Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第1章 夜の序曲 (4)




 彼は晴れ渡った草原を歩いていた。膝の上までのびた青草が、歩くたびに足にからみついて、じゃまになる。一緒に、一人の少年が歩いていた。濃い琥珀色の髪、緑の瞳――三年前に世を去った、アレイルの双子の兄、ニコル・ウェイン。二人が別れた時の、十五歳の姿で、草むらを歩いていく。そう。こうやって何度もニコルは、夢の中に訪れてきてくれた。病院に行ってからも、世を去ってからも。もう何回目だろう。きっと、二十回は超えている――アレイルはほっとした思いで、兄の姿を見ていた。
 やがて彼らはどちらからともなく立ち止まり、柔らかい草の上に並んで腰を下ろした。
「少し疲れたね、ここで休憩しよう」ニコルは弟を見やり、微笑んだ。
「そうだね」
 アレイルは頷き、空を見上げた。ドームの灰色の天井ではなく、澄み渡った青い色が、どこまでも広がっている。二つ三つ、白い雲が流れていく。
「僕らは今、ここで休んだけれど……」
 ニコルも空を見上げながら、言葉を継いだ。
「でも、休まないこともできたし、こことは違った場所で休憩することもできたね。それは、行為の選択肢だ。それによって先の結果が変わることもあるし、何も変化しないことだってある。君にもわかるよね、アレイル」
「ああ。以前君が話してくれた、人生の選択肢っていう奴だね、ニコル」
「そう。この世界で普通に暮らしていくだけなら、選択肢はいらない。そんなものはないのだから。でもね、君にはこれから、とても重要になってくると思うんだ。選択をした結果を、君は見ることができる。それが、これから君がやらなくてはならないことなんだ。君が恐れていたことは、もうすぐ現実になるから」
 アレイルは言葉が出なかった。全身に震えが走るのを感じた。
「でも、そんなに構えなくても、大丈夫かもしれない。それはたぶん、君が考えているよりも、もっと簡単なことかもしれないよ」
 ニコルは緑色の瞳に、この世のものを超越したような光を浮かべて、微笑した。
「僕らが歩くこと、立ち止まること、選択すること。みんな、自分の意志で選ぶものだと、思っているよね。でも、実際はそうではないとしたら?」
「えっ? ……それはどういうことだい、ニコル?」
「つまり、重要なことにおいては、ある一つの選択をするように、あらかじめ決められているのではないかって、僕には思えるんだ。それが、いわゆる運命というものだとね。でも、そうかといって、放っておいてもいいわけではないけれど。もし自分からは何もしないでいたら、それは自らの運命に身を任せると言うよりも、自分の運命、もしくは人生を捨てることになるんだと思う」
「あらかじめ決められているけれど……何もしないで、いいわけじゃない……」
「そう。でもね、恐れちゃいけないよ、アレイル。君の予感は正しい。僕らの異端は、かなり前から政府に注目されてしまっていたらしい。僕のミスだね。いつも同じポーズで画面を見ているのが不自然だって、判定されてしまったみたいで。それでたぶん、能力があるのは僕の方かもしれない、でも証拠がない。そう思われていたみたいだ。だから僕は、決定的に証拠をつかまれる前に、命を終わらせたんだ」
「え? そんなことが……できるのかい?」
「うん。できた。僕の身体の機能系統を狂わせ、崩壊させることが、自分の意思でできた。君のことも心配だったけれど、でもそのためにも、僕は病気になって死んで、自由にこうやって君にアドバイスできる立場になろうとした。だから、僕は後悔していないよ」
「ニコル……」
 アレイルは兄の顔をじっと見、言葉を探した。しかし適切なものは出てこなかった。ふと、思いが湧いた。「もしかしたら、母さんも……?」
「いや、母さんは、そんな力は持っていない。でも原始的な、近いものは持っていたかもしれない。もう生きていたくない――そんな思いを、きっと僕らが生まれた後くらいから、ずっと持っていたんだろうね。それが限界を超えて、母さんの命を奪ったんだ。まあ、僕から見ればまだ未来だけれど、今の君には母さんの死ももう過去なんだろうね」
「うん。そうなんだ……」
 アレイルはなおも言葉を探したが、それ以上は見つからなかった。
