Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第九章 道を求めて(6)




 伯父が再び病棟に戻る後姿を見送り、ジェレミーは深くため息をついた。母の告白をなかったことにすることなど、できはしないが、伯父に対するわだかまりにも似た気持ちも、いずれは消えていくかもしれない。ジェレミーは中庭の木にもたれかかり、黄昏の空を見上げた。その時、声がした。
「やっぱり、ジェミー・キャレルだ!」
 忘れかけていた自分の芸名を呼ばれ、ジェレミーははっとして視線を下に落とした。そばに、見知らぬ男の子が来ていた。十歳くらいだろうか。薄緑色のパジャマ姿で、電動車椅子に乗っていた。まっすぐな黄褐色の髪を耳の辺りで切りそろえ、血色がよくないせいでそばかすの目立つ、丸い茶色い目の子供だ。左の二の腕には、点滴のパックが固定されている。きっとここの入院患者なのだろう。
「こんにちは」ジェレミーは反射的に微笑み返した。
「わぁ、ほんものだぁ!」その子は、素っ頓狂な声を上げた。
「アメリーお姉ちゃんがファンなんだ。病気で、もう一年近くも休んでいるって言ってたけど、ここに入院してたんだね」
 ジェレミーは肯定も否定もせず、あいまいに笑った。対外的には自分は病気療養中になっているのだから、病院で会っても不都合はないのだろうが、そうだと堂々と嘘をつく気にもなれなかった。
「君はここに入院しているの?」ジェレミーは聞いた。
「うん」少年は頷く。
「どのくらい?」
「二ヶ月くらいかな。来月には、帰れるって」
「そう。じゃあ、良かったね」
「ジェミーさんは、いつごろ退院するの?」
「ああ……」ジェレミーは苦笑した。
「よくわからない。でも、夏くらいには復帰できるかもしれないんだ」
「わあ。だったら、お姉ちゃんに知らせてあげなきゃ!」
「どうなるか、はっきりとはわからないんだけれどね」
「でも、きっとお姉ちゃん、喜ぶだろうなぁ。びっくりもするよ、きっと。ジェミーにここで会えたなんて言ったら」
「ありがとう」ジェレミーは再び、あいまいに笑みを浮かべた。
「あっ、もう十六時過ぎてる。部屋に戻らなきゃ。ママとお姉ちゃんたちが面会に来るんだ」その子は慌てたように声を上げ、車椅子を方向転換させながら、手を振った。
「じゃね、ジェミーさん。早く良くなってね!」
「ありがとう。君も早く元気になるんだよ!」
 ジェレミーも手を振り返した。歌手ジェミー・キャレルとしての自分を自覚するのは、決して喜ばしいものではなかったが、少年との出会いは決して不愉快なものではなかった。一瞬、ジェレミーの心は、あの子やその姉、それにこの長いブランクにも、まだ自分を忘れずにいるかもしれないファンたちをがっかりさせない、新しい自分になろうという思いで溢れた。ここから帰ったら、再びまっすぐに進んでいこう。しかし、それまでは――。
 少年の姿が見えなくなると、ジェレミーは踵を返して、病棟に入っていった。宿泊所に帰る前に、もう一度母に会わなくては。しかし、まともに会ったことのない弟妹たちに会うのが、少し怖かった。少なくとも彼らはあの少年のようには、自分を歓迎してくれないだろう。そんな気がした。

