Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第九章 道を求めて(3)




 協力者たちはそれぞれの仕事ノルマがあるので、練習場にやってくるのは十四時から十五時くらいの間になった。それから練習を開始し、夕食をはさんで、二一時半ごろまで作業した。午前中、みなが集まるまでの間、ジェレミーはそれぞれの練習プログラムを考えたり、ハワード担当官と連絡を取ったり、もう一度音楽ファイルを学びなおしたり、ということに費やしていた。忙しくはあるが充実した毎日が過ぎていった。
 最初の二ヶ月半は、基本練習に費やした。そしてそれぞれの楽器の演奏を覚えた後、ジェレミーは大統領に問い合わせた。公開はしないから、新世界創世ファイルの、先導者たちの音楽を演奏してみてもいいか、と。二日後、返答が来た。あのファイルの閲覧条件は全員が満たしているので(ファイルを開けられるのは特定の姓を持ち、なおかつ運よく引き当てられた学術研究員のみだが、共同閲覧者の条件は、特定の十九の姓が第一か第二、どちらかに入っており、なおかつ学術、芸能、雑務、労働の四部門、もしくはそれに順ずる条件、かつてのジェレミーのように、再研修中など――となっていた)、公開しない条件ならば良いと。練習場所は地下にあり、密閉されていたので、回りに音が聞こえる心配はなかった。
 
「じゃあ、この二四曲のリストの中から、比較的難しくなさそうな曲を選んで、譜面にしてみよう」パトリックはデスクを軽く叩き、そう提案した。
 二人は再び、パトリックの部屋の端末画面を覗き込んでいた。その日の午前中、ジェレミーは選曲のために、従兄の部屋を訪れていたのだ。もうファイルは再生できないものの、曲目リストまではたどり着ける。ファイルの後半部分については、『夢が叶ったら聞こう』とパトリックと二人で約束したとおり、大統領面接が終わり、ヘイゼルの件を口に出したことの罰である五日間の禁固期間を済ませた次の夜から、四日ほどかけて二人で聴いていた。そして前半部以上のその衝撃と、沸き起こる高揚感、そして圧倒的な優しさの感情に涙したのだった。
「もう元を聴くことができないから、細かいところまで再現は出来ないと思うけれど」
 パトリックは思い出そうとするように画面をにらみながら、言葉を継ぐ。
「うん。二十回聴くうちに歌は覚えられたけれど、楽器のほうは自信がないんだ」
 ジェレミーも頷いた。
「僕もあまり自信がないよ。特に歌の伴奏部分なんて、ほとんどわからない。意識が全部そっちに行っちゃってるからね」パトリックが肩をすくめ、そして続ける。
「それに僕たちはまだ楽器にやっと慣れ始めたところだから、そんなに難しいことは出来ないと思うんだ。だから、歌の伴奏部分はシンプルでいいと思う。特にモーリスには、単純にした方が覚えやすいだろうし。後はイントロと、間奏と、コーダ……で、この中で構成が複雑なものは、最初は除外していこう」
「そうだね」ジェレミーは頷いた。
「あと、君には歌えそうにないっていう曲はない?」パトリックが聞く。
「あんなふうには歌えないって言う意味だと、全部だけれど」
 ジェレミーは肩をすくめた。「技術的にというか、音域的に厳しいのは、いくつかあるね。とくにこの『Polaris』という曲なんか――後半ファイルの三曲目の――音域三オクターヴ半くらいあるよ。この高音域は、僕には出ない」
「ああ。あれね。かなり異色だよね。歌の八割くらい、歌詞がないし。ララララ、とかそんな感じなんだけれど、インパクトと伝わる感情とイメージはもの凄い。で、なおかつ構成は超複雑だ。繰り返しが一切ないのだから。最難関曲だから、たぶん僕らには、これから先もきっとマスターはできないよ」
「うん。僕もそう思う。あれは最たるものだけれど、後半の曲は本当にそういうものが多いから」ジェレミーも頷いた後、言葉を継いだ。
「でも、そう言えば、この『Polaris』は映像ファイルもあるんだよね、どこかに。隠しになっているって書いてあったけれど、結局探しても見つからなかったから、消されてしまったのかな」
