Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第九章 道を求めて(4)




 突然倒れたという母に対し、ジェレミーはなすすべもなく、気をもみながらも、翌日から再開した練習に没頭することで、気を紛らわせていた。しかしまだ誰も来ない午前中には、ただデスクに肘をつき、ぼんやりと思いをはせることしか出来なかった。
 練習が再開して二日後、母が治療を受け、意識を回復したと、パトリックが報告してきた。母の夫であるアンダーソン氏からアンソニーのところにきた通信内容を、教えてもらったという。
「よかった……」ジェレミーは全身で安堵のため息をついた。
「どういう病気だったのかは、伯父さんは聞いちゃいないのか、パトリック?」
 モーリスがたずねた。すでに彼とケネスにも、この知らせはもたらされていたのだ。
「父さんの話だと、よくある古典的な病気じゃない、ということらしいんだ」
 パトリックは答えた。
「ガンとか白血病のようなものじゃないということだね」ケネスが聞いた。
「ああ。その類の病気なら、今の医学なら治せるんだ。それに、脳や心臓の欠陥でもない、ということだった。アンダーソンさんが医者から聞いた話だと、叔母さんの病気は、ここ千年ほどの間に発見された、自己免疫性の難病のひとつなんだって」
「自己……免疫って何だ?」モーリスがきいた。
「簡単に言えば、アレルギー反応の極端なものに近いんじゃないかな。自分で自分の身体を敵と認識して、攻撃してしまうという」
「それで……治るの、母さんは?」ジェレミーは身を乗り出した。
「ああ。この病気には特効薬があるらしいんだ。効果が出るまでには少し時間がかかるけれど、たいていの人は治るって」
「よかった……」ジェレミーは再びため息をついた。
「これで君も憂いなく練習に戻れるね」ケネスが微笑して言う。
「ああ。本当にみんなにも心配かけて、ごめんね」
「しかしよ、俺も純粋に良かったとは思うが、ジェレミー、おまえのお袋さんはおまえを捨てたわけだろ? でも、やっぱりおまえは好きなんだな、お袋さんのことが」
「シンシア叔母さんはたしかにジェレミーを置いて結婚してしまったけれど、それは叔母さんの本意じゃなかったと思うんだ」パトリックは微かに首を振り、、
「うん。母さんはいつも僕を気にかけてくれたよ」と、ジェレミーも頷いた。
「そうか……俺はお袋が死にそうになっても、悲しいと思うかな。ふと、そう思っちまったよ。あっちの方じゃ、俺が死んだら喜びそうだがな」
 モーリスは自嘲気味に笑っていた。
「我が子が死んで喜ぶ親なんて、いるとは思えないね」
 ケネスが少し顔をしかめ、そう抗弁する。
「それはおまえさんたちが、みんな、まあいろんな事情はあるだろうが、普通に子供を思う、まともな親を持っているからだと思うな。だが俺の親は、言っちゃなんだが、自分の思うとおりでない、出来の悪い子供なんて、自分の子供だとは思っちゃいないんだと思うぜ。単なる失敗作で、さっさと切り捨てたいと思っているようにしか、俺には思えなかったがな」モーリスは不満げに肩をすくめた。
「エセル叔母さんか。僕にはよくわからないけれど、まあ、たぶんに冷たい印象はあるね。でも父さんが言っていたけれど、叔母さんも決して悪い人ではないって……」
「ああ、クリスマスの時に、伯父さんはそう言っていたな、パトリック。悪人じゃないか……まあ、たしかに悪人ではないと、俺も思うぜ。親父はともかくな」
「君のお母さんは、君に優しかったことはない? モーリス」ジェレミーは問いかけた。
「そうだなあ……ああ、うんと小さな頃は、優しかったかもな。俺の出来が悪いとわかる前は。覚えてるのは……そうだな、俺は昔から結構やんちゃで、すぐに手が出るんで、親父からはいつも折檻されてた記憶しかないが、昔はお袋もかばってくれたことも、あったかもしれない。俺が五つくらいの頃、何かで怪我した時も……ああ、あの時は優しかったな」モーリスの顔に、微かに懐かしげな表情が浮かんだ。
