせて、楽しむようになった。
 その架空の少女“イリア”が彼の心に住み始めて一か月が過ぎた頃、この部屋に三人の治安維持兵がやってきた。処刑執行人だった。彼らはどの家のドアも開けられるカードキーを持ち、玄関を開け、この部屋に入ってきた。その物音で、彼は目覚めた。そして飛び上がるようにして起きた。
『トーマス・シュナイダー・アンダーソン。異端思想の咎で、処刑する』
 執行人の一人がそう宣告し、銃を突きつけた。他の二人も。そして青年が何かを言う間もなく、発射ボタンが押され、二発は胸に、もう一発は頭に命中した。青年は短い叫び声を上げ、絶命した。
(どうしてなんだ……僕が何か、悪いことをしたのか……?)
 その思いを最後に。治安維持兵たちはその後、処刑された死体を、用意していた担架のようなものにのせ、運び去っていった。物音に気付いて起きた母親に対し、『この者は、異端思想の咎によって処刑された。おまえたちもそうなりたくなければ、心して生活することだ』と告げて。母親は震えあがり、朝、そのことを夫と娘に告げる。彼らの心を支配していたのは、息子を、兄を失った悲しみよりも、自分たちも同じ目に合うかもしれないという恐怖だった。しかし、それならなおさら動揺してはいけない。家族から異端者を出してしまった不名誉を取り返すには、少しの逸脱も許されない――その思いで、彼らは変わらぬ日常を、それからも続けていった。やがて妹は結婚して家を出、父と母はターミナルセンターで命を終えた。自分たちは息子と同じ運命にならずに済んでよかったと、感謝しながら。
 切れ切れの映像や知識が、エマラインの中に雪崩のように押し寄せてきた。その衝撃性は、たちまち彼女の眠気を払い、そして思ったのだ。どうして……あの青年の最後の思いを、彼女もまた繰り返した。彼は創造性豊かな人だったのだ。自分で絵を描くことの喜びを発見し、そこから架空の何かを作り出すことに、喜びを覚えた。それが政府にとっての“異端”。許されるのは、与えられるものを享受することだけだから。
 それは間違っている――もちろん、そんな思いをはっきり表せば、たちまち彼女も異端とされるだろう。それでなくとも、余暇時間に人と違うことをしていただけで、異端になるのだ。もちろんすぐに処刑までは行かないだろうが、数年経過を観察し、その傾向がおさまらず、ますます進んでいくと判定されたなら。それなら、いつも何分間かは窓辺に佇んで外を見ている自分も、充分異端とされていることだろう。しかも、自分はもっと始末に悪い“力”を持っているのだから。
 恐怖と悲しみで、朝まで眠れなかった。重い頭を抱えて起き上がり、服を着替えて父母のために朝食を整えながら、気分の悪さを感じた。食欲がないからパンはいらない、と、二人の前に差し出すと、父も母も満足そうな表情でそれを半分に分け、食べていた。
 エマラインは、ふっとため息をついた。政府はどういうわけだか、人々の“異端”を見抜いてしまう。配給センターや街の中のように、家にも監視カメラがあるのだろうか。あるとしたら、どこに――例えば、このスクリーンのような。だとしたら、こんな風にため息をつくことも、良くないのだろうか――。
 
 来客を知らせるチャイムが鳴った。今では他の家を訪問すること自体が滅多にないため、その家の住民以外、家に出入りすることはない。そこに住民登録されている家族は、そのIDチップで(未成年の場合、カードをかざす必要があるが)ドアを開閉できる。家を訪問するのは年に一回巡回する理容ロボットくらいだが、彼らも中央政府が保持している、どこの家でも入れるカードを持っているので、チャイムを鳴らすことはない。それゆえ本来なら無用のはずで、実際このチャイムが鳴るのを、エマラインは物心がついてから、初めて聞いた。いや、たぶんもっと昔から、鳴ることはなかったかもしれない。どの家のドアにもついてはいるのだが。
 エマラインは驚きに、思わず椅子から立ち上った。誰だろう。家に誰かが来るなんて、あり得るのだろうか。ドアを開けて、大丈夫だろうか? 彼女は恐る恐る部屋を出て、玄関に行った。そしてドアを開けないまま、ぎりぎりにまで近づいた。訪問者の正体を知りたい。彼女の力なら、ドア一枚隔てていても、きっとその想念を探れる――。
「え?」思わず小さな声が出た。そんな、まさか――。
 彼女はドアの開閉ボタンを押し、訪問者と対面した。
