Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第1章 夜の序曲 (2)




 やがて集会が始まった。スクリーンに映る世界連邦総督、そして第二連邦総長は、二人とも決して不器量な部類ではないが、じっと見つめていると、何か冷たいものが背中に這い上がってくるような感じがした。その言葉も、ほとんど頭に入っては来なかった。何も意味をなさないもののようにすら思えた。二人の演説が終わると、市長が登場し、演説を始めることになっている。彼はスクリーン下に据えられた台に上がって演説を行うのだが、エマラインの位置からは到底見えない。また、スクリーンを見上げなければならないが、始まるまでの間、首がくたびれてきたこともあり、彼女は視線を戻した。前を見ると、人々の背中と頭だけだ。彼女は横を見てみた。右側には背の高い、父と同じようにがっしりした体格の男性とその家族がいて、その先はほとんど見えない。左側は若い家族。父親は背が高いが細身で、母親は小柄だった。そして母親の腕の中で目を見開いたまま動かない赤ん坊と、五歳くらいの子供。二人ともきっと“沈静錠”を飲まされているに違いない。その向こうにいる数組も、同じような感じだった。そのせいか、そちら方向の見晴らしは、反対側よりかなり良かった。
 数組の若い家族の向こうにいる家族は、エマラインより少しだけ年上に見える男の子と、その妹らしい女の子、彼らの父親らしい、がっしりとした体つきの中年男性だけだった。母親らしい人はいない。その若い男の子が、こちらを振り向いた。まるで彼女の視線を感じたかのように。細身の身体にグレーの上衣と濃紺のズボン、金褐色の髪が、ゆるい巻き毛になって頭を覆っている。端整な顔立ちだったが、その時エマラインの心臓がどきりと飛び上がったのは、彼がハンサムだったからというわけではなかった。彼の表情は、明らかに考えている人のそれであり、何かを“思っている”ことを感じさせたからだ。
 エマラインは思わず、飛びあがるような感動を覚えた。ここに来るまでにたくさんの人を見てきたが、“何かを考えている顔”――もちろん、待つのがくたびれたとか、足が痛くなったとか、そんなどうでもいいことではなく、それ以上の何かを考えられる表情を持った人を見たことはなかった。今までの集会でも、一度も。今、初めて見つけられた――。
 彼は一瞬驚いたような顔になった後、控えめに笑いかけてきた。エマラインは驚くと同時に、自分が我知らず微笑んだ表情になっていたことに気づき、軽い狼狽を覚えた。なんてこと――初対面の男性に微笑みかけるなんて、なんて大胆な、はしたないことをしてしまったのかと。恥ずかしさのあまり、頬に血が上るのを感じた。
 二人の交流は、わずか数秒で破れた。彼のそばに立っている、警官の制服を着た厳つい顔つきの中年男が、乱暴に腕を揺さぶりながら、低く激しい声で叱責したのである。
「アレイル! もうすぐ市長閣下が、ありがたい演説をなさるんだぞ! よそ見をするとは、いったいどういう了見だ!」
 青年ははっとしたように息をのみ、あわてたように正面に向き直ると、一瞬の間をおいてから、小さく言った。
「ごめんなさい、父さん……」 
 彼は唇をきっとかんだ。その頬に、かすかな血の色が上っていく。傍らにいる女の子が、ちらっと彼を見上げた。赤褐色の巻き毛が首筋を覆っている、ほっそりとした、十三歳くらいの少女だ。彼はその少女に、一瞬だけ視線を向けた。そして二人ともほぼ同時に前を向き、スクリーンに向かって視線を上げていた。
 わずか十秒ほどの、この短い間に起きたこの光景の一部始終は、不思議に強い印象を、エマラインの心に刻みつけた。彼女が立っていた場所と彼の間には、十人ほどの人がいて、距離的には七、八メートルあったが、不思議と自分のすぐ真横で起こったかのような印象だった。相手の表情も見て取れたし、低い声で交わされた短い会話まで、はっきりと聞き取れた。エマラインは彼が正面を向いてしまったあとも、その端正な横顔から目を離すことができなかった。