「まあ、ともかくだ。おまえはよかったな。ジェレミー。おまえのお袋さんの病気が治りそうなら。あっちの兄弟も、まだ小さいんだろ?」
「うん。一番上のテレンスが十五で、末っ子は七つか八つじゃないかな」
 七年前、垣間見た異父弟妹たちの面影から、今頃はどのくらい成長しているだろうと思いをはせながら、ジェレミーは答えた。
「じゃあ、まだ庇護の必要な年だな」ケネスが頷く。
 自分のためだけではない。弟妹のためにも、母の健康回復は何より重要なのだ。そしてそれは多少時間がかかるかもしれないが、やがては叶うことだと知ると、ジェレミーは改めて安堵の思いに浸った。

 クリスマス後、彼らはあのファイルにあった曲の練習を再び始めた。四曲目に当たるそれは、第二ファイル、この新しい試みが始まることが決まってからパトリックと二人で開いた、創立先導者たちの活動後期に制作された音楽を収めたファイルの中にあった曲で、なおかつこれだけが実際の音源はなく、楽譜だけで記されていたものだった。その楽譜を見、そこに記されたメロディと言葉を再生してみて、ジェレミーは思わず声をあげた曲でもあった。それはアヴェリンとの逃避行中立ち寄ったアイスキャッスルでの夜、夢の中で聞いた曲であった。
 もともと楽譜だけの曲なので、譜面に起こす手間は省けていた。楽曲の難易度は、彼らの曲の中で、ずば抜けて高いわけでもない。四週間がたつ頃には、四人ともある程度まとまって演奏できるようになっていた。そしてジェレミーは歌いながら、何度も涙を流し、思っていた。とりわけ、映像ファイルで旧世界の終わりの瞬間を見てしまってからは。
 どうしてこの思いを、一般の人たちに伝えることが出来ないのだろうか。この世界がどのように出来たのか、どんな思いで作り上げたのかを、今は忘れ去られてしまった時代の多くの苦難、その中になお輝き出る希望や、人間の崇高な精神を、どうして今の人々に伝えられないのか……それが、もどかしかった。
 そしてその思いは、他のメンバーたちも同じだったらしい。
「本当に、これを世に出せねえのが、残念だよなあ」
 モーリスが頭を振り、口火を切った。
「タブーだからね。でも、僕も悔しいよ」ケネスは深くため息をついていた。
「いつかはね。いつかはきっと、世に出そうよ。そうすれば、みんなわかってくれるんだ」
 パトリックが決然とした口調で言った。
「そうだ。目指すはそこなんだが……それはすべてがうまく行ったとして、どのくらいかかるだろう」ケネスは少し懐疑的な口調だ。
「三年、四年、もしかしたら、もっとかな……」
 ジェレミーは天井を見上げながら、答えた。
「でもね、僕は諦めたくはないんだ。この活動だって、きっと出来ないと、僕はずっと思っていた。心の中のどこかでは、諦めていた部分もあるんだ。でも、こうして叶った。もしかしたら、不可能に見えることだって、可能かもしれない。だから、彼らの曲を世に出すことだって、不可能ではないかもしれない。そうも思えるんだ」
「そうだね。希望のあるところに道は開ける。開ける可能性もある、と付け加えた方がよさそうだけれど」パトリックは微かに肩をすくめた。
「でも現実問題としてね、彼らの曲は世には出せない。今のところは。でも……僕は思ったんだけれど、彼らの曲でないなら、いいんじゃないかな。君は自作の曲を作らなければならないんだろ、ジェレミー。彼らの曲の主題を参考にして、君自身で組みなおせばいいんじゃないかな?」
「ああ、それはいいアイデアだね、パット!」
 ジェレミーは声を上げた。
「たとえばこの曲なら、君自身の『新世界創世記』を作り上げれば良いというわけか」