「アレイルさん……どうしたの?」
 ドアの外にいたのは、アレイル・ローゼンスタイナーだった。グレーの上衣に、紺のズボン姿――クリスマス集会の時に、そして配給センターで再会した時にも着ていた服だ。片手に黒いバッグを下げていたが、その中からミルクの瓶が一本覗いていた。
「ごめん、突然来てしまって」彼はそう口を開いた。
「大丈夫よ。中に入って。まだ父さん母さんが帰ってくるまでには、一時間半はあるから」
 エマラインは急いで居間へと招き入れた。と、同時に考えていた。監視カメラは(もしあるとしたらだが)、大丈夫だろうか、と。でもそのことは、きっと彼もわかっているに違いない。それでもあえて来たからには、きっと理由があるのだろう。ただそれ以上想念の枝を伸ばして彼の思いに触れるのは不作法な気がして、思いを閉じ込めた。

「ごめん、急に来て」
 居間の椅子に腰かけると、アレイルは再び繰り返した。
「そんなことはいいのよ。わたしこそ、この間のお詫びも、ミルクとバッグのお礼も言いたかったから、ちょうどよかったわ、アレイルさん。あれから全然会えなかったし」
「いや、さんはつけなくてもいいよ。それに、たいしたことじゃない。考えてみれば、君の家を突き止めて勝手に置いてくるなんて、気持ち悪かっただろうなって、後で思ったよ」
「いいえ、そんなことはないわ。本当にうれしかったのよ。でも、あの怖いお父さんに叱られたんじゃないかって、心配だったけれど」
「いや、大丈夫だよ。妹が罪をかぶってくれたから。父は、彼女には厳しくないんだ」
「あら。それなら妹さんにも、お礼を言わないとね」
 エマラインは微笑したが、避けられなく聞こえた相手の思いに、笑みをひっこめた。
(いや、もうルーシアはいない――)
 その中に込められた悲しみと悔恨の思いは、エマラインの心を芯から震わせた。彼女の表情の変化に、アレイルも悟ったのだろう。悲しげな笑みを浮かべ、微かに首を振っていた。「君にも、わかってしまったみたいだね」
「妹さん……亡くなったの?」
 相手は無言で頷く。彼女はさらに、声に出さない思いを再び聞いた。
「お父さんも……?」
 彼は再び頷いた。その表情から、エマラインが力を使うまでもなく、気持ちが読み取れた。悲しみ、後悔、慚愧。しかしその力で聞こえた思いは、彼女をさらに驚かせた。
(僕が父さんを殺してしまった)
「嘘?! あなたにそんなこと、できるはずはないわ」
 エマラインは思わず、声に出してしまった。
 アレイルはその緑色の眼で、ひたと彼女を見つめてきた。しばらくのち、口を開く。
「やっぱり君も、“力”の持ち主だね。僕の思いが、わかるようだ」
 エマラインは一瞬ためらった後、頷いた。
「ええ……そうみたい。わたしには、人の思いがわかってしまうみたいなの」
「君はテレパス、か……」アレイルは息を吐き出すように呟いた。
「僕はクレアボヤント(透視能力者)……仲間に会ったのは、初めてだな」
「テレパスって何? クレアボヤントって?」
「人の思いを知ることができる人がテレパス。離れているものや、過去や未来が近くできるのが、透視能力――未来だけだと、予知能力者になるのかな。そんな定義だと思う」
「そうなの。じゃあ、やっぱりそうなのね」
 エマラインは言葉に出してから、部屋を見回した。
「でも、大丈夫かしら。もし今監視カメラが回っていたりしたら」
「大丈夫だよ。今は作動していない」
 アレイルは居間の壁に取り付けられた常夜灯に目をやった。エマラインもその視線の先を追い、悟った。
「あれが、そうなのね」
「ああ。あと四十分で作動するから、僕もそれまでに帰らないといけないけれど」
「そうなの。でも……」
 エマラインは言葉を飲み込んだ。妹も父も死んだということは、彼の家は今どうなっているのだろうか。二人はなぜ死んだのか。彼が父親を殺したというのは、本当なのだろうか。いったいなにがあったのか――だが、それを聞くのはためらわれた。
「僕はテレパスじゃないけれど、君が何を思っているか、だいたいわかるよ。何が起きたのか……言葉で説明すると長くなるけれど、もし君が僕の思っているもう一つの力の持ち主だったら、わかるかもしれないね」
 アレイルは手を伸ばし、テーブルの上に置かれたエマラインの手、その指先にほんの軽く触れた。