「いや、再生限度以外は手を付けるな、と言われていたと、最初の導入ファイルに書いてあったから、消してはいないはずだけれど……本当にこれ以上探しようがないな、惜しいけれど」パトリックも肩をすくめる。
『イースターエッグって、知っているかい?』
 その時、ジェレミーの中に声が響いた。
「えっ?」ジェレミーは耳に手を当て、問い返す。
「どうしたの?」パトリックが不思議そうにききかけた。
「いや、ジェナインが……」
 ジェレミーは首を振った。声は響き続ける。
『ある場所で、ある特定の動作をすると現れる、隠しファイル。旧世界のDVDなんかに、おまけとしてついている映像に使われていたらしいけれど、これもそうなんだよ』
「そうなの? じゃあ、どうやったら見られるか、君は知っているの?」
『ああ。全部再生が終わっている段階で、タブで飛ばして最後に点滅する場所を、→二回←二回、↑三回、↓一回押した後、Enter』
 言われたとおりやってみると、中から立ち現れるように、別画面が開いた。

 映像ファイル: Polaris(音楽映像)
         Evening Prayer-Reprise(ライヴ) 

「ええっ!」
 傍らで見ていたパトリックも、そして操作をしたジェレミーも、同時に声を上げた。
「こ、これは絶対たどり着けないよ!」と、パトリックは両手を上げ、
「本当、ジェナインが教えてくれなきゃ、わからなかった」
 ジェレミーはため息とともに、目を見開いて首を振る。
「ケネスも、これは見ていないんだよね。後で教えてあげよう。と言っても、彼は自分の家に帰らなきゃ見られないから、見られるのは一年以上先だけれど」
 パトリックは頭を振ってから、ジェレミーを見た。
「練習曲を決めなきゃいけないけれど……先に見るかい、これ?」
「うん。せっかく出たんだし、見てからだって遅くないと思うから……あ、待って。マーティの部屋から、イアフォンを借りてくるよ」
 トミーとリッキーはメラニーが公園に連れて行ったので、二人が乱入してくる心配はなかった。念のために部屋の扉をロックすると、パトリックとジェレミーはそれぞれイアフォンをつけ、画面に目をやった。
「僕はまだ彼らの映像は見たことがないから、ちょっと緊張するな。君は見たんだっけ、ジェレミー。ジェナインの力で」パトリックはチラッと従兄を見、
「うん。夢だけれど……」ジェレミーも固唾をのんで、頷く。
 そして二人は【Play】ボタンを押した。
 画面が暗くなる。そこに浮かび上がったのは、一面の星空だった。イントロが始まると同時に、その星空がゆっくりと回転する。その中に、五人の姿が浮かび上がった。衣装は統一していない。ギター奏者は薄い緑の、濃淡光沢のあるシャツに黒いベスト、濃いシルバーのズボン。ベースギター奏者は薄い緑の上着とスカーフ、濃い茶色のズボン。シンセサイザー奏者とドラム奏者は、それぞれ下半身は見えないが、二人ともゴールドに近い色合いの、薄明るい茶色の服を着ている。シンガーは光沢のある薄い水色のオーバーブラウスに、シルバーと金色が混ざった白のロングスカーフを肩にかけ、下は濃いブルーの細身ズボンという姿だ。そして彼は歌いだす。振り的なものはない。ダンスのステップを踏むような動きはするが、基本身体の捻りと回転、上下動、そして両腕と手の動き――ミッドテンポの曲に合わせてのその動作はしかし、非常に優美で躍動的だ。ただ、マイクは持っていない。その背景に、圧倒的な星の広がりが取り巻いている。空にも足元にも広がる星空の中、そして草原の青い空と、夜空に時折オーロラが揺れる風景――この二つが時々挟まるように出てくる。その空は動いている。そして時々効果映像が入る。光の点滅、虹色のスモーク、風景――イメージとして感じる風景とこの映像の風景がシンクロし、音楽とあいまって、意識がその中に吸い込まれていくような感じがする。そしてこの曲を聴いた時に感じる広がり、幸福感とあいまって、ほとんど意識が飛びそうになるくらい強烈な陶酔を感じた。
『この曲は[Happy Chant]入りだからね』
 映像ファイルの見つけ方を教えてくれたジェナインが、苦笑気味にそう言っていた。
『まったく、やってくれるよね、彼女も』
(どういうこと? それに彼女って……?)