 ケネスも感心したように頷いている。
「組み直しっていうと……これとは違うものにするわけだよなあ」
 モーリスは首をひねっている。
「そうだね。これとは違うもので、でもこの主題を使って、僕自身の言葉で、僕自身のメロディで、新たな『New World Rising』を作ることはできるんだ。やってみるよ、僕! これからみんなが来るまでの時間を使って、作ってみるよ。新しい曲を。ヒントをくれて、ありがとう、パット」
「それじゃ、曲が完成したらそっちの練習に移ればいいんだね。それまでの間は?」
 ケネスがきいてきた。
「それまではこの曲を、しっかり練習しよう」ジェレミーは答えた。

 それから五日が過ぎた。その日、パトリックは昼前に、練習部屋を訪れた。入ってみると、ジェレミーはデスクの前に両肘をついて、ディスプレイをにらみつけていた。画面にはいくつかの歌詞らしき言葉が書き付けられ、もう一つのウィンドウには五線譜が表示されている。
「曲作り中かい、ジェレミー」
 パトリックにそう声をかけられ、ジェレミーは驚いて振り返った。
「ああ、パット。びっくりした。ずいぶん早いね、今日は」
「ああ、もうレポートも出したしね、暇なんだ」
 パトリックは傍らのスツールに座った。
「母さんから、二人分のランチをもらってきたよ。一緒に食べよう」
「ああ、ありがとう。そうだね。もう十二時三十分過ぎだ」
 二人は傍らの小さなテーブルにランチを置き、そちらに移動した。
「それで、どうだい、ジェレミー。曲は出来そうかい?」
 パトリックがたずねた。
「それがね……全然だめなんだ」
 ジェレミーはサンドイッチを下に置き、ため息をついた。
「どうして? やっぱり難しいかい?」
「ああ。出来ると思ったんだよ、最初は。自分の思いを言葉につづって、メロディをつけて……そう思っても、出てくるものは彼らの、あの曲ばかりなんだ。彼らの言葉、彼らのメロディ……それから、離れられないんだよ」
「ああ……でも、なんとなく僕にもわかるな、その気持ちは」
「そう。強力すぎるからね。でもなんとか気持ちを引き離して、新たに自分の歌を作ろうとして……何度か、出来たと思った。でも午後になって、彼らの曲を演奏すると、とたんに自分が作ったものが、色あせてしまうんだ。なんてつまらないんだろうって思えて、それ以上進めなくなってしまうんだよ」
「……それは、比較対照が悪すぎるよ」パトリックは苦笑し、肩をすくめた。
「午後には、別の曲を練習した方がいいんじゃないかな、ジェレミー。新しいのに挑戦した方が、同じ主題で比較を突きつけられなくて、いいんじゃない?」
「そうだね。『New World Rising』は、やめにするよ。まだまだ完全じゃないけれど、一応はできるようになったし」ジェレミーも苦笑した。
「それじゃ、午後は何をやろうか。新しいのを決めるなら、譜面を起こさないとね」
「でも、パット。新しい曲をはじめると、マスターまでにまた一ヶ月かかるよね。その間に……自分の曲が出来るかどうかわからないけれど……」
「ああ、そうか。途中で君の曲が出来たら、そっちの練習に移るから、半端になっちゃうか。じゃあ、どうしようか……」
「お休みにしてもらうのも一つの手だけれど、僕、曲を書くのに、長いことかかるかもしれないしね」
「うーん。そうだなあ……でも、僕ら楽器担当は、できるだけの練習が必要なんだ。ある程度はこなせるようになったものの、まだまだ未熟だと思うよ、みんな。だから、この際一度基礎練習を復習してみるのもいいかもしれない」
「ああ、それもいいね!」
「それが終わったら、君の曲作りの手伝いも、できるかもしれないな。僕らも自分のパートを自分で考えることが出来たら、と思うんだ」
「ああ、そうか! そうだね。君やケネスなら、特に……それに、モーリスも格段に上達しているしね」
