Part 6 of the Sacred Mother's Ring − The Grand Design

第1章 夜の序曲 (1)




 決して開くことのない窓の、透明なプラスティック樹脂でできたガラスの向こうには、灰色の風景が広がっていた。林立する建物群、その間を縫う道路、その上を走っていく配送車、中空を飛ぶ車。その景色の果ては、遠くに見える灰色の壁に遮られ、空もまた灰色。それでも、いつも窓に歩み寄って、外を見てしまう。そこから見える景色はいつの同じなのだけれど。エマラインはそっと窓ガラスに手を触れ、ふっとため息をついた。
『まるで世界中が眠っているよう、いつも……』 
 そんな呟きが、思わず口をついて出てきた。声にはならなかったが。
 十一月という、まもなく冬の眠りにつこうとしている季節のせいではない。季節を意識すること自体、ここではあり得ない。四季は存在しないのだから。太陽の光を遮る灰色のドームに覆われ、その天井部分に設置された白い疑似太陽光が、失われた日光のかわりとなっている、この街では。ゆっくりした空気循環以外の風も、吹くことはない。常に一定の気温、一定の湿度に調節され、コンクリートのビルと道路に埋まった街には、その中に住む人間のほかに生命は存在しなかった。
 エマライン・ローリングスは、来年の三月で十八歳になる。青白く小さな顔は全体に小作りだが、長く黒いまつげに縁取られた、紫がかった灰色の大きな瞳が、その中でひときわ目立っている。柔らかい金色の巻き毛は、三ヶ月前に短く切られたが、今は少し伸びて、耳が隠れるくらいになっている。
 髪を切るのは、理容ロボットの仕事だ。以前はたくさんいたロボットも、今は上級職の秘書用と建築現場、物資の運搬と人々の髪を切る理容用以外、あまり見られなくなっていて、工場の機械管理や物品センターの管理員など、かなりの仕事が人間の手に戻っていた。その理容ロボットが、市民の休日ごとに各家庭を回り、年に一回髪を切っていく。男は丸刈りに、女も耳の上あたりまで短くする。それは長い間の慣例であり、同時に政府の強制命令に近いものだった。洋服は政府から上着とズボン、就寝着が年に一着、下着は二組支給されてくる。靴は二年に一度だ。その他は自分で買わなければならないが、どの家庭もあまりその余裕はないので、成長期の子供以外、前年や時にはその前の年に支給されたものも、着ているのが常だ。今彼女が着ている服も去年のものなので、紺色の飾りのない上衣は、その華奢な身体にも、少し袖と丈が短くなっていて、繊維も少し毛羽立っていた。グレーのズボンもところどころに小さな毛玉ができ、膝のところは少し繊維が薄くなっていて、丈もくるぶしの上までくらいになってしまっている。去年支給された黒の靴も、両足ともつま先に穴が開きかけていた。
 生まれてから今まで十七年半の間に、家の外へ出たことは二十回ほどしかない。そのうちの十七回は、市民の全員参加が義務付けられている創立記念集会――またの名を、クリスマス集会だ。それは、今では全く普通のことだった。教育課程で学ばなければならないことは、全て自室にあるコンピュータ端末から行えたし、娯楽もすべて、端末を通じて供給されていたからだ。
 教育は初等過程から専門課程に至るまで、各家庭のコンピュータ端末を通じて行われている。初等過程を終わった十二歳の時の適性検査で、数学系の才能がやや優れているとされたエマラインは、コンピュータ・オペレータとしての教育を、その時からずっと受けていた。彼女自身の興味はほかにあったのだけれど、政府の決定は絶対だ。彼女は中等の教育課程を比較的優秀な成績で通過しつつあり、十八歳の誕生日を迎えたら、すぐ専門課程に入る予定だった。
 エマラインが暮らしているこの小さな部屋は、彼女の全世界といっても良かった。毎朝父母が出勤したあと、簡単に朝食の片づけを済ませると、昼食を挟んで毎日、だいたい十五時半から十六時くらいまでは、部屋の隅の壁に取り付けられたコンピュータ端末を通して、教育を受けている。規定の学科を済ませたあとは、同じ端末から供給されてくる放送プログラムを見る気にはなれず、備え付けの簡単なゲームもする気が起こらないものの、何となくそうしなければならないような気がして、二時間ほどは端末の前にいる。しかし食堂に夕食の支度をしにいく前に、いつも窓辺に歩み寄り、しばらく外を眺めていた。そこから見える風景は、いつも同じ。外の世界とは、いつも眠そうにしている憂鬱な灰色の、静かなオブジェクトにすぎない。それでもエマラインは、毎日数分は窓辺に立たずにはいられなかった。心の底に微かな思いを感じながら。