 ジェレミーは内なるもう一人に問いかける。
『うん、あの人は彼女なんだ、僕にとっては。世間的には、男の人として認識されていたけれど。だから以前にも、混乱の元だから止めてくれって、僕の後継者に言われたけれど、どうしてもそうとしか考えられなくて……いや、でも君は深く気にしなくていいよ。そして彼女は起源子として生まれる前、もう本当に長いこと、さまざまなチャントを使っていた。音階と言葉でかける呪文をね。彼女はほとんどの能力を封印された状態で生きていたけれど、覚醒後はデリバリーとコミュニケーション能力が解放され、そして一度死にかけて、セルフヒーリングが発動してから……片側だけ青いクラウンが出現してからは、さらに能力が強化されて、二つのチャントも使えるようになったんだ。英語で言うなら、Happyと、Comfort。幸福と、慰め。で、この曲にHappyを使い、ラストアルバムの『A Paradise in Peace』と『Fancy Free』に、慰めチャントを分散して入れた。旧世界とともに滅びゆく人たちのために。残念ながらaPiPの方はファイルに入らなかったけれど。あの曲も、僕はとても好きなんだけれどね』
(君は彼らの曲を知っているんだ、ジェナイン……ああ、そうか、君はずっと彼らを見ていたって言っていたものね。何のために見ていたのか、それはわからないって言っていたけれど……)
『いや、それも僕は思い出したよ。それと同時に、すべての記憶がよみがえってきた。だからこそ、今の僕にとって、あの人を彼女と認識できたんだし。だから、その気になれば、君には全曲映像つきで記憶を共有することが出来るけれど、君限定でしか出来ないから、やめておくよ』
(そうなんだ。見てみたいけれど……パトリックにも聞かせられないしね、仕方ないね)
『パトリックなら、古い記憶を完全に掘り起こせば、全曲出てくると思うけれどね。でも、彼の段階では、まだ無理だね』
(えっ?)
『君もたぶん、聞いているはずだよ、ジェレミー。リアルタイムでは無理だっただろうけれど、音源だけは何度も聞いていたはずだ。昔。何回かの人生で』
(ああ……また、生まれ変わりの話なんだね……)
『その話は、あまり考えたくないっていう感じだね』
(うん。今はなんとなくね。でも、さっきの話……チャントって、あのスキャットのこと? それは……あの人だけ? コンサートの映像を見せてもらった時も、いろいろなイメージが湧いてきて……そして最後には、ある種の感情が発動するように出来ているって、言っていたけれど、それも……?)
『そう。そしてそれが、彼女の持っていた最大の武器だね』
(あの人は……特殊体質だったって聞いたけれど、それだけで……そこまでは、できないよね。あの人は、本当は何者? そして君はどうして、彼らを見ていたの……?)
『君は知っていたはずだよ、その答えを。パトリックも。でも今は覚えていないんだね』
(……?)
