Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第八章  転換の時(3)




 翌日、パトリックは再びカウンセリングセンターの門をくぐった。今度は、最初から一人だった。昨夜家に帰ってからモーリスに連絡をし、あれから無事に帰ったかどうかの確認をしてから、ジェレミーの覚醒に立ち会うかどうかを聞いた。その時、モーリスは暗い声でこう答えたのだった。
「いや、明日は仕事だから、どの道行けないが、仮に行けたとしても、止めとくよ。俺は心を失ったあいつに会うのは、怖いんだ。よけいに自分を抑えられなくなりそうだから」
 それは自分自身の感情でもあったのだが、進まないわけにはいかなかった。
 案内された先には、芸能局の職員らしき人間がいた。昨日会った尊大な男ではないが、目つきの険しい短髪の男だった。男はジョンソン研修官と名乗った。
「研修時代にキャレルの担当だったんだ」
 男はそう言った。そして侮蔑の響きとともに言葉を続けた。
「やっぱりこんなことになるんじゃないかと思ったが、案の定だった。馬鹿め」
「昨日の方はいらっしゃらないのですか?」
 一応言葉はていねいにと気をつけながら、パトリックは聞いた。
「ドウェイン総監督のようなお偉方が、たがが歌手ふぜいの処置に、二度も付き合っていられると思うか? 昨日が特例だったんだ。あの方は暇じゃないんだよ」
 男は吐き捨てるように答えた。
 ジョンソン研修官はジェレミーの研修時代、非常に威圧的だったと聞かされていたことを思い出し、密かに納得しながら、パトリックはつとめて不快感を押さえようとした。しかし、これから従弟の変容を目にし、その時もしもこの男が不快であり続けたら、どこまで自分を抑えておけるか、自信がなかった。
 
 やがてカウンセリングセンターの技師がやって来て、二人を部屋に案内した。そこは処置室ではなく、準備室と呼ばれる部屋の一つだった。処置を担当した医師がベッドのそばに立ち、近くに寄るようにと手招きした。
 ジェレミーはベッドの上に寝かされていた。拘束されてはいず、昨日と同じ白い処置着を着せられて、眠っているようだった。目を硬く閉じ、肌はこれまで以上に白く見えた。黒く長いまつげが、頬に触れている。
 この目が再び開いた時、以前のようにその瞳は、感情を映して色を変えるのだろうか――パトリックはふと、そう思った。その感情はもしあるとしたら、どこから湧いて出てくるのだろうか。新しいジェレミーは、どこまで以前のジェレミーと同じなのだろうか。
 閉じられた瞼がピクピクと動いた。「まもなく覚醒します」と、医師が告げた。パトリックはこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。別人になった従弟と対面するのは、なんとしても耐え難い気がした。気づいたら、全身から汗が吹き出ている。しかし彼はただそこに根が生えたように立ちすくみ、従弟を見守るしか出来なかった。
 ジェレミーはゆっくりと目を開いた。その目は、深い灰色だった。視線は最初、ぼんやりと天井に合わされ、それからゆっくりと部屋を動いた。壁へ、ドアへ、傍らに立つ医師と技師へ。最後にその視線がパトリックを捕らえると、ジェレミーはにっこりと笑った。
 これはジェレミーの微笑ではない。パトリックは即座に悟った。しかし、同時に不思議な感じがした。これが機械で作られたジェレミーの新しい人格から発した笑みなのだろうか。しかしそれにしては、その微笑には親しみが込められており、またどことなく楽しそうな笑みでもあったのだ。
 ジェレミーはベッドの上に、ゆっくりと起き上がった。そして頭に手をやり、髪の毛を触り、手ですき下し、そして再びパトリックを見た。
「初めまして、パトリック。君のことは知っていたよ。どうかよろしく」
 彼は再び微笑し、手を差し出した。
「あ……あ。よろしく。でも……はじめまして、なのかい?」