(あの人のお父さんは、恐ろしく厳しそうだわ。確かに演説中によそ見をしたり話をしたりすると、治安維持兵に連れて行かれるとは聞いたことがあるけれど。でも今は演説の合間なのだから、少しくらい大丈夫だと思うのに。厳しいと言うより、まるで嫌っているようにすら見える。わたしのお父さんは無愛想だけど、あれほど怖くはないから、まだ良かった。ああ、あの人はお父さんとは、ちっとも似ていないわ。あのお父さんはあんな厳つい顔をしているし、髪も黒っぽいもの。あの人は、お母さん似なのかしら。お母さんらしい人はいないから、わからないけれど。ここには全員来なければいけないのに、今病気で動けないか、さもなければ亡くなったのね。お気の毒に。あの人は誰かしら? お父さんがアレイルって呼んでいたから、それがあの人の名前なのね。ちょっと、変わった名前だけれど、良い感じだわ。名字は、なんて言うのかしら。どこに住んでいるのかしら。年齢は……わたしとそんなに変わらないみたい。せいぜい一、二歳年上というところかしら。あのそばにいるかわいい女の子は妹ね、きっと。一瞬だったけれど、わたしにはわかったわ。妹さんはあの人を心配している目だったし、彼があの子を見た目は、とても優しかった。エドワード兄さんはたった一度だって、あんな目でわたしを見てくれたことはないわ)
 そんな思いは、傍らに立っていた母親のささやきに近い声によって破られた。
「エマライン。よそ見はやめなさい。市長閣下の演説が始まるわよ」
 彼女ははっとし、あわててスクリーンに目を向けた。我知らず、頬が真っ赤に染まった。
「ごめんなさい、お母さん……」
 あの時の彼と同じ言葉が、口から出てきた。父と母の違いはあるが。
「気をつけなさい。本当に。見つかったら、大変なことになるのよ」
 母の口調はいつものように物憂そうではなく、緊張感に満ちていた。
 やがて、退屈極まりなく思えた市長演説も終わり、最後のプログラム、愛国歌の合唱が始まった。

  世界は我が手で成り立つ
  我ら一人一人が担う平和と繁栄
  永久に栄えあれ
  我、汝のしもべとなり
  汝と共に生きる
  聖なる連邦の一員として
  生きることを感謝するなり
  汝は決して間違いを犯さず
  我を正しき道へと導きたもう
  栄えあれ、栄えあれ
  世界連邦よ、永遠なれ

 これを三回繰り返して歌う。中央広場には、合唱する人々の声が、轟音のように渦巻いた。エマラインも歌っていた。しかし、何がちぐはぐな感じが消えない。一人一人が世界を担っていくなんて、途方もない幻想のような気がする。現実はただ、みんな単なる歯車のようにしか思えないのに。いえ、そう思う自分が変なのだろうけれど。でも、あの人なら、どう思っているのだろう――。
 彼女はほんの少しだけ左側に頭を動かし、その姿を目の端に捕らえようとした。彼もまた忠実に歌っているように見えた。が、彼も視線を感じたのだろうか。ほんの少しだけ頭を右側に傾け、目を向けてきた。
 エマラインは、彼の無言の声を聞いたような気がした。
(この歌は、どこか変だよ。都合の良い理想と美辞麗句で、苦い現実をごまかしているようだ。僕は嫌いだよ)と。
(わたしも、そう思うわ)
 そんな思いとともに、彼女はかすかに頷いてみせた。
 相手は一瞬驚きの表情を浮かべた。何か言いたそうな、そんな感じだ。しかし、エマラインは少し顔を赤らめながら視線を外し、前を向いた。あからさまなよそ見ではないものの、相手の厳しそうな父親が気づくと、また怒られてしまうだろう。自分のせいでそんな目に会わせたくはない――そんな思いを感じたからだ。
 