 母の病室はすでにカーテンが閉じられ、少し暗めの照明が灯されていた。ベッドのそばにアンダーソン氏と、四人の子供たちがいた。十五、六歳くらいの年頃の、シンシアに似た端整な顔立ちをした黒髪の少年が、テレンスだろう。母のベッドにぴったりとくっついてかがみ込んでいる、黒みがかったとび色の巻き毛の、八歳くらいの男の子が、一番小さなジミー。十二歳前後の、長い髪の女の子たちが、レイチェルとルース。たしかまっすぐな栗色の髪の子がレイチェルで、黒っぽい巻き毛の子がルースだ。窓のそばには、アンソニー伯父が立っている。
 ジェレミーが部屋に入っていくと、子供たちが一斉に振り返った。初めて対面する異父弟妹たち。しかし、彼らになんと言えばいいのか、どう振舞えばいいのか、わからなかった。愛想良く微笑むべきなのだろうか。気さくに声をかけ、兄として振舞えばいいのだろうか。しかし、彼らの側にはきっと戸惑いもあるに違いない。自分に嫌悪感さえ持っているかもしれない。そう思うと、あまり親愛の情をおおっぴらに出すのも迷惑なのかもしれない――。
 ジェレミーは戸惑いを感じながら微笑み、小さな声で「こんにちは、初めまして」とだけ声をかけた。それに対し、テレンスだけが小さな声で返礼した。レイチェルとルースはどことなく戸惑ったような表情で、目を見開いて自分を見つめている。ジミーは一瞬だけこっちを見ると、すぐに母親に目をやって、その手にすがりつくようにしていた。
 ジェレミーが近づくと、ジミー以外はさっと道をあけた。ジェレミーはベッドから数歩のところで立ち止まった。
「大丈夫。ここで」そう声をかけると、再び母を見やった。
 シンシアは眠っているようだったが、ふっと目を開いて、ジェレミーを見た。その顔に、微かな、ゆっくりとした笑みが広がっていった。
「母さん……僕は、もう帰るね」
 ジェレミーは微笑もうとしながら、低い声で告げた。
「ええ……元気で、ね……」シンシアは微かに頷いた。
「僕は大丈夫だから。母さんも……」
 そのあとの言葉に詰まった。涙が溢れそうになり、あわてて目をしばたく。
 シンシアは微笑んだまま、息を吐き出すように、静かに言った。
「ありがとう……あなたの活動が……うまくいく、ことを……ねがっているわ」
「ありがとう」ジェレミーもそれだけしか言うことが出来なかった。彼は手を伸ばし、ジミーがすがり付いている方ではない母の手を取り、そっと握った。
「それじゃ」
「ええ……来てくれて、ありがとうね……」
 母は目を閉じた。もうあまり話す気力も、残っていないのだろう。弟妹たちと引き合わせる言葉をかける余裕も、残っていなかったのかもしれない。それが、残念であると同時に、ありがたいような気分も感じていた。弟妹たちが自分を見る目は、決して父親違いの兄の存在を歓迎してはいないように思われた。アンダーソン氏も、あえてなにも言葉はかけてこないようだ。
「それじゃ、僕は帰ります」
 アンソニー伯父とアンダーソン氏が、「気をつけて」と、ほぼ同時に声をかけた。ジェレミーは彼らに目礼し、ドアを開けた。

 一人戻った宿泊所の部屋で、ジェレミーは長い間、ベッドに腰をかけてぼんやりと窓の外を見ていた。えも言われぬ寂寥感が心を支配していた。母がまもなく世を去ってしまうということ。アンソニー伯父との間に出来てしまった、精神的な障壁。それは目に見えない、ごく薄いものではあったが、やはり完全に忘れ去ることは、今はまだできそうになかった。そして弟妹たちから受けた距離感。彼らは決してあからさまな拒絶はしていなかったが、明らかに自分の存在に戸惑い、どう対処していいかわからないようだった。自分が年長なのだから、自分こそ彼らに踏み込んで、働きかけてやるべきではなかったのか。病院から帰るミニシャトルの中で、彼はずっとそう考えていた。でも、それが出来なかった。あの場では自分自身も、どう彼らに対処していいか、わからなかったのだ。
 翌日はずっと、ジェレミーは部屋に閉じこもっていた。前日は朝食以外なにも食べていなかったので、さすがに軽いめまいを感じ、朝食と夕食はサービスを頼んでとったが、ほとんど食欲は覚えなかった。母のいる病室に行きたいと思ったが、一家の最後の別れを邪魔したくはなかった。そう。彼らにとってはやはり、自分は異分子なのだ。自分が行くと、きっと邪魔者になるという苦い認識を感じずにはいられなかった。それに今日は、祖母とエセル伯母もやってくる。芸能局に行ったことで、ますます彼女らは自分を蔑んでいることだろう。今、彼女らに会う勇気はなかった。
 自分はどこへ行っても、異分子なのかもしれない。そうも思えた。ローリングス一族にとっても。芸能局にとっても。そして母の一家にとっても。そもそも自分はこの世に生まれるべきではなかったのでは――ジェナインに叱責された考えであり、自分自身も恥じたものではあったが、やはりそんな思いが湧きあがってくるのを抑えることも出来なかった。

