Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第九章 道を求めて(5)




「ジェレミー」
 母が呼ぶ声で、彼は再びベッドの上に眼をやった。
「あ、ああ。母さん、ごめん。ちょっとぼんやりしていて」
 ジェレミーは微笑もうとした。そして、傍らに置かれているスツールに腰を下し、両手で、母のすっかり細くなった手を、包み込むように握った。シンシアも、微笑もうとしているようだった。頬はこけ、皮膚は生気をなくし、紙のような白さだったが、その眼は熱気を帯びて光り、まだ血の筋が残る薄い唇が、微かに笑みを作った。ジェレミーはいったん手を外し、サイドテーブルの上に置かれた洗浄綿を一つとって、母の口元からそっと血をふき取ったあと、再びその手を握った。
「僕は聞いているから、でも、母さん。無理しないで。話すのが辛かったら、僕はこのままで良いから、なにも言わないで。こうして会えただけで、僕は本当に嬉しいんだから」
「ありがとう、ジェレミー」
 シンシアは再び微笑もうとしたようだった。そしてしばらくの沈黙ののち、口を開いた。
「わたしは……子供の頃は……幸せだった」
 母の目に、過ぎ去った時代を懐かしんでいるような光が現れた。
「家族、みんなに……かわいがって、もらえて……特に、ママと……アンソニー兄さんと……エセル姉さんには。わたしは……みんなが……特に、ママと兄さんと、姉さんが……大好きだった。お互いが、好きで……遊んだり、話したり……ああ、わたしはあの頃、自分が世界で一番……幸せな女の子だと、思っていたわ」
 そこでため息を一つつくと、また彼女は語りだした。
「ママは……よく姉さんと私に、おそろいで、かわいい洋服を……買ってくれたの。わたしたちは、手をつないで……買い物にいったり、公園に、行ったり……アンソニー兄さんが、わたしたちの監督役で……わたしたち二人、いつも兄さんのあとを、ついてまわって……どっちが兄さんの、お気に入りか、なんて……良く、言い合っていたものだわ。でも、姉さんは……決して張り合おうと、いうんじゃ、なかったの。わたしを、からかっていたのだと、思う。姉さんは、優しくて……いちばんの、仲良しだった」
 エセル伯母と母が仲の良い姉妹だったとは、ジェレミーには見当もつかなかった。幼い日々に残る記憶では、母の結婚式が終わった時、自分に向けられた冷たい、軽蔑に満ちた表情と、『あなたはいない方が良かったの』という言葉しかない。廊下から玄関へと、新婚旅行に向かう母の後ろ姿に向けられた視線も、記憶に残っている。それは氷のように、ぞっとするほど冷たかった。ヒルダとヘイゼルの結婚式の時も、一瞬向けられた、射るような鋭いまなざしの冷たさ、そして見ている限りではその時も、伯母と母は一言も話をしなかった。モーリスの話からも、この伯母に人間味を見出すことは難しいように思われた。しかし、少女の頃の彼女は違っていたと、母は言うのだ。そういえばモーリスも、彼が本当に幼少の頃は、優しい母だったと言っていた――。
「それから……人生最大の衝撃が……訪れたわ」
 シンシアはジェレミーの顔に視線を移し、言葉を継いだ。
「兄さんが、結婚して……しまったのよ。まだ、二二歳……だったのに」
 彼女は、微かな歪んだ笑みを浮かべた。
「変に、思うでしょうね、ジェレミー。自分の……兄さんなのに。いつか結婚するのは、当たり前なのに。それでも、わたしは……あまりに、兄さんが、好きだったから……それに、もう少し……先だとも、思っていたから……こんなに、早く、自分の家から、家族から、出て……他の人を愛して、家庭を築くのが……いやだった。もちろん……パパやママも、ダニエル兄さんも……反対したけれど、わたしは……メラニー義姉さんが、嫌いだった……わけでは、ないわ。ああ、いえ……嫌いだった、かも知れない。でも、それは……他のみんなのような、理由じゃなく……兄さんを、取っていって、しまった人だから……」