「創造的ということにかけては、僕らも大して貢献できないかもしれないけれどね。自分で創造することって、ほとんどないから」
 パトリックは肩をすくめた。
「でも学術のレポートも、ある意味創造的なんじゃないかな」
「ものによるんだろうけれどね。でも、たいていは類型的さ」
「今の時代には、真の創造性っていうのは、ないのかな……」
「だったら、僕らがパイオニアになる。そのくらいの意気は必要だね」
「そうだね!」ジェレミーははっとして、顔を上げた。
「君はいつも前向きだね、パット。僕は、いつも感嘆しているよ。どんなに助けられてもいることか。本当にありがとう」
「まあ僕の場合、たいてい言うだけだけれどね」
 パトリックは軽く肩をすくめている。

 話しているうちに、時間は十四時近くになった。そろそろモーリスやケネスが来る頃だろう。この活動が始まった頃に使用していた練習シートを再び取り出し、準備にかかっていた時、端末の通信ランプがついた。ジェレミーはボタンを押し、セッションを開いた。アンソニーの顔が、画面に現れた。
「ジェレミーかい? やっぱりこっちにいたか。君に伝えたいことがあるんだ」
「アンソニー伯父さん? どうしたんですか? まだお仕事中でしょう」
「ああ。でも緊急連絡が入ったんでね。ジェレミー。落ち着いて聞いてくれ。シンシアが、もう数日の命らしい。それで、彼女が君に会いたがっていると、アンダーソンさんが伝えてきたんだ」
「えっ?!」ジェレミーは絶句した。言葉はなにも思い浮かばなかった。伯父の言ったことが、頭に入ってくる前に、長い空白があった。
「父さん!」パトリックが傍らから、呼びかけた。
「父さん、今の話は本当なのかい? シンシア叔母さんが危ないって……」
「ああ、パット。おまえもそこにいたのか」
 画面の中のアンソニーは息子を見やった。
「本当だ。こんなことで冗談を言って、どうする」
「でも、どうして? シンシア叔母さんの病気には特効薬があって、治るって、この間言っていたじゃないか。なのに、どうして?」
「シンシアには、特効薬が効かなかったんだ」
 アンソニーは重苦しい口調で答えた。
「ええ?」
「最初は、効いたように見えたらしい。だが二週間ほどで、効果が止まった。そしてまた二週間後に、今度は揺り戻しが来た。前よりも、悪くなってしまったんだ。薬は彼女にとって、毒になった。それから急激に症状が進み、シンシアは激しく衰弱しているという。医者にはもう、打つ手がないらしい。彼女が意識を保っていられるのも、あと二、三日くらいだろうという。たぶん数日しか命が持たないのではないかと、言われているらしい」
「そんな……なんで、特効薬が効かないなんてことが……かえって悪くなるなんてことが、ありえるんだろう」
「体質によっては、ありえるんだそうだ」
 アンソニーは相変わらず重い口調で言っていた。
「ある種の因子と変成酵素の組み合わせによっては、特効薬の効き目を妨げ、別のものに変成させてしまうらしい。それは一種の、遺伝子レベルでの障害と言ってもいいそうだ。普段の生活にはまったく支障がないが、普通の人よりも免疫疾患病にかかりやすく、なかでもこの病気になると、非常にまずいことになるのだという。医師が言うには、シンシアが自然出生だということにも、関係しているらしい。規定出生では、この組み合わせは免疫疾患が起きやすいという理由で、基本的に避けているらしいからね」
「そう……叔母さんは自然出生だったんだ」
