Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第八章  転換の時(1)




 病院を出て一時間後、ジェレミーはニューヨーク市へ向かうインターシティ・シャトルに乗っていた。九日前、アヴェリンと出てきたその街へ、今度は監督官と二人で帰っていく。ニューヨーク市に帰ったあと、自分に待ち構える運命のことを思うと、暗澹たる思いに潰されそうになる。
 ジェレミーは無言で、窓の外に流れていく風景を、光る湖と緑の大地を眺めていた。キャビンの向かい側に座ったハワード監督官も、無言で窓の外を見ている。二人用キャビンには、座席が対面式のものと、並んで座るものがある。対面式の客車は、真ん中に小さなテーブルが置かれていた。監督官が乗る時に買ったコーヒーのカップが(今はもうほとんど空になっている)その上に乗っていて、シャトルの微かな振動に合わせて、小さく揺れていた。
 アヴェリンと二人で乗ったシャトルは夜行便で、真夜中の到着を避けるため、通常の半分の速度で運行していた。しかし通常便のインターシティでは、トロント市からニューヨーク市まで、三時間ほどで行ってしまう。ジェレミーは恐ろしい運命が、すぐそばまで近づいてきているのを感じた。たとえこの監督官と無言のまま一日ここで過ごすことになってもいいから、目的地に着かなければいいのに、と切に願った。ありえないことだが、事故でも起こって到着が遅れたら、とさえ考えた。しかしシャトルは進み、回りの景色は矢のように飛び去っていった。
「まったく、バカなことをしたものだな……」
 出発して一時間半が過ぎた頃、ハワード監督官が口を開いた。短く、苦々しげな口調だった。その視線がゆっくりと向けられるのを感じ、ジェレミーはうつむいた。
「おまえの処置の執行は、明日の十六時と決まった」
 その言葉に、ジェレミーは思わず震えた。明日! もう自分の心を保っていられる時間は、二四時間あまりしかないのか――今、シャトルから飛び降りて逃げたいという激しい衝動が突き上げてきた。しかし、窓は決して開かない。逃げられるすべはない。だが、ニューヨーク市のステーションに着いたなら――ハワード監督官と二人だけなら、隙を突いて逃げられるチャンスがあるかもしれない。しかし、かりに逃げられても、どこへ行く? ニューヨーク市からは、もはや出られない。買い物も出来ない。
 伯父の家に逃げ込もうか。一瞬、そんな途方もない考えが頭をよぎった。いや――ジェレミーは即座に否定した。そんな迷惑をかけるわけにはいかない。アンソニー一家はきっとジェレミーを保護してくれるだろうが、それはとりもなおさず、彼らに手配者隠匿の罪を犯させてしまうことになるのだ。とんでもない! これ以上伯父たちに、恩を仇で返すわけにはいかない。
 ジェレミーは目の前の監督官を見た。その瞳は絶望に黒く曇っていた。
 監督官はその視線を受け止めるように見、もう一度繰り返した。
「まったく、馬鹿なことをしてくれたものだ」
「バカなことだったとは、思っています」ジェレミーは膝の上に視線を落とした。
「でも、後悔はしていません。この九日間、僕は幸福でした。たとえ、この先のすべてを犠牲にしたとしても、悔いはないほどに」
「覚悟は出来ているというわけか」監督官は長いため息を吐き出した。
「バカが……まんまと嵌められたわけか」
「何を……嵌められたのですか? 僕が?」
「そうだ、おまえがだ」
 監督官はポケットからタバコのカートリッジを取り出し、スイッチを入れて口にくわえた。そして一息吸うと、再び視線をジェレミーに向けた。
「おまえは最初に脱走した時から、芸能局のブラックリストに載せられていたんだ。さらにアイド・フェイトンと交流し、おまけにデビューしてからは、毎日奇妙な練習を密かにしている。必要もないのに。こいつは売れるかもしれないが、厄介な分子だ。こいつは自分で考える。自分を持っている、そうお偉方は認定したんだ」
「自分を持っては、いけないのですか?」
「芸能局では、だめだ。あからさまにタブーではないが、ろくなことにはならん。アイド・フェイトンを見てみろ。あの男はおまえに会うまでは、なんら問題はなかった。だが、おまえと交流を持ち出してから、考えるようになった。挙句の果てに、ファンの一人と休みの時にこっそりと会うようになった。それでも、もうピークは越しているし、引退も時間の問題だからということで、上層部からは放っておかれた。しかし、ちょっと歯車が狂ったら、あいつがどうなったか……おまえも知っているだろう」