「そんなに母さんは、アンソニー伯父さんが好きだったんだね」
 ジェレミーは微笑んだ。伯父はその妹たちから慕われていたと、いつかメラニー伯母が言っていた時、伯父なら不思議ではないだろうな、と思ったものだった。
「でも……エセル姉さんがいて、くれたから……救われた、けど、姉さんも……四年後には、結婚してしまって」シンシアは軽く眼を閉じ、言葉を継いだ。
「兄さんも、姉さんも、結婚して、家を出てしまって……わたしは、寂しかった。それで、よく、姉さんのところへは、遊びにいっていたの。兄さんのところは……仕事もあったし、それにやっぱり、メラニー義姉さんに……心理的な、こだわりもあって……行けなかった。でも、エセル姉さんの、ところへは……行っていたの。バリー義兄さんも……わたしに、優しくて……居心地が、良かったのよ。お茶とお菓子で、おしゃべりをしたり……モーリスが、生まれた時……抱っこさせてもらったりも、したわ」
「そう……」それなのに、いつから二人は今のような間柄になってしまったのだろうと訝りながらも、ジェレミーは頷いた。
「でも、モーリスがもうじき二歳に、なる頃……とんでもないことが、起こったの」
 シンシアは再び目を開け、漠然と天井を見つめながら、話を続けた。
「その日、いつものように……わたしは姉さんの家に、遊びに、行ったの。休日で、家には、バリー義兄さん、だけだった。姉さんは……モーリスを連れて、公園に……行っているという、話だったわ。わたしは……待っていたの。義兄さんも、そうしなさいって……言って。紅茶を、飲んで……話している、うちに……義兄さんは、寝室に、取ってきて欲しいものが……あるって、言って……わたしが、行って……探しているうちに、義兄さんは突然、わたしを、ベッドの上に……押し倒したのよ」
「えっ?!」
「わたしは……抵抗したけれど……無理だった」
「母さん……」
「最悪なことに……そこに、姉さんが、帰ってきたのよ……ベッドの中にいる、義兄さんとわたしを……見つけたの。そして、わたしたちの仲は……終わってしまったのよ」
「そんな……! だって、母さんは被害者なのに??」
「わたしは、説明しようと、したわ……でも、姉さんは……聞いて、くれなかった。あの時の、姉さんの顔は、一生、忘れられないわ。ぶるぶる、震えて……蒼白な、顔で……眼に、涙をためて……怒って、いたんじゃない。姉さんは……ひどく、傷つけられていた……もう二度と、立ち上がれないくらい、ひどく。バリー義兄さんは、決まり悪そうな顔で……妹が、あまりに魅力的……だったから。それに、しつこく誘われたから……そんなことを、言ったのよ。わたしの、せいに……しようと、するの。わたしは、傷ついて、もう何もかも、いやになって、服を直すと……姉さんの家を、飛び出したわ。そして、気がついたら……アンソニー兄さんの家に、行っていたの」
「……」
「兄さんは、家にいたわ。でも、メラニー義姉さんは……ヒルダと、ヘイゼルを連れて……実家に用があって、留守だったの。マーティンと、パトリックは……いたけれど、二人ともまだ、一才半たらずの、赤ちゃんで……ベビーベッドで、お昼寝を、していたわ。わたしは……兄さんに、すがって……何もかも、打ち明けたの。兄さんは……わたしを、きつく、抱きしめてくれて……『そんなことは、何もかも忘れるんだ、シンシア。だが……もう二度と、バリーには会うな』……って」
「それじゃ……それじゃ、もしかして、僕は……」