 その夜、アンソニーが部屋を訪れ、告げた。
「シンシアの意識がとうとう戻らなくなった。もうこのまま最後まで戻ることはないだろうと、医師は言っていた」と。
「母さんは……あとどのくらい、持つんですか」
 ジェレミーはかすれた声で問い返した。
「長くて三日ほど、早ければ明日一杯持つかどうからしい」
 アンソニーは部屋のソファに腰を下しながら、そう答えた。ジェレミーは無言で頷いた。人の死というものは、いつも受け入れることが困難だ。ましてや愛する肉親の場合は特に。
「以前は助からない病人でも、命が持つ限りは治療が続けられたそうだが」
 アンソニーは両手を膝の上に組み、目を落としたまま、そう言葉を継いだ。
「いや、以前といっても、千年以上前の時代のことらしいが……パットがそう言っていたのを、思い出したんだ。でも今では、仕事を引退した老人や、治る見込みのない病人は、積極的に治療はされないらしい。だからシンシアも薬が効かなかった時点で、苦痛緩和の処置だけしかされていないらしい。とはいえ、治る見込みがない以上、ただ生きているとしかいえない状態で生き延びさせられることが、正しいとも思えないが……」
 それも、生産性に重点を置いた、今の社会システムゆえなのだろう――ジェレミーは漠然とそう思った。治らないとわかった時点で、母は死ぬことを待っているしか、道はないわけだ。しかし、かつて壁に当たるたびに感じてきた理不尽感と憤激は、今回は湧いてこなかった。母のように若く、まだ自分を必要としている人々が多くいる人が病に倒れ、後のことを気にかけながら世を去らなければならないのは、たしかに理不尽なことだ。だがこの場合、憤らなければならない相手は、運命だ。社会ではない。
 母が道に外れた恋をして自分を宿したことも、運命なのだろうか。義兄にひどい目にあわされ、仲の良かった姉との関係を壊され、夫を愛そうと努力しても愛することが出来なかった、それも運命なのだろうか。そして自分自身のこれまでの人生も、運命なのだろうか。アンソニー伯父のもとに引き取られることになったことも。パトリックが新世界創立伝説のファイルを開け、自分が共同閲覧者になって、引き寄せられるように芸能局に入ったことも。アヴェリンと出会ったことも。彼女との間に子供が出来たことも。そして彼女と結婚適正があわなかったことも。さらにはヘイゼルとブルースの結婚適正が合わなかったことも、アイド・フェイトンが最後にヒットを飛ばしてしまったことも、すべては運命なのだろうか。たしかに理不尽ではある。だがジェレミーは運命に対して憤っても、なにも道は開けてこないことを、無意識に悟っていた。
「それで、君はどうするかい?」アンソニーは問いかけてきた。
「このままここで……その、終わりを待つか、一回ニューヨークに戻るかだが」
「戻っても……また、来るんですよね」ジェレミーは伯父に視線を向けた。
「ああ。シンシアも、君に送って欲しいだろうからね」
「それなら、僕はここに残ります。伯父さんは、どうされますか?」
「僕も残るつもりだ」アンソニーは頷いた。
「母とエセルも、ここに残るらしい。ダニエルは、式にならないと来ないだろうな。まあ、兄はどうでもいいが」
「みんな、アンダーソンさんのところに?」
「ああ。ジョンは君も残るなら、来ないかと、重ねて言ってくれているが……」
「その気持ちはありがたいですが、僕はいいです」ジェレミーは首を振った。
「あの子たちも、そのうちに打ち解けてくると思うんだ」
 アンソニーはジェレミーを見、慰めるような口調で続けた。
「ただ、今は母親が死にそうなんで、みんな動揺している。無理もないだろう。初めて出現した兄にどう対処していいかまでは、あの子たちはまだ気が回らないんだ。シンシアのことで、心は一杯なのだから」
「ええ。わかっています。僕の方こそ、あの子たちを気遣わなければならないのに、僕もそこまで頭が回らないんです。情けないですが」
「いや、そんなことはないさ」アンソニーは微かに笑みを浮かべた。
「今はこんな状況なんだから、無理もない。あせらずに、もう少し時のたつのを待てばいいんだ。またいつか、機会があるだろう。その時にはあの子たちも、もっと成長できているはずだし、君も余裕が持てると思うよ」
「ありがとうございます」
 ジェレミーは短く言った。その時伯父に対して感じた気持ちは、事実を知る以前と、ほとんど変わりはしなかったことに、自分でも軽い驚きを覚えながら。