(この風景が変わることって、あるのかしら――)
 両親が仕事に行っている間、家には彼女一人だけだった。父の職場は生産ゾーンにある、プラスティック樹脂リサイクル工場の一つだ。父はそこでオペレータとして働き、母は住宅区内にある衣類制作工場で、縫製マシンの操作をしている。コンピュータ管理室や治安維持系の仕事のように、二四時間の管理体制が必要なものは、四週間ごとに勤務時間帯が変わるシフト制だが、普通の職場はたいてい一週間のうち六日間を、九時から十七時半まで働く。エマラインの父母もそうだった。十二時半から四十分間は、昼食休憩だ。休日は日曜日か水曜日だが、どちらになるかは職場によって違い、だいたい半々の比率になるように割り振られている。エマラインの家庭では、偶然父も母も同じ水曜日が休日の職場にいるが、仮に別々だろうと、今は一家でレジャーなどとは考えもしない時代であるから、あまり不都合はないようだ。エマラインの両親も休日には、いつも家にいて、終日居間の椅子に座ってテレビを眺めているが、ニュースや本を読んでいるかしていた。エマラインの兄は、この都市にある中央政府の研究センターで、新しい都市監視システムの研究チームに属し、一年前に家を離れた。五歳違いの兄エドワードは、去年専門課程の機械工学コースを主席で終えたあと、その才能を買われて、政府の研究期間の所員に任命されたのである。それは大変な名誉と考えられていた。政府機関の職員には、選ばれたものだけしかなれないからだ。そして政府機関の職員は都市の真ん中にある市庁舎の中に住居が与えられ、そこから仕事に通う。それは“選ばれた者”の証だ。
 教育課程にある“未成年”(職業を持って初めて、この社会では“成人”と認められる)たちは、自室のコンピュータ端末を使って、決められたカリキュラムをこなす。それは九時から始まり、働いている人たちと同じ時間に昼食休憩が入り、一日の課題が終わった時点で終了となる。エマラインの場合、だいたい十五時半から遅い時で十六時くらいだ。教育カリキュラムも大人同様、週一回のお休みがあるが、それは地域ごとで違い、エマラインが住んでいるところでは、木曜日だ。しかし彼女は、休日が嫌いだった。一日中ずっと放送プログラムを見るか、単純作業のゲームをしていなければならない。その時間は退屈極まりなく、カリキュラムをこなしている方が、はるかにましだと思えた。

 街はだんだんと光の落ちていく、人工的な灰色の夕闇の中に溶けていった。エマラインは再びほっと小さなため息を一つつくと、窓際から離れ、自室を出て、コンパートメントの中央を占める、台所と食堂と居間がひとつながりになった広間へと歩いていった。もうすぐ両親が仕事から帰ってくる。お腹を空かせ、疲れてやってくる父母のために夕食を用意するのが彼女の役目だ。
 エマラインはテーブルの上に白い特殊織りのクロスをかけ(もう五年以上使っているので、あちこち染みができ、変色していたが)、壁に備え付けになっている戸棚の前に立った。戸棚の上段は食器をしまうところで、透明なプラスティック樹脂製の扉がついている。彼女は背伸びをして扉を開け、白いプラスティックでできた深皿とコップを三つずつ取り出し、テーブルの上に置いた。戸棚の中段は流しのようになっていて、細い水道用の蛇口と、食物用の太めの蛇口がついている。壁にはめ込まれている時計をちらっと見やってから、深皿を太い蛇口の下に置き、その上についている赤いボタンを押した。やや間があってから、どろりとした白い液体が蛇口から流れ出て、皿に落ちていった。
 食品工場で製作されるスープやシチューは、食事時が近づくと、大きなコンテナで、集合住宅の建物ごとに届けられる。道路の上を、ロボットが運転する配送車が通る。その後ろに、たくさんのコンテナが連なって。その光景は、窓からも毎日のように見えた。エマラインたちの住む集合住宅にも、日に三度、それが届けられる。朝と昼はスープ、そして夕食にはシチューで、具材や味付けは時々変わることはあっても、メニュー自体に変化はない。その重いコンテナを、運送ロボットたちが地下にある食料管の大元にセットする。そして建物の管理者が、時間が来たら各家庭に配給されるように設定されたプログラムを動かす。