「僕は今、夢の中なら何でもできる。前より強い力も得た。だから僕は知ることができた。それが君の天命なんだ、アレイル。君は今、非常に重要なキーライフを生きている。その先につながる道まで。その運命が今、動き出そうとしているんだ。恐れないで、進んでいくことだね。僕は直接には、何も君の助けにはなれないけれど。本当に僕は、いつも見ているだけだ。君自身が、やらなければならないことなんだよ。これは、君の最大の試練になるだろう。そう、君は僕よりも、ずっとアクティヴな影だ。時によっては、光と影がほぼ逆転する場合もあるほどに。だからここでも、君が中心的な役割を果たすことになる。僕が君と同じステージにいた頃は、ほとんど彼女の補佐だったけれどね」
「えっ? 何を言っているんだい、ニコル?」
「君にはわからないよね、アレイル。でも、今はそれでいいんだ。そのうちに、君にもわかるよ」ニコルは少し言葉を切り、弟の顔を見ると、続けた。
「最初のアドバイスだけ、君に言おう。家を出たら、第四区十三ブロックに住んでいる、エフライム・ミッチェルさんを訪ねてみるといい。そして、自分の名前を名乗って、母さんの名前も出して、事情を話してみるんだ。彼はきっと、助けてくれるよ。これが第一歩だ。あとは君の力で、やっていくことになるけれど」
「エフライム・ミッチェルさん……? 誰だい?」
「もうそろそろ七十歳になる老人だよ。母さんが若い頃好きだった人の、お父さんに当たる人なんだ。だから、ひょっとしたら、僕らの実のお祖父さんかもね」
「ええ?」
「ああ、それは誰も知らない話だった。でも、君だって察しはついていただろう? 僕たち二人は、あの父さんの子供じゃないって。父さんもきっと、そのことを無意識のどこかで知っているんだよ。だから父さんは、僕らを嫌っていた。いや、憎んでいたんだ」
「え? でも、そんなこと、不可能だろう?」
「そう。普通なら、あり得ないよ。でも僕らの場合、“運”が後押ししてくれた。運命と言ってもいいだろうけれど。母さんは生殖センターで受精卵を移植してもらう前日に、配給センターに行って、エフライム老人の息子に会った。偶然じゃないよ。母さんはそのために、配給センターに行く時間を同じにしていたんだから。母さんとその人とは、子供のころから同じアパートの住人で、時々玄関ホールや配給センターで行きあっていた。そしてお互いにひかれあい、短い言葉を何度も交わした。幸運にも、すべて監視カメラに映っていない時に。母さんは父さんと結婚したけれど、母さんが住んでいる区と、ミッチェルさんの職場が近かったこともあって、それからも時々会うことができたんだ。いつも短い言葉を交わすだけだったけれど。でもこの時には、出会った後ミッチェルさんは家に来た。父さんは夜勤で不在だった。そしてほんの三十分ほどの間に、二人は愛を交わしたんだ。幸いなことに、それはどれも、監視カメラの作動時間じゃなかった。だから、僕らが生まれたんだ。次の日に母さんの胎内に戻された受精卵は流れたから、僕らがとってかわった」
「そんな……ことって……あるのかい?」
「あるんだよ。いや、すべてはそうなるようになっていた、あらかじめ決められていたことだ。今は、そう思えるよ」
「ニコル……でも君は、そういうことを……」
「どこで知ったかって? それが今の僕の“能力”なんだ」
 ニコルは微かに笑みを浮かべていた。
「そうなのか……」
 アレイルは今知った知識を、整理してみようとした。きっとニコルの言うことは本当だ、そんな思いが自身の中にも湧いてきていた。
「だから父さんは、あれほど僕らを嫌っていたのか……父さんは、知っていたのかな?」
「父さんは疑っていたと思う。それに、ミッチェルさんのことも知っていた。一度だけ、配給センターに母さんを迎えに行った時、建物の中じゃなく、道路の上で、二人が短く言葉を交わして、母さんが微笑みを浮かべたのを見たから」
「そうか……」アレイルは空に目をやり、考えていた。それなら父が息子たちを愛せないのも、無理はないのだろうと。
「そう。あの人も決して、むやみに僕らを憎んだわけじゃないんだ。あの人は、完全な闇ではないよ。闇に付け入られやすい、心の弱さはあるけれど」
 ニコルはその心の中を読んだように、頷いていた。
「うん……父さんも、気の毒な人かもしれないなって思うよ」
「父さんは君を憎悪している。でも君は父さんを憎まない。君はね、優しいんだと思うよ、アレイル。でもこれからは、時には情を切り捨てなければならない場面に遭遇するだろう。それを心の片隅に覚えておくといいよ」
「情を切り捨てる?」
「そう。冷静な判断力が必要なんだ」
「あんまり得意じゃないな、そういうのは」
