Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第1章 夜の序曲 (3)




 エマラインは無我夢中で、逃げるように家へと帰ってきた。配給センターの階段を一気に駆け下り、外に出ると、何も考えずにストリートウォーカーのステーションに続く階段を下りた。そして自宅最寄りのステーション番号を打ち込み(ステーションに降りる階段の横に、ステーション番号が記されている。彼女はいつも配給センターへ行く時に通りかかって、目にしていた)、上着のポケットに入っているカードをかざして、やってきたウォーカーに乗った。早くその場から遠ざかりたかった。椅子に座ると、両手で頭を押さえてうずくまり、ウォーカーから降りた後は、ひたすらわが家への道を歩く。家につくと、まっすぐに自分の部屋に飛び込み、ベッドの上に身を投げ出した。心の中には、ただ恐怖と不安だけが渦巻いていた。何も考えられなかった。
 
「エマライン、どうしたの? 夕食の支度は?」
 苛立ったような母の声で、彼女ははっと我に返って飛び起きた。どのくらいの時間がたったのだろう。いつの間にか、もう夕方になっていたのだ。夕食を整えるのを、すっかり忘れてしまっていた。
「ごめんなさい、お父さん。お母さん!」
「なんてことでしょう。一日中働いて、疲れて帰ってくれば、娘は怠けて眠りこけているなんて。いい身分ね! それで、夕食の支度もしていないなんて。どうしてくれるのよ。もう家のシチューの配給時間は、終わってしまったじゃないの!」
 珍しく母が感情を露わにして怒っていた。
「まったく、何の役にもたたん奴め!」
 父が怒気を含んだ声でうなった。すっかり苦り切った顔だ。
「ごめんなさい。本当にうっかりしていました」
 エマラインは謝りながら、両親の顔を見上げた。二人とも、本当に怒っている。彼らがこんなに怒っているのを見るのは、初めてだ。怒りの振幅が、憎しみの感情が、エマラインの心に飛び込んで、痛いほど突き刺さってくる。
(このろくでなしめ! 私たちの夕食は、いったいどうなるんだ!)
(おまえなんか、いないほうがよっぽどせいせいする)
(このばか娘め! いっそ死んでしまえ)
 そんな憎悪の想念が、言葉に出る以上に無数に飛んできた。彼女はめまいがし、気分が悪くなった。彼女は叫びだしたかった。
『夕食を用意し忘れたのは、本当に悪かったわ。でも、それにはわけがあるのよ。怠けて眠っていたんじゃないの。わかって。もう許して!』と。
 エマラインは言葉を飲み下した。父母の怒りも理解できる。彼らは空腹なのだ。それなのに、あてにしていた夕食のシチューがないというのでは、怒りたくなるのも無理はないだろう。彼女がすべきことは、ただ自分の非を認め、ひたすら許しをこうことだ。
「本当に、ごめんなさい。わたし、どうかしていました。今日はパンとミルクだけで、夕食にして。わたしの分はいらないから、せめて二人で分けて」
 エマラインは床に膝をつき、両手をついてわびた後、初めてミルクのことを思い出した。しまった! ミルクを取ってくるのも、忘れてしまった。配給チケットは、手に持ったまま帰ってしまった。きっと今まで伏せっていたベッドの上に落ちているのだろう。センターは十九時に閉まるから、今から行ったのでは間に合わない。チケットはその日しか有効ではない。彼女は一週間分のミルクも、ふいにしてしまったのだ。しかも、バッグまで置いてきてしまった。あれがなければ、瓶をそのまま抱えてこなければならないというのに。
「そうするしか、ないようね」
 母がため息をついて、食堂の方に行きかけ、振り返って言葉を継いだ。
「でもおまえ、ミルクをどうして一本だけしか取ってこなかったの。もう一本はどうしたの? しかもバッグごと、ドアの外に置きっぱなしで。傷んだらどうするつもりなの。本当に、しょうがない子ね。もう二度と、こんなことをしないでちょうだい。罰としてあなた、この一週間ミルクとパンはなしよ。いいわね」