 パトリックは驚きに打たれながら、差し出された手をぎこちなく握った。
「いや、厳密には、はじめましてじゃないよ。だから、君のことは知っていたよと言ったんだ」ジェレミーは親しげな笑みを浮かべ、その手を握り返してきた。
「君は……」
 パトリックは言葉を飲み込んだ。予想していた変容とは違う。新しいジェレミーは、どことなくよそよそしいところがあるのではないかと思っていた。さもなければ明るくはあるが、心のこもらない感じがするのではないかと。そう、どちらにせよ、新しいジェレミーには、厳密な意味での心はないのだろう。だからそういった感情の芯とか核という、心が携わる部分は抜け落ちるのではないかと思っていた。
 しかし、目の前のジェレミーには、明らかに内側から沸いて出てきたような感情と、まぎれもない彼自身の心が、精神があるように思えた。しかし、それはかつてのジェレミーとは、違うようだ。機械カウンセリングは、ここまで完璧に人間を作り変えてしまうのだろうか――そう思うと背筋が冷たくなったが、同時に目の前の新しいジェレミーに対して感じている思い――親友であり同志であるという思いは、不思議に変わらなかった。
 ジェレミーは微笑し、手を離すと、今度は視線をジョンソン研修官に向けた。
「ああ、すぐに威張りたがる研修官さんも、来たんですね。ジョンソンさんでしたっけ。ハワードさんは? ああ、そうか。懲罰室でしたね。あの人もお気の毒に。良い人なのに。あの人は? 処置の時に来ていた、頭の薄い、女好きの総監督さん」
 ジョンソン研修官は仰天した面持ちでジェレミーを見つめ、返答できないでいるようだった。
「あの人は偉い人だから、二度までも付き添わないそうだよ」
 パトリックが、思わずこみ上げてきた笑いをこらえながら、かわりに答えた。それにしても、この新しいジェレミーは、カウンセリングセンターの医師が意図していたものとは、かなり違うようだ。プログラムどおりなら、芸能局の上官たちを、こんなにあけすけに語ったりはしないだろう。
「お、おい。君は……そうだ、君の名前は?」
 カウンセリングセンターの医師が、あわてた様子で問いかけた。
「ジェレミー・ジェナイン・ラーセン・ローリングス。芸名はジェミー・キャレルです」
 ジェレミーは医師を見、はっきりと答えた。
「生年月日は?」
「NA一九六二年七月十四日です。今度の誕生日で二二歳になります」
「ご両親は?」
「父は誰だかわかりません。母はシンシア・ラーセン・ローリングス。今はジョン・アンダーソン夫人なので、ローリングス・アンダーソンですね。アンダーソン氏との間にテレンス、レイチェル、ルース、ジェームスの四人の子供がいます。母の一家は、ヨーロッパ地区のロンドン市に住んでいます」
「君の親戚は?」
「祖父はジェフリー・ターナー・ローリングス。でも去年亡くなってしまったんですね。心臓病で。僕はロード期間中だったので、お葬式には出られなかったんですが。祖父にはあまり良い思い出はありませんでした。というより、会ったことはほとんどないです。僕を見るのもいやだったようです。祖母はマチルダ。マチルダ・ラーセン・ローリングス。本来良い人だと思うのですが、ちょっと思い込みが激しいのと、僕に対してあまり良い感情を持ってくれていないのが、残念です。伯父のマルコム一家は、僕を軽蔑し、無視していますから、僕も彼らの一家はあまり重視していません。アンソニー伯父はとても良い人で、僕の後見人でもあります。メラニー伯母も、生まれには傷があるそうですが、その辺のちゃんとした生まれの人間より、はるかに良い人です。彼らの一家は僕を人間として認めてくれ、家族に迎えてくれた、一生の恩人です。ヒルダさん、ヘイゼルさん、マーティン。そしてパトリック。パトリックは僕の一番の親友でもあります。エセル伯母さんの一家は、モーリス以外僕を嫌い、無視していますから、僕もマルコム伯父さんの一家同様、彼女の一家は重視していません。モーリスは例外です。彼は良い人です。一時期暴れたこともあったけれど、それは環境で性格が歪んだからです。彼もまた、環境の犠牲者に過ぎません」