「君の性格からすれば、そうだろうね。まったく、ある意味そういうところは、君も僕のパートナーに似ている。彼女ほど情動的でも、楽観的でもないけれどね。君はまっすぐに君らしく……それでもいいよ。でも時には、その優しさの部分を切り捨てなければならない側面にぶつかることもある。これから君がやろうとしていることは、誰も傷つけないで、すまされるものではないからね。でも、それに負けないで、くじけないで、君の良さを失わないで生きて行くんだ。それが君の生まれた意味だし、この人生での君の課題でもあるんだ。がんばってね。僕は遠くから見ているよ」
 ニコルはかすかに笑うと、弟に背を向けて歩き出した。その後ろ姿が見る見る遠ざかる。アレイルは立ち上がって、後を追おうとした。しかし兄のスピードは速く、とても追いつけない。

 風景が揺れる。溶けて、陽炎のように変化していく。緑一面から、透明な青へ、炎の赤へ、雪世界の白へ――全体がもやのようになり、ねじれる。そして全てが、はじけるように消えた。かわって浮かび上がってきたのは、全く別の光景だ。
 水色がかった薄いグレーのタイル張りの、広い部屋だった。床には、ふかふかした毛足の長い、銀色の絨毯が敷いてある。一般家庭のような、むき出しのグレーの床ではない。部屋の後方の壁には世界地図を掲げたスクリーンがかかり、その前に黒塗りの木でできた、大きなどっしりとした机が置いてあった。木製のものは現在では貴重品で、滅多にお目にかかれないものだ。机の傍らに黒いカーボンでできた台座があり、その上には一般家庭のものよりかなり大きい、コンピュータ端末が一台置かれている。銀色ビロード張りの、座り心地の良さそうな椅子が机の前に置いてあり、一人の男がそこに腰掛けていた。四十代のはじめくらいだろうか。短く切り揃えられた、銀色に見えそうなほど薄い金色の髪に、薄いグレーの目。唇も線のように薄い。顔立ちは整ってはいるが、全ての線が研ぎ澄まされた印象だった。紺で縁取りされた白い上着とズボンを身につけ、襟元には金色のバッジが光っている。
 男はコンピュータ端末から送り出されてきた、一連のリストに目をやっていた。
「今週は八人か。かなり多い方だな。しかし、異端の咎の七人はいいとして、第二号は異端扱いなのか? それとも特Eなのか?」 
 特Eとは政府の用語で、超能力者を指す。EはESP――Extra-Sensory Perceptionの頭文字だ。その問いに対し、抑揚のないなめらかな声が応答した。どうやら、コンピュータの音声システムらしい。
『第二号が特Eである決定的な証拠は、検出していません。先週申告した第八連邦のケースは、物理的な証拠映像がありました。しかし第二号の場合は、嫌疑は強いものの、未確定です。単なる異端のみならば、この程度の逸脱では、まだレベル三監視段階で十分です。しかし七十パーセントの確率で、彼が何らかの精神的超能力を秘めているという可能性があります。本年一月一八日、十七時十分の映像から、判断した結果です。それ以降、彼をレベル四監視の状態に置いて観察したのですが、決め手はありませんでした。ですが、彼が異端であることはたしかですし、未確定ではあるものの、特Eの嫌疑があるゆえに、この段階での処刑を決定したのです』
「そうか。まあ、精神的能力というのは、表には出にくいだろうからな」
 男は頷いて、再び書類に目を落とした。
「第二号、アレイル・ウェイン・ローゼンスタイナー、十八歳四ヶ月。第二連邦第十二都市居住、都市工学設計局専門課程学生、か。治安維持警察部員、デヴィット・ウェインと、妻アルシアの次男。双生児出生のため、後継のいない母方の姓を名乗る。長男ニコル・ローゼンスタイナー・ウェインは三年前に病死、と。双子か。今まで生かされているからには一卵性なのだろうが」
『そうです。そしてその双子の兄、ニコル・ローゼンスタイナー・ウェインは、特E容疑で監視を強化した三か月後に免疫異常系の難病を発し、その二か月と十日後に死亡しましたので、証拠は検出できませんでした。それも、第二号の容疑を強める要因の一つです。ニコル・ウェインとアレイル・ローゼンスタイナーは、遺伝子の一部に差異があるものの、それは分割して分裂する途上で起きた変異で、一卵性双生児と判定されました。それゆえに出生が許されたのですが、それはまた、二人は同一因子の持ち主であるということを意味します』
「そうだな。まあ、どうせこいつは異端レベル三なわけだから、改心する確率は低いだろうな。疑わしきは罰せというのは、私も賛成だ。その方が、安全で確実だからな。ただ、扱いをどうするかだ。特Eとなると、処刑対象は親族にまで広がるから、遂行部隊への指令が変わって来るからな」