「え? ええ……」
 エマラインは頷きながらも、驚きを隠せなかった。ミルクが一本だけ外に? バッグに入ったまま、ドアの外に置いてあった? 自分は取ってこなかったのに。
 テーブルの上に置いてあるミルク瓶を、彼女は手に取ってみた。それは、たちまち教えてくれた。これがなぜ、ここにあるかを。
(ああ、あの人がわたしのバッグを拾って、その中に配給でもらったミルクを一本入れて、ここに置いていってくれたんだわ)
 どうやってここを知ったのか――彼女はウォーカーに乗ったから、あとはついてこられないはずだが。そんな疑問も、たちまち解消できた。そう、彼は能力者なのだった。その力を使って、エマラインの姿を追いかけることができたのだろう。
 ミルクを両親のコップに注ぎながら、暖かい感情が、心の中からわき上がるのを感じた。それは初めて触れた、人の優しさだった。自分の持っているものを、その家庭でも必要なものを、わざわざ半分分けてくれた。あの恐ろしい父親に知られたら、どんなにひどい目にあうかもしれないのに。エマライン自身は、あとから考えると会わせる顔もないくらい、とんでもなく無作法に逃げ帰ってしまったのに。
(ありがとう。アレイル・ローゼンスタイナーさん)
 エマラインは心の中で、そう呟いていた。彼女自身は夕食を逃してしまったが、不思議に空腹はあまり感じなかった。それ以上の思いが、心を満たしていくようだった。あとで両親が“財布”を開いて、彼女が勝手にストリートウォーカーを使ったことを知ったら、またひどく叱られるだろう。しかしその見通しも、今はあまり憂鬱には感じなかった。

 その日から、二週間が過ぎた。表面上はいつもと変わらない、平穏な日々だ。しかし再びエマラインに訪れた不思議な力は、あの時からずっと去らずに、彼女の中に留まり続けた。知りたいと思いさえすれば、その人の想念が頭に響く。物に触れれば、語ってくれる。
 エマラインは戸惑いを覚えながらも、恐る恐る新しい力を使うことを覚えた。他人の思考を知ること、それはたしかにおもしろいかもしれないという、好奇心も少しだけあった。しかし、両親はあの日夕食を整え忘れた娘に怒りを発した以外、(くたびれた)だの、(もう少しシチューが食べたい)といったたぐいの、たわいもない考えしか持っていなかった。配給を取りにいく時に見かける人々にも、時おり力を向けてみたが、やはりあまり得るところはない。みんな本当に、大したことは考えていないのだと悟っただけだった。
 だが新しい能力は、おもしろいと言える類のものではない。それは恐怖以外の、なにものでもないのだ。その認識に何度も震えた。この能力を政府に知られたら最後、一族の運命を悲惨なものに変えてしまう。自分のような平凡な娘に、どうしてこんなに特殊な力が授かったのだろう。何かの間違いであったらいいのに――何度もそう願った。この力は呪いであり、恐れだ。
 エマラインは、あれからしばしばアレイルのことを考えた。彼もきっと自らの能力に気づいた時には、こんな風に思い悩んだに違いない。今なら、完全に彼の苦悩を共感できる。あの時は不作法な別れ方をしてしまったけれど、また会えるだろうか――。 
 その思いを抱いて、彼女は週二回配給センターに通っていた。でももし会えたら――どうするのだろう。あそこで偶然出会い、立ち話をして、自分はあんな醜態をさらしてしまった後、再び彼に会えたら。この間のお詫びをして、お礼をして、それから――それ以外のことも、きっと話したくなってしまうだろうが、その思いを押さえきれるだろうか? ただでさえあの振る舞いで、あそこに設置されている監視カメラを通して、政府の目を引き付けたかもしれないのに。彼も彼女も、決して政府の注目は浴びたくない立場だ。また立ち話などすれば、よけいに注意を引いてしまうに違いない。それが怖かった。アレイルに再び会ったとしても、彼のためにも自分のためにも、黙って通り過ぎるべきだ。すれ違う時に、お礼の言葉を短くささやいて。でも、きっと自分はそれができないに違いない。あの時のように。