 とうとうとジェレミーが述べ立てる言葉を、医師もジョンソン研修官も激しい驚愕と当惑の表情を浮かべ、聞いていた。
「どうなっているんだ?! 記憶が消えていないじゃないか、まるっきり!!」
 驚きのあまり忘れていたのだろう言葉が回復すると、ジョンソン研修官が噛み付くように医師を問い詰めていた。
「いや、そんなはずは……ありえない! 処置は完璧だったはずだ……」
 医師はありありと狼狽の色を浮かべている。
「ジェレミー」パトリックは驚きが抜けると、従弟に呼びかけた。
「君は覚えているんだね、何もかも……」
「覚えているよ。アヴェリンのことも。どうして僕が機械カウンセリングにかけられることになったのかも」
「あのことも、覚えている?」
「あのこと……ああ、あのファイルのことだね。もちろん覚えているよ」
「でも……でも、君はジェレミーじゃないね」
「ああ。やっぱりわかるかい?」
「だてに彼と親友だったわけじゃないからね。じゃあ、君は誰なんだい? プログラムで作られた人格だとは、僕には思えないんだけれど」
「ああ、僕はプログラムされた人格じゃないよ。元から彼の中にいたんだ」
「元から?」
「君は知っているかい? ジェレミーは生まれた時には双子だったこと」
「ああ!」パトリックは思わず声を上げた。
「そうだ、いつかジェレミーが話してくれたっけ。彼の双子の兄弟が、頭の中から話しかけてきたって。そして、不思議な体験をさせてくれたって。君は……じゃあ、君は、生まれてまもなく死んだっていう、ジェレミーの双子の兄弟なんだね。名前は……そう、ジェナイン!」
「そうだよ」相手はにっこりと笑った。
「僕は生まれてまもなく死んで、精神だけジェレミーの中に取り込まれたんだ。だから普段はジェレミーを通して、ただ見て共感しているだけだった。今表に出てきて、身体を支配しているなんて、少し奇妙な気分がするけれどね」
「どうして……どうして、そういうことになったんだい?」
「あの機械に彼が破壊されるのを、阻止するためだよ」
「君が……阻止できるのかい? そして出来たのかい? じゃあ、ジェレミーはまだ破壊されてはいないんだね」
「されてはいない。彼は今、僕の意識下で眠った状態にあるんだ」
「じゃあ、ジェレミーに戻ることも出来るんだね」
「今は出来ないけれどね」相手はかぶりを振った。
「少し回復させないと、まだこの脳の中では、彼の定位でのネットワークに戻っていないから。完全にそれが戻るまで、彼に意識を渡すことは出来ないんだ」
「そう。でもいずれは、戻ってきてくれるんだね」
「ああ。その点は大丈夫だよ」
「良かった。ああ、誤解しないでほしいんだけれど、ジェナイン。僕は君に会えて、とても嬉しいと思っているし、もし君が身体を望むなら……」
「僕は身体を望んではいないよ」ジェナインは再びかぶりを振った。
「それに君の気持ちもわかるから、大丈夫、パトリック。君が何を思っているか、よくわかるよ。僕は長らく精神だけだったからか、逆に精神力が発達してしまったようなんだ。その力で、人の気持ちもわかるんだよ。あの二人が今、とても狼狽していることもね」
 彼は医師とジョンソン研修官のほうを見やった。
「なんてことだ……」医師はうめくように言いながら、頭を振っていた。
「機械カウンセリングがきかない? そんなことがあるものか……? バカな!」
「私は……総監督になんと報告すれば良いんだ? カウンセリングは失敗しましたと? そんなことは前代未聞だ」ジョンソン研修官も、すっかりうろたえた表情だ。
「失敗のはずはないんだ。失敗のはずは……」
 医師は恐慌にかられたような口調で、技師を呼んだ。
「ナノマシンの具合をチェックしたい。用意してくれ」
「ナノマシンか」ジェナインはどことなくからかっているような口調だった。
「あれはもうないですよ。分解してしまったから」
「なんだって?」
「調べても良いけれど、無駄だと思いますよ」