 ジェレミーは無言で頷いた。
「おまえの付き人としてあの娘が来た時、私は不審に思ったものだ。男性女性にこだわらないスタンスでというのは、いかにももっともらしいが、しかしあまり例がない。おまえを引っ掛けようと思って、上層部があの娘をおまえに派遣したのではないか、そう懸念したが案の定だ。ここまで派手なことをやるとは、上層部も思わなかったようだが」
「僕は……引っ掛けられたのですか、上層部の思惑に? アヴェリンと僕が恋に落ちることを見越して……その結果、何か僕が規定に反することをするかもしれないと?」
「そうだ。おまえはまんまと、それに引っかかったわけだ」
 ジェレミーは驚きをもって、言われた言葉を考えてみた。そうだ。たしかに自分は、嵌められたのかもしれない。しかしアヴェリンは――アヴェリンもまた、上層部に使われていただけなのだろうか。いや――ジェレミーは一瞬でその思いを否定した。そしてそんなことを一瞬でも思った自分を恥じた。アヴェリンの愛情は、彼女の思いは真実だ。彼女は決して名女優ではない。真実――そう、たとえ上層部の思惑から恋に落ちたとしても、二人の愛は真実なのだと。
「アヴェリンも……やっぱり嵌められたのですか?」
 ジェレミーは短くそう聞いた。
「ああ。あの娘も来た時から、かなり他の連中と違っていたようだ。おまえ同様、自分を持っていたのだな。あの娘の研修官や担当官が、苦い顔で言っていたものだ。たしかにかわいいのだが、やたらおしゃべりで、すぐに交流を持ちたがり、頼まれてもいないような、余計なことをする。あの娘を付き人にした女性歌手たちから、文句が来たほどらしい。だから変わり者同士、おまえと気が合うかもしれないと上層部は思って、おまえのところへ寄こされたのだろう。案の定、おまえと仲良くなって、あの娘の性格の偏向にも拍車がかかった。ドウェイン総監督をはねつけて、それは決定的になった。最初にあの娘が総監督のところから逃げ出した時、本来ならすぐに機械カウンセリングにかけても良かった、実際、そういう意見もあったらしい。だが、もしかしたら、あの娘を使っておまえも矯正できる、いいチャンスかもしれないと、上層部は考えたようだ。だから、あの娘の懲罰期間が明けた時、担当官のスミスはあの娘をおまえのところに、わざとよこしたわけだ。ひと騒ぎ起こさせようと――うまく行かない可能性もあるだろうが、それならそれで別に問題はない。またの機会があるだろう。しかしおまえの性格なら、なにかやろうとする可能性も高いだろうし、そうして二人を機械にかけざるをえない状況にしてしまえば、厄介な分子は一掃出来るとな」
「そうなんですか……」
「だが、おまえたちの行動は、こちらの予想以上だった。IDがあるから、もし以前のように脱走したとしても、すぐに追跡できると、たかをくくっていたらしい。だが警察が、モントリオール市近くの原野で、二つのIDリングとエアロカーの発信チップを発見した、これ以上の追跡は無理だと報告してきた時の、上層部の怒りようといったら、見ものだった。当り散らされるこちらにしては、決して愉快なものではないがな」
 監督官は苦笑を浮かべ、カートリッジを吸った。
「それに、あの娘が妊娠しているという報告を受けた時の、上層部の顔も見ものだった。妊娠していると、機械カウンセリングは出来ん。胎児に危険がある可能性があるからな。それに子連れの女性アイドル歌手など、洒落にもならん。あの娘は芸能局を離籍させるより仕方がなかったのは、大きな計算違いだった」
「そうなんですか」ジェレミーは頷いた。微かにだが、笑いたい気分だった。それだけは、彼らの小さな勝利だ。
 それにしても、監督官はどうしてここまで話してくれるのか。ふとそう感じ、目の前の男を見た。ハワード監督官とはもう四年共に仕事をしているのだが、いつも必要最小限のことしか言わず、自分を人間とすら認めていないような感じがしていたのだが。
「どうして、そこまで話してくださるのですか、ハワード監督官」
 ジェレミーは思い切って聞いてみた。
「もうおまえと話す機会は、これで最後だろうからな」
 監督官はたるんだ瞼に縁取られた薄い灰色の目で、ジェレミーを見据えた。その目に、見まがいようのない寂しさの情が浮かんでいるのを認め、ジェレミーは非常な驚きに見舞われた。監督官が感情を表して自分を見てくれたことなど、初めて会った時から一度もなかったと思われたからだ。
「監督官……ありがとうございます」