「ああ。だから母や父は気をもんでいたようだ。幸い何も異常がないと、喜んでいたのにね。遺伝子レベルまでは、検査しなかったんだろう。DNAマップは取っているはずだけれどね。でもこれは重篤な障害レベルと言うほどのものではないらしいから、両親には知らされなかったのだろう。今度の治療にしても……あらかじめDNAマップを照会していたら、たぶんこの特効薬は使われなかった。だが、医師が言っていたんだ。特効薬なしでは、この病気は致死性だ。だからとりあえず、事前に明確にわかっている場合以外は、照会はせずに薬を使うらしい。規定出生主流の今、ひっかかる確率は高くないこともあるのだろうと思う。それにもしその体質なら、どの道助からないことは同じだ、というのだろう」アンソニーは深いため息をついた後、言葉を継いだ。
「ともかく、パット。ジェレミーに伝えてくれ。僕は十五時のインターシティ・シャトルでロンドン市に向かう。一緒に来てくれないかと。支度をして、時間までにシャトルのステーションに来てくれ」
「わかった。じゃあ、僕がそこまで連れて行くよ。あっ、でも、彼の外出許可を大統領にお願いしないといけないんだ。これからハワードさんに依頼して、返信を待って、となると、十五時じゃ無理かもしれない」
「では、その次の、十七時の便に変更しておこう」
「わかった。じゃあ駅で」
 パトリックは通信を切り、ジェレミーに向き直った。
「ジェレミー、そういうわけだから、これから大急ぎでハワードさんに連絡しなきゃならないよ。彼の通信端末番号は?」
「ああ……ごめん、パット。ぼうっとしていて。僕から連絡するよ」
 ジェレミーは頭を振り、深くため息を一つつくと、端末のキーを叩き始めた。そしてハワード監督官に簡単な顛末を語り、数日間ロンドン市に行く許可を求めてくれるよう、依頼した。ハワード氏は至急連絡をすると言ったが、同時にヘリウェル大統領は公務で忙しいので、すぐに返信がもらえるかどうかはわからない、とも告げた。
 その間にパトリックはジェレミーの居室の鍵を借りて彼のアパートへ行き、バッグを下げて戻ってきた。そのバッグはアヴェリンとの逃避行の時、モントリオール市で買った、二人の旅行記念とでもいうべき品物だ。その中に入っている洗面道具や日用品も、その時に買ったものだ。
「ほら、着替えも適当に突っ込んでおいたから、これでいいか見て。足りないものがあったら、取ってくるから」
「ありがとう、パット。本当に、何から何までごめんね。でも、僕が留守の間、練習はどうしていようか?」
「僕らは僕らで、練習を続けているよ。さっき用意した基礎練習を、もう一度ね。君はもう、たいして練習はいらないと思うけれど、僕らには必要だから。留守中もちゃんとやるよ。だから君はこっちのことは気にしないで、今はシンシア叔母さんのことだけ考えた方がいい」
「ありがとう」ジェレミーはもう一度繰り返した。
 練習場にやってきたモーリスとケネスにも事情を説明し、ジェレミーは待った。十六時二十分になって、やっと再び端末の通信ランプが点灯した。ハワード監督官からで、ジェレミーのロンドン市への外出を許可する、という返信が来たという知らせだった。
「ただし、インターシティ・シャトルのステーションのような、公共の目に触れる機会があるような場所ではできるだけ目立たないよう振舞え、ということだ」
 監督官はそうも伝えてきた。
「それじゃ、みんな、申し訳ないけれど、しばらく留守にするから」
 練習場をあとにする時、ジェレミーはモーリスとケネスにそう声をかけた。
「ああ、こっちのことは気にしなくていいぜ。練習はやるから」モーリスは頷き、
「そうだよ。こっちのことは心配しなくていい」ケネスはぽんと肩を叩く。

 ジェレミーはパトリックとともにインターシティ・シャトルのステーションに行き、そこでアンソニーと合流した。送ってくれた従兄にお礼を言うと、帽子と長いコートに身を包み、人目に触れないよううつむきながら、伯父とともに改札をくぐった。このステーションで、アヴェリンとともに夜、この改札をくぐったことを思い出した。あれは、もう九ヶ月も前のこと――もう子供も生まれているころだろう。そんな思いが心を掠めた。ケネスも実家への通信を禁じられているので、彼女の消息は知りようがなかった。