 ジェレミーの心に、恐ろしい疑問が湧きあがってきた。自分は強姦の末に出来た子で、なにも疑わない母を犯し、あまつさえ卑劣な嘘をついて罪を逃れようとした、恥知らずのバリー・ハイマンが自分の父親ではないのだろうか、と。かつて、ヒルダとヘイゼルの合同結婚式の時に見かけた、その義理の伯父を思い起こした。モーリスと同じように大柄で、筋肉質のがっちりとたくましい身体に、短く刈り込んだ濃いとび色の頭髪。太い眉毛の下の眼は細く、険しく、引き結んだ唇は両端が垂れ下がっていた。分類的には好男子に入るのかもしれないが、なんとも計算高そうな、いやな感じを与えた。
「最後まで……聞いて、ちょうだい、ジェレミー」
 シンシアは否定も肯定もせず、その眼をじっと見つめていた。ジェレミーはからからに口の中が渇くのを意識しながら、頷いた。
「わたしは……あの時、我を、忘れていたわ。すっかり、取り乱して……すがれるものは……大好きな、兄さんしかいないと……それだけしか、頭になかった。わたしは……とんでもないことを……兄さんに、頼んだの。わたしを、抱いて……汚れを、取り去って……でないと、わたしは、一生……穢れているような、気がしてしまうって。そうして……くれなかったら……わたしは……死んでやるって」
「えっ、それで……まさか……」
「兄さんも、わたしを、納めるには……それしかない、と、思ったんじゃ、ないかしら。あまりに、わたしが……必死で……本気だった、から」
 シンシアは天井に眼をやったまま、微かに悲しげな微笑をもらした。
「わたしも、本当に……それでしか、救われる、道はないと……思っていたの。わたしは……気づいたのよ。兄さんに、感じていた、気持ちは……兄妹愛、なんかじゃない。わたしは……兄さんを、愛していたって。ずっと……」
「兄妹なのに……? そんなの、考えられない……」
「普通の人は、そういう、わね……」シンシアは再び微かな笑みを漏らした。
「でも、すべての人が……そうだという、わけではない……のかも、知れないわ。少なくとも、わたしに……とっては……」
「……」
「そして……わたしは、あとになって……自分の行いの、罪深さを……知ることに、なるのよ。わたしは……その日、妊娠して、しまったの。あなたを……」
「えっ、それじゃ、僕は……」
「初めは……どちらの、子供なのか、わからなかったわ……」
 シンシアは、ほっと息をつき、天井に視線を泳がせた。
「どちらでも……ありうる、から……。アンソニー兄さんは……わたしの妊娠が、わかる前に……サンパウロ市に、移住してしまった。向こうに、良いポストが、あるから……って。でも、わたしは、なんとなく……悟ったわ。兄さんは……わたしのそばにいては、良くないって……思ったんじゃ、ないかしらって。わたしの思いが……真剣だから、なおさら……離れていれば、きっと、わたしも他の人を……見つけられる、そう思ったんじゃ、ないかしら。兄さんはあとで、ママから……わたしの妊娠を、知らされて……通信して、来たわ。でも、あなたは……いえ、正確には、双子だった……けれど……成長が、他の、赤ちゃんたちより……遅かったようね。お医者さまの、見立て週数は……実際より、二週間……遅かったの。だから、兄さんに……あのことは、関係ないって……思い込ませることが、出来たんだけれど……でも、それから、わたしは、そんな……ことは、二度としていない、から……あの時の、どちらか、しかないとは……思っていたけれど、でも、兄さんには……知って欲しく、なかった。もし、そんなことが、起きたら……きっと、兄さんだって、正気では……いられなくなると、思ったから……だから、わたしは、あれから半月後に……他の人と一時的に、仲良くなって……うっかり勢いに、流されて、そういう関係に……なったって、言ったの。でも……名前も知らない、人だって……もちろん、真っ赤な、嘘だけれど……兄さんは、納得した……みたいだった。妊娠週数の……見立てが、違ったのも……幸いして」
「でも、実際は……そうなんだね」