 考えるまもなく、ジェレミーは手を伸ばして、相手の節くれ立った指を握っていた。不快がられて振り切られるかもしれないと、すぐに考えたが、たとえそうされても構わなかった。ハワード氏は一瞬驚いたような顔で見、それから少しの間をおいて、決して乱暴ではない仕草で手を引いた。
「何に対して礼を言っているのだ」
 監督官はぶっきらぼうな口調で問いかけてきた。
「いえ、すみません。監督官は僕と話すのがこれで最後って仰られて……それを寂しく思ってくださっているような、そんな気がしたものですから……」
 ハワード氏は多少面食らったように、二、三度瞬きをした。そして視線を窓の外に移し、ひとしきり煙草のカートリッジを吸ったあと、スイッチを消してポケットにしまった。やがて彼は視線を外したまま、ぽつりと言った。
「……そうかもしれんな」
「ハワードさん……」
 ジェレミーは深い感慨を感じ、再び手を伸ばしかけたが、思いとどまった。
「ありがとうございます。本当に……あなたは僕をずっと、商品としか見ていなかったような気が、いつもしていたから」
「歌手は商品だ」監督官は再び視線をジェレミーに移した。
「歌手時代も、そう扱われてきた。だから研修官になっても、監督官になっても、自分が扱われたように接してきた。今までずっとな」
「監督官さんは、現役の頃はどんな歌手でいらしたのですか?」
「それほど成功しなかった」ハワード氏は、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「私はひょうきんで気さくなキャラクターを演じさせられた。コメディアン的な、人を笑わせるような。そんなものは、決して私の性格にはなかった。監督官は、小言や叱責ばかりを浴びせた。何度も罵られた。その挙句、七年で引退に追い込まれた。だが、私は心底ほっとしていた。もうこれで自分でない自分を演じずにすむ、と。しかし元の自分がどんなだったか、もはや思い出せなくなっていた。薬やらドリンクやらを、七年間飲み続けたせいだろう」
「あのドリンクも影響があるのですか? 薬と同じに?」
「薬ほどではないがな。各種のビタミンや栄養成分のほかに、微量の精神安定剤も含まれているんだ。多くの量を常用すれば、薬を飲むのと同じようなものだ」
「そうなんですか。知りませんでした」
「普通、現役連中には、そんなことは知らせん。おまえはどうせすぐに何もかも忘れるだろうから、言っただけだ」監督官は少し黙り、再び言葉を続けた。
「私が現役を退いて、もう二十年以上になる。今は家庭もある。同じ芸能局職員の女性と結婚し、子供も三人生まれた。息子は十六で、娘二人は十二だ。だが私は仕事が不規則なので、家族とはいえ、ほとんど接触もない毎日だ。子供たちがどんな風に成長してきたのかも、ほとんど記憶にない。子供たちも父親がいることなど、普段は忘れているだろう」
「そうなんですか……」
「芸能局というのは、結局そんなところなんだ。現役を引退しても、人間らしい生活などというものには、およそ縁がない。監督官になると、ずっと担当にへばりついていなければならないからな。休暇は年に二回、仕事は九時から二二時まで、それでもホーム期間はまだいい。ロードともなると、半年は帰れない」
「そういえば監督官さんも、ずっと僕と同じスケジュールでいらっしゃいましたよね。家庭がおありになるのに、お休みなどはどうしているのかと、時々思ってはいました」
「研修官時代は、まだ自由がきくのでな。その間に結婚して、子供を作るわけだ。結婚相手はやはり大半は、芸能局出身者だ。そして監督官になると、男はまた仕事へ借り出され、女はひたすら子育てに励む。合間に事務処理をこなしながらな。それだけだ」
「女性側も、それで満足なんでしょうか?」
「満足というか、そういうものだと思っているだけだろうな」
「ハワードさんの奥様も?」
「あれがどう思っているのか、私にはわからない。そもそも、本当に何かを思っているのかどうかも」監督官は苦渋に満ちた視線を向けた。
「なぜなら私の妻も、機械カウンセリングの経験者だからだ」
「えっ!?」
「何かの因縁としか言いようがないな。家庭でも、これからは仕事の上でさえも、カウンセリング被験者と組んでいくようになるとは」
「…………」
 ジェレミーは大きな塊にのどをふさがれたような気がした。形にならない思いが圧倒して、のしかかってくるようだった。かろうじてジェレミーは相手を見、言葉を搾り出した。
「……それでは、ハワードさんの奥さんも、ロボットのようなのですか?」
「ロボットか。まあ、犯罪者の連中はそうなるが……」
