Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第八章  転換の時(2)




 意識全体が、真っ白く濃い霧の中に包み込まれたようだった。その霧の合間から、途切れ途切れに映像の断片が浮かんでくる。その映像を認識するまもなく、泡がはじけるようにすっと消え、再び霧に閉ざされる。やがてまた、別の泡が現れ、消えていく。その繰り返しのようだった。
 無限にも思えるその繰り返しのあと、霧が少し薄れ、いくぶん明確な映像が現れた。小さな広場のようなところに遊ぶ、二歳くらいの小さな子供。金色の巻き毛で、目は自分と同じように、色合いの変わる灰色だった。浅黄色の半そでシャツに少し色のさめた青の、胸のところにも布のついた奇妙な形のズボン。その子は見たこともないような、小さな乗り物に乗っていた。車輪が三つあり、その上に座席のようなものがあって、その上に乗って、両側に突き出た小さな板に足を乗せ、動かしている。すぐそばに、建物があった。集合住宅の広場にある集会所よりも小さい、初めて見る形式の建築物だ。壁はクリーム色で、三角形の屋根は緑。窓には様々な色のついたガラスがはまっていた。屋根の上には、金色の棒が二本交差したものがのせられている。
 子供のそばに、誰かいるようだった。全身灰色の、長い奇妙な衣装に身を包んだ女性だ。その衣装は頭もすっぽり覆っていて、その人の髪を覆い隠していた。顔だけが出ているが、優しさをたたえた灰色の瞳と、整った顔立ちをしていた。その隣に、髪の白い、花模様のワンピースに身を包んだ老婦人が立っていた。その人は幼子を見つめ、そして驚いたように声を上げていた。
「まあ、この子はアリステアにそっくり!」

 風景が、再び白く閉ざされ始めた。霧の中に吸い込まれるように、映像が消えていく。ミルク色の海は、しばらく穏やかだ。やがてまた、別な映像が現れてきた。
 四方を透明な壁に囲まれた小さな乳児用ベッドの中に、赤ん坊が眠っていた。まだ生まれて間もないような小ささで、白いベビー服を着、小さな手は硬く握られている。その髪の毛は、奇妙な色をしていた。鮮やかな青。国旗に描かれた子供のような、そしていつかファイルで見た、新世界の初代大統領のような。その青い髪は右側の頭頂部だけが淡い金髪になっている。
 自分はその子を見下ろすような視点で立っていた。そして両手を伸ばし、その子を抱き上げた。赤ん坊は目を開け、澄みきった空のような明るい青い目で、自分を見つめた。
 そうだ、この子が生まれた晩、僕は知った。とても大きな真実を。だけど、それは何だっただろう。思い出せない……そんな意識が内側からわきあがると同時に、再び白い波が押し寄せてきた。渦を巻くように、深く深く、意識を引っ張り込もうとしている。やがて再び真っ白な霧がすべてを多い尽くしていった。静寂。無の静けさ。

 真っ白な海の底から、再び映像が立ち現れてきた。それは、一面の花畑だった。淡い水色の小さな花が咲き乱れるゆるやかな斜面の頂上に、ガラスのように透明な素材で出来た、不思議な形の建築物が立っていた。その建物が、光を反射して輝いている。少し緑がかったような柔らかな青い空には、二つの太陽が輝いている。一つは大きく白く、天の中心より少し向かって右側に傾いたところにあり、もう一つはそれより少し小さいオレンジ色で、天空の半ば、左側よりにあった。
 自分は花畑の中で、遊んでいるようだった。たぶん、小さな子供なのだろう。傍らにももう一人、子供がいるようだった。その子が顔を上げ、自分を見た。淡い光のような髪を背中にたらした、先ほどの風景で見た赤ん坊と同じ瞳の子供だった。どことなくあの新世界の守護神を思わせる子で、しかし自分は相手を女の子だと思っていた。その子の髪の両翼には青い髪が一房混ざり、丈の長いワンピースのような白い服を着ている。
 その子は無邪気な瞳で自分を見、にっこり笑って何か言った。その言葉は聞き取れなかった。まったく聞き覚えのない響きだった。しかし、自分にはなんとなくその意味がわかるような気がした。