『君の人生がもうすぐ終わるころ、もう一度思い出させてあげるよ。僕はもう、すべてを思い出したから』ジェナインは少し笑いを含んで言う。
『でも、この映像ファイルは三回しか再生できないから、しっかり見てね』
「え……そうなんだ」
 最後の言葉は、思わず声に出していた。もうすでに二回目を見終わっている。パトリックにその旨を告げると、彼はまた「ええ?」と声を上げる。とりあえず、もう一回を残し、ライヴ映像に行くことにした。創立先導者たちの、おそらく公式最後の演奏――最終公演の最後の曲。『Evening Prayer-Reprise』 
 この映像は何本ものカメラ映像を合わせて作品にする前の一本のようで、まだ編集していない生映像のためか、歌手とギター奏者しか映っていない。歌のない部分は七割くらいギター奏者を、歌のある部分はずっと歌手を、一定の距離から撮影していたようだ。他の三人は映っていないのでわからないが、ギター奏者は赤いブラウスの上からふちに銀色の房飾りのようなものがついた黒い長めの上着を着、短い毛足と光沢のある黒いズボンをはいている。歌手の方は白いブラウスに、白いふわふわした縁取りのついた、丈の長い水色の上着、白のスカーフを巻き、ギター奏者と同じ素材だろう青いズボンいう格好だ。アイスキャッスルという立地上、普通のステージ衣装では寒いのだろう。実際その地を訪れたことのあるジェレミーは、あの身を切るような空気を思い出した。四月でさえそうだったのだが、このコンサートは十一月の初め。しかも夜だ。この服装ですら、十分ではないだろうと思えた。
 曲自体は、前半のファイルにあったので知っているが、歌詞やメロディ、構成も少し違う。だからRepriseなのだろう。静かな曲のせいか、二人ともほとんど立ち位置を動いていないようだった。ギター奏者は音色の違う二種類のギターを交互に弾き、シンガーはマイクを片手に持ち、もう片方の手を時々動かしながら、時おり目を閉じる以外、ほぼ一点を見つめて歌っているように見えた。そして、そこに込められた思いは、ファイルで聴けるものより遥かに切なく、純粋で優しく、そして悲しみに満ちている。頭の中に浮かんできた映像は、かつての旧世界の幻――多くの人々が幸福な日常を営んでいる、その姿。その上に、光と雨が降り注ぐ。惜別の涙――それに溶けるように、風景がかすんでいく――。
 最後のトーンを歌い終わると、シンガーは左手で持っていたマイクに右手を重ね、両手をそろえて下げた。そして前を向いたまま、何かを言った。その言葉が、微かにマイクに入って聞こえた。「May Rest in Peace」(安らかに眠れ)――それは、墓標によく刻まれている言葉だ。その頬に一筋、涙が光って流れていった。彼はそのままゆっくりとステージの上に跪き、マイクを置くと、じっとその床を見つめたまま、手を組んだ。奇妙な組み方だ。普通は両方の手のひらを合わせて指を組むものだが、彼は左手の甲を右手で包むようにし、互い違いに指をあわせている――そしてそのまま何かを呟き続けているが、その言葉は聞こえない。カメラがゆっくり遠くなっていく。
『彼女は、かつての言葉で祈っているんだ。音にすると、とても奇妙なものだけれど』
 ジェナインが静かに言った。
『英語に直せば、〔神様、お慈悲を。みなの魂に安らぎがあらんことを〕と』
 映像に衝撃が走った。ぱっと激しい白い光が飛び、画面を覆いつくし、激しい横揺れと衝撃音の後、真っ暗になった。その真っ黒の画面に銀色と赤い光が激しく煌き、その後、ドーンという鈍い音響。再び激しくカメラが揺れ、ぷつっと映像が消えた。
『この瞬間、旧世界は終わったんだ』
 ジェレミーは衝撃のあまり、言葉を失った。そして激しく震えた。
「これって……もしかして……」
 ジェナインの声は聞こえていないパトリックも、沈黙の後、かすれた声を上げた。
「うん……そうらしい」ジェレミーはやっと声を絞り出した。
 二人はそれ以上言葉を失ったように、暗くなった画面を見つめながら黙り込んだ。
「すごい瞬間が……記録されていたんだね」