 翌々日の明け方、シンシア・ローリングス・アンダーソンは静かに世を去っていった。彼女の四二回目の誕生日から三か月が過ぎた、冬の日のことだった。その翌日、しめやかに葬儀が行われた。黒い喪服に身を包んだアンダーソン家、ローリングス家のみなが集まり、彼女は市民墓地に埋葬された。そして夕方、遅い人でも翌日の朝に、集まった親戚たちは、それぞれの家に帰っていった。
 葬儀翌日の午後、アンソニーが再びジェレミーの泊まる部屋を訪れた。
「みんな帰ったよ。僕らは夕方のアトランティック急行で帰ることにした。君もね」
「ええ」ジェレミーは頷いた。もうここに残っている理由もない。
「今残っているのは、僕と伯父さんだけですか?」
「いや、母とエセルもまだ残っているよ。四人で一緒に帰ることにしたんだ」
「同じキャビンで、ですか?」ジェレミーは驚いて問い返した。
「まあ、君には気詰まりだろうが……」
「いえ、それ以上に……エセル伯母さんやお祖母ちゃんが、僕と一緒で良いと?」
「かまわないそうだ」
 意外ではあったが、気詰まりな旅には違いないだろう。しかし、数時間の我慢だ。

 ニューヨーク行きのアトランティック急行は、十七時に発車予定だった。発車時刻の三十分前に駅に着くと、アンダーソン一家が見送りに来ていた。アンダーソン氏はアンソニーやマチルダ、エセルに感謝の言葉をかけ、子供たちも祖母や伯父の激励や慰めに、感謝しているように答えていた。ジェレミーは無言でそれを見守っていた。何か言うべきかどうか、考えながら。その時、テレンスが一歩こちらに近づいてきた。
「ジェレミー兄さん」
 その言葉に、ジェレミーは飛び上がるような衝撃を受け、少年を見つめた。
「あなたのことは、知っていました」テレンスはそう言葉を継いだ。
「一年前、母さんが話してくれたから。アイドル歌手のジェミー・キャレルが僕らの兄さんだと知って、本当にびっくりしましたが」
「ああ。ごめんね。驚かせて。それに君たちにも、迷惑をかけてしまって」
 ジェレミーは初めて言葉を交わす弟を見つめ、そう答えた。弟の目は母と同じ、明け方の空のような、すみれ色がかった灰色だった。
「迷惑じゃないですけれど」テレンスは首を振った。
「ただ、驚いただけです。この間は、なにも言えなくて、ごめんなさい。僕たちも母さんが死んでしまうので悲しくて、あなたになんと言っていいか、わからなかったから」
「いや……僕こそ、ごめん。僕は年長なんだから、君たちに何か言うべきだったとは思ったんだ。君たちの悲しみは、よくわかったし……慰めてあげられたら、と思ったけれど、僕なんかを君たちは兄と認めてくれるのか、それも自信がなかったんだ。それにあの場では、どんな慰めも言えそうになくて……」
「ええ。でも、認めるも認めないも、お兄さんでしょう? あなたは母さんの子供なのだから」テレンスの口調はまっすぐで、いささかの迷いもないように感じられた。
「結婚する時、君を引き取れなくて、すまなかったね」
 アンダーソン氏が口を開いた。
「僕はシンシアがどうしてもと望むなら、そうしても良いと思っていたんだ。だが僕の親兄弟は反対したし、シンシアもたってそうは望まなかったから、ローリングスさんのご好意に甘えてしまった。君からすれば、言い訳にしか聞こえないかもしれないが、気にはかかっていたんだ。シンシアも表立ってはなにも言わなかったが、気にしているのは知っていた。君の写真をいつも持っていたからね。君の放送プログラムも、よく見ていたよ」
「そうなんですか」ジェレミーは微かに笑みを浮かべ、氏に向き直った。
「いえ、アンダーソンさん。僕はあなたに感謝しています。僕のことまで気にかけていただいて、本当にありがとうございました」
「……それで、ジョン。やっぱり決心は変わらないのかい?」
 少し間をおいて、アンソニーがたずねていた。
「はい。ここで子供たちと暮らしていこうと思います。テレンスも年末に職業適性を受ける予定ですし、レイチェルとルースも、できるだけジミーの面倒を見て、がんばって暮らすと言っています。メイドロボットも一台借りられることになりました。僕も四十をとうに越えたし、四人子供がいるので、政府も再婚しろとは言いませんから」
 アンダーソン氏は微かに笑った。その笑みは悲しげで、同時に誇りに満ちていた。彼は亡き妻を愛しているのだ。他の誰も、その座を継ぐものはいないのだ。その笑みの中に、ジェレミーはその思いを読み取った。
「ジェレミー兄さん、これ」
 テレンスが何かを差し出した。薄緑色のプラスティックペーパーで出来た、封筒だった。
「あまり話している時間もないし、それに面と向かっては照れるとみんな言うんで、僕たち、みんなで手紙を書いたんです。帰りのシャトルの中で、読んでください」
「あ……あ、ありがとう」ジェレミーは驚きながら受け取った。
 発車時間が来て、改札を抜ける一行を、アンダーソン一家は見送っていた。ジェレミーが振り返ると、テレンスは大きく手を振り、レイチェルとルースは少しはにかんだ様子で、小さく手を振っていた。ジミーは片手で姉の腕をつかんだまま、本当に一瞬、ちらっと手を振って見せた。ジェレミーは笑みを浮かべ、弟妹たちに手を振った。アンダーソン氏も手を上げていたので、敬意を込めて目礼を返した。