『わたしはここが好き』
 それに呼応し、自分は言った。
『ぼくも好きだよ』
 それに答え、相手が問いかける。
『新しいところは、好きになれると思う?』
 自分は答える。
『好き嫌いじゃないと思うな』
『わかっているけれど。でも出来たら好きになりたいなと思って』
『君らしいね』笑い、そして続ける。
『ぼくがいるから。君は一人じゃないよ。ぼくが見ているから。ずっとね』
 再び映像が消えていく。深い深いもやの中へ。その映像が消える瞬間、ジェレミーの意識は軽い驚きを感じていた。
(今のは誰……? あれは僕じゃない……)

 唐突に、ジェレミーは眠りからさめた。白い天井が目に入った。一瞬、自分の状況が把握できなかった。やがて、記憶がよみがえってきた。激しい恐怖とともに。ジェレミーは叫び声をあげ、ベッドから起き上がろうとした。しかし、出来なかった。いつの間にか、身体がベッドに拘束されていた。両手、両足、胸、腰、そして頭がかっちりと輪に固定され、動けなくなっていたのだ。左腕には、アヴェリンが病院で付けていたような点滴パックが付けられていた。ジェレミーは拘束から逃れようと身もがいたが、一部のすきもなく固定され、ほとんど身体を動かすことさえ出来なかった。
 扉が開き、白い制服を着た医師と、薄いグレーの制服の技師が二人入ってきた。そのあとから護衛用だろうか、ロボットが二体と、さらに紺の縁取りをした白い上着、濃いグレーのズボンをつけた男が入ってきた。男の上着の襟には、芸能局の記章が金色の縫い取りで入っていた。ジェレミーはその男が誰だかわかった。ドウェイン総監督だ。 
 ドウェイン氏は四十代後半ではあったが、茶色の髪はかなり生え際が後退し、頭頂も薄くなっていた。口ひげを蓄え、決して不器量ではないが、薄い唇と緑灰色の目に、酷薄な感じが宿っていた。芸能局の上層部は、現役上がりの職員とは違い、中央政府から派遣されてくる役人であり、その身分は中央政府所属で、芸能局所属の人々とは天と地ほどの違いがある。
 ドウェイン総監督は大またにジェレミーのベッドに近づくと、その目に明らかな侮蔑と嘲笑を浮かべて、見下ろした。
「どうだね、気分は?」
 ジェレミーは返事をしなかった。この男は、アヴェリンを無理やり手篭めにしようとした奴なのだ。そして今、自分を嘲りに来ている。そんな男の前で、無様に怖がったりなど、したくはなかった。緑色に燃える瞳で、ジェレミーは相手を見返した。
「なんという反抗的な目つきだ」ドウェイン氏は吐き捨てるように言った。
「それに、上官から話しかけられたというのに、返事もせんとは。まったく、ハワードの監督不行き届きだ」
「ハワードさんには、責任はありません」
 ジェレミーはそう抗議せずにはいられなかった。
「そうはいかん。おまえの監督が、あの男の仕事だからだ」
「ハワードさんにも、何か罰があるのですか?」
「今朝から二週間の懲罰室行きと、減俸三ヶ月だ。おまえの不始末にしては、軽い方だろう。ああ、おまえが失踪した日から一週間も、あの男は懲罰室にいたから、合計では三週間だな。だが、それでも軽いものだ」ドウェイン氏はにやりと笑った。
「そしておまえはこれから罰を受けるわけだが、その様をとっくりと見物させてもらおう。ハワードは今懲罰室にいるので、付き添えないからな。かわりに私が、わざわざ歌手ふぜいの処置に立ち会うわけだ。ありがたく思えよ」
 氏が手を上げて合図をすると、そばにいた二体のロボットがベッドを押し始めた。医師と技師たちが、あとからついてくる。ベッドごと処置室に運ばれているのだと気づき、ジェレミーの心に再び激しい恐怖が突き上げてきた。叫びだしたい衝動に駆られた。しかし、自分を見ているドウェイン氏の冷たい目を意識して、かろうじてこらえた。負けたくはない。しかし、自分に何が出来るだろうか。もうすぐそこに待ち構えてくる、終末に対して。