 配給される量は家庭ごとに決まっており、エマラインの家の場合は、朝と夜が三人分、平日の昼はエマラインしか家にいないので、一人分である。父や母は、昼食は職場で支給されるし、兄は中央政府職員なので、中央庁舎内にある政府管轄の寮で生活をしており、クリスマス休暇以外は家にいないからだ。父母の仕事がお休みの日は、昼も三人分となる。供給時間帯は、朝七時から七時三十分、昼は十二時から十二時三十分。そして夕食は、子供が家にいる家庭では、十八時三十分から十九時ちょうど、全員が働いている場合は、それより十分から二十分遅くなる。夜の供給時間帯から二時間が過ぎると、管洗浄が自動的に行われる仕組みだ。
 桃色の肉片やジャガイモ、人参、豆などが入ったシチューを、次々と三枚の深皿に移すと、エマラインはテーブルのそれぞれの席に置いた。そしていつも食料をしまっておく戸棚の下段にかがみ込んで、白い樹脂製のドアを開けると、そこにしまってあるパンの袋の中から、小さな丸いパンを三つ取り出した。パンは配給された翌日くらいまでは、まだ柔らかいが、四日目になる今では、どんなに袋の入り口をきっちりと締めておいても、少し固くなり、ぱさついていてしまう。パンを皿の横に一つずつ、クロスの上にそのまま置き、食料庫の横についている冷蔵ボックスからミルクの瓶を取り出してコップにつげば、夕食の準備は終わりだ。
「ああ、今日はミルクの配給日ね。きっとお母さんが仕事の帰りに、配給センターから持ってきてくれるわ。この瓶に残っているミルク、コップに全部ついでしまいましょう。いつもより、ちょっぴり贅沢ができるわ」
 エマラインは残っているミルクを三つのコップに均等に注ぐと、仕上げにスプーンをテーブルに並べながら、微笑んで呟いた。はたから見ると妙な光景なのかもしれないが、彼女は自分自身に話しかけたくなる衝動を、抑えることが出来なかったのだ。他に誰も話す相手がいないせいなのだろう。空になったミルクの瓶は、一階にある集積所においておけば、ロボットがスープやシチューを配達する時に、回収していく。いつもと同じように、明日母が仕事に行く前に、集積所まで持っていってくれるだろう。
 準備が全て終わると、エマラインは自分の席に座り、時計を見上げた。十九時を三分過ぎたところだ。もう父と母が帰ってくる頃だろう。
「早く帰ってきてくれないかしら。でないと、シチューが冷めちゃうわ」
 彼女は時計を見上げながら、両手を組み合わせ、じれったそうに呟いた。コンテナの中では保温されているが、一度皿に注ぐと、それは冷めはじめる。スープより冷める速度はいくぶん遅いものの、冷めたシチューは、よほど空腹でなければ食べられないほどの代物になってしまうのだ。それゆえ、彼女はいつも配給時間が終わる一分ほど前にシチューを注ぐのだが、父母の帰りの時間によっては、かなり冷めてしまうこともあった。
 居間の壁に据えつけられた端末からも、放送プログラムが流れていた。夕方のニュースが流れている。
「市民のみなさん、こんばんは。今日も尊い労働、ありがとうございます。それでは、今日の各地域の出来事を振り返ってみましょう」
 キャスターの親しみやすい、しかしどこか無機的な声が流れてきた。エマラインはその声を、ほとんど聞いてはいなかった。ニュースなど、いつも同じ。連邦政府の生産計画や配給の品物の量の変化、何か科学的な研究成果、あるいは配給の増加に対する感謝祭や、総生産報告、人口の動勢など、そんなことばかりなのだ。彼女はどれに対しても、少しも興味を動かされなかった。どのニュースも自分自身とは関連がありそうもないように思えたし、何となく実体のないもののようにすら、思えたからだ。もっともあからさまにそんなことを言ったりすれば、早速政府からマークされ、遅かれ早かれこの世から抹殺されてしまうだろう。それは繰り返し彼女を脅かす、潜在的な強迫観念だ。それゆえ危うい考えが浮かび上がりそうになるたびに、急いで再び心の底に沈めなければならなかった。