 長い沈黙の後、パトリックが詰まったような声で、そう口を開いた。
「うん……」ジェレミーは激しい震えを感じながら頷き、思わず続けた。
「これは……もう、繰り返して見るのは……怖いよ」と。
『これは、一回しか再生できないからね、どっちにしても。インパクトが強すぎるから。アイザックとヘンリーも、もう少し無難なライヴ映像を選べばよかったのに、よりにもよって、どうしてこれなんだろう。歴史的瞬間には違いないけれど』
 ジェナインの口調は、普段とあまり変わっていないように聞こえた。
「そうなんだ……」
 ジェレミーはため息とともに頷き、パトリックにその言葉を伝えた。
「一回なんだ。そうか……でも、たしかに二回目を見るのは怖いかもね」
 パトリックも頷き、少し黙った後、言葉を継いだ。
「あの人は、最後にRIPと呟いたけれど……それも、曲の一部なんだろうか……オリジナル音源には、入っていなかったけれど」
「いや……違うかもしれない。でも、この曲は最初に聞いた時から、これから夜に入っていく、夜に象徴される暗い時に。その前に今までのことを感謝して、勇気を持って向き合っていこう、いつか夜は明けるから……そういう主題だと感じたけれど。だから、最後にこの曲なのかもしれないって、思うんだ」
「時間って……知らされていたのかな、彼らに」
「わからない。でも、あの人は知っていたんだろうね。だからRIPと言い、涙を流し、そして祈った。そんな気がするんだ」
 ジェレミーは静かに答え、少し黙った後、続けた。
「そしてあの曲は、最後の祈りなんだと思う。旧世界に生きていた人たちへの……」
「臨終の祈り……」
 そう呟いたパトリックの脳裏を、再び奇妙な既視感が掠めた。そう――昔、自分もそう思った覚えがある。そして、あの光景は――前に見たことがある。そんな気も強くした。だからあの微かな呟きも、明瞭に聞き取れたのだ。Rest in Peaceと――。
「な、なんだか凄く重くなってしまったね」
 パトリックは気を取り直したように頭を振り、声を上げた。
「うん。隠し映像ファイルが、こんなに衝撃的なものだとは思わなかった」
 ジェレミーも首を振り、ため息をついた。そして二人は再び黙り込む。
『練習曲を選ぶはずが、すっかり暗くなっちゃったね』
 ジェナインの声がする。もし映像つきなら、彼は肩をすくめているだろう。
『最後にもう一回、『Polaris』を見たらいいよ。ハッピーチャントで少し気分を治して。ああ、考えてみれば、凄い組み合わせだね、これ』
「ああ……そうだね」ジェレミーは苦笑し、パトリックにその言葉を伝え、そして二人でもう一度、最後の再生をした。そして夜空に広がる星々と幸せのチャントを聴き、再び穏やかな前向きの気分を取り戻したのだった。
「とりあえず、リビングに行って、コーヒーを飲もう。チビたちもまだ帰っていないようだし」映像を見終えると、パトリックは頭を振って提案し、
「うん……」ジェレミーは頷くと、従兄の後に続いた。

 コーヒーブレイクの後、二人は再び画面を開き、リストを改めて見やった。
「ああ! 本当にいろんな意味で次元が違いすぎるって痛感させられたけれど……とりあえず、練習曲選びに戻ろう」パトリックが苦笑いしながら、首を振っている。
「うん。本当に……僕らが彼らの曲をやるなんて、おこがましいような気になってしまったけれど……やらせてもらいます、すみません!という感じだね」
 ジェレミーも肩をすくめ、言葉を継いだ。
「でも、後半曲はいろいろな意味で無理だね、という気はするんだ。次元的にも」
「うん。たしかにレベルが違いすぎる」パトリックは頷き、そして聞いてきた。
「じゃあ、前半から選ぶにしても……君が音域的に厳しいのはどれ?」
「『At the Storm〜』これは楽器部分も難しそうだから除外かな。『Evening Prayer』は、楽器部分はシンプルそうなんだけれど、間奏後の一オクターヴ跳ね上がりが、きついと思う。裏声でないと出ないから。でも裏声になっちゃったら、台無しなんだ」
「あー、たしかに。それに、あれを聞いちゃったあとだと……この曲は無理だよ」