 集会が終わると、人々は一斉に動き出した。中央広場の反対側、スクリーンを設置された方でない側のエリアで、ロールチキンとチョコレートが配られるためだ。走るのは禁止だが、できるだけ早く行って列に並ぼうと、人々が早足に動き出している。その人の波に紛れ、エマラインは彼の姿を見失った。もっとも仮に近くに並べたとしても、言葉を交わす機会はないだろうが。彼女は父母と兄を見失うまいと早足で歩き、再び長い列の後方に並んだ。毎年、クリスマスの前週に各家庭に配られる引換券で、ロールチキンとチョコレートをもらうのだ。それは年に一回しか味わえないご馳走だった。配り役は毎年各職場の持ち回り制となっていて、今年の当番になった三百人ほどの人々が、引換券を受け取り、小さな包みを渡している。もらった人は自分の家へと帰っていく。スクリーンのあった側、一区から八区までに住む人々は、そのまま中央庁舎の周りを通って広場を抜けていき、九区から十六区に住む人々は、列の間を縫うように引き返していく。不思議なことに、帰る時にはみな広場の先から、オートレーンに乗っているのだ。もちろん混雑はしているが、シャトルの時ほど長い列にもならず、それほど待つこともなく整然と帰っている。行きもこの方法で来ればいいのに――振り返ってその光景を目にした時、エマラインは再びそんな思いを感じていた。

 列はゆっくりと動いていく。ここに並んでから、一時間は待っただろう。乗り合いシャトルに乗る時から今までの、あまりの人の多さに、彼女は軽いめまいに似た思いを感じていたが、それがとうとうこらえきれなくなったようだ。気持ちが悪い。頭が痛い。耳鳴りもする。頭の中にキーンという超音波のような、鋭い金属音が響いている。エマラインは頭を押さえた。でも、しゃがんで休むことは許されない。列はごくゆっくりとしたペースではあるが、動いているからだ。彼女はふらつきを感じながら、一歩前へと踏み出した。その時、まるで意識が真空の中に入ったように、空っぽになった。彼女の周りの世界が、まるで霧が晴れるように静かになる。それは、つかの間の静寂。次の瞬間、まるで轟音のように、声にならない思考の渦が、頭の中に渦巻きながら飛び込んできた。それは三十万余の思考の大合唱だった。
(ああ、くたびれた。早くチキンとチョコレートをもらいたい)
(早く、チキンとチョコレートがほしい) 
(さあ、チキンとチョコレートをもらったし、早く家へ帰って食べよう)
(あとどれくらい待てば、もらえるのだろう。くたびれた)
(子供たちがじっとしていて、よかった。沈静錠のおかげだ)
(ああ、出遅れた。もうこんなに並んでいる)
(ああ、疲れた。もっと早く列が進むといいのに)
(何をのろのろ配っているんだ。受け取る方も、さっさと戻れ)
(ばかだな。早く来て、前の方にいれば、早くこっちにも並べるのに)
(この日は、待つのは仕方がない。でもチキンとチョコレートがあれば、我慢できる)
 そんなたわいもない、明確な思考とも言えないような想念が、どっと押し寄せてくる。エマラインは衝撃のあまり、思わずその場にぺたんと座りこみそうになった。最初はなにがなんだか、わからなかった。が、やがて悟った。これは、ここにいる人々の思い。でもなぜ――? その思いの轟音に、押しつぶされそうな気がした。彼女は声に出さずに叫んだ。『これが人々の思いなら、なぜ、どうしてわたしに聞こえるの――?』
 その思いのうねりを縫うように、一つのはっきりとした思考が漂ってきた。
(あの娘はいったい、誰なんだろう? 初めて見る子だけれど。でも、あの娘は僕と同じ……同じ思いを、共感できる子みたいだ。ルーシアとは違う意味で、理解し合えるかもしれないのに。どこに住んでいるのかな? どこかでまた、会えるといいんだけれど……)
 遠くからの木霊のように聞こえるその声は、さっきの男の子。アレイルと呼ばれた人に違いない。彼女は思わず、声に出さずに叫び返していた。
『わたしもあなたと話したい。わたしはここよ! あなたに会いたい。助けて――!!』
 エマラインはいつの間にか、意識を失ってしまったようだった。頭の上で、苛立ったような兄の声がしている。
「おい。こんなところで倒れるな!」
「さっさと起こして並ばせろ。抜かされているぞ」
 父のうなるような、怒気を含んだ声も。
「早く起きて! あなたのおかげで、もう何家族かに抜かされたわよ。せっかく並んでいるのに」