 犯罪やスキャンダルは、決してニュースには上らない。そんなことを一般市民たちに知らせる必要はないという、中央政府の判断なのだろう。それゆえか、市民たちはそういったものの概念すら、ほとんど持っていないようだった。しかし、彼女は漠然と知っている。そしてもっとも危険な犯罪は、思想逸脱だということを。その知識がどこから来たのかはわからないが、少なくともここ三、四年ほどの間ずっと、その認識は常に、彼女にまとわりついてきたのである。

 十九時を十分近く過ぎた頃、音もなく玄関のドアが開いた。エマラインは気配を感じて、自分の席から立ち上がり、玄関へ迎えに出た。両親が一緒に帰ってきたようだ。
「お帰りなさい、お父さん、お母さん。お疲れさま。まあ、一緒でよかったわ」
 先に入って来た父は、うるさそうに顔をしかめながら娘のそばを通り過ぎ、洗面所で手を洗った後、さっさと居間に入り、どっかりと食卓に腰を下ろした。
「父さんとは、家の前の道で一緒になったのよ」
 あとから入ってきた母は、物憂そうな口調で答え、色のさめた黒い手提げバッグを娘に差し出すと、あとは黙って夫の後に続く。エマラインは受け取ったバッグの中からミルクの瓶を二本取り出し、冷蔵ボックスにしまうと、空になったバッグを玄関のフックにかけた。このバッグはもう七年ほど使っていて、取っ手が一部ほころびているが、完全にちぎれない限りは、まだ使える。
 父のアンドルー・ローリングスは黒い髪に黒い目の、小柄だが体格はがっちりした男で、必要以上は何もしゃべらず、機嫌良さそうにしていたことも、ほとんどない。今も無言で、腰を下ろすやいなやスプーンを取り上げ、食事にかかっていた。母のマーゴットはまっすぐな砂色の髪に灰色の目をし、小柄でほっそりとしている。いつも気の抜けたような話し方をし、どことなくおびえたような感じで、ほとんど相手に何も印象を抱かせない人だった。母も必要以上にはしゃべらないので、エマラインもそれ以上は何も言わず、食卓についた。親子三人の夕食は、静かに進行していった。間断なく続く放送プログラムの音だけが、居間に響く。
(このシチュー、我慢できなくなるほどは冷めなかったから、まだ救われたけれど、でもあまりおいしくないわ。パンもちょっと固いし、ぱさぱさ。ミルクは薄いし)
 エマラインは密かに心の中で呟いた。物心ついた時から、食物の味は同じだ。彼女も慣れきっているはずだった。でも、いつも同じ思いを抱いている。美味ではない。本当においしいと思って、ものを食べたことがない。ただ腹を満たすだけだ。だが食物にそれ以外、どんな意味があるというのだろう? 食物は、ただ空腹を満たすためだけのものなのだろうか。家族とは、ただ一緒に暮らしているだけの集団なのだろうか。勉強とは、ただ社会に貢献するための知識を得る、それだけにのみ、するものなのだろうか。いや――それ以上、考えてはならない。疑問を抱くことは、危険すぎる。
 夕食を終えると、エマラインは三人分の食器をキッチンに持っていき、戸棚の横に備え付けてある白い箱の中に入れると、ふたの上についている黒いボタンを押した。この機械、万能ウォッシャーは、洋服でも食器でも、中に入れてボタンを押せば、自動的に洗ってくれる。
 食事を終えた父は相変わらず無言のまま立ち上がり、コンピュータ端末の横についている黄色いボタンを押した。端末の上にあるスロットから、ごく薄いプラスティック樹脂シートの上に印字された、政府発行の新聞が出てくる。アンドルーはそれを手に取ると、再び椅子にどっかりと腰を下ろした。父がそうやって椅子に座るたび、微かにきしむ音がその下でする。母はテーブルに肘をついて、だるそうに放送を見ている。エマラインも自分の椅子に腰かけ、しばらくは無言で画面を見ていた。愛国心をテーマにした、退屈なドラマだ。放送プログラムで、本当におもしろかったものなど、あっただろうか。でも、ほかには何もすることがない。しかし夕食後、さっさと自室に引き取ることはためらわれた。両親は気にしないだろうが、夕食後は家族全員で居間に留まり、放送プログラムを見るのが、物心ついた時からの、不文律のようになっていたからだ。