 アトランティック急行は深い夕闇の中を走り出した。キャビンの向かい側の座席には、マチルダとエセルが座っている。二人とも長く黒い喪服に身を包み、黒い帽子をかぶっていた。マチルダはもう髪もすっかり白くなり、顔には幾重にもしわが刻まれていた。彼女はハンカチを取り出し、幾度もすすり上げている。
「ああ、この年になって、子供に……しかも、末っ子に先立たれるなんて……」
 そんな呟きを繰り返し、やがて泣き疲れたのか、眠ってしまったようだった。
 エセルは窓枠に頬杖をつき、まるで彫像のようにそのままの姿勢で、じっと窓の外を眺めていた。目線を動かしもしなかった。アンソニーはジェレミーの隣に座り、腕組みをして目を閉じているようだ。
 ジェレミーはしばらく窓の外を見つめ、景色が夜の大海原へと変化すると、手にした封筒に目を落とした。そっと封を切り、開いてみた。中には封筒と同じうす緑色の、プラスティックペーパーが入っていた。なにか書いてある。インクペンシルで書いた、手書きの文字のようだった。

「ジェレミーおにいさんへ。
 こんにちは。お元気ですか? なにもお話できなくて、ごめんなさい。またプログラムに出るのを、たのしみにしています。こんどぼくにも、なにか歌ってください。おにいさんは、サッカーが上手ですか? テレンスにいちゃんと、どっちがうまいですか? またあそびにきてね。
  
                                ジミー

 ジェレミーお兄さんへ。
 初めまして、ルースです。お兄さんがわたしたちのお兄さんだとわかったときには、びっくりしました。でも、わたしはなんだか得意です。お兄さんはかっこいいし、すてきです。お話できなくて、ごめんなさい。半年後には、またプログラムに出てきてくれると、アンソニー伯父さんが言っていました。楽しみにしています。わたしは本当は、歌よりドラマの方が好きなんだけれど、お兄さんははいゆうさんじゃないんですね。わたしは小説を読むのが好きです。話すことも好きなので、今度はもっとお話したいです。こっちへきたときには、あそびに来てくださいね。
                               ルース