 まもなく技師が電動ワゴンに器具一式を乗せてやってきた。医師はジェレミーの頭に電極を取り付け、測定を開始する。十分が過ぎた後、医師は再びうめいた。
「本当だ……ナノマシンが消えている」
 そしてうつろな瞳で被験者を見、呟くように聞いていた。
「君は……あれをどうやって分解したのだ?」
「ナノマシンに自己分解を命令すればいいんです。細胞のアポトーシスと同じですよ。金属成分は頭に残ってしまいますが、ごく微量ですから、すぐ吸収されて、排泄されますし」
 ジェナインはあっさりと答え、そして軽く頭を振った。
「測定が終わったら、電極を外してもらえますか?」
「あ、ああ、もう良いだろう……」
 医師が技師に合図し、頭の電極が外された。
「どうすればいいんだ?!」ジョンソン研修官が怒ったような叫びを上げた。
「そのままの結果を芸能局に報告してください」
 医師は憔悴したような表情で、力なく答え、うめくように続ける。
「こんなことは初めてだ。前代未聞だ」
「もう一度機械にかけるわけには、いかないのか?」
「それは出来る……でも、最低一週間の間を置かなければ実施できないという、規則があります」医師は額の汗を拭って答えた。
「カウンセリングに何らかの不備が生じることは想定されているので、そういう規定もあるわけです。プログラムミスとか。しかし、めったに起きることではない。少なくとも私がここに来てからの実施例では、なかった……」
「一週間かかるのか……」
 研修官はうなるように言い、しばらく黙った。そして大きなため息をつくと、続けた。
「ともかく、報告するしかないか……」
「その間、僕はどこにいればいいのですか?」ジェナインが問いかけた。
「うちは病院ではないので、一般の入院設備はない」医師は頭を振った。
「カウンセリングが成功したら、一緒に芸能局に連れて帰る予定だったが……」
 ジョンソン研修官は当惑気味に、かつての担当歌手を見た。
「今は私一人しか来ていない。矯正されていないこいつと一緒に帰るのも、あまり気が進まない。しかもこいつはキャレルより、もっと始末が悪そうだ」
「うちへつれて帰っては、だめですか?」
 拒否されるだろうと予測してはいたが、パトリックはそう申し出てみた。
「今は休暇中ではないから、外出は認められない」
 研修官は苦虫を噛み潰したような顔で、じろりと見た。
「でも、この状態では、活動できないでしょう。この状態でジェレミーが、いや、今はジェナインだけれど、ジェミー・キャレルの活動に戻れるとは思えないんですけれど」
「僕はやりたくないですね」ジェナインは苦笑し、首を振った。
「あんなちゃらちゃらした格好で、甘ったるい歌を歌うなんて、ごめんです。よくジェレミーはあんなことを我慢できるなって、いつも思っていたくらいですし」
 ジョンソン氏は困惑と怒りが入り混じったような表情で、再びじろりとにらんだ。
「あいつが勝手な行動を取ったせいで、ジェミー・キャレルのホーム期間のスケジュールは大きく狂っているんだ。早く次の曲を出さないと、ファン連中に怪しまれる」
「僕はごめんです。必要なら、懲罰室に閉じ込めたっていいですよ」
「懲罰室より……休暇の前倒しということにして、うちで預かれないですか?」
 パトリックはひるまずそう繰り返した。
「私の一存では、決定できない」ジョンソン研修官は苦りきった顔だった。
「とりあえず、通信端末を貸してくれ。ドウェイン総監督や他の方々に報告して、今後の協議をしてくる」
「では、通信室へ案内します。私も事態を説明しなければならない」
 医師はロボットを二体呼び、自分たちが席を外している間、ここで見張っているように命じると、ジョンソン氏と連れ立って出て行った。

 二人が戻ってくるまで、一時間近くかかった。そしてジョンソン氏は告げた。
「一週間後に再処置を、ということで決まった。今度こそ失敗のないように、センターでも最大限努力してもらう。そしてその間だが……良かろう。休暇の前倒しということで、後見人の家に帰ってもいいということになった。ただし、その間の外出は禁止。それを守ってもらうことが条件だが、どうだ?」