『それゆえ、現段階での処刑を決定したのです。もし彼が疑わしき力を持っていたならば、不審な挙動を見せるか、逃亡の恐れもあります。もしそうなら、それが物証となるでしょう。もし処刑がスムーズに行えた場合、嫌疑レベルは下がり、家族の処分も必要はないでしょう。引き続き監視は必要ですが。妹の方も異端容疑レベル一で監視中ですので』
「そうか。では第二号の嫌疑は、その時に決定だな。では明日の朝、この八人について、総督閣下のサインをもらってこよう。処刑は明後日の零時だ」
 男は無表情のまま、リストを机の引き出しにしまった。政府の上級職にしか使うことを許されないアンドロイドのメイドが、コーヒーを運んできた。男はカップを取り上げ、再び口を開いた。「逃亡といえば、PAX。一昨日特Eに指定した第八連邦の小僧は、まだ捕まらないのだな」
『彼の場合、相当特殊な能力を駆使しますので、追跡隊も苦労しているようです。しかし、私の予想ではあと五日以内に体力精神力の限界に達し、逃げおおせることはできなくなるでしょう』
「そうか。それにしても、一般住宅も二四時間監視体制にできれば、さらに夜間の映像がオフになるのを解除できれば、これほど苦労はしないのだがな。できないのなら、仕方がない。我々の監視システムをかいくぐって長期逃亡するのは、不可能だろう。逃亡者を追いつめるのも、なかなかおもしろいかもしれない。せいぜいゲームを楽しむとするか」
 男はにやりと笑い、コーヒーを一口すすった。一般市民には飲めない飲料の、香ばしい香りが漂ってくる。やがて、部屋全体がゆっくりとかすんでいき、すべては白いもやの中に消えていった。

 アレイルははっとして目覚め、ベッドの上に起きあがった。全身、冷たい汗にまみれていた。夢か――でも、後半の方は、ただの夢ではない。彼の力が見せた、現実なのだ。彼は瞬時にそう悟った。自分の直感も、ニコルが夢の中で言っていたことも、間違いではなかった。あの光景は、たぶん昨日の夕方、本当にあったことなのだ。自分の名前が、処刑リストに読み上げられていた。容疑は不確定のままで。しかし、処刑は決定されたのだ。あの男は『明後日の零時に執行』と言っていた。つまり、今日のうちに死刑執行書に総督のサインがされ、真夜中に執行人がやってくることを意味する。寝ている自分の頭か心臓を打ち抜くために。
 全身に戦慄が走り抜けた。壁にはめ込んだ時計は、六時十分をさしている。時間の猶予は、もう十八時間もない。
「どうしたらいいだろう……」
 アレイルは両手を堅く握り、暗い部屋の中を見つめた。常夜灯の緑色の灯りだけが、ぼんやりと光っている。彼はその光から目をそらした。あと三十分あまりで朝が来る。その最後の一日を、どう過ごしたらいいだろう。
 夢の中の光景がよみがえってきた。主席プログラマーの制服を着た男と、政府のメインコンピュータのやりとりを。
『処刑がスムーズに行われたならば、単なる異端として処理をすればいい』
 つまり、自分がもし今夜、何も気づかないふりをして、無防備に眠っていたなら――そのまま執行隊の手にかかって殺されれば、家族に類は及ばずにすむのだ。しかし、それができるだろうか? 午前零時に自分を殺しに来ることがわかっていて、あえて眠れるだろうか? 睡眠薬が手に入れば別だが、医療局にでも勤めていない限り、ほとんど不可能だ。だがまともには、とても眠れるものではない。では、眠っているふりをするなら――そんな芝居が、執行隊に通用するだろうか。彼らの眼力は鋭い。最後の瞬間に震えないとも限らないし、彼らはそれを見逃しはしないだろう。それほどばかげたことはない。それくらいなら、目が覚めたふりをして起きた方がましだが、驚いた演技をしなければならない。そんな芝居も通用するかどうか怪しいし、結局は殺されるのだ。でも彼の内なる声は強く主張し、その言葉が鳴りやまない。
(僕はまだ死にたくない。今は死ねない!)
 それはわがままだろうか? もし自分一人が犠牲になって家族を――特に妹を救えるのなら、そうするだろう。でも、それはほとんど不可能だ。自分は政府が疑っているとおり、超能力者だ。単なる異端ではない。その事実がある限り、政府をごまかすことは非常に難しく、成功するのはごく低い確率の賭けに出なければならないのだ。成功しても、失敗しても、必ず自分の命はなくなるとい、割の悪い賭けに。それならば、もっとほかの道を模索した方がいい。ごくわずかではあっても、自分が生き残れる道を。逃げることは、できるだろうか――?