 しかし今回は目的も、乗り場も違う。ヨーロッパ方面に向かう、紫に彩られた客車に、ジェレミーはアンソニーとともに乗り込んだ。すぐに列車は動き出した。すでに発車時刻が迫っていたのだ。ヨーロッパ行きのシャトルはマリンライナー、またはアトランティック急行と呼ばれ、ほとんどの行程が、海の上にめぐらされたレールの上を通っていくことになる。すぐに景色は、大海原一色になった。
「ロンドン到着は二三時三十分だが、向こうの時間では朝の四時三十分になるらしい」
 キャビンの対面式座席に身をうずめると、アンソニーは口を開いた。
「向こうに行ったら簡易宿泊施設を取って、しばらく休んで、九時になったら、ジョンの家に行ってみよう。病院でも、そのくらいの時間にならないと、面会できないらしいから」
「はい……」ジェレミーは頷いた。
「明日夜のシャトルで、エセルが母を連れてくるそうだ」
「そうですか。じゃあ、僕がいても、大丈夫かな……」
「君はシンシアの息子なんだし、ジョンも公認で、シンシアの希望で呼んだんだから、二人に遠慮することはないよ」
「ええ……それなら、いいんですが……」
「ああ。本当に、気にすることはないさ」
「アンソニー伯父さん……母さんは、本当に危ないんですか。なんだか、僕は……」
「信じられないんだろう。無理もないさ。我々も信じられない話だから。とてもじゃないが……シンシアは良い娘だった。よき妻で、よき母親で、善良だった。まあ、君のことは彼女には心残りだっただろうが、それでも……」
「ええ。母さんには、本当に感謝しているんです。恨んでなんかいません」
「それを聞いたら、シンシアも喜ぶだろう」
 アンソニーはシガレットのカートリッジを取り出した。
「だが、子供たちもまだ小さい。ジョンはこれから大変だろうな」
「そうですね……」
 それから二人は無言で、外の景色を見つめていた。ニューヨークを出発する時にはもう日が暮れていので、あたりは暗い。十九時になって、客車の横に取り付けられたボックスが開いて、二人分の夕食トレーが現れた。それを食べ終わり、元の場所に返すと、アンソニーは言った。
「こっちでは寝る時刻に向こうでは朝なのだから、ここでも少し眠っておいた方がいい」
「そうですね……」
 頷いたものの、ジェレミーは眠れなかった。窓辺に肘をつき、頬を支えて、じっと外に広がる暗い海を眺めていた。空と海が渾然一体となって、夜の中に溶けているようで、その黒い広がりの中に、自分もすっぽりと飲み込まれてしまいそうな感覚を覚えた。
 ジェレミーの心の中では、まだはっきりした感情を形作れないでいた。母が世を去ってしまう――母と四歳で別れてから今まで、たとえそばにはいなくても、母の存在はずっと感じていられた。彼女が元気で幸せにしているというのは、ジェレミーにとって自分の世界が安泰である、一つの保証のようなものであった。しかし今、その基盤が崩れようとしているのだ。

 やがてシャトルはロンドン市に到着した。まだ街は暗く、夜のようだった。アンソニーとジェレミーはステーション近くの簡易宿泊施設を三日ほど契約し、その部屋でしばらく休んだ。ジェレミーもベッドで、二、三時間うとうととした。そして街に遅い太陽が昇る頃、二人は簡単な朝食を取り、アンダーソン家に向かった。
 出迎えたジョン・アンダーソンを見て、ジェレミーは軽い衝撃を受けた。七年前、ヒルダとヘイゼルの合同結婚式で見た時には、彼はわりと恰幅の良い男だった。それが今はやつれたように肉が落ち、目の下には深い隈が出来、顔には何本も深いしわが刻まれていた。濃いとび色の髪の毛は真ん中がきれいに抜け落ち、残りの部分がすだれ状に頭にかぶさっている。アンダーソン氏は本来の彼の年齢より、十歳以上も老けて見えた。