「いいですよ」パトリックは、ほっとした気分で頷いた。
「一週間後の十五時までに、こいつをここに連れて来てもらいたい。責任を持って。もし規定を破って連れてこなかったら、あんたも厳罰に処されることになるぞ」
「ええ。わかりました。連れてきますよ」
「それでは、そういうことで……もう帰ってよろしいですよ」
 医師はいまだ不安げな表情で気の抜けたようにそう告げ、何かぶつぶつ呟きながら二人に背を向けた。ジョンソン氏が一緒にカウンセリングセンターの玄関まで行き、
「一週間後に、絶対ここに来るんだぞ。また騒ぎを起こしたら、わかっているだろうな」と、低い声で脅すように、ジェナインに向かって再び言った。
「今度は逃げませんよ、絶対に」ジェナインははっきりした声で答えた。
「アンソニー伯父さんたちやパトリックにも、他の親戚の皆さんにも、絶対に迷惑をかけるようなことは出来ませんから。戻ってきます」
 そしてジェナインとパトリックはシャトルに乗って、アンソニーの家に向かった。

 パトリックは家に帰ると、仰天している母に簡単に事情を話し、従弟を客用寝室に案内した。かつてジェレミーが使っていた部屋は、今はトミーとリッキーの子供部屋になっていたのだ。
「ここは、かなり広い部屋だね」
 ジェレミー(今はジェナインだが)は、言った。クリーム色の地にピンクの花を散らした可愛らしい壁紙と、模様の入ったダークピンクのカーテン、白いドレッサーを見ながら、少し肩をすくめて言葉を継ぐ。
「芸能局の部屋とあまり変わりないけれど、ここは本当に女の人の部屋だったんだよね。ヒルダさんとヘイゼルさんの?」
「そうだよ。もとは姉さんたちの部屋だったんだ。ヒルダ姉さんが帰ってくる時には、ここを使っているんだよ」
 パトリックはローズ色の絨毯に目を落とした。
 部屋の真ん中には二段式のベッドが作り付けになっていて、片側には白いプラスティック樹脂で出来た丸いテーブルと、二客の椅子が置いてあり、もう片方には、クリーム色のソファが置いてある。壁際にはコンピュータ端末の載った作業机とドレッサーが並べておいてあった。
「姉さんも家族が増えたから、帰ってくる時には、この部屋のベッドだけじゃおさまりきれないかもしれないな。赤ちゃんたちが大きくなったら」
「ヒルダさんは、あれから帰ってきたの?」
「いや。姉さんも早産したり、いろいろ大変だったから、今はなんとか気持ちの整理がついたくらいじゃないのかな。やっと赤ん坊たちも退院してきたところらしいし」
「そうなんだ。大変だったものね、いろいろと。それにヒルダさんもこの部屋に帰ってくると、どうしても思い出してしまうだろうし」
「ああ、そうだろうね」
 パトリックは頷いた。存在を消されてしまった、もう一人の姉のことを思いながら。
「チビちゃんたちは、どう?」
「ああ、あれから二ヶ月たっているからね。二人ともかなり家に馴染んでいるし、トミーもいくぶん子供らしさが出てきたよ。リッキーがやんちゃすぎるから、一緒に引きずられるんだろうね。それに、二人ともよく笑うようになった。嬉しいことに」
「子供は適応が早いからね、笑いが出るのは、いいことだよ」
「夕食の時に、君も会えると思うよ。まあ、二人は君の番組は見ていないだろうけれど。トミーはちょっと人見知りすると思うけれど、気にしないよね」
「ああ、大丈夫だよ」ジェナインはにっこりと笑った。

 その夜、夕食の席でパトリックは改めて家族みなに、ジェレミーの事件の経緯を語った。
「そんなことがあったなんて、知らなかったな」
 マーティンが驚いたように首を振り、
「わたしもよ。今日いきなりパットがジェレミーを連れてきて、今日から一週間休暇で預かることになったと言われて、びっくりしたもの」メラニーは苦笑を浮かべていた。