 時計が二二時を告げた。三日に一度のシャワーの日には、父から順にシャワー室に向かうが、それは昨日だった。今日は何もすることがない。もうそろそろ、自分の部屋へ戻ってもいいだろう――エマラインは小さな吐息を押し殺して、立ち上がった。居間を出る時、両親に「お休みなさい」と声をかけたが、母は娘の声など聞こえなかったように、顔も上げない。父もこちらに目を向けることなく、読み終わった新聞をスロットに戻した後、再び椅子にどっかりと座り、放送を見ているようだった。エマラインは気にしなかった。両親からの返事は、彼女も期待してはいなかった。

 自分の小さな居室に入ると、押さえ切れないため息が漏れた。エマラインはベッドの上に腰かけ、両手を頬に当てて、しばらくじっと床を見つめた。何も敷かれていない、もとは白かったのだろうが、今は灰色になっているプラスティック樹脂製の床を漠然と見ながら、頭には様々な思いが駆け巡っていた。形にならない、彼女自身にもはっきりと認識できない何か――それは、漠然とした不安、もしくは渇望――彼女は再び小さなため息をつくと、頭を上げ、目の前のくすんだ灰色の壁を見た後、身体を動かさずに頭だけをめぐらせて、窓から見える白い灯りの海を眺めた。
 二三時十分前になり、ベッドサイドのはめ込み時計が、就寝予告の小さなアラーム音を鳴らした。エマラインは立ち上がり、ゆっくりした動作で服を脱いだ。ベッドの足下に畳んであった薄いグレーの寝間着に着替えると、脱いだ服をきちんと畳み、椅子の上に置く。それから手で髪を撫でつけ、少し指で梳かしてから、ベッドに入った。
 部屋のライトが、ぱっと消えた。目を閉じ、眠ろうと努める。しかし、眠れなかった。エマラインは努力をあきらめ、再び目を見開いた。小さな常夜灯の、少し緑がかった光だけが、暗闇の中、ポツンと浮いている。彼女は天井に目をやった。胸のもやもやが――正体の分からないいつもの思いが、またやってくる。単調な毎日の繰り返し。不足は何もないのかもしれないが、でもたしかに何かが足りないのだという感じ。いつも心の奥底に感じる苛立ち――それはいったい、どこから来るのだろう?
 突然、まるで何かに打たれたように、ある認識が心の中で、はっきりと形を取った。エマラインは軽く手を打ち合わせ、思わずその思いを小さな呟きにして、唇にのせてしまった。でも声が出てしまったことさえ、気づかなかった。その思いはまるで何かの啓示のように、強く彼女を揺さぶったからである。
「わかった。なぜわたしがいつも、心から満足できなかったのか。わたしたちには、何も選ぶことができないから。いつも決められたものを、与えられているだけだから。食物も着るものも、職業も結婚も、教育も放送プログラムもゲームも、新聞も本も。そうよ。生きるのも死ぬのも、生まれることさえ……」
 人は父母の間の体外授精で、この世に生を受ける。そして七歳の誕生日に政府機関の面接を受け、教育システムに組み込まれる。初等課程を終えると、適性検査を受け、コースを振り分けられる。そして中等課程が終わった時点で成績に問題なければ、そのまま専門課程へ行く。それは職種と、個人の学習進度により異なるが、だいたい末端の工場オペレータで一年、エマラインが入っている中級オペレータコースで二年前後、兄エドワードが受けたような特殊高等技能で、四年から五年ほどが標準だ。専門課程が修了すると、その職業を授けられて、初めて社会的に成人と認められる。それから女性は三年、男性は五年が過ぎると、政府のコンピュータによって選ばれた相手と結婚する。二年後、遺伝子チェックを経て男の子を作り、それから四、五年後に女子を生む。第三子の制作は任意だが、子供の性別が偏った場合以外、たいていの夫婦は子供二人で十分と思っているようだった。(性別決定は、一パーセントの確率でエラーが起きた) 現代では人口も一億人を越え、もはや子孫を増やすことは、世界の命題ではなくなっていたのだ。