(その選択肢は正しい)――アレイルに宿る力が、そう告げるのを感じた。助かる確率は低くとも、政府の手が伸びる前に逃げろと。彼は頭を起こし、自らの力が下した判断を信じることにした。ただ、自分一人で逃げたら、それが物証となり、特殊能力者の家族ゆえの処置で、妹は殺されてしまう。ルーシアに話をして、できたら一緒に逃げることはできるだろうか。今日、父は十八時からの勤務だから、昼間は家にいる。自分の寝室にいてくれたらいいが、いつものように居間に出てくると、そこを通らなければルーシアの部屋には行けない。いや、今日はカリキュラムが休みの日だから、彼女は朝食の後、ずっとリビングスペースに父とともに留め置かれるだろう。それなら、父が出かける十七時二十分以降に――。
(それでは遅い)――アレイルの内なる力が、そう告げるのが心に聞こえた。
(今行って、ルーシアに告げるべきだ)と。
 今? そうか。もうすぐ起床時間にはなるが、父は起きては来ないだろう。夕方から夜中にかけての勤務の時には、九時半までは寝ている。アラームも父の場合、勤務時間帯に合わせて変わっているようだ。それなら、朝でもいい。朝食が済んだら、話をしよう。寝ているとはいえ、父は家にいるので、普段はあまり話をしないが、今回だけは。もちろん、小さな声で。
 起床アラームが鳴り、部屋が明るくなった。アレイルは着替えると、身支度をし、起きてきたルーシアと一緒に朝食を済ませた。食べ終わった食器をウォッシャーに入れた後、彼は声を潜めて、切り出した。
「大事な話があるんだ」
「え、なあに?」
 ルーシアは少し驚いたような顔をした。その妹に、アレイルは自分の力のこと、そしてそれが政府に発覚し、今日処刑人が来る予定であることを伝えた。ルーシアは最初、ポカンとした表情だったが、彼女にも兄の真剣な様子と、話の深刻さは理解できたのだろう。
「嘘!? 本当に?!」
 驚いたような声が、まるで叫びに近い音量で響いた。ルーシアは慌てたように口を押さえている。
「静かにして」アレイルは思わずそう言葉に出した。
「父さんが起きてしまったら、まずいよ。父さんが出かけてから、話した方が安全だったけれど、でもかなりぎりぎりになってしまう。ルーシア、夕方父さんが出かけたら、すぐに家を出よう」
「どこへ行くの?」
「わからない。でも、逃げなければ、おまえも殺されてしまうから」
「あたしも……? どうして……?」
「さっきも言ったように、僕はただの異端じゃないんだ。僕には、変な力がある。それを政府に知られたら、家族は全員殺されてしまうんだ。僕も知られないように、できるだけ普通にふるまおうとしてきたけれど、向こうの方が上手だった。だから、おまえも殺されてしまう。でも、僕にはそんなことは耐えられないんだ。おまえは助けたい。政府も決定的な証拠はつかんでいないから、もし今夜、僕が黙って連中に殺されたら、ひょっとしたら、おまえや父さんは助かるかもしれないけれど……」
「いやよ!」
 ルーシアは即座に、はじけるように遮った。そしてまた再び、口を押えている。
「あ、ごめんなさい。でもそんなこと、しちゃだめ。絶対いやだわ」
「僕も黙って殺されたくはないんだよ。できれば逃げたいと思ってる。でも僕一人で逃げたら、おまえは殺されてしまう。そんなことは僕も絶対できないし、いやだよ。だから、ルーシア。おまえも来てほしいんだ。一緒に逃げよう、二人で」
「たしかに、お兄ちゃんが何でも知っているの、不思議に思っていたけれど……」
 ルーシアはその灰緑色の眼に不安の色を浮かべて兄を見ながら、不安そうに、言葉を継いでいた。「できるの、そんなこと……?」
「わからないけれど……」
 その時、いきなり父の部屋から、怒鳴り声がした。
「うるさいぞ、おまえたち! どうしたというんだ、ルーシア!?」
「お父さんが起きちゃったわ」
 ルーシアは当惑しきったような声を上げていた。
「ごめんなさい。あたしが大声出したから」
「いや、僕も悪かったよ」
 アレイルは父の部屋の入り口を見やった。ドアが開いて、父が大股に出てきた。まだ就寝着のままだった。ルーシアはすくんだように、その場に立ちつくしている。アレイルは妹をかばうように前に出、父の前に立った。自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
「ルーシアに話があったんだ。朝から騒がせて、ごめん」
 デヴィッド・ウェインは、最初に出てきた時には、まだいくぶん眠りの宿ったような眼をしていたが、たちまち目が覚めたらしい。目を見開き、顔はこれ以上赤くなりようがないほど、紅潮している。
「な、何を話しているたんだ。おまえらは……いつから、そんな……」
「うん。ちょっと話をしていただけだよ」
「おまえ! なんだ、その口の利き方は! いつからおまえは、そんな……そんな」
 父は激怒のあまり、ろくに言葉も出ないようだった。