 そう問いかけるジェレミーは、自分の声がひどくかすれているのを意識した。しかし、頭の中で母の言ったことを吟味するだけの力は、まだ湧いてこなかった。
「ええ……」シンシアは頷いた。
「わたしが……赤ちゃんは、どちらの子なのか……はっきり、わかったのは……生まれた時の、障害を治すために……手術が必要、だって、お医者様が……言って……赤ちゃんの、血液型を、告げた時よ。バリー義兄さん……だと……子供は、O型しか、生まれない。彼も……わたしも、同じ、O型だから。でも……兄さんは、A型で……あなたも、そうなの」
 シンシアはほうっと一つため息をつき、頭をめぐらせて、眼を閉じた。これだけ長い話をするのは、今の彼女にはひどく負担なのだろう。眼を閉じたまま、シンシアは半ば呟くように、言葉を継いだ。
「わたしは……忘れようと、したわ。すべて……ジョンと、結婚して……あの人を、愛して……でも……努力しても、あの人を……愛することは、出来なかった……好意、だけしか。ジョンは、わたしを……愛して、くれていたのに。わたしは……罪びと、よ。恐ろしい、罪びと……なのだわ。だから、罰が……当たった、のよ。きっと……死んでも、死に切れずに……闇の中を、さまようのかも、知れないわ」
 母は目を見開いた。その瞳の中には、深い恐怖が宿っていた。
「死にたく、ない!」シンシアは振り絞るように声を上げた。
「死ぬのは……怖いわ。こんな、罪びとの、わたしには……きっと、死んでも、罰が……下されるのよ。それに、それに……わたしは、また、子供たちを……捨てることに、なってしまう。テレンスも、レイチェルも、ルースも……ジミーも……ああ、小さなジミーは、まだわたしを必要と、しているのに。娘たちも……」
「母さん!」ジェレミーは母の両手を合わせるように、自分の両手でつかんだ。
「母さん、大丈夫だよ。母さんは、罪を犯したかもしれないけれど……だけど、それは一度限りの、それもひどい目にあって、気分が乱れている時に犯してしまった過ちなんだから、神様も……死者の国の裁き人が、もしいたとしても、許してくださるよ、きっと。アンダーソンさんにも、母さんは精一杯やったんじゃないかな。幸せな家庭を、あの人のために築いたんだ。たとえ真の愛情がなくても、母さんの心からの努力は、あの人を幸せにしたんだ。だから、それは罪じゃないよ。子供たちのことは、去っていくのは、母さんの意思じゃない。だから、仕方がないんだよ。怖がらないで、お願いだから。大丈夫だよ。大丈夫だから……」
 その言葉は、自分とは別の意識から湧き出したもののように、ジェレミーは感じた。今、何かを考える力は、彼自身には残っていなかった。しかし、たぶんジェナインのものであろうこの言葉はまた、ジェレミー自身の思いでもあると、はっきり感じていた。
「ああ、ごめんなさい……」シンシアははっとしたように呟いた。
「受け入れようと、していたのに……だめね、わたし……」
「ううん。怖くない人なんて、いないよ、きっと」
 ジェレミーは母が流した涙を、そっと指で拭った。
「ごめんなさいね、ジェレミー……あなたには、酷な話に、なったと……思ったのに……あなたは、冷静で……わたしを、慰めて、くれる。よかったわ……あなたが、強くて」
 ジェレミーは微笑もうとした。そして、無言で母の手を握り締めた。
 やがて、病室に置かれた通信機が鳴り出した。ジェレミーがセッションを開くと、アンダーソン氏が画面に現れ、そろそろそちらに行っていいか、シンシアに聞いて欲しいと言ってきた。
「母さん、僕らの話が終わったかって。アンダーソンさんと、子供たちが来ていいかって聞いてきたよ。それから、アンソニー伯父さんも」
「ええ。大丈夫よ……」シンシアは頷いた。
「ありがとう、ジェレミー。会いに、きてくれて。話を、聞いてくれて……」
「僕こそ、ありがとう……」
 ジェレミーは母の乱れた髪を直し、そっとその額にキスをした。