 女性は妊娠中と、子供が三歳になるまでは育児のために労働を免除され(それまでに子供にオムツでなく、部屋の中に設置した簡易トイレを使うことと、一人で幼児用の柔らかい栄養食と水を取れるように訓練しておくことを、命じられた。それができるまでは仕事に戻れず、最初の三年と違い手当も出ない)、そのあと末子が初等教育過程に入るまでは、普通より三時間ほど短い短縮労働になる。その期間以外は普通に働く。男性は、妻に死に別れるなどして子供の養育者がいない場合のみ女性に順ずるが、それ以外はずっと労働者だ。そして男も女も六九歳になると仕事から解放されるが、七十歳の誕生日に、政府のターミナルセンターで安楽死をさせられて、その一生を終えるのである。その間続く、限りなく単調な日々――六時四五分の起床アラームで一日が始まり、日に三度、決まった食事をとり、九時から十七時三十分までは、四十分の昼食休憩を挟んで労働に従事し、夕食をとった後は二三時まで、家で放送プログラムを見て過ごす。この時代には、放送局は一つしかなく、プログラムも一定の時間に流されているので、視聴者に選択の余地はなかった。放送を見ない場合はカセット本や新聞を読んだり、端末から供給されてくる簡単なゲームをしたりして余暇を過ごし、二三時に就寝。同時に、一般住宅の灯りは一斉に消される。週一回の休日には労働はないが、余暇の過ごし方は、平日の夜と変わりはない。
 エマラインはベッドの中で、再びため息をついた。自分も父や母のように、このまま政府によって定められた一生を送るのだろう。十八歳になったら入ることになっている専門課程は、二年で修了する。その後はコンピュータ・オペレータとして、生産区のどこかにある工場でキーを叩き、その三年後に見も知らない男性と結婚をし、子供を作る。でも――エマラインは憧憬を持って、考えた――わたしだったらその子たちに、もっとたくさん話をしたい。母のようではなしに。そして、子供は成長するだろう。そのあとは再び働き、年を取って死んでいくのだろう。ターミナルセンターの、カプセルの中で。
 そう思うと、かすかな身震いを感じた。それでは自分の人生は、まるで工場の生産ラインと同じ。どこに生きている意味を見つけたらいいのだろう。思いは一生胸の中で、奥深くに閉じこめられたまま、もがくだろう。「ここから出して!」と。
 激しい衝撃を感じ、エマラインは思わず飛び上がりそうになった。これは危険思想ではないのだろうか。これは社会に、政府のやり方に不満を持っているということなのだろうか。もしそうだとしたら、いや、今はそうだと彼女は確信していた――こんなことが政府に知られたら、たちまち危険分子として抹殺されてしまうだろう。いけない! 
 エマラインは固く目を閉じ、毛布を頭の上に引き上げて、必死にその思いを払いのけようとした。もうこれ以上、何も考えてはいけない。だが、考えることを止めることは出来なかった。感情はまるで幽霊のようにつきまとい、どんなにしても頭の中から追い出してしまえない。一度堰を切ってほとばしりだした考えは、止まらない。彼女は震えた。眠りに救いを求めることもできなかった。

 一ヶ月が過ぎ、クリスマスがやってきた。それはこの世界では唯一のイベントだったが、エマラインにとっては憂鬱なものでしかなかった。クリスマスは、この連邦では建国記念日を意味する。その日、仕事も教育カリキュラムもお休みとなり、十五時から始まる大集会のために、都市の住民全員が、中心部にある中央庁舎を取りまく広場に集まるのだ。広場の中央には巨大なスクリーンが据えられ、それを通して世界総督の演説、ついで自分たちが属している第二連邦総局長の演説を聞き、そのあと都市長が姿を現して演説をする。そして全員で世界連邦の愛国歌を歌い、最後に参加者たちに配られるロールチキンとチョコレートが入った小さな包みをもらって、帰るのである。
 この集会は都市の住民全員の参加が義務づけられているので、エマラインも毎年行っている。その前の月に支給されてくる、新しい服に身を包んで。しかし彼女は、この集会に行くことを考えると、憂鬱さしか感じなかった。この都市の市民すべてが中央広場に集まる、その大混雑も苦手だ。
 都市はどこもすべて円形になっていて、中央広場から放射状に十六本の道が伸びている。周辺部に行くほどその間の距離が広くなるので、都市の半径三分の一を過ぎたあたりで新しく十六本の道が付け加わり、三分の二を過ぎる場所から、さらに三十二本の道が伸びる。中央区画を同心円状に取り巻く環状道路は、だいたい百メートル間隔である。それらの幹線道路には、両側に二メートル幅の歩道があり、その内側にオートレーンと呼ばれる動く歩道、道路の下には、もう少し高速で移動できる乗り物が走っている。それはもう、何千年も前から変わらない。でも道路の中央部は、今は配送用車両の通り道だ。交差点の横断やオートレーンの乗り換えで道路を横切る時には、その車両が来ないかどうか、注意しなければならない。滅多に事故は起こらないが、万が一起きた場合は、全面的に横断者が悪いことになり、家族全員が罰を受けなければならないから、なおさらである。