 監督官は視線をいったん天井に向け、そして膝に落とした。
「芸能局の機械カウンセリングは、少しプログラムが違うようだ。見た目は普通なのだ。モーリーンは昔、俳優だった。デビュー二年目で何かをしでかして上層部の逆鱗に触れ、カウンセリングにかけられた。どんなことだったのか、私は知らない。元の彼女の性格がどんなものだったのかも知らない。今の彼女は穏やかで、良妻賢母を絵に描いたような性格だ。私が帰ってくると、かいがいしく世話を焼き、子供たちの面倒も良く見て、立派に育てているようだ。子供たちも母を慕っているし、彼女も愛情をかけているように見える。普通に話も出来るし、普通並みの知的レベルも維持している。感情もある程度はあるように見える」
「そうですか……」
「ああ。芸能局で活動をしていくのだから、完全にロボット化しては、不都合だからな。もっともカウンセリング被験者は俳優には向かないらしいので、番組製作助手に転向になったが、そちらでは普通に仕事はこなせていたようだ。さらに普通に家庭生活を営んだり、育児をしたりするのにも、完全に感情を破壊されたままでは、いろいろと差しさわりが出るだろう。だが彼女はよく微笑みを浮かべるが、何かに腹を立てたり、面白がって笑ったりすることは、私が覚えている限りでは、一度もないんだ。そして死ぬまで、年に一度、カウンセリングセンターで『強化』処置を受けなければならない。今の妻を動かしている性格プログラムというべきものが、一年以上たつと効果が薄れてしまうらしいのだ。その効果が切れると、痴呆状態に退行してしまうらしい。芸能局管轄の機械カウンセリングは、元の性格や記憶や感情をいったんまっさらにして、その上に上層部に都合の良いキャラクターを植えつけるというものだからな。そういう点では、ロボットとあまり変わらないと言えるだろう」
 ジェレミーはまるで氷のような手で心臓をつかまれたような感じがして、思わず震えた。自分の人格が消された後、芸能局の上層部は、完璧な『ジェミー・キャレル像』を自分に植え付けるのだろう。もう演技する必要もなくなるのだろうが、この身体はプログラムに踊らされるだけの、人間ロボットと成り果ててしまうのだろうか――。
「ただ、私はモーリーンの元の性格を知らなかったし、彼女に夫婦らしい愛情を持っているとも言えない。子供にとっては母親だが、私にとってはメイドとなんら変わらない」
 ハワード監督官は再び視線を戻し、ジェレミーを見た。
「おまえはどうやら、人に心というものを取り戻させてしまうようだ。おかげで私にとっても、非常にやりづらくなった。だからこそ、上の連中はおまえの心を消したがるのだろう。おまえは周りの人間にとっても、危険な存在だからだ」
 監督官は座席に深く座りなおし、長いため息を吐いた。
「少ししゃべりすぎてしまったようだ。私はこの結末に安堵を抱いている。寂しく思うような、私の厄介な部分も、おまえが変われば、やがて消えてしまうのだろう。それでいいのかもしれない。いや、それでいいのだ。いいはずだ……」
 監督官は目を閉じ、眠っているかのように、あとは口を開かなかった。ジェレミーはそんな相手を眺めながら、しかし今この男と気持ちが少し通じ合えたような喜びと感謝を、感じないわけにはいかなかった。それだけが、圧倒的な恐怖と絶望の中での、唯一の救いだとも思えた。

 沈黙のうちに再び時間が過ぎ、シャトルは終末へ向かって進んでいった。そして夕方、ついにニューヨーク市に到着した。ジェレミーはハワード監督官とともに、他の乗客たちがすべて降りるまで、車内で待たされた。ホームに人がいなくなると、芸能局の職員が二人、ロボットを二体引き連れてやって来て、ジェレミーを取り囲むようにシャトルから下ろし、ステーションの改札を抜けて、外に止めてあった大型のエアロカーの中に押し込んだ。あとから監督官が乗り込むと、エアロカーは発車した。
 到着した先は、芸能局の建物ではなく、カウンセリングセンターだった。そこの門をくぐりぬけ、玄関を通り、エレベーターに乗り、廊下を歩いて、二人の人間と二体のロボットに取り囲まれ、両方の腕をそれぞれ捕まれながら、ジェレミーが連れてこられた先は、『準備室』と書かれた部屋だった。そこは三メートル四方ほどの広さで、四方の壁は純白だ。中には白いソファとベッドが備え付けてある。
 部屋の中に、白衣に身を包んだカウンセリングセンター所属の医師が立っていた。ジェレミーを両側から拘束していたロボットたちは身体を持ち上げ、靴を脱がせると、ベッドの上に寝かせた。ジェレミーは身もがいて起き上がろうとしたが、押さえつけられてしまった。