 パトリックとモーリスはカウンセリングセンター前の道路に立ち、白い建物を見上げていた。現在はメラニーもトミーとリッキーの養育のため、リッキーが三歳になるまで休職しているので、彼女につてを頼んだり、会いに行くという口実を設けたりすることも出来なかった。一般のカウセリングにも、予約が必要なのだ。しかし、こうして立っているだけで、いったい何が出来るのか。パトリックの心はどうしようもない無力感と焦燥に乱れた。そして三十分がたった頃、相方に声をかけた。
「ねえ、モーリス……」
 同時に相手も口を開いた。
「なあ、パトリック……」
「何?」
「いや、おまえこそ、なんだ?」
「いや、僕はここにこうしていても仕方ないから、帰ろうかって言おうとしたんだ」
「そうか。俺はここにこうしていても仕方ないから、中へ入れてくれるよう頼もうぜって言おうとしたんだが」
「中へ入れてくれるように?」
「のこのこ帰るよりは、ましじゃねえか? せっかくここまで来たんだからよ。おまえがそんな臆病風に吹かれるとは思わなかったぜ、俺は」
「別に臆病風に吹かれたわけじゃないよ。ただ……」
 パトリックは唇をかみ、首を振った。
「中へ入ったって、何もできるわけじゃない。むしろ君が騒ぎを起こしたりしないか、余計な心配が増えるだけのような気がするんだ」
「言ってくれるな。俺もそんな間抜けじゃないつもりだぜ」
 モーリスは鼻白んだような表情だった。
「でも、そもそも中へなんて入れてくれやしないよ」
「やってみなけりゃ、わかんねえだろうが」
「それでなんとか中へ入れたとしても、何が出来る? 立ち会うとか? だから、その可能性は昨夜話したじゃないか。ジェレミーには会わないほうが良い」
「本当に会いたくないのかよ、おまえは。あいつに会う最後のチャンスなんだぞ」
「会いたくないわけじゃないよ。でも僕は……怖いんだ」
「情けねえなあ。愚連隊相手に一歩も引けを取らなかった、あのおまえはどこへいったんだよ、パトリック。俺のことは心配いらねえ。ヤバイと思ったら、そこで帰るよ」
「ああ……」パトリックは目を閉じた。
「そうだ……僕は君が言うように、臆病になっていた。今ジェレミーに会うことは、とても辛いだろう。僕は我慢できないかもしれない。でも下手なことをしたら、父さんに合わせる顔がない。そう思って、逃げていた。でも……そう、たしかに彼に会う最後のチャンスなんだ。会っても、どうにもならないだろうけれど、今会わなければ、僕はずっと後悔するかもしれない。ありがとう、モーリス。行こう。行って、頼むだけ、頼んでみよう」
「そうこなくちゃな」
 二人は建物の中へ入っていった。

「何? キャレルの従兄?」
 カウンセリングセンターの職員から連絡を受けたドウェイン総監督は、顔をゆがめた。
「はい。処置の前に会いたいと言うことです」
「外部面会は禁止だ」総監督は手を振った。
「そう言ったのですが、しかしここは芸能局ではないだろうと、なかなか引き下がらないのです。ルールとして自分たちに反対する権利がないのはわかっているが、せめて会うことぐらいは認められても良いはずだ、機械カウンセリングに身内が付き添うことは、センターの規則として認められているはずだと。一人の父親はキャレルの後見人でもあるそうですし、ぜひ処置の前に会いたいと言って聞きません」
「まったく、これだから、なまじ関心を持っている肉親がいる奴は困る。今度から、そういう輩は、最初からはねた方が良いな。ジェミー・キャレルといい、アリスン・ローレルといい、ろくなことにならん」
 ドウェイン氏は舌打ちをし、しばらく考えているようだったが、頷いた。
「いいだろう。連れてこい。たしかにカウンセリングセンターでの身内の立ち合いや付き添いは、業務を妨害しない限り、規則違反ではないからな。しかたがない。ただし、ロボットを一人につき二体護衛に付けろ。騒いだりしないようにな。言ってきてるのは、一人なのか?」
「いえ、二人です。一人は体の大きい、柄の悪そうな奴で」
「では、ロボットを五体付き添わせろ。そいつの方に三体必要だ。何か変なまねをしたら、すぐに警察を呼べ」