「うん。リプライズは強烈過ぎたね」ジェレミーもかすかな震えを感じながら頷く。
 一時間ほど話し合ったあと、最初の練習曲は四枚目のアルバムからの曲、『Remember Your Moment』になった。間奏部に五拍子が入るのが難関だが、比較的構成がシンプルで、二四曲の中では、難易度がそれほど高くないと思えたからだ。ケネスもそれに同意し、今も心に響く調べを頼りに、実際に音を出して確認しながら、それぞれのパートの楽譜を起こしていった。ドラムスは基本シンプルなパターンのみにし、歌の伴奏部も、「あ、こういうフレーズがあったような」と思い出した以外は、基本的なものにとどめた。
 それから四人で、練習を始めた。彼らの残された二四曲の中では、一番難易度の高くないと思えるものを選んだのだが、それでも芸能局で作られるものより格段に難しく複雑で、マスターには長い時間を要した。この一曲を再現するのに、二ヶ月近くかかったほどだ。しかしとうとう再現できた時(かなりの部分を単純化したので、三人が自嘲気味に言ったように『劣化版』ではあったが)、みな、言いようのない高揚感と満足を覚えた。元の曲を知らないモーリスでさえ、感激のあまり涙しそうになっていたほどだ。次の曲、『(No one could be an)Angel』は、マスターするのに六週間かかった。その次の『Neverlands』は一ヶ月あまり。気がついてみたら、いつしかその年も終わりに近づき、ジェレミーたちが新しい音楽の試みを始めてから、半年以上が過ぎていた。
「でも、これを公表するわけにはいかないのが、惜しいな。すげえ曲なのに。こういう音楽だったら、俺もファンになっただろうな」
 その日の練習で、モーリスは頭を振りながら、そんな感想を述べた。
「今は、まだ無理だね」パトリックも、悲しげに首を振る。
「せっかく練習しても、公表は出来ないんだ。となると……もう半年たってしまったんだね。半年後には、何かを公開しなければならない。何を発表するつもりなんだい、君は?」
 ケネスが少しだけの懸念をにじませた表情で、問いかける。
「自分で作った曲、ということになるんだけれど」
 ジェレミーは考えながら、口を開いた。
「今はまだ、どうやったらいいのか、わからないんだ。午前中、みんなが来る前に、何か書いてみようとするんだけれど、ほとんどなにも出来ないんだ。メロディも時々は浮かぶんだけれど……今、演奏技術をつけるために、彼らの曲を練習しているんだけれど、僕には絶対、こんなに素晴らしい曲は書けない。僕が書くものなんて、本当につまらないものばかりだよ」
「まあ、まだ時間はあるんだ。半分過ぎたということは、考えようによっては、まだ半分あるんだからさ、何とかなるよ」
 パトリックが励ますようにその背中を叩いた。

「明日はクリスマス・イヴだから、うちに帰っておいでよ、ジェレミー」
 その日、パトリックは声をかけた。「トミーやリッキーも、君に会いたがっているんだ。ヒルダ姉さんたちも帰ってくるけれど、君は僕の部屋にでも泊まったらいい」
「俺はクリスマスなんざ、嫌いだな」モーリスが頬を膨らませた。
「うちになんぞ、帰りたくねえ。家の連中も、俺に帰ってきて欲しくはないだろうしな」
「僕も期間が明けるまでは、帰れないな。たとえクリスマスだろうと」
 ケネスが肩をすくめた。
「じゃあさ、みんな、うちへこないか? 全員泊まれるスペースはないけれど、食事とゲームだけでも」パトリックがそう提案した。
「迷惑じゃないかい、君の家に?」ケネスが気づかわしげに聞く。
「父さんや母さんは反対しないさ。にぎやかなのが、嫌いじゃないから」

 そして当日、アンソニーとメラニー、マーティンとパトリック、里子のトミーとリッキー、ヒルダの一家――夫妻と、四歳になるジョスリン、生後八ヶ月の双子セシルとカール、パトリックのガールフレンドで、秋に出した結婚申請が認められたため、今は婚約者でもあるマーガレット・コールダー、そしてジェレミーとケネス、モーリスも加えた、にぎやかなクリスマスの宴が催された。