「処置は明日の十六時からですが、それまでじっと待っているのも苦痛でしょう」
 カウンセリングセンターの医師がわざとらしい優しげな声を出しながら、近づいてきた。
「なっ、なにをするんですか?!」
「いえ、眠ってもらうだけです。その方が楽でしょう。あなたにとっても」
 相変わらず妙な優しいトーンだった。まるでむずがる子供をあやしているような響きだ。ロボットが腕を押さえつけると、医師は袖を捲り上げ、露出した肌に注射器を押し付けた。しゅっと液体が身体に流れ込んでくるのを感じた。
「大丈夫ですよ。ただの睡眠剤です。夢も見ないで、ぐっすり眠れますよ。処置の三十分前には、目が覚めるはずです。あなたが眠っている間に、こちらも必要な検査を済ませることが出来ますしね。あなたも無駄に怖がったりせずにすみますよ」
 たちまち、強烈な睡魔が襲ってきた。耐え切れず、ジェレミーは目を閉じた。何かを思う暇もなく、意識が深い眠りの中に吸い込まれていった。


 ドアを軽く叩く音に、パトリックは振り返り、立ち上がって開閉ボタンを押した。父が、やや青ざめた顔でそこに立っていた。
「おまえにだけは知らせておこうと思ってな、パット」
 アンソニーは部屋に入ってきながら、口を開いた。
「ジェレミーのことかい?」
 パトリックはすぐに悟った。一週間あまり前、芸能局からジェレミーが失踪したという報告を受けた時、アンソニーは甥ともっとも親しかった息子の一人だけにしか、そのことを知らせなかったのだ。妻はヘイゼルの件で、十分に打ちのめされている。ジェレミーは一家にとって、三年間息子同然だった。これ以上余計な心労はかけたくないと、アンソニーは思ったのだろう。ただ、パトリックにだけは、報告されたすべてを打ち明けていた。
「昨日、トロント市で保護されたそうだ。同行していた女性と一緒に」
「そう。そんなところまで行っていたんだ。それで、どうなったんだい、父さん? ジェレミーの処置は?」
「最悪だな。機械カウンセリングにかかるそうだよ」
「なんだって??」
 父の言葉に、パトリックは思わず力が抜けたようになって、椅子に倒れこんだ。
「そんな……いくらなんでも、いきなり機械なのかい? 女の子とちょっと仕事をサボって、遊びにいっただけで??」
「そう言ってしまえば、ちょっとした無軌道だという感じはするがな、パット」
「そうだよ。普通の人だったら、それで済ませられることじゃないか。ジェレミーもその相手の娘も、他の人と結婚しているわけじゃないんだし。そりゃ、多少の罰は食らうだろうけれど……機械カウンセリングなんて、むちゃくちゃだ!」
「芸能局は、普通じゃないんだ。おまえだって知っているだろう」
「芸能局だけ特例なんて、納得できないよ。芸能局だって、特殊ルールはあるかもしれないけれど、中央政府が管轄する二四部局の、一つに過ぎないじゃないか。そこだけ特別扱いで、一般の法律が通用しないなんて、おかしいよ」
「おまえが納得できなくても、規則がそうなっているのだから、仕方がないんだ。そして法律もそれを認めているんだ」
 アンソニーは深くため息をつくと、言葉を継いだ。
「ただ、芸能局の機械カウンセリングは、犯罪者の矯正とは違って、完全にロボット化するわけではないらしい。元の人格や記憶は消えるが、新しい人格と記憶が与えられるという話だった。つまりジェレミーは、中身は別人になるが、僕たちとの関係や今までの活動状況などは、もう一度記憶として植えられるらしいから、休暇でうちに帰ってきても、『ちょっと変わったな』くらいにしか、認識されないだろうと言うんだ」
「でも、元のジェレミーでは、なくなっちゃうんだろう!」
 パトリックは激情にかられて、髪をかきむしった。
「何もかも忘れてしまうんだ。昔話したことも、あのファイルのことも、約束も!」
「なんのことだ?」
「いや、父さんにも詳しいことは言えないんだよ。昔、二人で極秘ファイルを開いたんだ。新世界創設の」
「なんだって……あのファイルをとうとう見たのか、おまえたちは?」
「知っていたの、父さん?」
「噂に聞いたことがあるんだ。若い頃。だから学術になって、いつか見てみたいと思っていた。だが、叶わなかった。そうか……おまえたちは見られたのか」
「ああ。それでジェレミーは芸能局へ行ったと言ってもいいくらいなんだ」
「そうか……」アンソニーは再びため息を吐き、しばらく黙った。
「まあしかし、起きてしまったことは仕方がない。残念だが……僕やおまえの知っているジェレミーは、もう戻らないだろう」