 アンダーソン氏は母を心から愛しているのだ――ジェレミーはその表情を見た時、はっきりとそう思った。それほど彼の顔には、深い苦悶と悲しみが浮かんでいた。アンソニー伯父とともに氏の自家用エアロカーで病院に向かうと、その病室の前で、アンダーソン氏はジェレミーに告げた。
「ジェレミー君。シンシアは君に会いたがっている。君が来たら、二人きりで会わせてくれと、頼まれているんだ。だからまず、君一人で会いに行ってやってほしい。アンソニー義兄さん、そういうわけだから、一度僕と一緒に家に帰ってください。一時間半ほどしたら、またここに来ましょう」
「ああ。シンシアの希望なら、そうした方が良いだろう」
 アンソニーは頷くと、ジェレミーの背に手を伸ばした。
「行っておいで。二人で、話をしてくると良い」
「はい……ありがとうございます」
 ジェレミーは頷いて、病室に入っていった。

 ベッドの上に、母が眠っていた。ジェレミーは近づき、衝撃を受けて立ち止まった。変わったのは、アンダーソン氏だけではない。母の顔は透き通るようで、かつてはふっくらとしていた頬もすっかり落ち窪んでいた。手足も同様で、まるで骨格模型に皮を貼り付けたようだ。その皮膚も生気をなくし、つやのない白さだ。唇はひび割れ、色をなくしていた。頬にかぶさるほど長く黒いまつげと、なおふさふさとしている黒い髪だけが、かつての彼女の美しさの名残をとどめている。
 見ているうちに、シンシアは眼を開いた。その瞳は相変わらず大きく、深いすみれ色に煙っていた。
「ジェレミー……」彼女は小さく呟いた。
「母さん……」
 ジェレミーはすっかり細くなってしまったその手を取った。
「来てくれたのね……」
「うん」
「ありがとう……」
「そんなこと、当たり前だよ。母さんこそ、僕に会いたいと言ってくれて、ありがとう」
 大きな塊がのどを塞ぐのを感じた。涙がこぼれそうになり、慌てて眼をしばたいた。
「わたしこそ……わがままね。ごめんなさい、ジェレミー……わたしは、あなたに……何一つ母親らしいことを……しないで、母さんや……兄さんや義姉さんに……あなたを育ててもらって……最後になって……会いたいなんて、呼びつけるなんて……勝手で……」
「そんなことないよ!」ジェレミーは首を振って、強く否定した。
「あなたは病気だと、聞いていたから……会えないかと……思ったけれど」
 シンシアは眼を閉じ、そしてまた開いて、かすれた声で話し続けた。
「アンソニー兄さんが……あなたは、元気でいるって……言っていて、だから……」
「僕が病気というのは、表向きの理由なんだよ。今、ちょっと新しい試みをしているんだ」
「どんなこと? やっぱり……芸能局の、活動なの?」
「母さん……でも、僕は母さんに謝らないと、と、ずっと思っていたんだ。ごめんね。芸能局なんかへ、行ってしまって」
「そんなことは……ないわ。少し、驚いたけれど。あなたの進路に……わたしが口を出す権利も、ないし……あなたが、満足して……いるなら」
 シンシアは微かな笑みを浮かべた。
「ありがとう、母さん」
 ジェレミーは再び胸がいっぱいになるのを感じながら、これまでの経緯を話した。シンシアは興味深げに聞き入っているようだった。聞き終わると、小さくため息をついた。
「うまく行くと……良いわね。ジェレミー。それに……あなたと、その娘さんが……幸せになれたら、良かったんだけれど」
 彼女は再び微かな笑みを浮かべた。
「それにしても……あなたが父親に、なるなんてね……ジェレミー。まあ、わたしは……お祖母ちゃんね」
「母さん……」
 ジェレミーは言葉を捜したが、それ以上は何も言えなかった。