 パトリックの婚約者、マーガレットに会うのは、ジェレミーにとっては初めてだった。彼女は小柄で、顔の作りも小さいが、淡褐色の眼は大きかった。少し金色がかった茶色の巻き毛で、快活な性格ながらも気配りもできる人だった。ジェレミーがパトリックを巻き込んでしまったために、結婚が遅くなってしまって申し訳ないとわびると、彼女は笑って答えていた。
「仕方がないわ。でも、待てるから、気にしないで」と。
 宴が終わって仮住まいに帰る時、ケネスは「古き良き時代の家族だな」と感嘆したように言った。モーリスは立ち去り際、アンソニーとメラニーに向かって、「ありがとう。伯父さん、伯母さん。おかげで初めてクリスマスが楽しく思えたぜ」と言っていた。
 アンソニーは悲しげな笑みを浮かべ、「エセルを許してやってくれ」と言った。
「俺がお袋を許すっていうのも、変な話だな」
 モーリスは戸惑ったような顔をした。
「彼女は君を不当に扱ったからね。でも彼女は決して、悪人じゃないんだ」
「わかってるよ……」モーリスは照れくさそうに背を向けた。
「とにかく、ありがとう」
「ところでジェレミー、練習再開はいつだい?」ケネスがそう聞く。
「明後日からにしようと思う。明日は休養していて」
「わかった。じゃあ、今日はどうもありがとう」
 ケネスとモーリスはもう一度アンソニー夫妻に感謝すると、帰っていった。

 翌日のことだった。前夜の余波からか、その日は家族みな、起きだしてくるのが遅く、九時半ごろ、遅めの朝食をとっていた。その時通信ランプがつき、呼び出し音が響いた。アンソニーは席を立ち、端末の前に座って、セッションを開いた。
「やあ、ジョンか。メリー・クリスマス。そっちはみんなどうだい? シンシアや子供たちは」
 伯父の言葉で、ジェレミーは通信相手が母の夫、ジョン・アンダーソンだとわかった。クリスマスの挨拶なのだろうか。ちょうど母の家族が住むロンドン市では、日付が切り替わった頃だ。深夜の通信になるが、こちらの時間帯を考慮したのかもしれない。
 しかし、そんな思いはすぐに掻き消えた。アンソニーは挨拶のあと、無言で相手の言うことに聞き入っている。そして「なんだって??」と声を上げた。そのあとは、時折相槌を打ちながら相手の話に、聞き入っているようだ。
 ジェレミーの胸は騒いだ。ちょうど一年半前の朝、ヘイゼルの失踪を知らせるエドガー・ハーツからの通信が、こんな具合だったことを思い出した。まさか、母に何かあったのだろうか。
 通信を終えると、アンソニーはくるっと振り向いた。
「シンシアが倒れたらしい。クリスマスパーティが終わって、子供たちを寝かしつけて、それから突然……まだ意識が戻らないらしいんだ」
「母さんが……!?」ジェレミーはそう言ったきり、言葉を失った。
「シンシア叔母さんは、病気だったのかい?」パトリックが聞いていた。
「今年に入ってから、あまり体調が良くないとは聞いていたが、病気とは聞いていなかったな」アンソニーは首を振って答えている。
「大丈夫よ、ジェレミー」
 メラニーが落ち着かせるように、軽く肩に手を置いて声をかけた。
「ほとんどの病気は、治せるわ。きちんと治療すれば。意識が戻らないのは少し心配だけれど、ちょっと疲れがたまっただけかもしれないしね。落ち着いて、アンダーソンさんがまた連絡してくれるのを、待ったほうがいいわ」
「はい。そうします」
 ジェレミーは軽く唇をかみ、頷いた。どっちにしろ、自分が母を見舞いに行くなどということは、今も昔も考えられなかった。母とはヒルダとヘイゼルの合同結婚式の際、短い時間だったが会い、言葉を交わした。それきりだった。芸能局に進んでからはなおさら、母の一家を煩わせてはいけないという思いは強く、もう二度と母に会うこともないだろうと思っていた。しかし母は家族と幸せに暮らしている。そう思えば、安心していられた。その母が病に倒れた。しかし、自分に出来ることは何もないのだ。祈ることしか。そしてジェレミーは何に祈っていいかすら、わからなかった。




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