「執行はいつになるんだい、父さん?」
「明日の十六時らしい。だが、パトリック……おまえまで、早まったまねはしないでくれ。この件でおまえに出来ることなど、何もないんだ。わかるな? これ以上、悲しい思いはさせないでくれ。頼む……」
「……わかったよ、父さん」
 パトリックは青ざめたまま、椅子に座りなおした。
「僕にできることは、何もないんだ。わかってる……知らせてくれて、ありがとう」
 父親が出て行くと、パトリックは頭を両手で抱え、机の上に屈みこんだ。ヘイゼルを失った時とは違う痛みが押し寄せ、圧倒されそうになった。夢の行き着く先が、これなのか――あの時自分がジェレミーを封印ファイルの共同閲覧者にしたりしなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。今頃マーティンとともに、宇宙開発局の職員として働いていたはずだし、そこでは恋も禁止されたりなんかしない。

 端末の通信ランプがつき、小さなコール音がなった。パトリックははっとして頭を上げた。気がつくと、父が部屋を出ていってから、小一時間たっている。
 ジェレミーが通信してきたのかもしれない。一瞬そう思った。しかし芸能局に入ってから、従弟は通信してきたことはなかった。芸能局からは、外部通信が出来ないのだ。しかし、今夜が最後の晩なら、あるいは許可されて――。
「よお……」
 画面に現れたのは、別の従兄だった。モーリス・ハイマン。アンソニーの妹エセルの子供で、以前は愚連隊に入り、乱暴を働いてきた、ローリングス一族の鼻つまみもの。かつてこの従兄に、パトリックはひどい怪我を負わされたことすらある。しかし四年以上前、警察の愚連隊一掃活動の時、機械カウンセリングにかけられるという恐怖で逃げ回っていた彼を、ジェレミーとともに助けたこともあった。そしてモーリスは以前の行いを悔い、矯正寮に入ったのだった。
「やあ、モーリス。久しぶりだね」
 パトリックは運命の皮肉を感じずにはいられなかった。ジェレミーが明日には機械カウンセリングに送られるその時に、かつて彼がその運命を逃れさせるべく尽力したモーリスが連絡してくるとは。
「あの時には世話になったな、パトリック」
 相手は嬉しそうな笑みを浮かべていた。晴れ晴れとした顔だ。
「ああ。もう矯正寮は出たのかい?」
「去年の秋にな。今は労働局の寮で一人暮らしさ」
「そう。どうしてる?」
「まあ、なんとかやってるさ。今はビルの建築現場で、ロボットに混じって働いてるんだ。あいつらの方が仕事は正確で、しかも疲れを知らねえが、身体を動かして働くのは、俺の性にあっているようだ。そんなに悪くないぜ」
「そう。良かったよ」
「ああ、おまえたちのおかげだよ。それでだな、やっと生活も落ち着いたんで、古い約束を果たそうと思ってな」
「古い約束?」
「忘れたのかよ。おまえとジェレミーと俺とで一度会って、どこかの簡易食堂で一緒に飯を食って、語り合おうぜって、言っただろう、あの時。おまえにシャツ代を返さないといけないしな」
「ああ、そうだったね」
 そうだ。モーリスが警察署の門をくぐる時、三人はそう約束したのだった。だが、その約束は、果たせるだろうか――ジェレミーは再来月には休暇で帰ってくる予定だが、それはもう、以前と同じジェレミーではない。新しいジェレミーはモーリスとの過去は、消されている公算が強いだろう。そしてあの封印ファイルの記憶も、もちろん消されているに違いない。自分との関係も、もう以前のような親しさは望めないのだろう――。こらえきれず、小さな嗚咽が漏れた。
「どうしたんだよ、パトリック」モーリスの怪訝そうな声がした。
「おまえ、まさか泣いているのか? どうしたんだよ、なにかあったのか??」
「いや」パトリックはあわてて首を振ると、画面に目をやった。がっしりとした体格の、浅黒い顔の従兄が、自分を見守っている。その顔には以前のような剣はなく、短く刈り込まれていた髪は巻き毛となり耳を覆うくらい伸びて、黒い目は懸念と驚きを映していた。
「なんでもないよ、モーリス。ただ……ジェレミーは再来月にならないと、休みにならないんだ」
「そうか。あいつは今、どこで働いているんだ? おまえの兄弟と同じ、宇宙局か?」
「知らなかったのかい? ジェレミーは今、芸能局にいるんだよ」
「はっ? 芸能局だ??」モーリスは心から驚いたような声を出していた。