「わかりました」
 ジェレミーを乗せたベッドはその時処置室の手前まで来ていたが、ドウェイン氏は手をあげて止めた。
「おい、いったんストップだ。今何時だ?」
「十五時四八分です」
「そうか。まあ、二、三分くらいなら差し支えないかな。せいぜい別れを告げさせてやろう。おい、キャレル。おまえに面会だ。本来なら問題外だが、私の特別な計らいで、許可してやった。感謝するんだな」
「面会? 誰ですか?」
「おまえの従兄が二人来ているということだ」
「えっ?!」
 ジェレミーは起き上がろうとした。しかし、拘束具のせいでできなかった。
「おい」ドウェイン氏はカウンセリングセンターの医師に向きなおった。
「拘束を上だけ外した方が良いだろう。こんなざまを見たら、なんだかんだ言うかもしれん。腰から上は、いったんはずしてやれ」
「わかりました」
 医師は頷き、技師に目をやった。技師の一人がベッドサイドのボタンを押すと、頭と胸、腕の拘束が外れた。ジェレミーはゆっくりと上半身を起こした。もう一人の技師が白いシーツを取って、腰から下にかけた。そのため、傍目からは、ジェレミーはベッドの上にただ座っているように見える。ロボットが二体、両サイドについて彼の動きを監視していた。

 ほどなく、五体のロボットに付き添われて、パトリックとモーリスがやってきた。その姿を認めたとたん、ジェレミーの心の中で、こらえてきた何かがはじけるのを感じた。
「パット! 来てくれたんだね!!」
 思いが溢れてきた。この初めての親友のことも、ともに開いたファイルのことも、音楽のこともすべて、まもなく自分は忘れてしまうのか。耐えられない気がした。
「ジェレミー。良かった、最後に会えた!」
 パトリックは近づいてきて、ジェレミーの手を握った。
「おまえは……おまえは、やっと会えたというのに、なんてざまだ……」
 押し殺したような、モーリスの声が聞こえた。その頬に涙が伝っている。
「モーリス」ジェレミーはいかつい従兄の方を向いた。
「君が来てくれるとは思っていなかったよ。ありがとう。うれしいよ」
「やっと自由の身になれたんだよ。おまえとパトリックのおかげでな。やっと真人間になれて、昔の約束を果たそうと、パトリックに連絡したら、おまえがカウンセリングに……っていうじゃねえか。こんなのって、あるかよ……あんまりじゃねえか……」
「ありがとう、モーリス……でも、僕も良かった。最後に君に会えて。真人間になったって、わかって……」
 モーリスはしばらく黙ってジェレミーを見つめていた。その身体が小刻みに震えだした。
「……帰るぜ、俺は」彼はやにわに踵を返した。
「俺、だめだ。おまえを見たら、落ち着いていられる自信がなくなってきた。とても、耐えられそうにねえ。だから、下手なことしでかすまえに、寮に戻るぜ」
「そう……うん。わかった。僕のことで、また君が騒動を起こしたら、本当に申し訳ないものね。でも、本当にありがとう。嬉しかったよ」
「ああ……おまえはどうする、パトリック」
 モーリスは連れの方を向いた。
「僕は……ここに残るよ。出来るならば。最後まで見届けたいんだ」
 パトリックは頷いた。彼もまた、小刻みに震えていた。
「そうか。じゃあな……あとで連絡してくれ」
「ああ」
「それじゃあな、ジェレミー」
 モーリスは振り返って、ジェレミーを見たあと、背中を向けて歩み去っていった。彼について、ロボットが三体取り囲むように歩いていく。
「ありがとう、モーリス」
 ジェレミーはもう一度言い、遠ざかるその後ろ姿をしばらく見ていた。そしてもう一人の従兄、最も自分と親しかったその人に眼を向けた。
「パット……僕は君のことも、忘れたくない。君の家で家族にしてもらった、あの楽しかった三年間を……その間の何もかもを……」
「僕は覚えているよ。君が忘れても」パトリックは短く、それだけ言った。
「彼はあなたのことは、覚えているはずですよ」
 カウンセリングセンターの医師が、そこで口を挟んだ。