 そんな恐れにも似た気持ちを抱いて訪れた配給センターで、しかしあれからアレイルに会うことはなかった。残念に思う気持ちと同時に、少しほっとしたような思いも感じていたエマラインだが、四回目に会えなかった時、帰りのオートレーンの上で、ふと考えた。もしかしたらあの人は、わたしに会うのを避けているのだろうか、と。彼の能力なら、いつ配給センターに行けば彼女と会うか、わかるはずだ。それを外して行くことは、わけもないだろう。ここではなく、もう一つのセンターに行っている可能性もある。たぶん相手も同じように、再会した時に危険を冒したくないからだろう。いえ、もしかしたら、実は彼はエマラインの不作法さに失望して、会いたくないのかもしれない――そんな思いも感じて、申し訳なさと落胆の思いを抱いた。あの人本来の優しさで、ミルクを一本分けてくれ、バッグを届けてくれたが、それ以上関わりたくないのかも。そう思うと、妙に恥ずかしく、残念な思いがする。でも――五つ目の交差点でオートレーンを乗り継ぎながら、新たな考えに彼女は震えた。もしかしたら、彼の能力が政府に発覚して、もう生きていないのかも――。
「いえ、そんなことはないはずよ。きっと。だってまだ、早すぎるもの」
 エマラインは震えながら、自らの恐ろしい考えに反駁するように、小さく声に出していた。でも、わからない。彼女にとっては、まだ早い――相手のその能力を知ったのは、ほんの二週間前だから。でもアレイル自身はもっとずっと前から、その力を意識していた。あの時、彼女にはそう感じられた。ならば、かなり前から政府にマークされていたのかも――激しい震えを感じた。思わず小さな呟きが、口から出てきた。
「アレイル・ローゼンスタイナーさん。無事でいて。また会いたい――」


 アレイルはベッドの縁に腰掛け、目の前の灰色の壁を見ていた。二週間前から、警察に勤める父が第三シフト勤務、十八時から一時までになったため、夕食は食堂で取れた。父が家にいる時には、食事は部屋で取らなければならなかったが。小さいころ――まだ母やニコルが生きていたころから。『俺の視界に入るな。めしがまずくなる。部屋で食え。朝まで出てくるな』――そう不機嫌に命じられ、いつもニコルと二人、夕食を持って自室に戻ったものだ。逆に母や妹は食事がすんでも、部屋に戻るのを禁じられた。就寝時間の少し前――シャワーがある時には、そこに行くまで。
 物心ついた頃から、父からは殴られるか怒鳴られるか、『俺の視界から消えろ』と命じられたことしか、記憶にない。母もできるだけ息子たちが夫に接触することを避けようと、努力していたように思えた。
『お父さんは、ぼくたちが嫌いなんだね』――五つか六つくらいの頃、ニコルが母の膝に手を置き、真剣な表情で言った。それは、自分も感じていたことだった。妹が赤ん坊で、母がほぼ一日家にいた頃だ。母は愁いを帯びた表情で手を伸ばし、二人の頭をなでると、小さく呟いていた。『ごめんなさいね……』と。
 部屋の端末からは、放送プログラムが流れている。学習カリキュラムを行っている時か、付属のゲームを遊んでいる時以外は、放送チャンネルになるのだ。部屋にいる限り、就寝時間直前まで、消すことはできない。就寝時間が来ると自動的に消えるが、その間断なく流れる音声をノイズとして聞き流すことは、かなり昔に覚えた。
 妹とともに夕食を済ませ、しばらく話をした後、アレイルは部屋に戻った。そしてベッドの端に腰をかけて、考えていた。本来、そんな行動は危ない。そう――十年前、まだ八歳くらいの頃、ニコルが言っていた。ベッドに並んで腰かけ、二人でしゃべっていた時に。