 母が腕をつかみ、起こそうとする。兄も乱暴な仕草で、もう一方の腕をつかんできた。
 エマラインはめまいをこらえて、立ち上がった。想念の大合唱はやんでいる。ぴーんと張りつめたような静寂が、かわりにあった。彼女は深くため息をついた。あれは、いったい何だったのだろう――しかし、何も考えはまとまらない。全身の力が抜けてしまったようなひどい疲労感と頭痛が襲い、立っているのも苦痛だ。早く家に帰り、ベッドに横になって休みたい。いまいましいロールチキンとチョコレートなんか、いらないから。エマラインは痛む頭を抱えながら、ただそう願っていた。

 それから三ヶ月ほどは、何事もなく平穏に日が過ぎていった。不思議な感覚は、あの時だけで、彼女から去っていた。エマラインは訝りながらも、時間がたつにつれ、あの出来事は集会の緊張で張り詰めた神経が生み出した幻覚に違いない、それともその記憶自体が偽りなのかもしれないと、思い始めていた。そして忘れようとした。記憶は執拗に付きまとったが、少なくとも意識に乗せて、思い悩むことはすまいと。
 三月に入ってまもなく、エマラインは十八歳の誕生日を迎えた。同時に中等過程の教育が終わり、職業につくための準備期間ともいえる、専門過程のカリキュラムに入った。そして父母はそれを待っていたように、これから毎週のパンとミルクの配給を取りに行くように、娘に命じた。専門課程の学生は、父母の代理として配給を受け取ることが認められているからだ。
 エマラインはそれから毎週二回、食料センターに通った。一回はパンを、もう一回はミルクをもらいに。外へ出ることは決して嫌いではなかったが、妙にむき出しの頼りなさのような気分も感じさせる。あの集会ほどの規模ではないが、配給センターでの小さな人ごみに、時々あの時の体験を思い出したりもする。でも母の負担を少しでも軽減できることならば、彼女は喜んでその務めを果たそうと思っていた。

 三月も終わりに近いその日は、ミルクの配給日だった。エマラインは規定の学科を終えると、立ち上がり、玄関にかけてある黒い手提げバッグを手に取ると、家を出た。時刻は十五時四十分を少し過ぎたくらいで、ほとんどの人はまだ働いているため、通りにはあまり人影がない。居住区の建物の間を縫って通る細い道をしばらく歩き、大通りまで来た。交差点まで歩道を歩き、食品センターに向かうオートレーンは反対方向なので、慎重に道路を横切って、それに乗る。交差点には地下を走るストリートウォーカーのステーションへ降りる階段も見えたが、それは決して高額ではないものの有料のため、ほとんど使ったことはなかった。
 でもストリートウォーカーって、変な名前だ――オートレーンに乗って運ばれながら、エマラインはふとそう思った。地下の通り(ストリート)でも、通りには違いないのだろうけれど、と。ストリートウォーカーは、以前は簡単にシャトルと呼ばれたものだが、もちろんエマラインは知らない。この世界連邦ができる以前の世界のことは、ほとんど学ぶ機会がないからだ。幹線道路の地下には、幅八メートル――地上の道より少し狭い道が通っていて、そこを銀色の小さなカプセル状の乗り物が走っている。ステーションのゲートで、行先のステーションIDを打ち込み、腕に埋め込まれたIDチップをセンサーにかざすと(未成年の場合は、親から渡されるIDカードをかざす)、待っているべきプラットフォーム番号が示され、ゲートが開く。その時、料金がその家族の財布(実際の財布ではなく、コンピュータのデータに記録された家族IDの残高だが)から引かれる。プラットフォームの指定された番号に立って待っていると、銀色の小さなカプセル状の乗り物が近づいてきて、止まる。開いた扉から乗り込み、一人掛けの椅子に座ると、扉が閉まり、指定されたステーションまで連れて行ってくれる。