「どの程度まで覚えているものなのですか?」
 パトリックは医師を見、勤めて冷静になろうとしているような口調で聞いた。
「そうですね。あなたが彼のお身内で、後見人代理になるのでしたら、処置が終わるまでそこで待ってもらえれば、説明しますよ」
「わかりました」パトリックは青ざめた表情のまま、頷いている。こみ上げてくる感情を、懸命に押し殺そうとしているように。
 ジェレミーもまた、懸命に自分の感情を抑えようとしていた。今にも従兄に泣きついて、助けてくれと叫びだしたい衝動を、こらえなければ。そんなことをして、なんになる? 自分のためにすでに苦しんでくれている親友であり従兄を、これ以上苛むわけにはいかない。彼にまで衝動的な行動をとらせてしまって、迷惑をかけたら、自分が許せない。それでなくとも、ここへ来てくれたこと自体、かなりの葛藤を経てきたはずなのだ。
「パット。来てくれて、本当にありがとう。最後に君に会えて、本当に嬉しかった。今までありがとう」ジェレミーはもう一度言った。
「ああ。でも僕は忘れないよ。いつまでも」パトリックはそう繰り返した。
「時間です」
 医師がそう告げ、ロボットたちがジェレミーのベッドを押しはじめた。技師の一人が背後のドアを開け、一行はその中へと消えていった。そして再び、ドアが閉まった。

 まるで、これから死にゆく人を見送るみたいだ。廊下に備えつけられたソファにどさっと座りながら、パトリックは頭を抱え、そう思った。いや、そうなのだろう。従弟の身体はこれからもまだ生きているが、心は今、殺されようとしているのだ。処置が施されている時間、自分は果たして平静でいられるだろうか。処置は別室で行われるから、自分の目には触れないまでも、従弟がまさに破壊されようとしている時、ここでじっとしていられるだろうか。しかし、そうしなければいけない。モーリスが自制したように、自分も抑えなければ。父との約束もある。しかし、なぜこんなことが、許されるのだろう。
 思わずうめき声が漏れた。医師が戻ってくるまでの時間、従弟が殺されつつあるこの時間を、自分はどうして過ごしたら良いのか――苦悶の果てに、心は空っぽになっていくようだった。真空のような空白の中、ただやり場のない怒りや悲しみだけが渦を巻いている。何も考えられない。彼は立ち上がって、部屋を歩き始めた。時間はあまりにゆっくりとたっていくような気がした。

「さてと、とんだ邪魔が入ったが、はじめてくれ」
 処置室に入ると、ドウェイン氏は壁際のソファにどっかりと座り、腕を組んで告げた。部屋に入るとすぐに、再びジェレミーは上半身も拘束され、ロボットたちに押されて、ベッドごと部屋の中央まで運ばれていた。ロボットたちが離れると、技師が操作して、ベッドの上半部分が起こされた。椅子に座っているような形になったあと、首から上にあるベッド部分が外され、そこからまた新たな輪が伸びてきて、首の後ろで固定される。
「では、始めますか」
 医師がゆっくりと近づいてきた。ジェレミーの真上には、白くぶ厚い帽子のようなものがあった。それがするすると降りてきて、頭にすっぽりとかぶせられた。恐慌の大波が押し寄せてきた。いやだ――もはやその衝動は抗えないほど強く、ジェレミーは叫んだ。
「いやだ、いやだ!! 離してくれ!!」
 あとは言葉にならない叫びにしか、ならなかった。ジェレミーは激しく身もがいて、逃れようとした。拘束具は頑強で、ただ痛みを与えるだけだった。しかし、もはや痛みなど、どうでも良い。ここから逃れられたら。しかしどんなに狂ったように身をよじっても、逃れることは叶わなかった。頭をそらしても、不気味な帽子はまるで吸いついたように張りついている。恐怖と絶望の中で、ジェレミーは絶叫した。時間が果てしなく長く続くように思われた。
「もうそろそろ麻酔をしても良いですか?」
 カウンセリングセンターの医師の声が、聞こえてきた。
「ふん、そうだな……もうちょっと恐怖を味わってもらいたいが、いつまでも眺めているわけにはいかないだろう」ドウェイン氏の声は、やけに機嫌よさげだ。