 大声で笑うことは決してできないが、少し小さめの声で話している限りは、リビングで放送プログラムを見ている父には聞こえない。その時二人でしゃべっていたのは、何の話題だったのか、それはもう忘れたが、ニコルが不意に話をやめて立ち上がり、『アレイル、君はそのままでいいから、画面を見て。放送プログラムを見ているふりをして』そう小さく告げると、自分のスツールに座って、目を端末に向けたのだった。訳が分からないながらも、アレイルもそうした。また何か同じような主題の、退屈なドラマをやっている。コンピュータグラフィックスで合成された俳優たちが、陳腐なセリフをしゃべっていた。『それはもちろん、すべては世界連邦のために……』微かな嫌悪感と退屈さは禁じえなかったが、ニコルが画面に目を向けている限り、自分もそうしなければならないような気がした。
 三分ほどたった頃、ニコルは再び隣に戻ってきた。
『さあ、もう大丈夫だ。あと二時間くらいは、おしゃべりできるね』
『何のこと、ニコル?」アレイルはそう問い返した。
『監視カメラがあるんだよ。あれに映っている時には、僕らも普通の人と同じことをしていなければならないんだ。じゃないと、コンピュータに“変だ”って認識されちゃうから。そして最後には、“異端だ”って、殺されることになっちゃうんだよ』
『え、どこに?』慌てて周りを見回した弟に、兄は微かに笑って指さした。『あれだよ』と。それは、どの部屋にもついている常夜灯だった。
 兄と弟と言っても、双生児出生、しかも帝王切開で取り出された彼らは、誕生時間は十分も違わない。でもあらゆる点で、アレイルにとってニコルは、頼れる“兄”だった。彼がいつも導いてくれた。それからも、“普通にふるまうべき時間”を、いつも教えてくれた。なぜ彼はそんなに何でも知っていたのだろうと時々思ったが、不思議と疑いは起きなかった。四年後、その訳がわかったが。ニコルは“能力者”だったのだと。それ以前から、彼が話してくれる夢の話――『こんな夢を見たんだ』と語るその話は、いつも幻惑的で、不思議で、魅力的だった。それは『以前の世界』もしくは『外の世界』だと彼は言った。『未来の世界』の場合もあると。その時には、この世界のほかに世界があるなんて、と、アレイルにはあまりピンとこなかった。でも兄の話は奇妙ではあるが、何か強く惹かれるものがあり、それを聞くのが好きだった。
 でも三年前、そう、ちょうど今頃だ。昼間、一緒にカリキュラムを勉強している時、ニコルは急におびただしい鼻血を出して倒れた。彼の座っていた椅子の下や、机の上が真っ赤になるくらいに。アレイルは急いで端末から救急コールを押し、やってきた救護車に一緒に乗って、病院まで行った。二時間ほど待った後、出てきた医師に『君の双子のお兄さんは重大な病気だ。入院させるが、余命は二か月か三か月だろう』と告げられた。それっきり、兄に会うことはなかった。兄の見舞いに行くことを、父に禁じられたからだ。『それが何の役に立つ。時間の無駄だ』と、母でさえ行かせてもらえなかった。そしてそれから二か月と十日後、病院からニコルが死んだという知らせが来た。それで終わりだった。今の時代、人は死ぬと“処理機”にかけられ、分子レベルにまで分解されて、ある程度溜まると政府管轄のロボットが、ドームの外に捨てに行く。空からまいて。昔あったという葬送の儀式も、埋葬もなかった。もちろん墓もない。それは文字通り“消滅”でしかなかった。兄も、そしてそれから一年後に突然倒れ、その三日後に死んだことを知らされた母も。

 ニコルがこの部屋からいなくなった後、アレイルはしばらくどうしていいかわからなかった。いつ“普通の人のように放送プログラムを見るか”のタイミングがわからない。いや、そもそも一人では、何もすることがない。だが『あまりじっと思い悩まない方が良いよ。ぼーとしたりもしない方が良いし、独り言も変だからね。気をつけて』――かつてニコルに、そう注意された。それもできなければ、何をしたらいいのだ。部屋にいる間、ずっと退屈極まりない放送を見るか、ゲームをしなければならないのか。本も、父が購入を許してくれないので、読んだことはない。たぶんつまらないだろうという、たしかな予感はあるが。押しつぶされるような憂鬱さを感じた。