 ジェレミーお兄さんへ。
 はじめまして、レイチェルです。会えてうれしかったけれど、何を話したらいいかわからなくて、それにお兄さんがとても大人に見えて、かっこよくて、ちょっとあがってしまいました。わたしはお料理をべんきょうしています。ママがいないので、わたしとルースでママになるつもりです。失敗も多いけれど、がんばります。おにいさんも、がんばってください。こんど来たときには、お兄さんにわたしのお料理を食べてもらいたいです。もちろん、失敗作じゃなくて、ちゃんとしたのを。それじゃ、またね。

                              レイチェル
      

 ジェレミーお兄さんへ。
 こんにちは。会って話そうとすると照れるとみんなが言うので、手紙を書くことにしました。ジミーの字はまだ読みにくいですが、我慢して読んでやってください。僕たちみんな、お兄さんのことをもっと知りたいと思っています。兄弟なんだから、時々来てくださいね。お父さんも、そうして欲しいと言っています。母さんが死んでしまったのは、もちろん僕たちみんなにとって、とても悲しいし、ショックなことだけれど、あまりいつまでも悲しがっていたら、お母さんも心配するからがんばってと、アンソニー伯父さんも言っていました。でも、泣きたい時には泣いてもいいって。どっちにすればいいのだろうって、妹たちや弟は不思議がっていましたが、僕にはなんとなくわかります。泣いてもいいけれど、泣いてばかりじゃだめということですよね。僕たちはみんなで力を合わせて、がんばっていこうと思います。特に小さくしてお母さんと離れてしまったジミーが、あまり寂しい思いをしないように。でも、考えてみたら、あなたはもっと小さい時から、お母さんと離れて過ごしていたんですよね。きっと寂しかったんだろうな、って思ったんですが、お父さんも事情があったらしくて、ごめんなさい。
 僕は十二月に、適正テストを受けます。本当は僕の誕生日は七月なんですが、十歳の時に半年病気をして、カリキュラムを中断したので、その分少し遅れてしまって。それで、親戚のみんなは変な顔をしますが、僕は学術文化研究局へ行きたいんです。パトリックさんが学術研究局だってアンソニー伯父さんが言っていて、いろいろお話を聞いたのですが、その時にあなたの今の活動のことも聞きました。学術はお手伝いしてもいいのなら、もし僕が学術研修生になれたら、あなたのお手伝いをしたいです。だめでしょうか? もしうまくいったらまた連絡したいので、できたら連絡先を教えてくれると、嬉しいです。そしてロンドンに来たときには、ぜひうちへきてくださいね。待ってます。 
                             テレンス  」                       