 アレイルは不思議と冷静だった。父は今まで、恐怖の対象だった。顔を会わせたくないのは、向こうだけでなく、自分もそうだった。父と顔を合わせると、怒鳴られるか、もっとひどい場合は、難癖をつけられて殴られる。そんな経験をしたくないから、彼も避けてきた。でも今、最悪の場面で父と顔を合わせてしまった時、開き直りにも似た気分に襲われたのだ。父は怖くない。もっと最悪なことが待ち構えている今は。
 父の顔は、赤から紫に変わっていった。拳が振り上げられ、途中で止まった。そしてまじまじと、正面から見てきた。父が自分の顔をこれほどまっすぐに見たのは、覚えている限り初めてだったかもしれない。こぶしが震え、途中で止まった。
「おまえは……本当に、あいつにそっくりだな……」
 デヴィット・ウェインは、うなるような声を出した。
「こうしてみると、本当にそう思う。あいつを見たのは、一度だけだが」
 彼は深く息をつき、息子の顔から眼をそらせたようだった。
「おまえとニコルは、俺と少しも似ていない。だが、アルシアにも似ていない。彼女の親兄弟にも。あいつに似ている」
 デヴィッドは床に視線を落とした。その肩は震え、さらに全身に広がっていった。いったん白くなった顔が、再び紅潮していく。それは激しい怒りのようだった。
「失せろ! 今すぐ、この家から出ていけ、アレイル! おまえを当局に訴えてやる! 調べれば、すぐにわかるだろう! だが……そうか。そんなまだるっこしいことをしなくても、もっと簡単だ。息子は自然出生で非嫡出だった。それがわかったから、抹殺した。さもなければ、異端が目についたから。それでもいい。なんだ、簡単なことじゃないか」
 父は声を上げて笑った。狂気を帯びた笑いだった。そして自分の部屋に入っていった。
「……お父さん、本気……?」
 ルーシアは蒼白な顔のまま、アレイルのそばに来てその腕を取り、呟いていた。
「本気かもしれないな。すっかり怒らせてしまったから」
 アレイルは二、三歩前に踏み出した。ルーシアがついてこようとするが、手で制する。
「危ないよ、ルーシア。君はそこにいて」
「でも、お兄ちゃん……」
 妹は当惑した表情で立ち止まっている。
 父が手に熱線銃を持って、部屋から出てきた。
「そこを動くな! 俺が成敗してやる!」
 アレイルは父を見た。自分では思いもよらなかった言葉が出た。
「父さんが手にかけなくても、僕は今日処刑予定だよ。連絡は来なかった?」
「なんだと?」
「ああ、そうか。処刑は治安維持隊の仕事だったね。だから僕は、ルーシアを連れて逃げようとしたんだ。その話をしていた。僕だけが逃げたら、彼女は殺されてしまうから。あなたもだけれど」
 アレイルは自分でも驚いていた。何を言っているのだろう。自分は何をしようとしているのだろう。父に真実を話すことは、挑発以外の何物にもならないのに。
「俺が殺される? なぜだ、ふざけたことを言うな!」
 父はなおも激昂したように怒鳴り、銃を構えた。
「本当だよ。僕は特Eだから」
「なに?」デヴィッドはその言葉に、銃を取り落していた。その表情は、怒りから怖れのようなものに変わっていった。
「その言葉を……どこで知った?」父はごくりと固唾をのんだようだった。短い沈黙の後、彼は銃を拾い上げ、息子の顔を見た。
「特E……俺ですら、一、二度しか聞いたことがない。本部で……一般市民には、特におまえのように、まだ教育課程の奴には、どうしたって知りえない言葉だ」
 それは一転して、妙に落ち着いた声だった。
「おまえの言うことがはったりでないなら、そうなのだろうな。しかもはったりをかます意味もない。だとしたら、おまえがそんなことを知っているのは、明らかに変なんだ。そうか……おまえは特Eなのか。そうなると二親等以内は全滅だな、たしかに」
 アレイルはただ黙って、父の目を見ていた。彫りの深い、小さな黒い目はせわしげに瞬き、そこには狂気と絶望と驚きが見て取れた。アレイル自身も、この成り行きに当惑していた。朝食後、妹に話すのは、正しい選択だったのだろうか。話の内容から、きっとルーシアを動揺させることは、わかっているはずなのに。それで父が目覚めてしまう可能性だって、当然予測できたはずだ。さらに自分は、父に告げなくともいい事実を告げて、よけいに事態を悪化させているとしか思えない。自分はどうしてしまったのだろう。そして今、何をすれば正しいのだろう――。
「それなら……こうしよう」
 デヴィッドはふいに銃口の向きを変え、発射ボタンを押した。同時にアレイルも父が何をするつもりか知り、飛び出したが、遅かった。熱戦銃はまっすぐにルーシアの胸を貫き、妹は驚いたような顔のまま短い悲鳴を上げて、床に倒れた。一瞬で絶命してしまったことが、はっきりと感じられた。熱線はルーシアの心臓を貫いたのだ。父の射撃がうまいと自慢していた、以前妹がそう言っていたが、それは間違いではなかったのだろう。
「ルーシア!」アレイルは叫び、妹に駆け寄ろうとした。
「動くな!」デヴィッドは吠えた。
「なぜ……ルーシアを……」
「殺されるのだろう、どうせ? だから、俺の手で死なせてやったんだ。あの娘は、俺のものだ。おまえには渡さん!」父は薄い唇を、舌でちろっと舐めた。