 エマラインは覚えている限り、二度しかそれに乗ったことはない。一度は四歳の頃、病気になった母の兄を、母とともに見舞った時、二度目は一年後、その伯父が死ぬ前に再び会いに行った時である。伯父一家は市の反対側に住んでいて、オートレーンで行くには少し遠かったせいだろうと、今は理解できた。伯父夫婦には一人しか子供がおらず、たしかその子はエマラインより三つほど年上の男の子だったと記憶しているが、伯父が亡くなった二年後に、風邪をこじらせたか何かで死んだらしい。母がちらっと父にそう言っていたのを、聞いた覚えがある。その時の父の言葉も覚えている。『もう関係ないだろう』――元の家族が付き合いをするというのは、今ではあまりなかった。亡くなった場合でも、それすら知らないということの方が多いらしい。父の両親がターミナルセンターに行く時も、彼は会いに行かなかったという。父の妹は父が結婚する前に死んでしまったので、子供は父しかいなかったのだが。
 
 六つ目の交差点で環状道路の方に乗り換えた彼女は、その次の交差点でオートレーンを下りた。そこから配給センターは、もう目の前だ。
 配給センターは、十六の区に分かれた住宅区のそれぞれに二つずつ設置されている、約四十メートル四方の大きさの、濃いグレーの外見を持つ、十階建ての建物である。周りに林立する二五階建ての高層集合住宅から見ると、少し陥没しているようにも見えるそのセンターは、彼女の家の窓からも、遠くに見ることができた。ここは二階から五階までが食料の配布、六階から八階が衣料、そして九階と十階は、それぞれの労働によって得られる報酬で購入できる、日用雑貨品のマーケットになっていた。ただし、一般労働者が働いて一年間にもらえる報酬では、少しの衣類とシーツやテーブルクロス、食器などがほんの少し買えるだけではあったが。
 週二回ある配給日のうち、パンの配給は日曜日で、半分ほどの職場が休日になっている。エマラインの両親はそうではないが。それゆえ混雑は分散されるが、人は全体的に多い。しかしミルクの日は金曜日で、ほとんどの仕事場では労働日なので、配給を取りに行く場合、三十分早い終業が認められるものの、夕方はきっと混んでいるのだろう。でもエマラインが取りに来る時には、フロアはいつもそんなに人は多くなかった。休日でない日にこの時間帯にセンターに来るのは、専門課程に入って、配給受け取りの代理が認められるようになった人たちだけだったからだ。ただ、この時間はエレベータが動いていないので、エマラインは階段を上がっていった。わざわざ上の階に行ったのは、上に行くほど人が少なく、より楽に配給を受け取れるからだ。
 途中で一、二度休みながら、彼女は五階まで上っていった。そしてフロアに入ろうとしたとたん、ちょうど出てこようとした誰かにぶつかった。相手が立ち止まったため、正面衝突はせずにすみ、ほんの軽い衝撃を受けただけだったが、不意を打たれたエマラインは、思わずよろめいた。
 相手は瞬間、彼女の手をつかみ、体勢を立て直すのを助けてくれた。
「あ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
「え、ええ。大丈夫です。ごめんなさい。わたしこそ、うっかりして」
 エマラインは相手を見上げ、思わず「あっ!」と叫んでしまった。相手も彼女の顔を見て、驚いたように小さく声を上げている。
「君は、あのクリスマス集会で近くにいた……」
 彼女がぶつかった相手は、三ヶ月近く前の大集会で見た、あの若い青年だったのだ。エマラインは驚きのあまり、すぐには言葉が出なかった。
「覚えていてくれたの、アレイルさん?」思わず、そう口をついて出た。
 相手は驚いたように彼女を見た。名乗った覚えのない自分の名前を呼ばれたのが、彼には驚きだったのだろう。
「あの時、あなたのお父様らしき人が、そう呼んでいたのが聞こえたの。だから、それがあなたのお名前だと思ったのよ。違っていたら、ごめんなさい」
 彼女はあわてて、そう付け加えた。
「間違ってはいないよ。でも、父さんの声が君に聞こえたんだ……父さんも、普段は声が大きい方だけれど、あの時はかなり押さえていたから」