 ジェレミーは何度も手紙を読み返した。読み返していくうちに、視界がぼやけていった。涙が頬を流れるままに任せ、手紙を抱きしめた。そして幾度も呟いた。「ありがとう」と。母は逝ってしまったが、自分は一人ではない。その思いに強く揺さぶられた。自分には四人の弟妹たちがいるのだ。ニューヨークについたら、さっそく彼らに手紙を書こう。ありったけの感謝の気持ちを込めて。
 ジェレミーは手紙をたたみ、封筒に収めて、上衣のポケットに入れた。そして顔を上げた。マチルダは相変わらずうたた寝をしているようで、エセルも微動だにせず、窓の外を見つめている。つと、その青ざめた頬を、一筋涙が伝っていった。ジェレミーは軽い驚きに打たれ、伯母を見た。彼女は相変わらず視線を外に向け、姿勢も崩さない。しかし、涙はそのまま流れ続けていた。アンソニー伯父が顔をあげ、伯母を見、手を伸ばしてその手の上に重ねた。エセル伯母は伯父を見、すぐにまた視線をそらせた。
「……この二四年間は……もう取り返せないわ……」小さな呟きが漏れた。
「最後に君たちの間の誤解が解けてよかったよ、エセル」
 アンソニーは低い声で言っていた。
「誤解だっていうことは、わかっていたのよ。悪いのは、あの人。ただ、それを認めたくなかっただけ……」ボブヘアにした褐色の髪に、かなり白いものが混じり始めている伯母の、やせてとがった顔の上を、再び涙が流れていった。
「でもそうしなければ……あの娘を憎まなければ……わたしは狂ってしまったに違いないのよ。でも……」
「最後に君たちは、仲良し姉妹に戻れた。元のように。シンシアは嬉しかったんじゃないかな」
 アンソニーに言葉に頷き、伯母は涙を拭うと、再び窓の外に眼をやった。
 無言のうちに、時が流れた。
 シャトルがまもなくニューヨークに到着するという時、マチルダが目を覚ました。そしてしばらくのち、声をかけてきた。
「元気でやっている、ジェレミー?」と。
 ジェレミーは驚きのあまり、しばらく返事が出来なかった。が、かろうじて笑みを浮かべ、答えた。
「はい……」
「モーリスも、元気にしているかしら」
 エセル伯母までが、そんなことを聞いてくる。
「はい……元気にしています」
「あの子は気性が荒いから、あなたは大変かもね」
「いいえ。彼は良い人ですよ」
「そう。それなら、いいけれど……」
 インターシティ・シャトルのステーションで二人と別れ、ジェレミーは不思議な気分が冷めやらぬまま、伯父とともにミニシャトルに乗り込んだ。
「驚いているようだね、ジェレミー」
 アンソニーが小さく笑いながら、声をかけてきた。
「ええ……」
「母さんはあまりにここ数年間、いろいろありすぎて、結婚してから植えつけれられてきた価値観に、信頼が置けなくなったと言っていたのさ。君のことも、あんがい良い子なのかもしれないと。エセルは……元の彼女に戻ったと言って良いだろうか。二四年ぶりにね」
「そうなんですか」
「詳しい話は……シンシアが君にしただろうか」
「……エセル伯母さんとの誤解の話は、聞きました」
 ジェレミーは再び大きな塊がのどを塞ぐのを感じながら、かろうじて飲み下して答えた。
「そうか。それなら君にもわかるだろう。あの二人は、昔は非常に仲が良かったんだ」
「伯父さんとも、仲が良かったそうですね」
 できるだけ平静な声を出そうと勤めながら、ジェレミーはそう言ってみた。
「ああ。よく二人にくっつかれていたなあ」
 アンソニーは懐かしそうな表情を浮かべていた。
「遠い昔のことだ。でも最後にエセルとシンシアが和解できて、本当に良かった」
「そうですね……」
 ジェレミーは頷いた。たしかに母も、そのことには喜んでいたに違いないと思いながら。

 練習所で仲間たちと再会した時には、ジェレミーは静穏な気分だった。パトリックには一度、メラニーやマーティン、ヒルダの一家とともにシンシアの葬儀で会っていて、その時に言葉を交わしている。彼らに会った瞬間に感じた、言葉にすることの出来ない違和感は、しかし一瞬で氷解していた。彼らとの関係は、なにも変わりはしないのだ。伯父と母の真実がどうあれ。
 モーリスは一族の儀式には今まで一度も来たことがないという例に漏れず、シンシアの葬儀も欠席だったが、真っ先にそのことを詫びられた。そして彼は照れくさそうに頬をかきながら、こう付け加えていた。
「行きたかったんだぜ、俺も。おまえのお袋さんのこと、俺は良く知らないが。でもおまえのお袋さんだし、俺の叔母さんでもあるからな。でもなあ、いまさら親戚連中の前になんか、出たくなくてな」
「うん。気持ちだけで嬉しいよ、モーリス」
 ジェレミーはそう答え、そして言葉を継いだ。
「エセル伯母さんに、君が元気かどうか聞かれたよ」と。
「お袋が? 俺のことをか? 嘘だろう?」
 モーリスは心から驚いたようだった。
「伯母さんは、少し変わったみたいだ。というより、昔に戻ったらしいよ」
「昔って、お袋は昔から、ああだがなあ」
 不思議そうなモーリスに、ジェレミーはただ微笑むだけだった。エセルの変化はきっとそのうちに、彼女の息子にも理解されるだろうと思いながら。ケネスからは、心のこもったお悔やみの言葉を言われた。ジェレミーは感謝し、仲間たちがいることに対しても、暖かい思いに満たされていた。