 技師が近づいてきて、白いマスクを顔にかぶせた。ゆっくりと視界が閉ざされ、意識が遠のいていく。
「大丈夫ですよ。目覚めた時には、新しいあなたに生まれ変われます」
 なだめるような医師の声が、遠くから響くように聞こえた。
(違う……違う……あなたたちは、僕を殺そうとしているんだ。僕は……死にたくない)
 恐怖の大波に沈みながら、ジェレミーはそう思った。忘れたくない。心を殺されてたまるものか。アヴェリンのこと、おなかの子供のこと、パトリックのこと、アンソニー伯父とメラニー伯母、マーティン、ヒルダ、ヘイゼル、母のこと、父親違いの弟妹たち、モーリス、アイド・フェイトン、ハワード監督官、そして、そして――音楽を。アイスキャッスルを、創立先導者たちを、あの幻のコンサートを――忘れたくない。すべて――。
 その思いを最後に、意識が消えていった。

「機械カウンセリングと言っても、芸能局の高等逸脱者たちの処置は、犯罪者たちとは違うんですよ」
 二時間後、処置を担当した医師がパトリックにそう説明していた。
「知性は残されます。ある程度の感情も。私たちは記憶と感情分野のニューロンをいったん切り、消去したあと、新しいものを植えつけるのです。このナノマシンを使って」
 医師はシャーレに入った、直径二ミリほどの小さなチップを見せた。
「これを脳の主要箇所に十数か所埋め込み、これを軸にして新しいネットワークを発生させます。そこで新しい性格と記憶を形成するわけです」
「ジェレミーの心は、どうなってしまうんですか?」
 パトリックはそう聞かずにはいられなかった。
「心とは、自我のことですね」医師は頷いた。
「どうにもなりはしませんよ。新しい自我、新しい心になるだけです。本人は、自分はジェミー・キャレル、本名はジェレミー・ローリングスだとちゃんと自覚していて、あなたが自分の従兄である事も認識していますよ。親戚関係なども、情報としてインプットされていますから」
「インプットって……それじゃ、コンピュータみたいじゃないですか」
「我々の脳は、本来コンピュータと変わりはないのですよ」
 医師はまるで何かの講義をしているかのような口調だった。
「感情も記憶も、ニューロンのネットワークでしかありません。そこに流れる電気刺激によって、我々は物事を知覚し、記憶し、考えるのですよ。基本的な仕組みはコンピュータと同じです。生まれながらの、そして後天的な学習によって、そのネットワークはプログラムされ、発達していく。我々はそのプログラムを人工的に改変しているに過ぎません」
「……」
「あなたは学術の方だそうですから、その辺りは自分で調べられると良いですよ」
 医師はどことなく見下したような笑みを浮かべている。
「ジェレミーの処置は終わってしまったのですか」
 パトリックは乾いた声でたずねた。
「ええ。消去プロセスと、ナノマシンの植え付けと、初期プログラム注入は完了しました。あとはナノマシンがネットワークを定着させていく時間が必要です。そうですね、十五時間もあれば完成するでしょう。明日の九時ごろには、彼も覚醒する予定です。あなたは定時に仕事に行かなくともいい職業なのですから、時間は自由になるのでしょう? その時に立ち会って、何か変化がおきたかどうか、確認されてはどうですか? とても自然に性格は変わります。むしろ変わらない部分もあることに、驚かれると思いますよ」
「明日の九時……わかりました」
 パトリックは唇をかんだ。心を失った従弟に会うことに、自分は耐えられるだろうか。医師はなんでもないように言うが、最初の消去というプロセスを通る時点で、ジェレミー本来の人格は失われてしまうことは、確実なのだ。あとからできる“ジェレミー”は、外見は同じでも、中身は作り物でしかないだろう。そんな彼には、会いたくなかった。だが同時に、ここまで来た以上、彼の変化を見届けなければいけないような、悲愴な気持ちも生まれていた。そのことで自分の心が耐えられなくなろうとも、それが自らに課せられた罰のような気がした。従弟をこの結末へ導く道を選ばせたきっかけを作ってしまったのは、他でもない自分なのだから、と。