 兄が病院に搬送されて一週間がたった頃、アレイルは夢を見た。ニコルが現れて、『大丈夫だよ。君にもすぐにわかるようになる。僕も時々、夢の中では君に会えるよ』と話しかけてきた。自分は本当に、兄に会っているのだ。物理的には無理でも、こうして――アレイルも不思議にそんな感覚を覚え、心の中からほっとしたような、暖かい思いが湧いてくるのを感じた。
 それから間もなく、彼自身にも本当にわかるようになった。いつ監視カメラが作動するのかが。その時だけ、端末に向かって真面目な表情を作っていればいい。内容を見ていなくとも。それ以外の時は、退屈には変わりないが、壁に目を向け、思いをはせるようになった。昔のこと。兄が生きていて、ともに過ごした時を、そして彼が話してくれた、たくさんの“夢”のことを。

 それは母が死んでから、一か月後のことだった。いつものように兄の、そして母の追想にふけっている時、ふと思った。妹のルーシアも寂しいだろうな、母さんも亡くなって、と。おまけに今も父と二人で、リビングに座って放送を見させられているのだろう。妹は自分以上に大変かもしれない。
 その時、脳裏に光景が浮かんできた。それは、まるで自分の目で見ているかのような、明瞭な映像だった。食堂の椅子に座り、新聞を片手に放送プログラムを見ている父、その正面の椅子に座って、両手を膝の上に揃えて置き、退屈さを懸命に堪えているような表情の妹。それは現実なのか自分の想像なのか、その時にはわからなかったが、妹に同情を感じたアレイルは、翌日学習カリキュラムを終えると、監視カメラの作動時間の合間を狙い、妹の部屋を訪ねた。父は仕事で不在だった。ルーシアは少し驚いたようだったが、『おまえも父さんがいる夜は、いつもつき合わされて、大変だね』と声をかけると、ぱっと表情を輝かせ、堰を切ったようにしゃべり始めた。そうよ。わかってくれてうれしいわ。もうお父さんったら、最悪。お母さんがいてくれた頃はまだ良かったけれど、今はあたし一人よ、本当につまらないわ、と。
 もともと父が家にいない時には、一緒に食事を取ってきた妹だ。ただ、それまではごく普通の家族の関係だったが、それ以来、妹との距離が飛躍的に縮まった。彼女がニコルの代わりに、話し相手になってくれた。でも自分は妹にとって五歳上の兄なのだから、ニコル相手の時とは違って、導かなければならないな――最初はそう思ったが、妹はかなりのおしゃべりで、結局ルーシアの話を聞いている方が多かった。話し相手に飢えていたのだろうな、とも思えた。ニコルが生きていた時、三人でもっと話ができたら――ふと、そう思ったが、それはもう取り返せないことだ。
 ただ、こんな風に親しげに話すことは、この世界では歓迎されない――ニコルの忠告を胸に留め、妹と話すのは、監視カメラの作動していない時間だけにしていた。父が家に帰ってくる前には、やめなければならない。それも当然、守るべき掟だ。妹は後者の方は、無理からぬこととして納得していたが、最初の理由は、よくわからないようだった。でも兄の言うことを素直に受け入れ、『じゃ、五分経ったら、あたしがお兄ちゃんの部屋に行っていい?』と、言ったものだ。その時にはいつも、『もちろんいいよ』と答えていた。
 
 そう、彼はうまくやったつもりだった。ニコルを失ってからの、この三年近くの間。できるだけ、カメラに映る時には“普通”でいようと。父とも、できるだけ顔を合わせずに済むように、努力もした。父がシャワーやトイレに行く時、仕事に出かける時は予測できるので、それを避ければいい。父は警察勤務ゆえ、四週間ごとに勤務時間帯が変わる。普通の人と食事時間がずれることも珍しくなく、その時には父の分だけ個別に出てきて、一人で支度をし、済ませているようだ。その場合は、アレイルも普通に食堂で食事ができた。同じ時間帯になった場合は、ルーシアが部屋に持ってきてくれた。