「母さん、本当はみんなが来るまで、ここにいたいけれど……ちょっと、考えたいことがあるんだ。僕は庭にいるね。また、帰る時に来るから」
「ええ、わかったわ」
 シンシアは眼を閉じ、やがて眠ってしまったようだった。
 
 母が寝息を立て始めると、ジェレミーはそっと病室を抜け出した。このまま病床の母のそばにもいたかったが、今はアンソニー伯父と平静な気持ちで会うことは出来なさそうだった。ジェレミーは足早に廊下を抜け、病院の建物を出て、中庭のはずれに立った木のそばにしゃがみこんだ。そこで始めて、母から聞いたことがはっきりと形になって、押し寄せてきたのだった。
 自分は、実の兄妹の間に出来た子なのだ。その衝撃はあまりに恐ろしく、すべての思考を奪い去ってしまいそうだった。正気で直面できる事実では、とてもなかった。しかし母の話が真実であることは、疑いもない。だからこそ、自分が出生時に負った障害が、あれほどひどかったのだろう。あまりに濃すぎる血ゆえに。
 母の熱に浮かされた妄想であったなら、どれだけ良かっただろう。病気で意識レベルが低下し、偽りの記憶や確信が生まれたのだとしたら――いや、もしかしたら、そうなのかもしれない。本当には、こんなことは絶対ありえない――その思いに、ジェレミーは必死になってしがみついた。
 母の話が本当なのか、それを裏付ける証言が出来る人は、アンソニー伯父しかありえない。しかし、伯父にその疑問をぶつける気には、到底なれなかった。そしてその伯父を父と呼ぶ勇気は、自分には一生もてそうもないと感じた。いや、決して呼んではいけないのだ。たとえ心の中でも。そんなことを認めたら、自分は狂ってしまう。
 アンソニー伯父の一家にあんなに惹かれたのは、自分の呪われた血のせいなのだろうか。彼が自分を引き取ってくれようとしたのも、心の片隅で、この甥が妹との間に起きた、ただ一度の過ちの果実ではないかという疑いを、たとえはっきりと意識せずとも、持っていたせいではないのだろうか。伯父夫婦の子供たちが自分を兄弟のように遇してくれたのは、彼が単なる従弟ではなく、血を分けた半兄弟であるということを、無意識のうちに感じていたせいなのだろうか。メラニーは――でも、メラニー伯母はそんなことなど、微塵も感じていなかったに違いない。彼女はジェレミーに対して、ひとかけらの敵意さえ持っていない。実際に自分を引き取ることを最初に思いついてくれたのは、メラニーなのだ。夫の裏切りの果実であることなど、露ほども疑わずに。
 そしてバリー伯父と母との間に起きたことを知った今、エセル伯母が自分に向けた敵意の正体をも、理解したような気がした。エセル伯母は、妹がその後、兄の元に走ったことは知らないはずだ。週数は合わないものの、妹の子がまた夫の子でもあったなら、と疑う瞬間も、あったのかもしれない。もしかしたらその後も二人が会ったのかと、疑心暗鬼になったとも考えられる。エセル伯母はジェレミーの血液型も、夫との間に血縁関係がないことも、たぶん知ってはいない。それゆえに、彼女は言ったのかもしれない。
『あなたは、いないほうが良かったの』と。
 それは正しいのだろう。ジェレミーはうめき声とともに認めた。自分は呪われた果実なのだ。母が生まれたばかりの自分を心の中で捨て去ろうとしたのも、不思議はない。たった一度の過ち、その罪の生々しい形が子供となって存在し、それをいやでも目にし続けなければならないのは、耐えられなかったことだろう。だからできるだけその存在を目にしたくなかったのだし、忘れたかったのだろう。
 もう伯父には会えない。まともにその顔を見、平静に言葉を交わせる自信がない。ヒルダやマーティンや、そしてパトリックにも、もう会えない。彼らが従弟と信じて疑わない自分が、実は穢れた、呪われた異母兄弟なのだということを知ったら――いや、彼らは決して知りえないだろう。でも、自分は知っている。それだけに耐えられない。