 クリスマス集会の時には、その道路の中央部を、乗り合いシャトルが走る。以前から使われていた大型シャトル(大きな箱型で、上部は透明なプラスティック樹脂に覆われ、床に何本か棒の立った車両だ。ただ、車輪はない。どの車もそうだが、たとえ道路の上を走っていても、原理はエアロカーと同じ、空気噴射で動いているのだ)が、何台も運行されている。今でも通勤時には運行しているものだが、クリスマス集会では、都市にあるすべての車両が動員されているようだ。それは中央部から出発する十六本の放射道路の真ん中(都市の外周部から中央までの距離の二当分点)で、少し広めの環状道路との交差点から出発し、中央広場まで走っている。
 このシャトルはほぼ五分おきに運行しているが、集会の日は運ぶべき人が多いため、いつもその始点から外側の放射道路に向かって、数百メートル以上にわたる、長い列ができていた。午後からは配送車両も通らなくなるので、走行を妨げる心配はないが、乗れるまでに、何時間かは待たされる。おまけに、そのシャトルの定員は五十名だが、この時には百人以上、車内に人間以外の空間がなく、運悪く床に立っている棒の近くに乗り合わせたら、押されて痛い思いをするほどに押し込まれるのだ。
 この日も、エマラインとその父母、そして前日に政府管轄の寮から帰ってきた兄エドワードも、家を出ると、乗り合いシャトルの起点になっている場所まで行き、長い長い行列に並んでいた。クリスマスと言っても、空調の整った街では、寒いことはない。しかし、長い時間立って待っていると、足や腰が痛くなってくる。エマラインは道路の両側を通るオートレーンのゾーンや、その外側の歩道に目をやった。歩道を歩いている人はたまにしかいないが(きっとこの交差点に近いブロックに住む住民なのだろう)、オートレーンに乗っている人はかなりいる。でもみな、乗り合いシャトルの始点である交差点で降り、そこから内側の道路を歩いて、この列の後ろに合流している。なぜだろう。そうエマラインは考えていた。地下を走るストリートウォーカー(以前は簡単にシャトルと呼ばれていたものだ)は、この日は動いていないが、オートレーンは動いている。乗り合いシャトルの発着所まで、それで行っているから、その先が止まっていないことも知っている。三年ほど前、彼女は『このまま乗って行けばいいのに』と、両親と兄に言ったが、まったく相手にされなかった。『ここからはシャトルで行くことになっているのよ』母が短く、うんざりしたような表情を浮かべて、そう答えただけだ。そして数百メートル続く行列をさかのぼり、最後尾に並んだ。今年もそうだ。彼女はその時以来、『このまま行けば』とは言わなくなっていたが。
 馬鹿げているのに――しかしエマラインは、そう思わずにはいられなかった。オートレーンが止まっていないのなら、中央区画まで乗って行けばいい。彼女たちの家からここまで、距離にして四キロメートルほど。そこを歩きとオートレーンを使って、三十分ほどで来た。ここから中央区画までも、同じくらいしかない。そのままオートレーンに乗って行ったら、二十分くらいで着けるだろうに、なぜわざわざ下りて、長い長い行列に何時間も並び、シャトルに詰め込まれて運ばれなければならないのだろう。
 でも、みながそうしている中、一人でオートレーンに乗って中央広場に行くのは、恐ろしく目立つだろう。それは、この社会では望ましいことではないのだ。人と違うことは。そのことも彼女は悟っていた。だからもうそんな提案はしなくなっていたのだ。

 やっとたどり着いた中央広場には、大勢の人々が集まっていた。こんなに多くの人を見るのは、年に一回、この日だけだ。しかしエマラインは、人混みを好きになれなかった。大勢の中にいると、いつも何か落ち着かない気分を感じて、疲れてしまうのだ。普段あまり外に出ないから、慣れないせいかもしれない。彼女はそう思っていたが、それだけでもなさそうだった。たぶん、知らない人ばかりだから――この社会では、個人的な交流などほとんどないし、教育課程を終わるまでは、外へ出る機会もほとんどないのが普通であったから、知らない人ばかりなのは当然なのだが。