「俺も殺されるのだろう。だが、治安維持兵にやられるのは、ごめんだ。その前に、自分で死ぬ。もう生きている張り合いもないからな。だがその前に……おまえを殺す!」
 デヴィッドは再び、銃を撃った。だがこの時のアレイルには、その熱線の軌道が予測できた。間一髪、彼は横に飛び、床に転がって避けた。そしてすぐに起き上がり、生まれて初めてのことをした。父に向かって、体当たりしたのだ。
 その時のアレイルは妹の死のショックで、我を忘れていた。父も許せないが、自分も許せなかった。なぜこれがわからなかったのか、なぜ避けられなかったのか――。
 デヴィッドは思わぬ反撃に驚いたようだが、同時にますます激昂したようだった。熱線銃が再び発射され、すぐそばをかすめていった。アレイルは銃に手を伸ばした。父の手から取り上げようと。もう一発、デヴィッドは発射したようだが、同時にアレイルが銃身をつかんで曲げたので、熱線は横の壁に当たり、黒い焦げ跡を作った。父の、怒りに満ちたうなり声が聞こえた。再び発射ボタンに手をかけようとしている。このままでは自分に当たるし、この近距離では避けられない――アレイルは再び銃身を押さえて、軌道を曲げようとした。が、勢いが余って、意図した以上に曲げすぎた。しまった――そう思った時には、もう遅かった。
 再び、父の声がした。それは短いうめき声だった。
「父さん!」
 アレイルはもみ合っていた姿勢から、はじかれたように身体を起こした。父の目が、自分をにらみつけてきた。そして次の瞬間、父は口から血を吐き、床に倒れた。のど元に、焼け焦げた穴が開いていた。その身体が二、三度けいれんし、そして動かなくなった。
 アレイルは茫然と、父の死体を見下ろしていた。全身から力が抜けるのを感じ、そのまま床に座り込んだ。そして両手をついた。
「嘘だ……そんな……」かすれた呟きが、その口から洩れた。
 自分は殺人者になってしまった。守るべきはずの妹も、父に殺された。なぜ――そんな思いだけが、ぐるぐると頭の中に渦を巻く。ほかには何も考えられなかった。
 彼は両手で頭を押さえ、うめいた。なぜ――なぜ、こんなことになってしまったのか。(今、話に行け)と、彼の力が告げたと思った。でもそれは、正しくなかったのか。自分の能力は、絶対的なものではないのか。きっと自分の混乱した思いが、予知を狂わせてしまったに違いない――。
 いや、違う。これが最善のプランなのだ――その思いは、まるで外から浸透するように、心の中に落ちてきた。アレイルは激しく頭を振った。そんなはずはない。これが最善だなんて。妹と父を排除することが、正しい道だったなんて。
 彼の脳裏に、もう一つの道を取った時のイメージが浮かんできた。父が出かけた後、妹に話し、逃げる準備をする。今、処刑寸前状態ゆえ、彼の家は監視が厳しくなっている。もし能力を持っているなら、逃亡の恐れがあると、二時間おきにチェックが来る。でもカメラが作動する合間を縫って行動を起こすことは、可能だろう。妹と二人で家を出、階段やエレベータのカメラ作動時間を外して、外へ出る。そして、どこへ行く――? とりあえず、エフライム・ミッチェルという老人のところへ、行こうとするだろう。ウォーカーはもちろん、オートレーンも使えないが。その上に乗ると、途中の天井に設置されたIDセンサーが、その上に乗った人のIDを読み取ってしまうから。それを避けるためには、まだIDチップがつけられていない自分たちなら、カードを置いてくればいいのだが、IDなしはまた別の意味で、警告が行ってしまうだろう。歩道の上を歩くしかないが、そうなると三、四時間くらいかかる。その間に、二人の逃亡は治安維持隊や警察に、知られるところとなるだろう。もちろん、見つからないように歩いていくことはできる。でも、ルーシアと一緒に歩くわけにはいかない。連れ立って歩くのは、人目を引く行為だ。だから少し間をおいて――あっ、とアレイルは思わず頭を起こした。労働者たちがたくさん、道を歩いている。自分たちはカリキュラムがお休みの日だが、労働者たちはほとんどの人が仕事日なのだ。この時間は、就業時間が終わって、家に帰るころだ。普通の人たちは、アレイルが手配されていることは知らない。ただ、わが家を目指して歩いているだけだ。乗り合いシャトルに乗っている人も、オートレーンを使う人もいるが、最寄りの交差点からは下りて歩いている。その中で、ルーシアははぐれそうになる。兄を見失いそうになり、小走りになって、うっかり人にぶつかる。それでなくとも、明らかにまだ教育基礎課程にいる妹が、この時間帯に外を歩いていることを、人々は不審がるだろう。『気をつけろ。それになぜこんな子供が今、外にいるんだ?』と、その人は妹の腕をつかむ。自分としては、ルーシアを捨ておけない。戻って、その人に適当な言い訳を告げる。でも、そうしているうちに何分かをロスし、そこを治安維持兵のパトロールが来てしまう。終わりだ――。