「しかし機械カウンセリングがきかないなど、聞いたことがないな。おそらく前代未聞じゃないか?」アンソニーも、すっかり驚いたような口調だ。
「本当に前代未聞らしいよ。カウンセリングセンターの先生が、思い切りうろたえていたから」パトリックはその時の情景を思い出し、思わず笑いが出てきた。
「ジェレミーの双子か。それも、生まれてまもなく身体は死んだが、精神が生きていたとはね」アンソニーは感慨深げな口調で、そう呟く。
「ジェレミーが双子だったなんて話は、僕ははじめて聞いたよ」
 マーティンが首を振った。
「僕も詳しいことは、何も聞かされなかったな。生まれた時に障害があって、手術が必要だったとは聞いたが」アンソニーも首を振り、ちょっと黙ってから、言葉を継いだ。
「ジェレミーの出生は、ローリングス一族にとっては、あまり表ざたにはしたくないことだったんだろう。父も母もシンシアも、ほとんど何も語りはしなかった」
「ましておや、その子が重度のシャム双生児だったなんて、言わないでしょう」
 ジェナインは微笑を浮かべた。
「僕もなぜジェレミーの中に残ったのか、よくわからないんです。たぶんもともと、脳の一部を共有していたのかもしれないですね。子供の頃は、僕自身の自我さえなかった。ジェレミーがここへ来て、彼の精神が飛躍的に解放されてから、やっと僕は彼から分離した自分というものを自覚できたんです。表に出てくる気は、なかったんですが」
「普段、ジェレミーの精神が表に出ている時には、君はどうしていたんだい?」
 パトリックが尋ねた。
「ちょうど放送プログラムを見ているような感じかな」
 ジェナインはかすかに肩をすくめ、そう答えた。
「ドラマを見るのとは違って、五感のすべてを通して共感できるけれど。食べ物の味とか、洋服の肌触りとか、シャワーの感触、花の匂い、それから彼の感情……彼が体験する日常が僕のすべてで、途中でプログラムを変えたりは出来ないんだ。でも、あくまで実際には彼の経験なんだから、自分で直接体験するのとは、少し違うようだけれど。たとえばこのミートローフの味、パンの味、スープの味、コーヒーの味、ナイフとフォークの手触り……なんていうのかな。同じだけれど、やけに生々しい、そんな感じなんだ」
「観客から俳優の立場になったって言うわけだね、今」パトリックはちょっと笑い、
「そう……そうなんだろうね」ジェナインは頷く。
「君は観客の立場で、満足していたのかい?」マーティンが聞いた。
「ああ。というより、それが当然だと思っていたんだ」
「今は? 実際に自分で体験してみて、俳優になりたいと思うかい?」
「いや、僕は観客の方が気楽だと思うよ、マーティン。今から自分の人生を生きてみろと言われたら、僕はきっと戸惑うだろう」
「ジェレミーは、本当に無事なのかい?」アンソニーはそう問いかけてきた。
「ええ。あと三日もしたら、また彼に戻れると思いますよ」
 ジェナインは微笑して答えた。
「そう……それは本当に良かったけれど、でも、あなたに会えなくなるのは、残念ね。精神が二人分なのだから、二人分の身体があったらよかったのにね」
 メラニーが優しい口調で言い、他のみなも頷いた。
「ありがとうございます。そう言ってもらえるだけで、嬉しいですよ」
 ジェナインはテーブルの周りに集まった人々を見まわし、最後にメラニーの両側で食事をしている、二人の子供たちに目をやった。
 三歳半のトミーは大きなエプロンをかけ、両手にフォークとスプーンを持って、小さく切り分けられたミートローフやパン、カップに入ったスープを器用に口に運んでいた。彼の周りにはほとんど食べ物は飛び散らず、黙々と食べている印象だ。しかしその目は時々興味深そうに周りの人たちを見、メラニーに笑いかけられると、にっこりと笑みを返していた。やっぱり大きなエプロンにすっぽりと包まった一歳半のリッキーは、一応スプーンとフォークは用意してあるものの、ミルクに浸して柔らかくしたパンも、一口大に切ったミートローフも、ほとんど手づかみで食べていた。手はミルクとミートローフのソースで汚れ、その手で食べるので、ミルクの中にソースが入り、ソースにミルクがくっつく状態だ。おまけにテーブルの上に派手に食べこぼしていたが、すぐ片付けられるように、彼の周りにはビニールのシートが敷かれている。メラニーも時々声をかけてやりながら、手を拭いてやる以外、彼が食べ物で遊び始めるまでは、好きにさせていた。そして食べ物をおもちゃにしだすと、「めっ!」と、小さな手をぴしゃりと叩く。リッキーはひと時泣いて抗議するが、それからしばらくは、おとなしく食べている。