「ええ。でも、たしかに聞き取れたの。『アレイル、市長閣下のありがたい演説がもうすぐ始まるんだぞ』って……だから、それがあなたのお名前かなって」
「うん。君は耳が良いんだね」
 彼は微かに笑った。間近で見ると、本当にその顔立ちは整っている。まっすぐな鼻筋、澄んだ緑色の目、すっきりとした輪郭。少しクリーム色がかった肌に、緩やかにうねった金褐色の髪が首筋を覆っている。男性でここまで髪が伸びているのだから、きっと再び切られる直前くらいなのだろうが、それにしても、少し髪の伸びが早い人なのだろう、と。前髪は自然な感じで分かれ、なめらかな額と茶色の眉が見えている。
「同じ区なんだね、僕たちは」
 彼は少し間をおいて、ドアの方を振り返った。
「今はわりとすいているから、あまり待たされないよ」
「そうなの。よかったわ」
 エマラインは頷いて部屋の中に入っていこうとし、アレイルも二本のミルク瓶を入れた袋を手にして、外へ出ていこうとしたようだった。こんなところで長い間立ち話などをして、注目を引くのは懸命ではない。周りにいる一般の人々の、あまり関心のなさそうなちらっとした視線も、無害ではあるが、多少は気になる。でもそれより怖いのは、政府の監視機関に注目されることだ。配給センターは、監視カメラが二四時間作動している。家族や親戚でもない若い男女が、親しそうに立ち話をするなどということは、ほとんどない。それは、あまりに人目を引く行為だ。
 これ以上話をしないで、さっさと立ち去った方がいい――それは、エマラインにもわかっていた。アレイルもきっと、百も承知しているだろう。しかし、二人とも踏み出しかけた足を止め、その場に立っていた。まるで何かに引き止められたかのように。数秒後、エマラインは行動を起こした。彼女は再び相手に向き直り、微かに笑って言葉を継いだ。
「わたしは、エマライン・ローリングス。この第三区の第五ブロックに住んでいるの」
 自分から名乗ったのは、はしたなかったか、しかも笑いかけるなんて、と、彼女は少し頬を赤らめた。しかし、相手が強く自分のことを知りたがっているという気がして、考えるまもなく言葉が出てしまったのだ。
 相手は一瞬ためらうように黙った後、小さく微笑んで答えた。
「僕はアレイル・ローゼンスタイナー。第八ブロックにいるんだ」
 そしてそこで言葉を止め、一瞬ためらうような表情になった後、続けていた。
「変わった名前だけれどね。両親も驚いていたらしいよ。それと、父の姓はウェインなんだけれど、僕は事情があって母方の姓を名乗ってるんだ」
 この世界では、子供の名前は生まれて登録される時に、コンピュータが自動的に名づける。たいていは一般的な名前になるが、ごくごく稀にだが、あまり他にない命名がされることがあるのだろう。エマラインは頷き、次いで興味を覚えて聞いた。
「どうして、あなたはお母様の姓になったの? ……あっ、差し出がましいことを聞いて、ごめんなさいね」
「いや、別にかまわないよ。僕は双子で生まれたから、兄が父の姓で、僕は母の姓になったんだ。母の兄は、結婚する前に亡くなったから」
「そうなの。でも、双子なんて珍しいわね」
「そう。それだけでもじゅうぶん、型破りだよね。変わった出生で、変わった命名になった。だから母は僕が普通の人生を送れるかどうか、少し心配になったらしいんだ」
 たしかに、普通ではない出生――障害を取り除くために、子供は体外受精で誕生することが多い時代もあったが、今は百パーセントそうで、それは守らなければならない規則であった。そして今の時代では、受精卵が複数、体内に戻されることはない。初めに三、四個の受精卵を作り、最も状態の良いものを一つ、母体に戻す。それが着床に失敗すれば、凍結しておいた次の受精卵を、また体内に戻すのだ。一度成功すれば、残りの受精卵は破棄される。それゆえ二卵生双生児はこの世界ではありえず、そう判定された子供は規定にそぐわない出生をしたとされ、親子共に殺されるのが常だった。ただ、一卵性双生児の方は、ごくごく稀にではあるが発生した。体内に戻された受精卵が分裂して着床することが、確率は非常に低いものの、あるからだ。それゆえ一卵性の双子は、そのまま生存することが認められた。だが、完全に他の人と同じであることが当然とされるこの世の中で、稀な出生で稀な命名では、彼の母親が心配になったのも無理からぬことだろう。