 シンシアは微笑み、再び何か言いかけようとしたが、不意にその顔が歪んだ。内側から襲ってきた苦悶に揺さぶられるように、彼女は震え、次いで続けざまに乾いた咳をした。それが納まると、肩で荒い息をしている。口元から一筋、どす黒い血が流れ出した。
 母は身体の内部から壊れつつある――改めてやってきたその認識に、ジェレミーは立ちすくんだ。パトリックから聞いたその病名を調べてみた時に、得た知識だ。その崩壊を止める薬がある。しかし、母にはそれが効かなかったのだ――。
「母さん! 先生を!」
 ジェレミーは医師を呼ぼうとしたが、シンシアが押しとどめた。
「大丈夫。大丈夫よ……ジェレミー。もう少し、あなたと話を……させて」
「母さん……」
「大丈夫よ」
 シンシアはもう一度繰り返し、そして息を吐き出すように呟いた。
「でも、わたしは……もう長くないわ」
「そんなこと……そんなこと、ないよ!」
「いいえ……お医者様も、そうおっしゃったもの。わたしが、意識を保っていられるのも……今日明日、くらいだろうって……だから、その間に……わたしは、お別れしたかったの……みんなに」
「母さん……」
「わたしの、この病は……業病なのよ……わたしの罪に……下された、罰なんだわ。そう思えば……我慢しなくちゃ、いけない……受け入れなきゃ、いけないの……だって、わたしは……それだけのことを、してきてしまったの、ですもの」
「母さん……あまりしゃべると、身体に良くないかも。無理しないで……休んでいてよ。僕はここにいるから」
「ありがとう、ジェレミー」
 シンシアは眼を上げて、ジェレミーを見つめた。
「でも、わたしは……話したいことが、あったの。あなたに……わたしの胸に、秘めて、墓場まで、持っていこうと、思ったけれど、やっぱり……」
「どんなことを? 母さん」
「あなたが……なぜ、あなたが、生まれた時……わたしは、あなたを心の中で、捨てようと、思ったのか……」
 ジェレミーは全身に緊張が走るのを覚えた。母が死に瀕して、自分に伝えたい秘密――まるで目の前に、深淵が口を開けたように思えた。知りたいという渇望と、知らない方が良いかもしれないという恐れが、激しく交錯するのを感じた。
 病室の窓からは、冬の弱い日差しがさしこんでいた。母の病室は五階にあり、窓の外からは、病院の広い中庭が見下ろせた。何人かが、庭を散歩していた。歩いている人もいれば、車椅子に乗せられている人もいる。庭と道路を区切るフェンスの向こうには、いくつものオフィスビルや集合住宅が見えていた。その眺めは、ニューヨーク市と変わらない。グレーやベージュ、クリーム色に塗られた、機能的なデザインのビル群。間を縫うように規則正しく広がる、銀色の道路。その両側に植えられた街路樹。所々に広がる公園。アヴェリンの病室から見えたトロント市の光景も、これと同じようだった。ジェミー・キャレルとして世界中の都市へ行った時も。今はどこも、どの街も、他と同じなのだろう。かつては、違ったのだろうか。今の文明が破壊される以前は――いつかジェナインと見た幻のコンサートで、浮かんできたイメージのように。
 ジェレミーの心は、ぼんやりとそんな考えの中をさまよっていた。自分の父親は誰なのか――それは、今まで決して心の表面に上ってきたことのなかった問い。そして母とも遠く隔たっている彼が、生涯知ることはないだろうと思っていた疑問だった。それが今、母によって明かされようとしている。そう、きっと母が言おうとしているのは、まさにその疑問の答えなのだろうと、ジェレミーは瞬時に悟った。その時、意識されない心の奥底で、自分がどれほどその答えを渇望し、同時に恐れているかを知った。その衝撃が揺さぶった時、ジェレミーは窓の外へと眼をそらし、心にはまったく関係のない思いが湧きあがってきたのだ。




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