 アレイルは思わず、ぶるっと大きく震えた。だからそれでは遅い、と告げられたのか。いや、仮にそこをうまく切り抜け、見つからずにミッチェル老人の家に行けたとしても、二人をかくまってくれることは、可能だろうが、見つかる確率も上がるだろう。隠れるところはクロゼットの中くらいだが、一人暮らしの老人の家だから、クロゼットも一つしかなく、二人分のスペースは空いていない。だめだ――ルーシアを連れて逃げると、どういう道をたどっても、一週間もしないうちに発見されて終わりになる。二人とも拘束され、処刑されるだろう。ミッチェル老人も手配者隠匿の罪に問われ、ターミナルセンターの安楽死より過酷な死が待ち受けているに違いない。それは老人の家にたどり着くまでに捕まるより、ひどい結末だ。でも自分としては、たとえその結果が見えているとしても、とても妹を置いて一人では逃げられないだろう。彼女が殺されることが、はっきりわかっている状態では。しかもその場合、ひと思いに処刑されず、妹はひどい拷問を受けてしまうだろう。兄の行方を話せと。それくらいなら、何もわからないうちに一瞬で父に殺された方が、まだ彼女にとっては幸いだったのかもしれない――。

 再びこみ上げてきた激しい震えとともに、アレイルは考えを中断した。そうだ。あと二十分で、監視カメラが作動する。ここで自分も終わりたくなければ、行動しなければ。感情は後回しだ。
 アレイルはまず父の寝室のドアを開け、その重い身体を引きずって運び、毛布をはいでから、ベッドの上に担ぎ上げた。監視カメラに顔が映らない向きに寝かせ、毛布を肩までかぶせた。感情を押さえようとしたが、どうしても思いが湧いてきた。
(父さん、ごめんなさい。許してください)
父は決して自分のことを許さないだろうが、それしか思いはない。
 再び居間に取って返すと、妹の身体を抱き上げて、同じようにベッドに寝かせる。涙が流れて、妹の顔や、少し赤みがかった褐色の、ふわふわとした髪に落ちた。
「ごめん、ルーシア。許してくれ……」
 心の中だけではなく、言葉が口に出てきた。そっと妹の身体に手を触れ、それから毛布を首が隠れる位置までかぶせた。まったく同じだと、怪しまれる。それに妹は就寝着ではなく、普通の服を着ているから、それが見えないように――アレイルの頭はそこまで考えが回っていなかったが、半ば無意識の声に押されるようにして、彼は作業を続けた。妹の部屋を出ると、床に散った血痕を濡らしたタオルできれいに拭きとり、熱線銃を父の部屋に戻し、汚れたタオルを毛布の下に隠した。そして居間の椅子やテーブルの位置を元通りに直して、自分の部屋に入った。そのままベッドに横になり、毛布をかぶる。まだみんな起きていない――今はたぶん、そう認識されるだろう。勉強がお休みの日とはいえだらしない――今自分たちの家をモニターしている治安維持隊の人間には、そう思われ、普通なら少し異端ポイントが上がるだろうが、今は関係ない。とりあえず時間は稼げる。
 カメラが作動している間、できるだけ何も考えないように努めながら、アレイルは目を閉じて横たわっていた。とても眠れはしなかったが。作動時間の十分が過ぎると、彼は再びベッドの上に起き上がった。
『情を切り捨てなければならない場面が、あると思う』
 夢の中で、ニコルが言っていた言葉が思い起こされてきた。でも自分には、とてもそこまで思い切ることはできない。妹を連れては逃げられないからといって、彼女を置き去りにすることは、とてもできない。だから――だから強制的にこの結末へ導く道へ、自分は進まされたのかもしれない。そうしないと、彼自身が生き延びられないから。
(でも、そこまでして、生きたくはない! 僕一人だけが逃げても、なんにもならないんだ)
 思わずそう叫びたい衝動にかられた。激しく頭を振った。逃げるなんて、無駄だ。もう誰もいない。父も母も、兄も妹も。それなのに、自分一人だけが生き延びようとあがくことに、何の意味があるのだろう。それにどのみち、逃げられはしない。そのエフライム・ミッチェル氏が自分をかくまってくれたとしても、そして自分一人なら、監視カメラ作動中はクロゼットに隠れてやり過ごせても、その道は一週間足らずで終わる。彼はまもなく、ターミナルセンターへ行かなければならない身だからだ。それからは、頼る家も人もなくなる。そんな中、とても生きることはできないだろう。それなら今、父の熱戦銃を胸に当て、家族の後を追った方がよっぽど潔い。
(いや、違う。生きることが僕の天命なんだ。きっとその先に、道は開ける。とても細い道だけれど)
 突然、そんな認識が心に落ちてきた。ニコルも言っていた。『君には重大な天命がある』と。そのために彼は命を捨て、弟を生かそうとした。そして夢の中でアドバイスをするために。自分の命は、多くの犠牲の上に成り立っている。兄の、妹の、そして父の。アレイルは再び震えた。そうだ、死ぬのはいつでもできる。でも、僕は冷酷な現実の犠牲となった三人のためにも、まず生きようとしなければ。




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