 彼女の頭の中に、映像と思いが下りてきた。一週間前の朝、アレイルの家で起こった一部始終を。エマラインは震え、涙を流した。
「わたし……なんて言ったらいいか、わからない。何を言っても、慰めになるとは思えないわ。でもあなたは強い人ね、本当に。わたしなら、きっとできない。とても……そんなに雄々しくはなれないわ。打ちのめされてしまうに違いないわ」
「僕は、そんなに強くないよ。気を抜いたら、もう自己嫌悪でいっぱいになってしまう。だからそのことは、極力考えないようにはしてきたけれどね。今はとにかく、先のことに集中していようと思った。二人の犠牲を無駄にしないためにも」
 アレイルはそっと手を引きながら、首を振った。そして続けた。
「やっぱり君は、サイコメトリーも持っているんだね」
「サイコ……メトリー?」
「ものに触れると、その持ち主の思いや歴史がわかってしまう能力だよ」
「そうなの。じゃあ……わたしは、そうかもしれないわ」
「だからあの時、僕のこともわかったの?」
「ええ。そうなの。だから驚いて、あんな無作法をしてしまったわ。ごめんなさい」
「いや、気にはしてないよ。君が同類かもしれないことには、驚いたけれど」
 エマラインは言葉のかわりに、微かな笑みを返した。

 彼が逃亡者となった一週間前の朝から今までのことも、一緒に認識されている。朝の事件があまりに衝撃的だったので、とりあえず脇に置かれた知識だったが。そのことを改めて、考えてみた。
 アレイルはあの朝、エフライム・ミッチェルという老人の家を目指して、街を移動した。五時間かけて、慎重に歩いて――普通の人は勤務時間帯なので、通りには人がいなかった。教育課程にいる人も、小さな子供たちも、育児休暇中の母親も、引退した老人たちも、滅多に外に出ることはない。ここは三区で、ミッチェル老人の家は四区。隣りの区だが、少しブロック間の距離があるので、歩きだけなら三時間ほどかかる。それも、監視カメラやパトロール中の治安維持兵に見つからないよう、慎重に歩かなければならない。ただ、アレイルの年恰好から、仮に一般の人は行き会ったとしても、(専門課程の学生が配給を取りに来たのだな)と思われるはずだ。彼の住む三区では配給日ではなかったが、四区はちょうどパンの配給日だった。幸い一般の人にはほとんど行き会わず、うまく監視の目を潜り抜けて老人の家にたどり着き、チャイムを鳴らすと、ドアはすぐに開いた。
 エフライム老人はドアの前に立ったアレイルをまじまじと見つめ、そして言った。
『やっぱり来たんだな。入りなさい』
 その意味が彼にはわからなかったが、老人が語ってくれた。昨夜、息子の夢を見た。その後で、真っ暗な中で声が聞こえた。知らない男の子の声で、僕の兄弟が政府に追われている。助けてほしいと言っていた。君は誰だと聞いたら、アルシア・ローゼンスタイナーの息子だと。彼も、その兄弟も。会えばきっと驚くと思うとさえも。そして老人はアレイルを再び眺め、小さく呟いた。
『本当に……ケインに似ているな。そんなことは、あり得ないと思っていたが……それに紛れもなく、息子の眼だ』老人は涙を浮かべていた。
 それから一週間、アレイルはミッチェル老人の家で過ごした。チェック時間になると、クロゼットの中に隠れて。一つしかないクロゼットは狭く、いろいろな道具が置いてあったが、一人なら何とか身を潜められた。母とケイン・ミッチェルとの接触は中央政府に知られていなかったので、老人の家は一般の、何も嫌疑のない人と同じ、四時間に一回、十分というサイクルだった。以前はもう少し頻繁だったらしいが、ここ十年ほどは『通常』と判定されていたようだ。
『君には、そいつの作動時間がわかるんだな』
 エフライム老人は驚いたように言っていた。
『そういえばケインも、そういうカンのようなものは鋭かった。アルシアさんに会うのも、今なら大丈夫だと思う、とよく言っていたな』とも。
 就寝時間が過ぎると監視カメラの映像はオフになるので、リビングスペースにマットを敷いてもらって、そこで眠った。マットは以前購入した備品らしく、クロゼットの中に入っていた。
『ちょっと待ってくれ、居間の音声センサーをオフにしよう』
 老人は最初の夜、そう告げた。
『音声センサーのオフって、できるんですか?』
 アレイルは少し驚き、問い返した。