 三方をクリーム色の壁に囲まれた病室でアヴェリンはベッドの上に起き上がり、じっと前の壁を見つめていた。
「アヴェリン。もうそうやって三時間も座っているのよ。寝なさい。まだ安静にって、お医者様がおっしゃったでしょう?」
 昨夜シカゴ市からやってきた母親が、たしなめるように声をかけたが、その口調には優しさがこもっていた。アヴェリンの母親、ジェーン・シンクレア・ローゼンスタイナーは、短く切ったとび色の髪、すんなり引き締まった身体の線と、明るい顔立ちで、四五歳という年齢より、かなり若く見えた。
「わたし、とてもじっと寝てなんかいられないのよ、ママ」
 アヴェリンは訴えるように、母親を見た。
「今日はジェレミーが、機械カウンセリングにかかる日なの。今日がその日だって、あの警察の人が教えてくれたから……ああ、今頃、どうしているかと思うと……」
「そこまで教えてくれなくても、良いと思うわね。親切なんでしょうけれど……」
 ジェーンは娘に聞こえないよう小さな声で呟いた後、ため息をついた。
「でも、あなたにはどうしようもないことでしょう」
「それはわかっているわ。でも……」
「機械カウンセリングにかかったあなたの恋人は、気の毒だと思うわ。でもあなたには、もっと大事にしなければならないものが、あるのではなくて、アヴェリン。あなたが機械カウンセリングを逃れたのも、うちが罰金で破産しなくてすんだのも、あなたのおなかにいる赤ちゃんのおかげなのよ。今無理をして、万が一流産でもして御覧なさい。若い女が矯正寮だなんて、特にあなたみたいなかわいい子が――親のわたしがこんなことをいうのもなんだけれど、どんなことになるか、考えたらぞっとするわ。あなたはわたしより年上の、頭のはげた上官に迫られたからと、芸能局を逃げ出したけれど、結果的にあまり変わらないことになるわよ」
「そんなにひどいところなの、矯正寮って? 一応男女は別でしょう?」
「そうよ。でも寮監たちが手をつけることは、時々あるらしいわ。もちろん、違法なんですけれどね」
「そうなの……?」アヴェリンは身体に両手を回し、ぶるぶると震えた。
「おなかの赤ちゃんが何より大事なのは、よくわかっているの。今はこの子だけが、ジェレミーとわたしをつなぐ、たった一つのものだから……」
 アヴェリンは両手で顔を覆った。こらえきれず、啜り泣きが漏れた。
「ああ、ジェレミー……ごめんなさい。わたしがあなたを巻き込んでしまったばかりに。あの時、あなたの部屋に逃げ込んでしまったから……」
「泣いてばかりいてはだめよ、アヴェリン」ジェーンは娘の肩に手をかけた。
「あなたは未婚の母になるのだから、強くならなければだめよ。そうでなければ、やっていけないわよ。世間の風当たりは厳しいから」
「ママもそうだった? 兄さんとわたしを抱えて……」
「ええ。あなたも知っているように、ケネスが生まれた時、わたしはちょうどあなたくらいの年だったわ、アヴェリン。相手はわたしより、六歳年上だった。あの子を妊娠したとわかった時、わたしたちは結婚申請をしたのだけれど、許可が下りなかった。わたしの両親や親戚たちは、諦めなさいと言った。そして、結婚する前から子供が出来るようなことになってしまったわたしを、だらしないと責めたわ。でもわたしは、あの人を諦められなかった。それでそれからも、あの人が結婚した後でさえも、こっそり会い続けたのだけれど、あなたが出来たことがわかって、わたしはケネスともども、家を追い出されたのよ。もう二度と帰ってくるな、おまえはローゼンスタイナー一族の恥さらしだ。たとえ死んでも、もう会うことはないだろうと。そしてあの人の奥さんからの訴えで、わたしは警察に身柄を確保されて、もう二度と会えないように、遠く離れたシカゴ市までつれてこられたのよ。二部屋しかない、小さなコンパートメントに入れられて、育児手当だけが頼りの、ぎりぎりの生活で。近所づきあいもなかったわ。みな、冷たいさげすんだような目で見るだけだった。でも、わたしはあなたたちがいてくれたから、そんな生活でも救われたのよ。あなたたちの成長だけが、わたしの唯一つの喜びだったわ」