 ジェレミーは逃げ出したかった。何もかもから。自分の親戚、すべての人たちから。この世界から。すべてを終わりにして、この呪われた血も終わりにしてしまいたい。
 いや、終わりにはならないのだろう。アヴェリンの子供がいるから。しかし、その子は自分の呪われた血を引いているとはいっても、半分は彼女の血が混ざっている。だが自分自身は、この世に存在を許されたものではない。
 ジェレミーは立ち上がって、大声で叫びたかった。このまま地の果てまでも駆けていき、断崖から海に飛び込みたかった。自分の存在を、彼は今はっきりと呪っていた。何もかもが、耐えられなかった。

『ジェレミー』
 呼びかける声に、ジェレミーははっとして顔を上げた。
 目の前に再びジェナインの幻がいた。手を差し伸べ、彼は笑う。
『衝撃的な話だったね』
「衝撃的どころじゃないよ!」ジェレミーは思わず声を上げた。
『でも、それは僕らのせいじゃないよ』
 ジェナインは穏やかな瞳で、そう続けた。
『僕らは許されない出生だったとしても、現にこうして生きているんだから。呪われているなんて、思わないほうが良いよ。僕らが望んで、そうしているわけじゃない。責めてみたって、しょうがないことさ。もし罪があるとしたら、あの卑劣な男、バリー・ハイマンだろう。あいつがあんなまねをしなければ、その後の展開はなかった。僕らも生まれていないだろうけれどね』
「そうだろうね……」ジェレミーはゆっくりと頷いた。
『僕らには、責任はないことだよ』ジェナインはそう繰り返した。
『だから、もう思い悩むのはよしなよ。君は、これからも生きていくしかないんだ』
「そうなんだろうね……」
 ジェレミーは再び頷いた。渋々ではあったが。たとえ自暴自棄に刈られようとも、自分が命を断てるとも思えなかった。今ようやく、長年の夢に向かって走り出したばかりなのだ。信じてついてきてくれる、仲間もいるのだ。ああ、しかし、その仲間たちに――特にパトリックに対して、今までどおり接することが出来るだろうか。
『そのことで、君とパトリックとの仲が変わるとは、僕は思えないな』
 ジェナインは首を振り、言葉を継いだ。
『君がこのことを、彼に告げるんじゃない限りは』
「とんでもない!」ジェレミーは再び、思わず声を上げていた。
『君はこのことを、アンソニー伯父さんに話すわけでもないんだろう』
「とんでもないよ!」ジェレミーは頭を振り、もう一度繰り返した。
『最良の選択は、なにも聞かなかったことにすることだね』
 ジェナインの口調は冷静で、穏やかだった。彼はジェレミーをひたと見ながら、相変わらず静かに、言葉を続けている。
『母さんの話は、勘違いだった。そういうことにしておくか、その話自体をなかったことにするか……どっちにしても、それしか君にはとる道がないと思うよ。仮に本当だったとしても、だからと言って、自分ではどうしようもないことなんだ。どうにもならない、動かしようのないことなのに、その思いはたちの悪い寄生虫のように、君の身体を、心を、内側から噛み破っていく。その思いにとらわれたら、君はずたずたになってしまう。だから、忘れることだよ、ジェレミー。忘れることが無理なら、心の奥に鍵をかけて閉じ込めるんだ。そして今度こそ、君が墓場まで、その秘密を抱えて持っていくことだね。誰にも知らせず、決して日の目を見せることなく』
――そうなのだろう。ジェレミーは思わずにはいられなかった。他に道はない。母から受け継いだこの重荷を、心の底に封じ込めて、墓場まで持っていくのが、自分の務めなのだ。それが自分の出生にかけられた呪いに対する、彼の罰なのだろう。
『そういう自罰的な考えは良くないよ、ジェレミー』
 ジェナインは、即座にそう返してきた。