 演説が始まるまでの間に、エマラインは軽く背伸びをして頭を巡らせ、周りの人々の顔を見た。それぞれに顔立ちは違う。しかし、みんな一様に同じような表情をしていた。感情など何もないような、さめきった顔つき。この街並みと同じように、人の顔もみんな眠ってしまっている。目は開いているけれど、心はみんな眠っている。父も母も兄も、周りの人もみんな――彼女はそう感じた。みんな、考えることを忘れてしまったのだ。決められたことだけをずっとやってきたから、そうでないことなど考えられない。乗り合いシャトルの起点までは、歩いてもオートレーンを使ってもいい。でもそこからは、必ず乗り合いシャトルでここに来なければならない。彼らにとっては、他の選択など存在しないのだ。
 それでは、他の選択肢を考えてしまう自分は、“異端”なのだろうか。この世界は“他の人と同じであること”――“人はみな同じ”であることが。尊ばれているのだから。エマラインはかすかに身震いした。“他の人と違う考え方”をする彼女は、“思想逸脱”なのだろうか。この世界が忌み嫌う――。それにしても、なぜ自分はこのことを知っているのだろう。他の人たちは、きっと考えもしないこと。“逸脱”が罪であるということなど、“考えない”人々には、思いもよらないことだろう。
 中央広場は真ん中に建つ巨大な市庁舎ビルをとりまく、半径四百メートルほどの空間だ。建物区画を除けば、奥行きが三百メートル弱のドーナッツ状で(もっとも今ではドーナッツなど、一部の高い地位の職に就くものとその家族くらいしか、お目にかかったことはないだろうが。クッキーやケーキと同じように)、普段は治安維持軍の演習に時々使われるだけの、一面固いコンクリートの地面に覆われた、何もない場所だ。クリスマス集会では、市庁舎の建物外壁、中ほどの高さに設置された巨大スクリーンのある側、半円部分だけが使われる。そこに全住民、三二万三千人が集まっているのだから、隣り合う人々と辛うじて身体が触れ合わないくらいのスペースしか確保できない。乗り合いシャトルの中よりは、ましという程度だ。後ろの方にいると、小柄なエマラインは人々の中に埋没してしまい、スクリーンの映像しか見ることはできなかった。群衆の中にいる大勢の子供たちは、なおさらだろう。しかし子供たちでさえ、ぐずったり泣いたりすることは許されない。絶えず目を光らせている治安維持兵が、そんな子供たちを見つけると容赦なく、その家族もろとも排除するのだ。もちろんいきなり殺されるようなことはないが、そういう“騒乱者”は市庁舎内にある処罰室と呼ばれるところに連れて行かれ、罰を受けるらしい。それがどんな罰か、エマラインは具体的には知らない。だが彼女が十歳の頃、近くでぐずっていた二、三歳くらいの子とその家族が、治安維持兵によって連れて行かれるのを見た。上の男の子は、七、八歳くらい。その家族を三年後、彼女は再び集会で見かけた。その時にはぐずった子はおらず、兄は少し足を引きずり、その両親は青白い顔をしていた。
 そんな事態を避けるため、たいていの親が集会の時には、小さい子供に“沈静錠”なる薬を与えていた。その薬は希望すればもらえ、それを飲んだ子供はおとなしくなる。目を見開いて立っているが、表情も動かさず、身体も動かない。エマラインも六歳までは、与えられていた。その薬は苦く、彼女は飲むのを嫌がったのだが、『あなたがおとなしくしてくれないと、わたしたちも困るのよ』と母にきつく言われ、無理やり飲まされた記憶がある。そしていつも、その後のことは覚えていない。気がついた時にはいつも自分の部屋のベッドの上で、猛烈な頭痛と吐き気でたまらなかったものだ。
 子供たちがみなぼーっとした表情なのは、そのせいだ。無理やりに身体は起こされ、頭は眠らされているから。でも大人たちも変わらないような表情なのは、なぜなのだろう。




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