 再び戻ってきた練習所で、仲間たちが練習にやってくるまでの午前中、最初の日は弟妹たちに手紙の返事を書き、それからはデスクに頬杖をつきながら、ジェレミーは思いにふけっていた。母の最後の日々を思い、母の生涯を思い、そしてロンドンにいる異父弟妹たちの上に、思いをはせた。切なく、悲しくはあったが、不思議に暖かい思いを感じた。
――母への思いを綴りたい。三日目の朝、不意にそんな衝動が湧き上がってきた。彼女に対する気持ちを伝えたい。そして弟たち妹たちへの思いも。家族――決して自分が持てなかったもの。しかしそれでも自分は、心の中では彼らの一員になれる。
 言葉があふれ出てきた。ジェレミーは夢中でキーを叩いた。そしてその言葉たちを繰り返し読んでいるうちに、メロディが浮かんできた。二日後、ジェレミーが初めて手がけたオリジナル曲が出来上がった。「Family Bond(家族の絆)」
「やったな! とても良い曲だよ!」
 パトリックは曲を聞くと、即座に声を上げた。
「うん。ついに出来た」
 ジェレミーは喜びに頬を紅潮させ、従兄と手を叩きあった。
「わかったよ。自分の言葉で、自分の音楽を綴るって、どういうことか。本当の、自分の心なんだ。自分の気持ちなんだ。彼らの曲は、彼らの感情だ。共感はできるけれど、まだ完全に自分のものにはなれないんだ。だから、それに捉われている間は、自分の曲が書けなかったんだ。わかったよ、パット。今、僕は書ける。そう思った」
「そうだな! 本当に、凄いよ、ジェレミー!」
 興奮はすぐに仲間たちに伝染したようだ。彼らは意見を出し合って、楽器部分のアレンジを考えていた。その間に、ジェレミーはもう一つの曲を生み出した。もう一つの家族、いや、家族になったかもしれないもの。アヴェリンと、まだ見ぬ自分の子供のために。「Love song」
 タイトルはどれもシンプルにしか付けられなかったが、ジェレミーは満足だった。深い達成感と高揚に、心が満たされていた。そして続く三ヶ月半の間に、ジェレミーはさらに五つの曲を書くことが出来た。仲間たちも、それに見合ったアレンジをつけることができた。気がつくと、大統領が定めた準備期間が、まもなく終わろうとしていた。

「あと二週間で、いよいよ活動開始だな」
 六月、ハワード氏がどことなく興奮したような口調で、そう告げた。
「ええ」ジェレミーは頷いた。
「準備は出来たか?」
「ええ。オリジナル曲が七曲出来ました」
「そうか。それではまず、芸能局のホーム期間と同じように、四週間のインターバルを置いて、一つずつ出していこう」
「二週間間隔では、だめですか?」
「二週間? ずいぶん短いな。浸透する期間がないんじゃないか?」
「七曲を四週間間隔で出していったら、それだけで半年過ぎてしまいます。それに僕たちは、音楽プログラムに出るつもりはないんです」
「宣伝活動はしないのか? それで、ヒットを出せるのか?」
「わかりません。わからないけれど、音楽番組は、僕は好きではないんです。音源と映像、二ファイルだけを流通させたいんです」
「そうか。まあ、おまえの好きなように活動するということだから、それでも良いだろう。成功するかどうかは、ともかくな。それで、二週間間隔で出したら、七曲で三ヵ月半だ。期限は六ヶ月だから、残りは二ヵ月半。この間に演奏会かね?」
「そうですね。できれば」
「ではそれで、大統領に申請して、許可が下りれば、手配しておこう」
「よろしくお願いいたします。それと、一つ気になるんですが……」
「なんだ?」
「ロード期間ともなれば、仲間の三人も二四時間拘束になってしまうと思うのですが、その間だけでも、本来の職務を免除できないかどうか、大統領に頼んでみていただけないでしょうか」
「わかった。その問題は、たしかにあるな」
 
 三日後、ハワード監督官はヘリウェル大統領からのメッセージを携えてきた。ロード期間中のみ、協力者たちは芸能局へ一時出向という形にして、その間本来の所属局での活動は免除される、と。
 六月半ばのその日、ジェレミーとその仲間三人は、音源ファイルを撮るために芸能局の門をくぐった。いよいよ彼らの活動を世に問う時が、やってきたのだ。




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