「冗談だろう、パトリック? あいつは、生まれはあれかもしれないが、宇宙局に振り分けられるような、上等な頭を持っているんだぜ。なんで芸能局なんかに行くんだよ」
「いろいろな事情があってね。そのうちに話せたら、話すよ」
 パトリックはため息をついた。
「そうか。でもなあ……あいつはまあ、顔も上等だから、良いアイドルにはなるだろうな」
「ああ。かなり成功したよ。今ではトップアイドルだ。君は音楽プログラムを見ないのかい、モーリス」
「ちゃらちゃらした音楽には、興味ないからな。俺はスポーツしか見ないぜ」
「そうか。だから知らなかったんだね」
「ああ。しかし、まあ、ジェレミーがトップアイドルか。まあ、それも悪かないだろうが、芸能局って、何かと不自由でもあるんだろう。そういう話は聞いてるぜ」
「そうだよ。普段は連絡も取れないんだ」
「そうか。じゃあ、まあ、ジェレミーが休暇になったら、連絡してくれよ。俺の番号を教えるからさ」
「ああ……」パトリックは頷いた。そしてこのまま通信を切ろうと思った。しかし、言葉が考えるまもなく、飛び出てきた。
「だけど、その時には、ジェレミーは君を覚えていないかもしれない」と。
「ああっ?」モーリスの目が、驚いたように丸くなった。
「四年半会わなかったからって、俺を忘れちまったって言うのか? アイドルになって、俺のことを忘れちまったと? ずいぶん薄情だなあ」
「そういうことじゃないんだ!」
 パトリックは首を振った。また涙がこみ上げてきそうになって、あわててうつむいた。
「おい、パトリック……おまえ、やっぱり変だぜ。どうしたんだよ」
「君が、よりにも寄ってこんなタイミングで連絡してくるからだよ、モーリス!」
「はあ? 何を言っているんだよ。俺が連絡してきて、迷惑だったのか? そいつは悪かったな。俺はおまえたちのことを、ダチだと思っていたんだが、考え違いだったのか?」
「違う。そういう意味じゃない! 迷惑なんて、誰が言ったんだよ! 違うんだ! 本当に、昔の約束が果たされたら、嬉しかっただろうさ。ジェレミーと君と僕とで。だけど、だけどもう遅いんだ。なぜ去年のうちに、連絡してきてくれなかったんだよ。この間の休暇だったら、三人で会えたんだ。でも……もうダメなんだよ!」
「去年はまだ秋にやっと出所して、それから半年は、監査期間とかで外出もろくに出来なかったんだ。やっと完全に自由になれたから、連絡したんだよ」
 モーリスは当惑したような表情で頬をかき、話を続けた。
「それにしても、パトリック。ジェレミーがどうかしたのか? なぜ今となっちゃ出来ないなんて、言うんだよ。ジェレミーが俺を忘れるって、どういう意味だ? 教えてくれよ」
 パトリックは顔を上げ、そして話した。ここまで来てごまかしても、相手に不信感を植えつけるだけだろう。真実を――自分だけでは負いきれない真実を知ってもらいたいと。そして父から告げられた話を繰り返した。ジェレミーがデビューを控えた女性歌手と恋に落ち、駆け落ちをして、連れ戻されたこと。そして明日、従弟は機械カウンセリングにかかる予定だということを。
「なんだって?!」
 モーリスは目を見開いて、絶句していた。しばらくはそのまま呆然とした表情だったが、やがて浅黒い肌の上からもはっきりとわかるほど顔を紅潮させ、声を上げた。
「仕事をサボって、女ととんずらしただけで、機械カウンセリングだと? なんでそういうことになるんだよ! 狂ってやがるぜ、芸能局ってところはよ!」
「僕もそう思うよ! でも、狂っていたとしても、ルールはルールなんだ。彼はそれを承知で芸能局に入ったんだから、僕たちにジェレミーを助けるすべはないんだよ」
「黙って見てるしかないってのか?」
「そうだよ」
「それで、おまえは良いのかよ、パトリック?!」
「良かないさ! でも、僕に何が出来る? 何も出来やしないよ。何をしたって、執行を止めることは出来やしない。それに父さんにも言われたんだ。早まって、変なまねはしないでくれ。これ以上悲しませないでくれって。そう言われて、僕に何が出来る? 君だって、そうだろう、モーリス。頼むから、変なまねはしないでくれよ」
「俺は納得できないぜ。あいつは俺を機械カウンセリングから救ってくれた。なのに、あいつが今度は機械にかかっちまうっていうのか。それも、罪ともいえないような、屁みたいな理由のために」
「そんなことを聞いたら、ジェレミーは怒ると思うよ。彼は真剣だったに違いないから」
「もちろんさ。あいつが女に惚れたり駆け落ちしたりしたのを、屁だと言ってるわけじゃないぜ。むしろ、良いことなんじゃないかと、俺は思う。相手がジェレミーにふさわしい女ならな。それがなんで機械カウンセリングにかかるほどの罪になるのかってことさ」