『本当はあたし、お父さんじゃなくてお兄ちゃんと食べたいんだけれど。でもお父さん、よっぽどお兄ちゃんが嫌いなのね。持っていくって言ったら、必要ないが、あいつの顔を見るよりましだからいいだろう、なんて言うのよ。ひどいわよね』
 妹はあとで、そんなことを言っていた。父が息子たちを嫌う理由はわからなかったが、嫌いだというのは、確実に事実だろう。でも、うまく立ち回れば、ずっと父と顔を合わせずに済んだ。クリスマス集会の時には、どうしても一緒にいるしかなかったが。
 あの時――去年のクリスマス集会では、偶然目が合った少女に惹かれ、それを見とがめられた父から、あとでひどい折檻を受けた。『集会でのよそ見や私語は厳禁だ。“騒乱罪”と同じで、治安維持兵に見つかったら罰を受ける。だから、私が罰してやる』と。『演説してない時だったんだから、いいじゃない。ほんのちょっとだけだし』と、妹がとりなしたが、『いや、私は法を守る警察官だ』と、譲らなかった。
 その罰は、父たち警察官が持っている電撃棒で、首から下を百回殴打されるというものだった。よけることは許されないが、腕でかばうことはできる。だが、そのうちに腕が痛みで動かなくなる。そうなると肩に、背中に、腰に、足に、胸や腹にも、容赦なく電撃棒は打ちつけられる。ルーシアは泣いていたが、それはかえって父を激昂させるようだった。途中で立っていられなくなって倒れたが、その上から殴打は降ってきた。でも、立ち上がる力はない。
――なぜ、ほんのちょっと集会で前を見ていなかったからといって、こんなひどい罰が課されるのだろう。“騒乱罪”もそうなのか――以前、泣き声を上げた小さな子供や、少しだけ話をしていた家族が、治安維持兵に引きたてられていくのを見た。小さな子供だったら、こんな仕打ちはとても耐えられないだろう。死んでしまうことだって、あり得るかもしれない。もうろうとする意識の中で、アレイルはそう思った。こんなことは、やめさせなければ。そのために、子供たちは“沈静錠”を飲まされているのだろうが――その思いを最後に意識が完全になくなり、再び気がついた時には、朝になっていた。自室の床の上にうつ伏せに倒れた状態のままだったが、起き上がるのが耐え難く辛かった。全身が――特に倒れてからも打たれ続けた肩や背中、腰や脚の裏側がひどく痛み、完全に治るまでに十日以上かかった。
 それゆえ、二週間前にミルクをあの少女、エマライン・ローリングスに半分分けてしまった後、そう告げるとルーシアは青ざめた。
『お父さんに知られたら、またひどい目に合うわ。あたし、もうそんなの嫌よ。あたしがミルクの瓶をうっかり落としてこぼした、って言っておくわ』
『でも、瓶もないんだよ』
『大丈夫よ。ほとんどなくなったから、あたしが残りを飲んで、瓶は集積所に戻したって言えば、きっとわからないわ。だからお兄ちゃんは、絶対黙っていてね!』
 彼女は言葉通り、その罪を被った。父はルーシアの言うことを疑いなく受け入れたようだったが、妹は罰さなかった。『気をつけろ』と不機嫌に言い、『半分しかないなら、今週あいつのミルクはやらなくていい。水でもやっとけ。おまえも半分になるが、それでいいな』と、じろっとにらんだだけだったらしい。あとからルーシアにその話を聞いたが、それはアレイルにも見通せた展開だった。それゆえ彼も、妹の好意に甘えた。罰の痛み以上に、自分がそんな目にあうことが、妹を悲しませ、傷つけることが理解できたからでもある。そして妹に深く感謝した。
『でもその人、なんとなくあたしは好きになれそうにないなあ。だってお兄ちゃんが集会の後でお父さんにひどい目にあったのって、その人のせいでしょ? 取り忘れたのだって、その人が悪いんだから、わざわざあげなくてもいいのに。お兄ちゃんって、人がいいのね』