『私は住宅のメンテナンスを仕事としていたんだ。だから、監視カメラのこともわかる。壁の上から、細い針で押せばいい。素人には、場所がわからないだろうがね。以前、息子の部屋のセンサーもオフにしたことがあるんだ。夜は映像もオフになるから、音声を切れば何も心配はいらないと』ミッチェル老人は悲しそうな笑みを浮かべ、答えていた。
『もう一回同じところを押せば、またオンになる。朝になったら、戻さなければならないな』とも。
 それから一週間が過ぎ、老人はターミナルセンターに行くために、家を出た。その時、アレイルも一緒に荷物をまとめて、外に出た。今朝のことだ。
『もう少し君と一緒にいたかったが、仕方がないな。君はこれから、どうするんだい?』
『二区に空き部屋を見つけたので、そこになんとか入ります。いろいろ道具をありがとうございました』
 アレイルは答えた。家から持ち出したバッグやポケットの中に、老人からの餞別――そんなことは不可能だろうが、もし万が一機会があれば、老人がいずれ息子のために使おうと思っていたという道具が、いくつか入っていた。毛布もくれようとしたが、それは辞退した。バッグにそれ以上入らなかったのと、配給を取りに行くと思わせるにしても、バッグいっぱいの大荷物を持って歩くのは、明らかに人目を引くためだ。
『気をつけてな。私は君に会えてよかったよ』老人は笑顔を浮かべていた。

「ターミナルセンターなんて、なくなればいいのに。みんなどうして自然に死ぬ時が来るまで、生きていられないのかしら」言葉が思わず、口から洩れた。
 アレイルもかすかに驚いたような表情を浮かべた後、頷いた。
「そう。君には、そこまでわかってしまったんだね。僕も本当に、そう思うよ」
「今までのことは、とてもよくわかったわ」
 エマラインは目を上げて、相手を見た。
「でも、あなたがわたしのところに来たのは、それが目的ではないのよね」
「ああ。それは君の“力”の産物だ。説明する手間は省けて、良かったけれど」
 アレイルもこちらを見てきた。そして言葉を続けた。
「でも僕は、それを言葉に出す自信がない。それに、とても言えたものじゃないと思っている。君のためにも、そんなことはさせちゃいけないんだと。僕の“力”は新しい隠れ家に移る前に、君のところへ行けと告げた。でも僕は、素直に従うのを躊躇した。うっかりそれに従ってしまって、君もまたルーシアのようになってしまったらと思うと、怖かった。だから、君にその判断をゆだねたいんだ。もちろん断ってくれて、全然かまわない。むしろ君のためには、その方が良いと思っている」
 エマラインは頷いた。彼女の力は、相手が言葉に出せない思いを読み取っていた。
(僕と一緒に来てくれないだろうか)
 彼が出せなかったその言葉を想念の中で聞いた時、最初に感じたのは驚きだった。わたしが? どうして? 何のために?
 彼女のその驚きと当惑を、彼は当然のこととして受け止めているようだ。そうなのだろう。自分たちは過去にたった二度会っただけの、通りすがりの他人に近い仲だ。これで三度目。でもなぜだろう、最初に目が合った時から、不思議と惹かれるものを感じていた。家族にも感じたことのない思い、いや、今の時代は家族ですら、滅多にそんな思いは感じないのが普通だろう。でもその思いは彼女だけでなく、相手の方も持っているようだ。わたしたちは家族ではない。親戚でもない。他人――でも、それだけでは括れない何かを感じる。だから話がしたいのだし、会いたいと思ってしまう。一緒にいたいと感じてしまう。なぜだろう――。
“友達”――不意にそんな言葉が、エマラインの中に落ちてきた。アレイルの心の中にも、同じ言葉が落ちたのを彼女は感じた。
「わたしたちは、友達」エマラインは顔を上げ、その言葉を口にした。
「そう……かもしれないな」
 アレイルは少し驚いたような、照れたような思いを感じているようだ。
「行くわ」
 その言葉も、すんなりと口から出てきた。自分でも驚いたほど、一瞬の決断だった。彼の心の中にある、“もう一つの道”が、エマラインにも認識できた、そのせいもある。彼女が一緒に行かなかった場合、自分はどうなるかを。