 エマラインもその思いは納得できた。しかし、彼にはそれだけでない、何かとても心配なことがある。出生や命名だけでない、人と違う何か。それが彼を悩ませている――彼女はふいにそう悟った。自分と同じ精神をのぞかせている彼の緑色の瞳にも、苦悩と恐れの影が宿っている。何を――何を、苦しんでいるのだろう。たぶん、そう――わたしと同じ。人と違っていることに、政府の作り出した社会に完全に適応できないことに悩み、そのためいずれは異端分子として抹殺されていることを怖れているのだ。でも、それだけではない――彼女は、すぐに思った。何かもっと重大なことがある。彼には大きな秘密がある。何だろう。彼女は強烈に知りたいと思った。もっと相手のことを。アレイル・ローゼンスタイナーという人がどういう人間で、何を抱えているのかを。
 その思いに気をとられ、彼女は手に持っていたミルクの配給チケットを取り落とした。拾おうと身をかがめるより相手の方が早く、チケットを拾い上げて、彼女の手に渡した。
「ありがとう……」彼女は言いかけ、言葉を飲み込んだ。
 チケットを渡された時、ほんの少し触れた手とともに、別の接触が彼女の頭の中に降りてきたようだった。あの感覚だ――軽い火花が散るような衝撃。クリスマス集会の時に感じたような、キーンという金属音。空気が張りつめる。そして、すべてが晴れて静寂がやってきたとき、エマラインは自分の知りたい、彼についての知識を知った。

 アレイル・ウェイン・ローゼンスタイナーは今十八歳。エマラインと同い年だが、彼の方が三ヶ月ほど誕生日は早い。現在、都市設計工学の専門課程に入っている。オペレータコースではない、成績優秀な生徒。警察官である、あの厳格な父親デヴィッド・ウェインと、集会の時心配そうに見上げていたあの女の子、十三歳の妹ルーシアの、三人家族だ。双子の兄は三年前に病死し、それから一年後に、母も世を去った。父は暴君タイプではあるが、妹との仲はいい。でも、彼は個人に選択の余地がないことが不満で、それを得てみたいと思っている。自由――そういう名前の何かを求めて。それはどうやら、エマラインが渇望しているものと、同じものらしい。彼は自分の異端を認識しており、いずれは政府に抹殺される危険性を十分に知っている。
 でも、彼を悩ませているのは、それだけではない。それは自らの重大な秘密――アレイル・ローゼンスタイナーは、透視能力という特殊な力を持っている者であるという事実なのだ。彼は未来も過去も、遠く離れた場所も、知覚することができる、非常に強い能力を持っていた。彼は自らの力を知り、そしてそれが何をもたらすかも知っている――。
 この世界の表のタブーが異端思想だとすれば、裏のタブーは、超能力の存在であった。この世に、超能力と呼ばれる特殊能力を持った人間が、ごくごく低い確率ではあるが発生することを知っているのは、中央本部や、行政または治安にかかわる都市の中枢部だけであった。超能力、それは科学では計り知れない力であり、また、政府がもっとも恐れるものでもある。世界連邦が地球を収めて三百年が過ぎたころ、最初の能力者が発見された。それから四百年の間に、政府に報告された能力者は四人。すべて遺伝子管理生殖におけるランダムエラーとして処理され、全員が政府の手によって抹殺された。さらに親や兄弟を含む、二親等以内の身内も処刑、四親等内の全ての一族は、死か断種かの二者択一を迫られた。危険な遺伝子は、その場で絶たれてしまうのだ。
 それゆえに、アレイルは自分の力が政府に発覚することに怯えていた。異端思想という罪なら、自分の生命だけの問題ですむ。しかし、こと超能力者となると、家族を巻き込んでしまうのだ。彼は特に、最愛の妹を巻き込んでしまうことを恐れていた。彼は自らの力を恐れ、戸惑い、呪っている。それが今、彼を悩ませている問題なのだ――。