「この子たちも、きっと立派に育ちますよ。この家には、愛情があるから」
 ジェナインはそう言葉を継いだ。そうして食事後は、二人の子供たちと少し遊ぼうとした。リッキーは人見知りしない性格なのか、たちまち打ち解けてきた。トミーも少しはにかんだようではあったが、すぐに一緒に遊びだした。
 お休みの時間が来て、メラニーが二人を子供部屋に連れて行くと、ジェナインは立ち上がり、一緒に子供たちと遊んでいたパトリックに言った。
「ねえ、少し君の部屋に行っていいかな? ジェレミーは良く君の部屋に行っていたから、改めて見てみたいんだ」
「ああ、いいよ」パトリックは頷くと、従弟を自室に案内した。
 
「ギターは、どこへやったの?」
 ジェナインは部屋のスツールに座って、懐かしそうに回りを見回したあと、そう切り出してきた。
「ああ、あれはしまったんだ」
「どうして?」
「君が……ジェレミーが、もしカウンセリングで心を失ったら、それは僕にも責任があると思って。彼がすべてを忘れてしまったら、もう音楽の意味はなくなるだろうと思ってね」
「しまう必要はないよ」ジェナインは微かに笑い、首を振った。
「音楽を止めちゃいけないよ、パトリック。ジェレミーもそれは望んじゃいない。彼はまだ君との約束を、忘れていないから」
「ああ。もし彼が失われないなら、僕はもう一度ギターを始めるよ」
 パトリックは頷くと、目の前の従弟を見据えた。
「でもね、ジェナイン。僕は心配も消せないんだ。一週間後に、また再カウンセリングになるんだろう? 相手も今度は、こんな不備が起こらないように、かなり慎重になると思うんだ。それでも君は、大丈夫なのかい? また彼を守ってくれるのかい? もしかしたら今度こそ、彼も君も壊されてしまうんじゃないかって、心配なんだ」
「大丈夫だよ」ジェナインは微笑して答えた。
「僕も機械カウンセリングがどんなものか、よくわかったから。大丈夫。いくら向こうが対策を講じてきたとしても、所詮は機械なんだ。むざむざ壊されたりしないよ。カウンセリングマシンは基本的には、脳神経のニューロンネットワークを切って、ナノマシンを使って、新しいネットワークを作るわけなんだ。でも、僕はナノマシンを壊して、もとのネットワークに戻すことが出来る。だから、大丈夫だよ」
「君自身は、ネットワークを切られることはないのかい? もし君が壊されたら……」
「パトリック、君は脳のニューロンネットワークだけが、その人のすべてだと思うかい?」
「どういうことだい?」
「大脳生理学者は、そう言うだろうね。人の自我形成、性格形成、運動能力や記憶、学習能力、感情、そういったものすべては、脳のネットワーク、電気刺激が神経を伝わっていくパルスに過ぎないって。そういうものすべてをロボットに移し変えても――ロボットには自我や性格は形成されないし、感情も簡単なものしかないけれど。ちょうど犯罪者の機械矯正のようにね――機能しうる。実際ロボットはその仕組みを移して動いているわけだけれど、人間はそんなに単純じゃないんだよ。なるほど、表面上の性格は、それで操作できる。脳のネットワークを切断すると、その人の自我は消える。その人の思いや性格は失われる。記憶も。ちょうどかつて認知障害とか、重度の精神障害と呼ばれた状態になるわけだ。でも、その人の魂がそれで失われるわけじゃない」
「魂? それは精神と、どう違うんだい?」