 エマラインが自分の家にとどまった場合、彼女は三か月後、誤差は前後十日くらいあるが、やってきた処刑人に生命を奪われるだろう。彼女の“逸脱”は――時々物思いにふけっているような表情を見せたり、ため息をついたり、独り言を呟いたり、窓辺に歩み寄ってじっと外を見ていたり、そんな“普通の人はあまりやらない行為”が監視カメラにも捕らえられ、彼女はすでに半年ほど前から、“異端”容疑レベル三だった。そこに、配給センターでのアレイルとの遭遇映像で、“特Eの可能性あり”と判定された。アレイルが嫌疑段階で逃亡し、“特E”であることを決定づけたその事実のため、精神的能力の場合は、具体的な証拠がなくとも、嫌疑段階でその扱いにした方が安全との判定が、政府の中央部で下されている。その際、家族も同罪になる。『どうせ親はあと十何年かで定年だし、どうでもいい一般職だ。兄は中央政府職員か。しかし、第二連邦の第十二都市なんて辺境の職員なら、たとえ中央職員でも、一人くらいどうということはないだろう』そんな冷酷な判定で。ただ幸いなことに、エマラインの家もアレイル同様、家族以外の四親等内の係累はいない。残っているのは伯母だけだが、もともと伯父の妻であり血縁関係はなく、年齢も五十歳を超えている。彼女は助かるだろう。
 その思いを読み取った時、エマラインは思わず震えた。ここでアレイルと一緒に行ったら、ことによるともっと命は短くなるが、この家で一人の空虚な時間を、やがて来る処刑の瞬間におびえながら暮らすのは、耐えられない気がした。それよりは、先が知れなくとも“仲間”と一緒の時間を過ごしたい、と。家族を置いていくのは辛いが、彼らもいずれ三か月で殺されてしまう運命だ。でも今なら――まだ自分の容疑も固まりきっていない今なら、すぐに三人とも殺されることはないかもしれない。そんな思いもあった。気休めやこじつけなのかもしれない。家族を捨てるうしろめたさを納得させるために――そうも感じたが、それでも“一緒に行きたい”という思いを止められなかった。
「いいのかい……?」
 アレイルは少し驚いたように、エマラインを見つめてきた。
「大丈夫よ」エマラインは深く頷いた。微かに笑顔を浮かべて。
「わたしもあなたと一緒に行きたい。できたら、一緒に生きたい」
「一緒に生きられたらいいね、少しでも長く……」
「ええ。だから行くわ」
「ありがとう」
 アレイルは微かに頭を振り、エマラインを見てから、テーブルに視線を落とした。
「もし見つかったら、わたしがあなたに脅されて連れて行かれた、と言うのはやめてね」
 エマラインは微かに笑って続けた。
「本当に、君にはかなわないな」
 アレイルもかすかな笑みを浮かべ、小さく肩をすくめていた。
「でも僕は、そう言うつもりだよ。君が何と言っても」
「見つかる前提なのは、やめましょうよ」
「それはそうだね」
 二人は同時に、苦笑に近い笑みを浮かべた。そしてエマラインは立ち上がり、行動を起こした。いつも配給の受け取りに使っている黒い手提げバッグの中に下着と就寝着、タオルを一枚、ミルクをひと瓶と、パンを半分つっこんだ。それ以上は、かさばって入らなかった。家にあったミルクもパンも半分になってしまったが、これから食料は絶対に必要なものなのだ。両親には気の毒だが、仕方がない。
「僕は先に行くよ。北階段三階の踊り場で待ってる。君はあと四分経ったら、出てきて」
「わかったわ」

 アレイルが外に出て行った後、エマラインは居間のテーブルの上に彼女のIDカードを置いた。これを置いていかなければならないわけは、彼女もわかっている。そして椅子に座って時計を眺め、四分に三十秒足りないところで、立ち上がった。ドアを開けて廊下に出ると、ふいに涙があふれてきた。もうここには帰らない。家族ともお別れだ。こんなに突然別れが来るとは思わなかったが、自分が選んだ道に悔いはない。でも、残された家族にすまないという気持ちは、どうしても抑えられなかった。
「ごめんなさい、お父さん、お母さん、エドワード兄さん」
 彼女はドアに手をかけ、小さく呟いた。「わたし、行きます。わたしのわがままのために、みんなに迷惑をかけて、本当にごめんなさい。許してもらえないかもしれないけれど、これから心の中で、いつまでも謝り続けます。さようなら……」
 エマラインはしばらくドアの前に佇んでいたが、やがて涙を拭うと、くるりと背を向けて、小走りに廊下を駆けていった。彼女の仲間――初めてできたかけがえのない友人と、明日をもしれない逃避行に飛び込んでいくために。




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