 そんな知識がまるで波のように、エマラインの頭の中に流れ込んできた。彼女はしばらく、あまりに圧倒的な事実の重さに、つぶされそうな気がした。やがて波のうねりの中から、彼女の理性が叫んだ。
『どうしてわたしが、こんなことを知ったの――?』
 クリスマス集会の時の感覚といい、今度のことといい、自分は人の考えることや何かが、言葉に出しもしないのに、わかってしまうのだろうか? そうだとしたら、これも紛れもなく、超能力ではないだろうか――そう、その理屈では、自分もまた超能力者に他ならなくなってしまう。種類は違っても、彼と同じ能力者なのだと。とすれば、彼が恐れている運命は、自分にもやがてふりかかってくることになるのだろう。いずれ政府に見つかって殺され、父や母、そして兄も――。
 エマラインは身震いと同時に、小さく叫び声をあげた。
「いやよ! わたしはどうしたらいいの!?」
 彼女は手にしたバッグを取り落したことにも気づかず、くるりと背を向けて、夢中で階段を駆け下りていった。

 エマラインの突然の変化は、アレイルにも大きな当惑と驚きを与えた。なぜ彼女がそうなったのか、それが全くわからないだけに、よけいに。
「どうしたの、いきなり。待って! ミルクはもらわなくて、いいのかい?」
 アレイルはあっけに取られて相手を見つめた後、そう叫んだ。自分の何かが、彼女の気に障ったのだろうか。たしかに初対面に近い相手に向かって、自分の命名や双子出生であることなど、告げる必要はなかっただろうが、それにしても――いや、あの反応はどちらかと言えば、驚きの方が強いように見える。
 アレイルは彼女の後を追いかけようと、思わず足を踏み出した。しかし周りの人が何人か、不思議そうな目で見ているのに気づくと、動作をやめた。今あわてて追うのは、賢明ではない――それは、彼にも充分わかっていた。アレイルは彼女が落とした黒い手提げバッグを拾い上げると、ゆっくりと階段を下りていった。
 彼女は何かを知った。それゆえ驚き、我を忘れて取り乱したのだ。階段を下りながら、彼はそう気づいた。あの娘が何を知ったのか、それはわからない。ただ、ひょっとしたら――。
(あの娘は、僕の本当のことを、知ったんだろうか――?)
 アレイルはふいにそう感じ、階段の途中で立ち止まった。他人には、知られたくない秘密。一般の人には意味を持たないことだが、政府に知られたら致命的な事実――ゆえに彼は、無害な一般人にも、自分の能力は知られたくなかった。一般の人にも気づかれるようなら、政府をごまかせるはずはないからだ。
 でも彼女に知られることは、なぜだか苦痛や恐れを感じない。彼女なら、きっとわかってくれるだろうという、妙な安心感があった。それに――あの驚き方は、尋常ではない。単に表情や仕草から読み取ったのではない、なにかを――はっきりしたなにかを、知ったのではないか。もしそうなら、それはとりもなおさず、彼女は自分と同じ仲間であることを意味する。本当に、同じ種類の人間――そんな仲間に会えるとは、彼自身思いもよらなかったことだ。あの娘は何かを持っているのかもしれないと、最初に会った時から感じてはいたが。
 階段を下りきってセンターの外に出ると、アレイルは彼女を探した。しかし、もう彼女の姿は見えなかった。オートレーンの上にも歩道にも。ストリートウォーカーに乗っていったのだろうか――。
(エマライン・ローリングス――それがあの娘の名前なんだ。変わってはいない、きれいな名前だな。でも、ミルクを取らないで帰ってしまった。よっぽど驚いたんだろうな。でも、なければ困るだろうし、バッグも置いていってしまったし……もう一度、取りに来るだろうか……?)
 彼はその場に立ち止まり、思いをはせた。




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