『呪いなんて思うのは、ばかげている。僕らが生まれた時の姿は、たしかに呪いの結果と言われても、仕方がなかったかもしれない。僕がその罰を引き受ける形で、一応死んだわけだ。そして君は普通の人間になった。母さんも、それは認めたじゃないか。子供には罪はないって。君も僕も、罪でも呪いでもないんだよ。母さんだって、そうじゃない。そりゃ、兄妹でそんなことをするのは罪だよ。でもその罰は、十分受けたと思う。そのことで彼女は一生、罪の意識を背負い続けたわけだから。アンソニー伯父さんだって、そうだと思う。罪の意識があったから、彼は家族とともに南米に移住した。妹の情熱と絶望に一度だけとはいえ、屈してしまったからこそ、彼も生涯心の片隅で罪悪感を抱き続け、そしてそれを糧にして、より良い人間になろうとした。君のことも、トミーとリッキーのことにしてもね。彼らの罪は、濯がれたと言っても良いだろうと思う。いまだ罪があるとしたら、バリー・ハイマンだけれど、あいつもあれ以来、妻との信頼関係を失ったわけだ。冷え切った夫婦関係で、生涯エセル伯母さんに弱みを握られているわけさ。だから、幸福な人生を送れたとは、とても言えない。それが彼の罰だろうけれど、あの人だけは反省してなさそうだね。だけどそれは彼の問題で、僕らには関係のないことさ。親の因果なんて、僕らにはどうしようもないことなんだ。気にしないのが、一番だよ』
「……そうだね。ジェナイン」ジェレミーは立ち上がった。
「ありがとう。たぶん、君の言うとおりだよ。できるだけ、やってみるよ」
『健闘を祈るよ……』
 その言葉が胸の中に響いたと同時に、ジェナインの姿は消えていた。頭上に茂る木の葉が、こすれあう音がした。微かに、風が吹いてきている。この街には――どの街にも、一定周期で風が吹く。街を流れる空調に同調して。それは人工の風だ。ジェレミーはふと、アヴェリンとともに感じた、本物の風を思った。見上げると、ドーム越しにやわらかい灰色の空が見えた。街の外は今、冬なのだろう。カナダ地方の北やアイスキャッスルほどではないが、外は今、かなり寒いに違いない――。
 一瞬、ジェレミーの心は透明な壁に隔てられた自然と同化するように、無になった。その中で、さっきまで自分を激しくさいなんでいた絶望感が、少しずつ薄らいでいくような気がした。世界は、もう二度と同じにはなれないだろう。自分自身も。しかし、ジェナインの言うことは正しい。母が死に望んで自分に託した重荷を心に秘めて、生きていくしかないのだ。精一杯。この命が尽きる日まで。
(ありがとう、ジェナイン。君がいてくれて、本当に良かった。君は僕の親友と言うより、より良い半身だね。僕の魂の導き手で、救い手で……)
『いや、僕はただ、アドバイスを言うだけさ。実際に実行するのは、君だよ。君次第だ。君の人生だ』心の奥から、そんな声が湧きあがってきた。
「ありがとう……」
 ジェレミーは頷き、声に出して繰り返した。そして大きく息を吸い込み、再び空を見上げた。勇気をかき集めなければ。夕方には、伯父と再び会わなければならないのだから。その呼び方は、もはや正しくないのかもしれないという思いが微かによぎり、胸に鋭い針を突き刺すような痛みを与えたが、ジェレミーは首を振って、ぎゅっと拳を握った。正しくなかろうと何であろうと、伯父を父と考えることだけは、意識にのぼせるべきではない。アンソニーは伯父であり、パトリックは従兄なのだ。事実がどうあろうと、これまでも、そしてこれからも――。痛みはこれからも時おり湧き上がってくるだろう。でも乗り越えていくしか、自分が生きるすべはないのだ。
 
 空が薄墨色の夕闇に染まってきた。時計を見ると、あと十分ほどで十六時になるところだった。この街では、冬の日暮れは早い。ジェレミーは今まで座っていた木陰から立ち上がった。