「ママ……ママはわたしを責める? こんなことになってしまって」
「あなたを責められる資格は、わたしにはないわね」
 ジェーンはため息をついた。
「それに、わたしもあなたが芸能局に行きたいと言いだした時、止めるべきだとは思ったのよ。でもきれいな服を着て、あなたが大勢の人に好きになってもらえて、それで幸せになってくれたら、と思ってしまったの。それに下級オペレータになるよりも、経済的にも困らないと思ったしね」
「きれいな服には、憧れたわ。歌も好きだったし」
 アヴェリンは遠くを見るようなまなざしをした。
「でも表面華やかな歌手たちの裏側があんなだなんて、思ってもみなかった……」
「早いうちに抜けられて、良かったと思いなさいな」
「そうね。わたしが芸能局を目指したのは、単なる浮ついた憧れだったって、わかったから。でも、ジェレミーには夢があったのよ」
「まあ、どんな?」
「あのファイルを見たらしいの。そして音楽を聴いたって。それで少しでも、自分でそれに近づきたいと思ったって、言っていたわ」
「ケネスが夢中になっていた、あのファイル?」
「ええ。ママはどうして見なかったの? ママなら共同閲覧者になれたでしょうに」
「見ないかってケンには言われたけれど、わたしは断ったのよ。過去を知っても、現在はどうにもならないでしょう? 無駄知識が増えるのは、歓迎しないと思うの。今の世界を生きるのには。だからケンにも、止めておいたら、って言ったのだけれどね。でもあの子はどうしても聞かなくて。今のところ、そう変になってもいないようだから、ほっとしているけれど」
「そうなの……」アヴェリンは目を閉じ、ベッドに横になった。
「そうね……考えてみたら、ジェレミーもあのファイルを見て、歌手になる夢を持たなかったら、宇宙開発局へ行っていたのかもしれないのね。でもそうしたら、わたしたちは会うことがなくて……こんなことにもならなかったけれど……そもそもわたし、ジェレミーに会えなかったのよね。それがジェレミーのためだったとは思うけれど、でもわたしには……ジェレミーと会えて、良かった。あの素晴らしい一週間が持てて、良かった。この子がいてくれて、良かった……利己的だけれど、そう思ってしまうわ。ああ、でも、でも彼にも……彼にも良かったって思える時が、来てくれたら良いのに……」
 再び嗚咽が漏れ、涙が頬を伝って流れた。ジェーンはベッドサイドにたたずみ、そっと娘の髪をなでた。
「アヴェリン。酷な言い方かもしれないけれど、あなたの恋人さんの夢が、この世界で叶うとは思えないわ。ケネスははなから諦めたようだけれど、その方が賢明なのよ。あなたの恋人は、処置を施されたら、もう思い悩むことはなくなるだろうから、それがせめてもの幸いだ、そう思うしかないわね。楽になる……そう思って、諦めるしかないのよ。アヴェリン、どの道あなたと彼とは、結婚は出来ないようだし。本当に、親子二代で適正のあわない人を、好きにならなくてもいいのにね。だから、仕方がないのよ」
「わかっているわ。わかっているけど……」
「今は辛いのでしょうけれどね」母は娘の手を握った。
「でもアヴェリン。これだけは覚えておいてちょうだい。あなたにはわたしとケンが、わたしたち家族みんながついているから。出来るだけ、あなたの力になるわ。だから、いつまでも悲しんでいないで、強くおなりなさい」
「ありがとう、ママ……ええ。わたし……強くなる。ならなくちゃ……今までの甘えた自分じゃ……だめなの。わかっているの。わかっているわ……」
 アヴェリンはしゃっくりあげながら、頷いていた。




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