 ルーシアは納得いかなげな表情で、そんなことも口にしていたが。
『いや、彼女が悪いわけじゃないよ。きっといい子だと思うよ』
 そう答えると、妹はよけいに面白くなさそうな顔をしてた。

 でも二か月前、まだ監視カメラの作動中にルーシアが部屋に来てしまった時には、冷や汗が出るくらいに驚いた。部屋を訪ねる時は必ず自分の方から行き、妹が兄の部屋に来ることがないように――作動時間前に一回自室に帰り、『五分経ったら、あたしがお兄ちゃんの部屋に行っていい?』とたずねる妹に同意する時以外は。この時もそうだったが、彼女が来るのが、ほんの少し早すぎたのだ。アレイルは思わず動転し、『待って、まだ早い』と小さく叫んでしまった。それが、動作時間が終わるギリギリ――アレイルの能力はそう認知した。たぶん『早い』までは入っていない。でもその一連の映像はきっと、政府に疑念を抱かせたことだろう。確実にそんな予感があった。もう一度やったら終わりだ。それでなくとも、自分への監視レベルは一気に強化された――そう感じた。
 翌日、彼女に政府に見つかることの危険を簡単に話すと、妹は青ざめて震えた。
『ごめんなさい。じゃあ、あたしこれから、お兄ちゃんの部屋には行かないようにするね。でもお兄ちゃん、きっと来てね』
『ああ、大丈夫だよ。行くよ』
 アレイルは微かに笑って答え、妹の部屋への訪問は続けた。だが、監視カメラにも父にも知られないように、いつも慎重に時を選んだつもりだ。カメラが作動している間は、できるだけ放送を見ているようにした。ゲームの場合、調べればセッションを開いたばかりなのがわかってしまい、毎回毎回そうだと、わざとらしい。だからできるだけ普通に、放送プログラムに見入っている表情を作ろうとした。
 ただクリスマス集会後、父に罰されたことは、避けられなく映っているだろう。それに関しては、父は問題ないとみなされる。職務に熱心な男として、かえって評価は上がりそうだ。自分はといえば、父に罰されるだけの行為があったとみなされ、それは彼が“異端”であることを裏付けることになる。妹は少し情動的で、やはり“異端”の傾向ありと判定されてしまったようだ。ルーシアにも少し、感情抑制を覚えさせなければ――その前に、彼女を動転させるような事態を作らないよう、努めなければならないな――その時には、そう思えた。
 
 もうすぐカメラの動作時間だ。アレイルはいつものように、放送プログラムを見るふりをするために、部屋に置かれたスツールに移動しようとして、立ち上がった。だがその時、彼の頭の中に明瞭な思いが響いた。(もう遅い)と。彼はびくっとし、再びベッドの端に腰を下ろした。そして半ば無意識の動作のように、髪に手をやった。首筋を覆うまでに伸びたこの髪は、来週理容ロボットが巡回してきたら、また短く刈り込まれるのだろう。しかしその時には、自分はきっと、もうこの家にはもういない――。
 その予感に、アレイルは再び小さく震えた。監視カメラは作動を始めたが(もちろんそのことは、普通の住民にはわからないはずだ。何の音もたてず、光も動かないのだから)、彼はそのままベッドの端に座り、そして立ち上がった。まだ就寝時間には一時間ほどあるが、寝ようと。部屋の照明も放送プログラムもついたままだが、眠ることで何かの答えが得られる――そんな予感がした。就寝時間前に寝ることは、推奨されたことではないが、具合が悪い場合には仕方のないこととされ、あまり何度も繰り返されない限り、それほど異常行動とはみなされないのだ。アレイルは就寝着に着替えると、ベッドにもぐりこんだ。部屋はまだ明るく、放送プログラムの音も聞こえるが、目を閉じ、眠ろうと努めた。ほどなく、眠りが訪れてきた。




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