「自我に対する、自己とも言うべきかな。命の元と言ってもいいかもしれない。ともかく、うわべの精神、自我は消せるけれど、魂は消せないんだよ。それはニューロンのネットワークで宿るわけじゃない。その人がこの世に生を受けた時、その身体に宿るものなんだ。そしてその魂が、脳に自我を形成する。その形はなるほど、ニューロンのネットワークなんだけれど、その根本の魂までも、消せるわけじゃないんだよ。僕の魂が消されない限り、僕には彼本来のニューロンネットワークの記憶があるから、また戻すことが出来るんだ。そして僕の魂は……いや、どの魂も、誰にも消すことはできないんだよ」
「なんだか……霊魂とか、そんな感じかい? 三文小説かテレビドラマみたいだな」
「目に見えるものしか信じられないと、そう思えるだろうね」
「君はわかるのかい、ジェナイン?」
「わかっていると思う。もう少しで、僕はきっと完璧に思い出すよ。以前の僕を」
「以前の君?」
「そう。僕が生まれる前は、誰だったのか」
「前世なんてないだろう? そんなものは、ただの作り話だ」
「ジェレミーが一週間前、アヴェリンとそんな話をしていたけれど、君も同じ事を言うね、パトリック。この時代は、それが主流なんだろうけれど」
「じゃあ、ジェレミーも知っているのかい?」
「いや、彼にそう言わせたのは、僕だけれどね」
「ナンセンスだよ!」パトリックは笑おうとした。しかしその時、不思議な感じが襲ってきた。かつてジェレミーと一緒に新世界ファイルを見た時に感じたように――既視感、デジャヴ――そう呼ぶべき感覚が。
『生まれ変わりって信じるか?』
 自分はそう聞いたような気がする。
『信じてる、というか、知ってる』
『目に見えるもの、耳に聞こえるものしか信じられない人には、理解できないんだろうな』
 誰かが、そう答えていたような気がする。はるか昔に――。
「君も、今の自我に時々亀裂が走っているようだね」
 ジェナインはどことなく面白がるような笑みを浮かべ、パトリックを見ていた。
「その亀裂の隙間を縫って、彼方からの記憶が吹き上げてくる。微かにだけれど」
「それは……僕の前世の記憶だって言いたいのかい?」
「君が信じる信じないは自由だと思うよ」
「君は人の心がわかると言ったね。それに君は、はるかに多くのことを知っているらしい。じゃあ……かつて僕に……君の言うことが本当だとしたら……同じようなことを言ったのは、君なのかい、ジェナイン」
「いや……」ジェナインは少し考えるように目を閉じた後、首を振った。
「違う……違うはずだ。僕はかつて、君に会ったと思う。でも僕は……君たちの時代を、生きてはいなかったと思う。もう少し……もう少しできっと、僕はすべてを理解するだろう。そうしたらもっと明確に、君にも説明できるだろうけれど、パトリック」
「僕は……君の言うのが本当だとしたら、かつては誰だったんだろう?」
「君は今までにも、多くの人生を生きてきたと思うよ」
 ジェナインは少し肩をすくめながら、そう答えた。
「そう……転生する魂を得てから、少なくとも三十人くらいは。だから誰とは、明確には答えられないよ」
「そうなんだ……?」
「ああ。でも人生にもいろいろあってね、中にはキーライフとも言うべき、非常に重要な人生を生きる時があるんだ。その人生の記憶は、あとになっても非常に強く残る確率が高い。君が時々感じる不思議な思いは、そのキーライフの時の記憶なんだと思う」
「それって……どのくらい前なんだろう。新世界ファイルでデジャヴを感じるんだから、そのあたりなんだろうか」
「それで当たっていると思う。たぶん」ジェナインは頷き、そして続けた。
「でも、君の今の生では、それはあまり考えない方がいいと思う。忘れるんだね」
「それはそうだね。自分が自分でない時があったなんて考えると、ものすごく変な気分になるから。考えないことにするよ」
 パトリックは肩をすくめ、その後話題を変えた。




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