 病棟を回って、伯父が自分を探しに来るのが見えた。その姿を目にした時、ジェレミーの心は一瞬ためらいと混乱に支配された。やはり平静で会えそうもない。背を向けて逃げたい衝動にかられた。しかしすぐに、自分に言い聞かせた。しっかりしなければいけない。ジェナインとの対話で、決心したことではないか。その後何時間もここに座って、自らに言い聞かせ続けたことでもある。なにも聞かなかったことにして、これまでと同じように、伯父に接しなければならない。彼の家族にも。
「ジェレミー、ここにいたのか」アンソニーは近づいてきた。その口調は、当然のことだが、以前とまったく変わっていない。
「ジョン……アンダーソンさんが、家に泊まってくれと言っているんだが、どうするかい?」
 ジェレミーは競りあがってくる様々な感情を飲み込んで、伯父を見た。彼の言うことが意味を成すまでに、かなりの時間を要した。
「アンダーソンさんが、僕らを泊めてくれると仰るんですか?」
 少し声がかすれるのを意識しながら、ジェレミーは問い返した。
「ああ。部屋はあるからというんだ。明日来る母とエセルも、一緒に泊めてくれるらしい」
「僕は……遠慮します。宿泊施設に帰ります」
「大丈夫だよ、ジェレミー。遠慮しなくとも。会いたくなければ、エセルや母とは、顔を合わさなくとも大丈夫なように、計らってくれるから。それに君も、弟妹に会いたいんじゃないかい?」
「アンダーソンさんは子供たちに、僕のことを話したんですか?」
「いや、シンシアが話したらしいよ。一年ほど前に。たぶん、アンダーソンさんも了承の上だろう。さもなければ、彼女は話さないはずだからね」
「そうですか……」
 ジェレミーは目を閉じた。弟妹たちは自分を兄と認めてくれるのだろうか。それが少し怖くもあった。同時に、今は誰であれ、誰かに会いたい気分ではなかった。一人になりたかった。
「でも、やっぱり僕は宿泊所に帰ります。伯父さんはどうか、泊まっていってください」
「君一人で大丈夫かい?」
「ずっと芸能局でも一人暮らしでしたし、今でも。大丈夫です。でも、お気遣いいただいて、ありがとうございました」
「ああ、まあ、そうだね。でもジェレミー、これだけは言っておくが、変な遠慮はしなくて良いんだよ。シンシアに会いたい時や、弟妹に会いたい時には、アンダーソンさんや親戚連中に気を使わないで、そうして欲しい。アンダーソンさんもそう望んでいるのだから」
 伯父の言葉には、心からの思いが感じられた。ジェレミーはわだかまりを拭い去ろうと目を閉じ、その善なるものを受け入れようと努めた。
「はい。ありがとうございます」ジェレミーは感謝を込めて、そう答えた。
「でも、今は宿泊所に戻るのかい?」
「はい」
「そうか……では、帰る前に、もう一度シンシアに会ってやってくれないか?」
「母さんがそう望んでいるんですか?」
「ああ」
「まだアンダーソンさんたちは、病室にいらっしゃるのでは?」
「いるよ。彼らは面会時間が終わる二十時まで、ずっといるだろう」
 アンソニーは頷くと、懸念の表情を浮かべて言葉を継いだ。
「彼らが病室にいるのは、いやなのかい、ジェレミー? 顔をあわせづらいと。しかし、今はそんな感情は、ひとまず脇へ置いてやってくれないか。今日明日くらいしか、シンシアには会えないのだから。少なくとも、彼女が意識を持っている状態では」
「わかりました。帰る時に、もう一度母さんの病室に寄ります」
「そうか」アンソニーは、ほっとしたような表情になった。
「伯父さんは、どうされますか?」
「僕はもう一度病室に戻って、ジョン……アンダーソンさんの家族についていようと思う。ジョンは話し相手を欲しがっているようだ。僕は彼の家に行こうと思うが、いいかい?」
「ええ。ぜひそうしてあげてください」




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