「それは、僕だって納得できないよ」
「そうだろう? じゃあ一つ、カウンセリングセンターに行って、抗議を申し込もうぜ」
「だから、そうしても変わらないだろう、何も。一般のことじゃない。芸能局のことなんだから、警察は向こうの理を取るだろう。たとえ芸能局のルールが、狂っていたとしてもだ。それに騒ぎになったら、君にとっても良くないよ、モーリス。君はやっと更正してきた身じゃないか。警察は矯正寮の出所者に対しては、厳しいって聞いている。せっかく軌道に乗ってきた君の生活を、壊したくないんだ。お願いだよ、モーリス。僕はこのことを、君に言うつもりじゃなかった。君に言ってしまったばかりに、君が軽率な行動に走って、そのためにまた厄介に巻き込まれたら、僕は自分を一生許せなくなるだろう。僕はジェレミーに対して、あることをしたために、彼の人生が狂ってしまったんだと思っている。そのことで、僕はもうすでに自分が許せないんだ。これ以上、君に対しても後悔したくないんだ、モーリス。お願いだよ……」
 スクリーン越しの相手に対して、パトリックは両手をついて、そう懇願した。涙が再び溢れてきそうになったが、今度はこらえなかった。
「……わかったよ、パトリック」
 しばらくの沈黙ののち、モーリスの声が聞こえた。
「俺はおまえには、大きな借りがある。おまえが望まないなら、俺も何もしないさ」
「ありがとう、モーリス……」大きな安堵のため息が漏れた。
「だが……」モーリスはスクリーンに身を乗り出してきて、さらに言葉をついだ。
「このまま別れちまって、良いのか? ジェレミーがカウンセリングにかかる前に会えないか、だめもとで頼んでみないか? 俺はちょうど明日は休みなんだよ」
「でも会って……まさか、逃げる手伝いをしようとかいうんじゃないだろうね」
「逃げれりゃ、それも考えるだろうがな。だが、現実には無理っぽいんだろ?」
「無理っぽいどころか、百パーセント不可能だよ。それに、君も騒ぎに巻き込まれる」
「それに、おまえさんもな。だから、そうじゃないんだよ。ただ、会って話をするだけだ。あいつがあいつじゃなくなる前に、一目でも会いたいんだよ」
「もしジェレミーに、助けてくれって言われたらどうする?」
「あいつは見た目と違って、そんなに女々しくないだろう?」
「でも、機械カウンセリングにかかるんだよ。動揺しないはずがないじゃないか。そんな彼を見たら、僕らも辛くなるだけだ。あまり良い案だとは言えないよ」
「そうか……そうだろうな。そんなあいつを目の当たりにしたら、俺は助けたいと思っちまうだろうし、行動に移さない保証もないな」
 モーリスは頬をかいて、しばらく考えているように沈黙した後、再び言った。
「だったらせめて、カウンセリングセンターの前まで行くというのは、どうだ?」
「行って、どうするんだい?」
「どうにも出来ないだろうな。だが、俺はどうも、何かしたいわけだ。あいつのために。何の足しにもならないと、わかっていてもな」
「カウンセリングセンターの職員に見咎められても、軽くあしらわれても、罵られても、切れて怒らないって誓えるかい?」
「ああ。忍耐は、矯正寮の三年半で、しっかり身に着けたぜ」
「それなら、僕も行くよ。明日……何かしていなければ、という気持ちは、僕も同じなんだ。ただ外から建物を見ているだけなら、誰にも迷惑はかからないだろう」
「それじゃ、明日、近くのステーションで落ち合おうぜ。何時くらいだ?」
「十五時くらいで、いいんじゃないかな」
「よし、じゃあ。そうしよう。明日な」
「ああ。それじゃ」
 通信が切れ、スクリーンが暗くなると、パトリックはゆっくりと椅子から立ち上がった。そして部屋の隅に立てかけてあった赤い、ギターと呼ばれる楽器を手に取ると、部屋を出、廊下の突き当りに作られた収納庫の扉を開けた。そして買った時に収めてあった箱に再び入れると、棚の下に入れ、外へ出た。扉を閉め、自分の部屋へ向かう。
 もうあの楽器を弾くこともないだろう。約束は果たされないまま、終わるのだ。もうあのファイルを見ることも、二度とないだろう。音楽も聴くまい――まだ聞いていない創立先導者たちの音楽ファイルはおろか、たとえ、どんな種類の音楽であろうと。音楽はもはや、苦痛をもたらすだけだ。パトリックは部屋に入ると、苦い思いでベッドに寝転んだ。



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